徳川家康の宗教観


徳川家康の宗教観








家康の菩提寺は代々「浄土宗」である。




三河国加茂郡松平郷は松平宗家の発祥の地であり、同地にある松平家の菩提寺は現豊田市松平町の「高月院」である。岡崎に出て「大樹寺」と供に浄土宗の菩提寺である。永和2年(1377)京都知恩院末寺の「静寂寺」を初代松平親氏が本尊として阿弥陀如来を祀り、堂塔の全てを寄進して、松平家の菩提寺を創建した。寺名は知恩院に倣い、本末山高月院静寂寺の院号「高月院」と改めて三河国西部に浄土宗を定着させた。






その後、徳川家康によって寺領100石が与えられ、江戸時代の終焉まで歴代将軍家から厚い保護を受けていた。寛永18年(1641)現代の山門や本堂は三代将軍家光によって寄進建立されたものである。境内には松平家墓所があり、親氏、泰親、親忠夫人の3名の宝塔が並んでいる。この境内地は松平家初期の様子を伝える重要な遺跡として、国の史跡「松平氏遺蹟」に指定されている。このように浄土宗大樹寺は松平氏と徳川家代々の菩提寺である。









淨土真宗(一向宗)



一向宗(いっこうしゅう)は、鎌倉時代の僧「親鸞(しんらん)聖人」が開いた浄土真宗の阿弥陀仏への信心「一向専念無量寿仏」からの呼称である。親鸞は、念仏を唱えながら阿弥陀仏の救いを信じて極楽浄土を目指すことを説いた。この明快な教えが、武家や商人に農民などの幅広い層に広まった。一向宗の中でも浄土真宗本願寺教団の信徒は組織力が強く、支配者権力への抵抗運動を各地で引き起こしていた。




特筆すべきは、長享2年(1488)に加賀国で勃発した加賀一向一揆は大規模な争乱となった。20万人の一揆勢が守護大名の富樫正親を滅ぼすと、加賀国は一向宗の信徒/僧兵による100年間に及ぶ統治と支配体制が存続し「百姓の持ちたる国」と言われた。その後、守護同志の争いに要請されても参戦することはなく、一向一揆の目的はあくまで淨土真宗の教えを護ることにあり、そのための一致団結である。




戦国時代の一揆は、室町時代の正長(しょうちょう)元年(1428)から起きていた。その目的の「土一揆」は年貢を減らして貰う為である。「徳政一揆」は借金を帳消しにして貰う為であった。ところが、一向一揆の目的はそれらと違っていた。その始まりは、淨土真宗8代目の蓮如上人の本願寺を比叡山延暦寺が破壊した「寛正の法難」が勃発した。その翌年、文正元年(1466)近江の淨土真宗の門徒が比叡山と戦ったのが始まりで、一向一揆の目的は最初から淨土真宗の教えを護るためであった。









家康と三河一向一揆



三河一向一揆は永禄6年(1563)~永禄7年(1564)までの半年間、三河国の西三河全域で行なわれた一向一揆である。当時の三河国は、徳川家康の源流松平家の本家や分家による分割統治を経て、徳川家康が統一支配を目指して内戦を繰り広げていた最中であった。家康が統治していた頃の三河国東部にも浄土真宗本願寺派の「本證寺(ほんしょうじ)しょう鬘寺まんじ」「上宮寺じょうぐうじ」があり、三河三ヵ寺と呼ばれ多くの一向宗信徒がいた。この時代は鎌倉/室町幕府に任命されて、各地の徴税の権限や警察の機能を持つ「守護大名」の勢力が没落し始め、家康のような戦国大名が台頭し、自力で領国を獲得して統治を始めた時代である。






しかし、浄土真宗本願寺派の寺には「守護使(しゅごし)不入(ふにゅう)」の特権が付与されていた。家康の父広忠の代に与えた特権は、守護やその使者が罪人の追跡や徴税のため寺に立入れず、課税されず、警察権も及ばない治外法権領域であった。この不入特権を主張する三河三ケ寺と、教団の利権を解体して三河国統一を目指す家康との対立が深まっていた。その一揆の発端は、家康の家臣が「守護使不入」を侵害した寺の立入りにあった。蓮如の曾孫「空誓」は本願寺門徒を招集して檄を飛ばし、一斉に蜂起し襲撃を命じた。そこに家康に領地と特権を奪われた旧領主が奪還すべく参戦した。家康との闘争に突入、それぞれが籠城戦や城攻めを繰り広げていた。






三河一向一揆は永禄6年(15639月に始まる。永禄7年(1564115日の馬頭原合戦の勝利で家康は有位に立ち、2月に和議が成立した。この一揆勢は家康の本城である岡崎城に迫るほど猛撃していた。これ以上戦いを長引かせたくない家康は、一揆に加わった者を処罰しないことや、引き続き守護使不入権を認める講和条件を受入れ和解した。しかし、徳川家康は、一揆に加担した武士らを三河国外に退去させて、講和条件を反故にして、一向宗の寺を焼き討ちにした。さらに、空誓上人ら三河三ヵ寺の僧を三河国から追放し、一向宗は以後20年間三河国で一切の布教活動を厳しく禁じられた。




徳川家康の家臣団は、忠義に厚く勇猛な三河武士揃いであったと語り継がれている。その忠臣の多くが三河一向一揆の際には家康から離反し、一揆側に加担していた。彼らは一向宗の信徒のため、信仰と忠臣の狭間で苦悩の末に主君家康と敵対する道を選択したのである。徳川一族間で門徒方と家康方に分裂するなど家中統制で苦しめられ混乱を極めた。三河一向一揆は、三方が原の戦い、伊賀越えと並び、徳川家康の三大危機とされている。家臣団の多くが門徒方に与するなど、宗教の信仰を護る恐ろしさをまざまざと見せつけられ、家康の生涯の宗教観に多大な苦悩の影響を与えている。



この三河一向一揆で家康と袂を分かった主な家臣のその後の行末を見てみよう。



「本多正信」は家康が盟友/参謀として重用した側近中の側近であった。一揆後は三河国を離れ、大和国の大名松永久秀の元で仕えていた。家康の家臣「大久保忠世」の取り成しで徳川家に戻り、後に江戸幕府の幕閣となり老中を務めた。




「渡辺守綱」は槍半蔵の異名を取った槍の名手で、歴戦の勇者であった。一揆で家康に背いたが許されて帰参すると、昇進を望まず、70歳を過ぎても槍1本で戦の最前線に立ち続けた。家康の功臣16人が名を連ねる「徳川十六神将」に数えられている。




「夏目広次」は家康が八幡村城攻めに敗れて退却した際に、最も危険な部隊の最後尾を守る「殿(しんがり)」を務めた。この功績により、家康から名刀工「備前長光」作の脇差を与えられた。一揆後は、これまでの忠誠を認められて帰参した。後に家康が大敗を喫した「三方ケ原の戦い」で、主君の窮地を救うため家康の兜を被り、(おとり)となって敵陣に突入して討死した歴戦の強者であった。





本願寺は戦国大名を凌ぐ勢力



さて、11代目顕如上人時代の淨土真宗本願寺派は、戦国大名を凌ぐ強大な勢力となっていた。信仰で繋がる各地域の一向宗に戦国大名は手を焼き、相模の北条氏は一向宗を60年間の禁止令、越後の上杉謙信は30年間禁止令、三河の徳川家康は20年間の禁止令とした。ところが、永禄10年(1567)織田信長は奈良の大仏殿を焼打にした。





その翌年、本願寺に五千貫の矢戦と呼ばれる軍事費を要求したのだ。顕如は平和裡に治めるため指示通りに支払った。だが、信長はさらに石山本願寺の明渡しを要求した。ここに、元亀元年(1570)織田信長と一向宗の石山戦争が勃発しのである。一向宗は「進は往生極楽、退くは無間地獄」と記した旗を掲げ、必死で戦った。その勢いに推され、信長の率いる戦う職人集団も本願寺を打ち破る事が出来ず一旦退却した。










比叡山焼き討ち事件



信長は比叡山に本願寺攻めの応援を要請したが断られた。元亀2年(1571912日、信長は比叡山延暦寺の焼き討ちを敢行した。根本中堂を手始めに、四百の諸堂を焼き尽くし、参内に住む千五百人の僧侶が虐殺された。この主原因は、信長と敵対する朝倉義景/浅井長政に比叡山が味方したことが、信長の逆鱗に触れたのであろう。








伊勢長島一向一揆



元亀2年(1571)伊勢国長島の一向宗の拠点であった「願証寺」は顕如の命を受け、信長軍と対峙する10万の一揆勢を挙げ、信長軍は苦戦を強いられた。天正元年(15739月、信長は二度目の長島一向一揆への攻撃を開始した。信長は伊勢大湊惣中の船を徴発して桑名に向かい、海上戦を有利に進めた。さらに九鬼水軍を援軍にして、翌年9月に一揆を鎮圧した。信長はこの一向一揆を許さず、信徒の籠城する長島城と中江城を幾重もの柵で囲み放火、逃げ場のない二万の男女は焼死した。信長は降伏する事の無い信徒を根斬り(皆殺し)にしたのである。









織田信長と大阪石山本願寺



大阪城の建つ上町台地には、明応5年(1496)本願寺8世法主の蓮如が建てた坊舎が石山本願寺の本山となる。そこに濠や塀に土塁を築いた城砦に寺内町も形成されていた。11世顕如の時代に天下統一を目指す織田信長には石山本願寺が最大の障壁であった。その大阪の要所を確保の為11年間に及ぶ石山合戦が繰り広げられた。天正8年(1580)正親町天皇による和議が成立し、信長に明け渡され、本願寺跡地に大阪城の築城を開始した。





しかし、本能寺の変で未完の大阪幻城となった。豊臣政権下になると秀𠮷は蓮如に京都七条堀川の寺地寄進を行い、蓮如の三男「准如」を十二代宗主とする「西本願寺」派を再興した。これに対して、関ヶ原の戦いに勝利した家康は、信長との和議に反対した蓮如の長男「教如」に西本願寺のすぐ東の京都七条烏丸に寺地寄進を行い「東本願寺」派を再興した。これは三河一向一揆の苦い経験から信徒の拡大を怖れた家康の将来に禍根を残さない為の宗教対策の分離分立である。





元亀元年(1570)9月、大坂本願寺は三好三人衆(三好長逸、岩成友通、三好政康)らと協力し、足利義昭と織田信長に戦いを挑んだ。 これまで、大坂本願寺は信長に抵抗するために戦いを挑んだと言われてきたが、それは誤りである。大坂本願寺が先制攻撃を仕掛け、信長がそれに応じたのが実情であった。天正元年(1573)大坂本願寺が頼みとする朝倉氏と浅井氏が信長に滅ぼされ、1度目の和睦をする。




天正2年(1574)大坂本願寺は信長に再び戦いを挑んだのだ。しかし、同年には伊勢長島一向一揆、越前一向一揆も殲滅されたので、大坂本願寺は信長に2度目の許しを乞うた。天正4年(1576)毛利氏が義昭を推戴して信長に叛旗を翻すと、大坂本願寺は信長に3度目の戦いを挑んだ。しかし、4年後の天正8年(1580)大坂本願寺はついに信長に屈したのである。










by watkoi1952 | 2025-12-07 21:20 | 歴史愛好家の編集室 | Comments(0)