明治の事件簿その謎と真相


明治の事件簿その謎と真相







孝明天皇死因の謎と真相


120(にん)(こう)天皇の崩御により、弘化4年(1847)孝明天皇16歳は尊皇攘夷運動が激化した幕末の動乱期に即位した天皇である。慶応2年(18661225日午後11時、第121代孝明天皇36歳は平安京内において、天然痘の病気で崩御されたと発表された。しかし、天皇崩御の事実は4日間秘匿され、公表されたのは死因や病名など事後打合後の29日であった。孝明天皇は痔病に悩まされていたが、それ以外は至って創建であった。それゆえ、天皇の死については当時から、毒殺されたという黒い噂が流れていた。






しかし、天皇の病状には不審な点があった。1212日頃に発熱し、16日に天然痘と診断されたが容態が快方に向かった所で突然激変したという。ここに毒殺説の根拠があった。幕末の英国外交官アーネスト・サトウは次の様に述べている。「この天皇は外国人に対して如何なる譲歩をなすことにも断固として反対してきた。そのために、きたるべき幕府の崩壊によって、否が応でも朝廷が西洋諸国との関係に当面しなければならなくなるのを予見した一部の人々に殺された」というのである。






確かに孝明天皇は攘夷論者で倒幕に反対していた。もし、孝明天皇が存命であれば、倒幕計画は大きな障害であったことは間違いなかったに違いない。この突然の孝明天皇の没後に即位した明治天皇の摂政には、慶喜の従兄弟(いとこ)である二条(なり)(ゆき)が就任したため、幕府上層部は毒殺説に沈黙した。摂政とは君主が幼少などのため政務を代行する職務であるが、翌慶応3年には廃止された。まだ、16歳の明治天皇を抱えた倒幕派の計画は、「明治天皇即位の結果」淀みなく次々と成果を上げていくのである。







明治維新を経ると、皇室に関する疑惑やスキャンダルの公言は禁忌(タブー)となり、学術的に孝明天皇の死因を論ずることも長く封印された。戦後には「孝明天皇は病死か毒殺か」など幾多の議論の末にも結論を得なかった。ところが、昭和元号の縛りが解けた平成2年(1990)、孝明天皇は紫斑性痘瘡によって崩御したものであると断定的に結論付けた。所謂(いわゆる)、国民に最期通牒とする通告である。明治政府の極めて「不都合な真実」を権力や年月掛けた世代交代による風化を狙ったでも、死亡原因の改竄や病床の隠蔽が出来なかった証明であろう。






現在孝明天皇は第121代として数えられているが、近衛家の陽明文庫には「122代孫(おさ)(ひと)」の自署名が残されている。第119代光格天皇も同様に120代と記している。これは、現在数えられていない北朝の天皇を歴代天皇として一代増して数えていることの差異である。当時「北朝」が正統とされていたからで、孝明天皇が生母「正親町(おおぎまち)雅子(なおこ)」に南朝の後村上天皇の母「阿野廉子」を無視した形で院号宣下したのもこの事情によるのである。











明治の大逆事件




大逆事件とは、明治43年(19105月末~9月にかけて、長野、東京、和歌山、熊本、大阪、神戸、岡山など全国各地に住む多くの社会主義者/無政府主義者が逮捕され、その内26名が天皇暗殺を計画したとして起訴された事件である。明治43525日、長野県の機械工で社会主義者の宮下太吉が爆発物取締違反容疑で逮捕された。そこで、明るみに出たのが明治天皇の暗殺計画である。密告により宮下の行動を見張っていた駐在巡査が、勤務先の明科工場で爆烈弾の製造現場を発見したのが事件の端緒である。「明科事件」とされた暗殺計画と爆弾製造に関与したとして、宮下太吉、新村忠雄、管野スガ、古河力作の4名が逮捕された。管野スガは、幸徳秋水の内縁の妻であった。






旧刑法七三条には「天皇、太皇大皇后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太子孫ニ対シ危害ヲ加ヘントシタル者ハ死刑に処ス」という規定があった。著名な文筆家で無政府主義者であった幸徳秋水はじめ26名の被告はこの規定によって、大審院で傍聴を禁じられ、証人も呼ばずに裁判にかけられた。明治44年(1911118日一審で終審、そのうち24名に大逆罪で死刑の判決が下された。死刑宣告の半数は天皇の恩命という形で無期懲役に減刑された。だが、幸徳秋水ら12名は判決の僅か6日後に絞首台の露と消えた。減刑された12名も多くが獄中で自殺や病死でその後の半生を葬り去られてしまった。







検察当局は桂内閣の「社会主義根絶」の政治方針に忠実に全国の社会主義、無政府主義者とその影響下にある同志仲間を一網打尽にして、皇室に対する一代陰謀事件として、(あたか)も事実であるかの如く捏造(ねつぞう)したのである。「(ねつ)」の読み方は古くは「デツ」であるため、「でっち上げ」の語源となっている。全国的に有名な幸徳秋水を事件の首謀者に仕立て上げることで、幸徳と交際のあった者、革命の話しを聞いた者まですべて陰謀に加担したと見做されている。







この事件の背景には、日露戦争後の日本の国家権力と社会主義運動との烈しい対立の歴史があった。明治39年(1906)最初の合法的な社会主義政党として日本社会党が誕生して活発な運動を始めた。だが、一年後に結社禁止の処分を受けている。当時の国家権力は社会主義運動の発展を極度に怖れていた。明治40年(1907113日サンフランシスコ在住の日本人急進主義者が無政府主義者の署名で「日本人皇帝(むつ)(ひと)君ニ与フ」という大胆な天皇批判の文書を公開した。それが日本にも送られてきたこの事件は、元老山県有朋らに非常な衝撃を与えた。幸徳秋水は、その前年に渡米して無政府主義者の立場にたち、帰国すると国内で彼の影響を受けて無政府主義者を名乗り、直接行動主義を唱える者が増加していった。






明治41年(19086月、第二次桂内閣が成立すると、政府の圧迫は激しさを増し、社会主義/無政府主義者は尾行され言論を封じられた。国家権力の根幹を成している天皇制への鋭い批判などが積み重なり、残された現状打破の方法として、天皇暗殺計画が熟してきたのであろう。だが、唯一人の生き残りである高知県の坂本清馬は無実を証明する新しい証拠を集めて最高裁に事件の再審請求を行なった。26名の被告の中で「天子なるものは現在において経済上には略奪者の根本、思想上には迷惑の根元」だと考えて、天皇暗殺を計画して密かに爆弾を造っていたと証言したのである。







明治維新に対する歴史的評価は、近代日本の礎を築いた。テロリストの戦争屋が国を乗っ取った。富国強兵と殖産興業の先に帝国主義があり、結局、明治維新が行き着いた先は、昭和20年(1945)の敗戦であった。明治維新は暴力的なクーデターの批判も当然ある。だが、少なくとも彼らには日本を植民地に奪われず、独立国として守るという命がけの行動があった。









明治天皇の南朝正統/確立






明治42年(1909)伊藤博文はロシア蔵相と会うため、満州国の中央にあるハルピン駅頭にいた。日本の朝鮮侵略の元凶と考える安重根が銃弾で総理大臣を務めた伊藤博文を暗殺した。翌明治43年(1910)の大逆事件で無政府主義者の幸徳秋水が計画した天皇暗殺未遂事件で検挙される。秋水が法定で「今の天子は南朝の天子を暗殺して三種の神器を奪い取った北朝の天子ではないか」と突然に発言した。






これが外部に漏れ、南北朝正閏論の論争が起きる。帝国議会で国定教科書の南北朝並立を非難する質問書が提出され、政府は南朝を正統とする決議を出した。これ以降のわが国の定教科書は「大日本史」を根拠に、三種の神器を所持していた南朝を正統とする記述となった。






藤田東湖の水戸学が忠君愛国を提唱し、攘夷尊皇の思想を打ち出した。水戸学の将軍より天皇の方が上位であると言う思想戦により明治維新が成し遂げられた。維新の元勲たちは水戸学を否定することは出来ない。その水戸学が教えるのが「南朝正統説」で、後醍醐天皇の南朝こそ正統の天皇であり、北朝の天皇は偽物となる。しかし、明治政府が担いでいる明治天皇は明らかに北朝の子孫の筈である。






そこで明治天皇に裁可を仰ぎ、政府は「明治天皇の勅裁」を元に南朝を正統に決定した。さらに、皇統譜令の第41条を定めて北朝天皇を皇統譜から除外したのである。そして、この矛盾を解決するために、昭和4年(1429)元宮内大臣の田中光顕による「天皇すり替え説」で南朝の正統性を補強する声明となった。()くなる上は皇位継承問題の議論にあたり、北朝に由来する伏見宮家の子孫を活用しなければ、「GHQ」当初の目論見の如く皇室制度の存続は極めて困難になるというのである。








by watkoi1952 | 2025-11-19 14:22 | 歴史愛好家の編集室 | Comments(0)