天皇家の系譜と皇位継承


天皇家の系譜と皇位継承







皇室の伝統は1700年に及ぶ歴代126代天皇の皇統は全て男系である。実在が確実な第16代仁徳天皇から第126代今上天皇までの110代続いた天皇家は世界最古で最長の王朝である。その実在と現在に繋がる天皇皇統の連続性が確認される第26代継体天皇から数えても既に1001500年の歴史がある。





憲法第2条は「皇位は世襲のものである」と定めている。これを受けて「皇室典範第1条は「皇位は、皇統に属する男系の男子がこれを継承する」と定めた。憲法の立法意思も歴代政府も一貫して「皇位の継承」は男系重視と解釈してきた歴史がある。






しかし、天皇の系図を見ると直系継承ばかりでなく、非常に複雑である。先人たちは男系を維持存続するため、叡智を傾け様々な断絶危機を乗り越えてきた。その努力により直系男子が長く続いた例は、第119代光格天皇~第126代までの7代が最長である。これが「天皇の系譜が直系では何代も継続しない」と言われる由縁である。








女性天皇の中継なかつぎで男系男子に系統を繋ぐ



  ①第33代推古天皇  在位: 355ヶ月 配偶者:敏達天皇


  ②第35代皇極天皇  在位: 35ヶ月 配偶者:舒明天皇


  ③第37代斉明天皇  在位: 66ヶ月 配偶者:同上重祚


  ④第41代持統天皇  在位: 76ヶ月 配偶者:天武天皇


  ⑤第43代元明天皇  在位: 82ヶ月 配偶者:草壁皇子


  ⑥第44代元正天皇  在位: 85ヶ月 配偶者:生涯独身


  ⑦第46代孝謙天皇  在位: 91ヶ月 配偶者:生涯独身


  ⑧第48代称徳天皇  在位: 59ヶ月 配偶者:同上重祚


  ⑨第109代明正天皇  在位: 1311月 配偶者:生涯独身


  ⑩第117代後桜町天皇 在位: 84月  配偶者:生涯独身



(歷代の女性天皇の即位中2名の重祚で実質8名である)






40代天武天皇の皇后が④第41代持統天皇となる。若い第42代文武天皇は母の持統上皇が後見人となる。天武天皇の直系男子の第45代聖武天皇即位までの皇統を守るために、祖母の文武天皇の母が⑤第43代元明天皇、伯母の文武天皇の姉が⑥第44代元正天皇として即位した。第45代聖武天皇が三名の女帝たちの中継で即位に至る。





108代後水尾天皇と徳川秀忠の五女和子の皇女⑨第109代明正天皇は、実に859年ぶりに即位した女性天皇である。家康は男子誕生を願ったが早世し女子一人が育ち、明正天皇は徳川将軍家を外戚とした唯一の天皇となった。歴代女性天皇の8名は、すべて未亡人か生涯独身であり、これまで女性天皇から生まれた女系天皇は唯一人も存在していないのである。






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皇室と世襲親王家



室町時代より男系男子による皇位の維持継続のため、旧皇族の世襲親王家の四宮家が成立した。これは「天皇の系譜が直系では何代も継続しない」からである。この宮家から男系男子を天皇の「養子」に準ずる名目上の「猶子」として、親王に任命され皇位継承権を有しているのである。皇室と宮家は密接な関係にあり、宮家の当主不在の時は天皇の皇子が伏見宮家に入り、天皇の皇女が伏見宮家に降嫁している。






伏見宮家からは次々と分家が生まれ、戦前には11の宮家が存在した。勿論、宮家男子はすべて皇位継承の有資格者である。そうして、皇統の危機が訪れた際に、宮家から天皇が即位して危機を乗り越えるのである。伏見宮家から室町時代の第102代後花園天皇、有栖川宮家から江戸初期に第111代後西天皇、閑院宮家から江戸中期に光格天皇がそれぞれ即位している。光格天皇は現在の天皇陛下に直系で繋がっており、現皇室は閑院宮家という宮家によって、その存在が保たれているのである









北朝系統の伏見宮家




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皇籍離脱した旧皇族11宮家の系統




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何故そこまで男系男子に拘るのか




皇統を男系男子で繋ぐことには、もう一つ重要な意味がある。それは時の権力者に皇統を乗っ取られないためである。朝廷の権力者になるため、藤原氏は数多くの娘を妃として宮中に送りこみ、娘が男子を産めば、孫に対して強い影響力を与えられる。さらに天皇に即位すれば外祖父として、朝廷に強い影響力を持つことができる。しかし、男系男子という原則の前に息子を送込むことは叶わず、外戚として如何に勢力を奮っても、皇室自体を乗っ取ることは出来なかったのである。






皇統を男系男子で繋ぐために系図を何代にも渡って遡り、次の天皇に繋いで皇統断絶を免がれた危機の記録もある。また、皇位継承者以外の者が天皇に即位する「皇位(こうい)簒奪(さんだつ)」の危機があった。それは、称徳天皇と僧侶/弓削道鏡、摂関家の藤原一族、織田信長の朝廷支配、徳川将軍家である。






  

家康には朝廷と幕府による公武合体構想があった。慶長12年(1607104日、大御所/徳川家康68歳は二代将軍秀忠29歳と正室お江与との間に大奥で五女和子が誕生すると、その和子を内裏/天皇家に入内させたいと考えていた。皇后和子との間に生まれる皇太子に皇位継承させ、徳川家が天皇の母方の一族となる外戚の地位を得て、徳川将軍家の安泰を内々に目論んでいたのである。後水尾天皇は、慶長元年(1596)6月4日、後陽成天皇の第三皇子として誕生する。母は関白/近衛前久の長女前子(中和門院)である。大御所/家康は、慶長16年(1611327日、第108代後水尾天皇の即位後まもなく京都の摂関家に内孫和子の入内を働きかけ、慶長19年(16143月には、和子入内の勅旨を得て内定していた。



 

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徳川和子の母お江は、豊臣秀頼との間に生まれた娘完子が、公家の九条忠栄に嫁ぎ43女に恵まれた。その次男九条道房の家系が大正天皇の皇后となった貞明皇后に連なる。父親から浅井家の血筋を、母親から織田家の血筋を引くお江の家系が皇室に連なっているのである。







さて、権力指向が高じて権威まで自らの手中にしたいと考える男子を排除するためには、万世一系で通す方が最も有効であった。悠久の歴史の営みを変えることには怖れさえ感じさせる。古来の人々は遺伝子も染色体も知らず、男性から男性には何かが純粋に受け継がれるものがあると感じていたのであろうか。







これまで「男系の女性」が女性天皇に即位することはあっても、全て皇位継承者本命の「男系男子」が成長するまでの「中継ぎ役」であった。つまり、女性天皇は存在したが、女性天皇に生まれた「女系天皇」は一人も存在しなかった。皇位継承は男系男子の直系による継続が困難な場合は、傍系の男系男子が継承してきた厳然たる事実がある。男性にしかなく父親から息子へと受け渡される遺伝子については途切れるとか、別のものに変わることなく継承されてきた。そもそも、天皇の天皇たる由縁は、神武天皇の血脈を今日に至るまで受け継いでいることである。ゆえに、万世一系とされる皇統は、一貫した血統原理の元で男系男子が継承した世界に誇る悠久の歴史である。






皇位継承の問題は何故起きたのか



太平洋戦争は昭和16年(1941128日「真珠湾攻撃」により始まり、昭和20年(1945810日連合国に対して「大日本国帝国は無条件で、天皇の統治大権のみを条件としてポツダム宣言を受諾する」旨打電して、昭和20年(1945815日に戦争終結し終戦日を迎えた。昭和20927日に昭和天皇と連合国最高司令官/マッカーサー元帥が初めて会見された。連合国GHQは天皇の存在を怖れ天皇制の廃止を考え、天皇の戦争責任の追求を調査したが、「マッカーサー元帥が天皇の戦争責任を追及できる証拠は一切無い」と回答して天皇制を擁護した。






しかし、占領軍GHQは、表向には皇族が多すぎると世襲親王家を否定した為、11宮家が臣籍降下され一般国民となった。その実は皇統の危機を救うべく存在した宮家を廃絶に追い込む事で、何れは皇族自体が消滅する事を目論んだ布石であった。将来において、皇統の危機を回避するには旧宮家の方々に皇籍復帰して頂くこと意外に解決の道は開かれるのであろうか。昭和22年(19471018日、11宮家の方々が赤坂離宮に集まられ、昭和天皇とのお別れの晩餐会が催された。






その席上で天皇陛下は次のように挨拶された。「身分は変わるようになったけれども、自分は今までと全く同じ気持ちを持っている。どうか今後もいつでも会いに来てくれるように」と述べられている。さらに「万が一にも皇位を継ぐときが来るかも知れないとの御自覚で身をお慎みになっていただきたい」とのお考えを伝えるなど、皇籍復帰の可能性を当初より考えられていたのである。皇族方と旧11宮家との関係は「菊栄親睦会」や園遊会で皇族に準ずる待遇を受けて現在も交流されている。





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        昭和天皇と11宮家(赤坂離宮)





しかし、その臣籍降下の結果、占領軍GHQの目論見どうり、皇統の危機に対する不備が露呈した。それが今日の皇室危機の根本原因である。この問題は、昭和40年(1965)に秋篠宮文仁親王が誕生されて以来、その後皇室に男子皇族が40年間に及び誕生されなかったことにある。将来「皇室典範」に定める皇位継承資格者が存在しなくなる危機が生じる恐れがあり、平成12年(2000)年代になって表面化してきた問題である。





「皇室典範」の第1条/2条、憲法第2条においては「皇位は皇統に属する男系の男子がこれを継承する」と定められている。皇位継承順序は1、皇長子、2、皇長孫、3、その他の皇長子の子孫、4、皇次子とその子孫、5、その他の皇子孫、6,皇兄弟とその子孫、7,皇伯叔父とその子孫。以上の皇族がないときは、それ以上で最近親の系統の皇族に伝える。(皇室典範第2条)と規定されている。








条約締結に激怒した孝明天皇の譲位表明


安永3年(1774)伏見宮家は天皇家の反対を押し切って、仏門に入っていた前々代の実子「邦頼」を無理やり還俗させ、宮家を継がせたのである。この件を巡って天皇家と伏見宮家との間には(わだかま)りが残り、その確執のなかで、呪詛の疑いが掛けられている。その後、天皇家と伏見宮家の婚姻関係も明治になるまで復活しなかった。その意味でも、伏見宮家は天皇家から遠ざけられていたと言える。伏見宮家の親王への譲位については、幕末期の出来事も言及されることがある。



米国と和親条約を結び開国を余儀なくされた幕府は、さらに修好通商条約の締結を迫られていた。安政5年(1858)幕府は孝明天皇の勅許(ちょっきょ)を得た上での調印という方針を打ち出していた。だが、孝明天皇は(かたく)なに拒否を貫いた。大老に就任間もない井伊(なお)(すけ)のもと、同安政5年619日、日米修好通商条約は調印された。これに激怒した孝明天皇は9日後、左右大臣らを呼び付け、以下のような文書を下したのである。



「差し当たり祐宮(さちのみや)(むつ)(ひと)5歳後の明治天皇がいるが、天下が重大事にある時、幼年の者に任せるのは無理だから、伏見、有栖川の3人の親王の誰かに譲位したい」と下した。3人の親王とは、有栖川宮家の(たか)ひと)46歳、(たる)(ひと)23歳の父子、および伏見宮家の(さだ)(のり)21歳である。



仮に3親王の誰かに譲位していたとしても、江戸時代前期に有栖川宮家から立った()西(さい)天皇と同様に中継ぎとしての即位であろうか。この「譲位」は幕府に対抗するカードとして切ったのであり、孝明天皇は上皇となって幕府に徹底抗戦する覚悟であった。有栖川宮、伏見宮に究極的な皇統を移すという気持ちは微塵もなかったのである。



ところが、令和3年(2021510日の皇位継承有識者会議資料には、皇室と伏見宮家の「密接な関係」を誇示しようとする有識者が、貞敬は後桃園天皇、貞教は孝明天皇の「後継候補の一人」だったと述べている。全くの不見識であり、同様な俗説が拡散される現状は、皇位継承議論を進める上で問題視されるべきであろう。





皇別摂家とは


皇別摂家とは、五摂家のうち江戸時代に男性皇族が養子に入って相続した後の三家(近衛家/一条家/鷹司家)である。広義には皇別摂家から養子を貰い、天皇からの男系子孫の血脈を保つ家系を指す言葉である。皇別摂家の語は、皇別は天皇/皇子の子孫であり、摂家は摂政/関白に任じられる家格のことである。



平成以降に皇室の安定的な継承が問題となる中で、これら皇別摂家の男系男子による皇族復帰を検討すべきという意見が存在している。旧宮家にある人が皇籍に復帰する案に対して、皇別摂家の存在を上げる人がいる。確かに天皇家との血の繋がりは、旧宮家より皇別摂家のほうが近いのである。皇別摂家について、私たちはどう考えれば良いのであろうか。




仁孝天皇の女御として、鷹司家から2人を連続して后妃とした。閑院宮系として、天皇本家とは血統が離れている仁孝天皇に東山天皇の玄孫にあたる鷹司繋子(つなこ)祺子(やすこ)を縁組し、「血の薄さ」の補強を図ろうとしたのである。文政12年(1829)に後添えの正室祺子は、待望の出産をするが皇女であった。天保6年(1835)祺子24歳の時に、女官((てん)()正親(おおぎ)(まち)雅子(なおこ)が産んでいた親王(おさ)(ひと)4歳が、後の「孝明天皇」が(ちょ)(くん)(皇嗣)となった。祺子の年齢から見て、男子をなす可能性は残っていたが、東宮(皇太子)不在の状態を避けようとしたのである。



しかし、祺子の懐妊はその後なかった。弘化2年(1854)統仁皇太子14歳の妃選びの際、仁孝天皇は鷹司家から正妃を娶るように主張した。東山天皇から見ると来孫〈五世孫〉の鷹司政通の娘積子つみこが候補だったと思われる。「〇世」と言うのは、天皇から何親等離れているのかを指し示す。鷹司家から娘を入内じゅだいさせ、血の強化を図る構想は、前代から引き継がれていた。




しかし、当時ひとつの摂家が連続して正室を出さない暗黙のルールが存在し、外戚としての勢力拡大を避けるためであった。3回連続も鷹司家からでは反発も大きくなるのである。鷹司家側の辞退もあって構想は頓
挫する。そこで選ばれたのは、九条家の夙子あさこ(後の英照皇太后)であった。東山天皇に連なる「鷹司」というブランド力はそれほど高かったのである。同時代的な感覚では、5世代離れた娘は天皇の近縁だと考えられたのであろうか。








天皇即位の要件


天皇の即位の要件は、「前帝が崩御していることと定められた」としている。皇室典範草案の作成に携わった伊藤博文も、その著書で、「他人の意思により強制的に天皇が退位させられた挙句、南北朝の動乱を招いた過去があるので、皇室典範では前天皇の崩御時以外の天皇の即位は認めないことにした」と述べている。現在使われている皇室典範が定められた際にも、当時の金森徳次郎国務大臣(憲法担当)が帝国議会で生前退位を否定する答弁を行い、現在の皇室典範第4条では、「天皇が崩じた時は、皇嗣が直ちに即位する」と決められるに至った。すなわち、前帝の崩御のみが、引き続き皇位継承の要件となったのであ













by watkoi1952 | 2025-11-05 15:48 | 歴史愛好家の編集室 | Comments(0)