御所宮廷における皇族の格付
皇族の称号と定義
後所とは、天皇、上皇、皇后、皇太后、太皇太后などが日常的に住む場所である。宮廷とは政治の中心であり、君主とその側近、廷臣などの組織や宮廷音楽/文学/画家など集団の活躍の場でもあった。
「上皇」
天皇がその地位を譲ると、「太上天皇」となり、その略称が「上皇」である。「太上」とは、「最上」または「至上」の意である。文武天皇1(697)に譲位した持統天皇が初めて「太上天皇」と称した。上皇が出家して仏門に入ると「太上法皇」になり、その略称が「法皇」である。我国の律令制度下での「太上天皇」は、持統天皇が初例である。
平成31年(2019)4月30日に第125代明仁天皇が譲位され、令和元年(2019)5月1日に皇太子徳仁親王殿下(御称号浩宮)が、第126代徳仁天皇に即位された。退位後の明仁天皇の称号を「明仁上皇」、退位した天皇の后美智子妃の称号を「美智子上皇后」と尊称された。
これら歴代譲位にともなう皇位継承が行なわれたのは、第119代光格天皇から第120代仁孝天皇への譲位以来、崩御を伴わない天皇が存命中の皇位継承は実に202年ぶりである。歴代天皇で最初に第36代孝徳天皇に譲位された、第35代皇極天皇(女性天皇)より数えて59人目の譲位であった。
「准太上天皇」
準太上天皇は太上天皇に準じる地位である。三条天皇の第一皇子/敦明親王が藤原道長から迫られて皇太子の地位を辞退する際、その見返りに「准太上天皇」という地位を譲与された。歴史上ではこの一件のみである。しかし、この歴史上唯一の史実に先んじて源氏物語では光源氏がこの准太上天皇の地位を与えられている。
「治天の君」
天皇が譲位した後に上皇になっても、天皇に代わり政務を行なう政治形態を「院政」と称している。さらに、政治の実権を握り続けて院政を敷く上皇の敬称を「治天の君」と呼ぶ。複数の上皇が同時に存在する場合にも、政治の実権を握る上皇を「治天の君」と称した。上皇の命令を伝える「院宣」や「院庁下文」が権威を持ち、朝廷の天皇の出す文書は制限され権威が弱体化していった。
「太皇太后」
先々代の天皇の正妻(皇后)の尊称「太皇太后」である。あるいは当代の天皇の祖母に対して用いられた尊称である。現在の敬称は「太皇太后陛下」である。
「皇太后」
先代の天皇の正妻(皇后)の尊称「皇太后」である。並びに、天皇の母親「母后」であり皇后であった者。天皇の生母で皇后を経ていない者。天皇の生母への死別追贈。先代の嫡妻で生死に関わらず与えられた称号である。
「国母」
天皇の生母であることを指す尊称「国母」である。「国の母」「国民の母」として「国母」と呼称することもある。皇后や皇太后などの称号とは異なる概念の尊称である。
「法皇」
天皇が皇位を後継者に譲ると太上天皇となり、上皇が出家して仏門に入ると「太上法皇」となり、その略称が「法皇」である。これまで、平安時代の昌𣳾2(899)真言宗総本山「仁和寺」で出家した宇多上皇に始まり、宇多法皇の皇子と皇孫が門跡を努めたことで「門跡寺院」の筆頭とされた。その後、白河、鳥羽、後白河の三法皇が院政で権勢を奮い、江戸時代の霊元法皇まで35例の法皇が確認されている。
「院」
平安時代中期より「院」は上皇の御所を高い垣で囲んだ敷地を示す呼称であった。転じて、上皇/法皇/女院/院政などの院号に用いられた。宮中では枢密院、神祇院、正倉院、立法では貴族院、元老院、衆議院、行政や司法に教育と幅広く用いられている。仏教の「院」は、高僧が居住する「寺院」の名称であり、「寺」より格上とされた。それは、天皇家や摂関家と関係が深い寺に「寺院」の名称が格式高く使われたことに起因する。さらに、皇后や親王、摂政関白、将軍、御台所、側室、大名家などの退位後の院号に格式高く使われている。
「女院」
正歷2年(991)一条天皇の生母である皇太后藤原詮子が出家した際に「東三条院」の院号を贈られたのが創始である。平安時代中期から明治維新まで存在した、主に三宮または三后(太皇太后、皇太后、皇后)、と三宮に準ずる身位の准后、内親王など特定の皇位の女性に与えられた尊称である。令和元年(2019)5月、天皇退位特例法に基づいて、第125代天皇明仁が退位により上皇となったのに伴い、その后である美智子妃も「上皇后」となった。尚、夫の明仁上皇が存命中であるため、「皇太后」とは呼称されず、「上皇后」は日本史上初の称号である。
「天皇」
天皇は古代より日本の君主並びにその称号であり、日本国民統合の象徴である。君主号としては、5世紀頃に「大王」と呼ばれたヤマト王権の首長の称号であり、倭国の君主号とも解されている。天皇の表記については、大陸から伝来した「道教」における宇宙最高神とされる神格化された天の北極「天皇大帝」」に由来する説が有力視されている。唐の三代皇帝「高宗」が(674年)に「皇帝」を「天皇」に改称した事に習い、天武天皇も天皇表記を公式に採用したと推測されている。
「天皇」の万葉集の読みは、「天皇」は当代天皇、「天皇」は歴代天皇や皇祖神に用いている。天皇家は紀元前660年に初代の神武天皇が即位されてから、令和の今上天皇下で126代目である。古事記/日本書紀に依ると2600年以上の歴史がある。しかし、その起源自体は学問的には肯定できるものではないが、実在が確かな第26代継体天皇から数えても、100代、1500年以上の歴史を有する世界最古、最長の王朝といえる悠久の歴史を紡いでいる。
「親皇」
親皇は天皇兄弟の皇子でもある。桓武天皇の曾孫にあたる高望王が反乱を鎮圧すべく常陸大掾「上総介」従五位下に任じられと、その子孫は各地に土着して勢力を増強していった。承平6年(936)高望王の孫/平将門が叔父で上総国役司の平良兼に勝利すると、痛快な事件として重税に苦るしむ民衆の英雄となった。平将門の武勇伝は京まで伝わる。
天慶2年(939)12月、桓武天皇の五代孫に当たる武士/平将門が烈しい親族間争いの末、常陸国、下野国、上野国などの国府を占拠した「平将門の乱」で、連戦連勝、関東一円を支配下に置いた。将門は京都の朱雀天皇を「本皇」と呼び、自身は東国の支配者として「新皇」と宣言することで関東武家政権の独立を試みたのである。この新皇宣言は古来以来の天皇支配体制を揺るがす画期的な出来事で、日本史上初めて武士が国家に対して独立を試みた事件である。天慶3年(940)朝廷は将門討伐の命を下し、平貞盛、藤原秀郷の連合軍は将門を討ち取り、京の三条川原で晒し首となった。
「内親皇」
「内親王」は歴代の天皇の直系卑属の男系女子の内、摘出かつ二親等以内の者に付与される。同様の男性皇族は「親皇」と称する。三世以下の嫡男系摘出の子孫は男性を「王」、女性を「女王」とする。皇族女子は天皇および皇族以外の者と結婚により皇籍離脱(臣籍降嫁)した時は皇族の身分を離れ「元内親王」となる。
「王」
王とは君主の称号である。王は皇帝や天皇の一族男子の称号の一つである。最高位の皇族男子に与えられる称号「新皇」よりも下位となる。現在は天皇から三親等以下の身位とされる。一般に王は、一国家、一民族、一部族などの最高支配者である君主、国王、帝王などを差し示す。儒教的には「徳をもって国を治める者が「王」であり、法をもって国を治める者が「覇」である。王に代わる実力者として諸侯の盟主を「覇」と称した事に由来する「覇者」がある。
「覇権」とは、政治的、経済的、軍事的に抜きん出た国家が他国を支配統制することである。また、覇権安定論とは、ある単一国家が圧倒的な覇権を掌握することで国際社会は安定することはない。覇権国が諸国に利益を供与する国際体制を構築維持することが重要である。この体制が有益で有る限り、非覇権国は国際体制を築く事なく円滑な経済活動を行なうことができる。
「女王」
女王とは国を統治する女性の君主を指す敬称である。女性君主とは、国を治める最高の権力と地位を持つ女性であり、英国のエリザベス女王がその代表例である。日本の皇族典範では天皇の直系卑属の男系女子うち、天皇から見て三等親以上離れた皇族女子に身位を与えられた称号が「女王」であり、敬称は「殿下」である。
「若宮」
若宮は幼い皇子や皇族の幼少期を指す言葉である。昭和22年(1947)に11宮家が皇籍離脱を余儀なくされる前までは、宮家の数も多く宮家当主の長男を「○○の若宮」と呼ぶ慣習があった。この慣習に従えば、秋篠宮文仁親王の第一男子/悠仁親王は「秋篠若宮」と呼ばれることになる。しかし、宮号は一般国民の「氏族」のように同一戸籍内の家族すべて適用されるものと異なり、当主のみに与えられる敬称である。従って、皇太子以外の皇族に「○○宮」と宮号を冠することは、現憲法下では用いられない呼称である。
「東宮と春宮」
東宮と春宮とは皇太子の住居の場所の意であり、転じて皇太子そのもの意とする言葉となった。また易経では東を「震」=「長男」とすることから皇太子の住居を皇居の東に配置したことによる。赤坂御用地の東宮御所は日本における次期天皇となる皇太子の御所である。なお、令和元年(2019)5月1日以降、126代天皇徳仁には皇位継承権を有する皇子が居ないため、皇太子は空位となり東宮御所は設けられていない。
「儲けの君」
儲けの君とは、次期天皇となる皇太子の敬称である。この敬称は漢語の「儲君」を訓読みしたもので、世継の皇子や東宮とも表現される。但し、儲けの君はあくまで皇位継承予定者であり有資格者である。つまり、確固たる「皇太子」ではない「廃太子」となる「儲けの君」もあり得るのである。「源氏物語」の分脈として、まだ親王宣下を受けていない光源氏が「儲けの君」と表現された事例もある。
「中宮」
「中宮」は天皇の正妻であり皇后の別称である。その始めは皇后御所を指し示す名称であったが、一時期、太皇皇后、皇太后、皇后の総称となり、また皇后の別称の時もあった。一条天皇(980~1011)藤原道隆の女定子が「皇后」であり乍ら「中宮」を称していた。ところが、道隆の弟道長が女彰子を御宮へ入れ、中宮から皇后へ進む例が始まり、中宮は自然に皇后の次位に留まる形となった。二代将軍秀忠の女和子が、後水尾天皇の「中宮」になるに及び名実ともに復活した。江戸時代、皇后に官制上の中宮職を付け「中宮」と称した。ともあれ、中宮は他の追随を許さず、皇后に最も近い高貴な女性である。
「皇后」
皇后は天皇の正妻で中宮の別称である。701年の大宝令に依れば、皇后の他に后、夫人、嬪の三等の女人があった。何れも天皇の寝席に侍り、皇子や皇女を産み奉る。彼女らは皇后に次いで後宮の準あるじであった。「后」は律令の名称であって後の「中宮」のこと。夫人は平安朝以後に「女御」になり、嬪が「更衣」にあたる。
「后がね」
「后がね」の「がね」とは、将来天皇の后となる候補者のことである。永延2年(988)藤原道長と正妻倫子の間に愛らしい女の子が誕生した。祖父の兼家を始め一家が大喜びする様子は「栄花物語」に見える。「倫子は安産で一家にとって初めての姫君を出産、その麗しさに大殿兼家も将来の后がねと殊の外喜びよう」とある。女児誕生が何故これほど喜ばれたのか。まさに「后がね候補」である。帝の后に我が娘を送り込み、男御子を産ませ自分は将来の天皇の外祖父として宮廷政治に大きな影響力を振るう。
これが上流貴族の権力の掌握術であった。倫子の産んだ「彰子」は道長の思惑通りに一条天皇の皇后となり、一条天皇の第2皇子/敦成新王が産まれ、後の後一条天皇に即位したのである。上流貴族は1番目には女児誕生を願ったが、血筋を絶やさぬことが第一の天皇家は、何よりも皇位を継承できる男児が望まれる。道長の長女彰子は2人の親王を出産して道長を喜ばせますが、彰子の妹妍子は、三条天皇の皇后となりながら、禎子内親王1人しか生むことが出来なかった。これには道長はたいそう落胆し、不機嫌になっていった。
「斎宮」と「斎王」
斎宮は斎宮とも呼ばれ、日本古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所である。斎王とは天皇に代わって伊勢神宮に仕える為、天皇が即位すると未婚の内親王や女王の中から卜定と呼ばれる占いの儀式で選ばれた。斎王になると、宮中に定められた初斎院に入り、翌年秋に都の郊外の野宮に移り潔斎の日々を過ごし身体を清めた。その翌年9月に、伊勢神宮の神嘗祭に合わせて旅立ちの朝、斎王は野宮を出て桂川で禊を行ない、大極殿での「発遣の儀式」に臨んだ。
天皇は斎王の額髪に小さな櫛を挿し「都の方に赴きたもうな」と告げると、この発遣儀式は最高潮に達し「別れのお櫛」と呼ばれている。斎王は儀式を終えると葱華輦という輿に乗り伊勢へ向かう群行路で旅立った。斎王に仕える官人や官女に見送る勅使など500人を超える壮麗な行列は5泊6日で伊勢に赴いた。制度上最初の斎王は天武天皇(670)の娘「大来皇女」に始まり、後醍醐天皇(1330)の時代に制度が廃絶するまで660年間続き、その間の記録に60余人の斎王の名が残されている。
「斎院」
斎院とは、弘仁元年(810)に嵯峨天皇の皇女である有智子内親王が最初の「斎院」となって、京都の賀茂御祖神社と賀茂別雷神社の両神社に奉仕した未婚の内親王が創始である。天皇が即位する毎に未婚の皇女または女王の中から亀の甲羅を用いた「卜定」という占いに依って選ばれた。選出されると、俗世間から離れて、潔斎生活に入り、不浄や仏事を避ける忌詞などを用いて身を清めた。
初斎院で3年間の潔斎した後、紫野に設けた野宮の院に入り、賀茂川で御禊を行なって、祭事に奉仕することが許された。伊勢神宮に奉仕する「斎宮」と合わせて「斎王」とも呼ばれていた。斎院となって、賀茂神社の祭祀に奉仕し、特に葵祭では重要な役割を担っていた。13世紀初期の後鳥羽天皇の皇女である礼子内親王を最期に斎院制度は廃絶されたが、斎院35代400年間続けられた。昭和31年(1956)より賀茂神社の葵祭では斎王に代わる「斎王代」を中心とする女人列が復興されている。
「女御」
律令制の后/夫人/嬪は平安朝になると廃れる。夫人の代わりに置かれたのが「女御」である。桓武天皇(737~806)が紀乙魚や百済教法を女御に選んだのが始まりである。はじめ四位の位にすぎず尊く無かった。仁明天皇(810~850)のとき右大臣藤原三守の女貞子が女御で従三位に昇って以来、有力な藤原氏の女が女御に選ばれるようになった。醍醐天皇(885~930)のとき藤原基経の女隠子が女御から皇后へ進んでからは、皇后は女御から進む例が多くなった。
特に円融天皇(959~991)以降は関白や大臣の女と雖もはじめ女御として入内、後に中宮や皇后候補へ進むようになった。源氏物語では「澪標の巻」弘徴殿女御や「若菜の巻」承香殿女御などである。弘徴殿も承香殿も御宮の御殿名であり、転じてそこに住む女御を指し示した。弘徴殿女御は光源氏の母であり、桐壺更衣を嫉妬する女性である。
「更衣」
宮廷の更衣所に奉仕する女官の意である。中国の武帝がそこに勤める女官を寵愛し、後に衛皇后とした故事に基づいて、寝席に侍る女人を言う。律令制の嬪にあたる者で身分は四位か五位と低い。桓武天皇の時代に始まり、鳥羽天皇や後白河天皇の時にも見られ、稀には女御へ昇進する者がいた。更衣と言えば「源氏物語」の桐壺更衣を想い浮かぶ。その本文中に「更衣のお部屋は清涼院から遠く隔たる桐壺」とあるように、桐壺も御宮の一御殿であった。すなわち、籠姫を御殿名で呼んだのである。
桐壺更衣は多くの女御や更衣の中で、御門の特別に可愛がる珠寵を得て若宮「光源氏」を生む。それだけに嫉み憎しみの眼差し「嫉視」や中傷の的になり、可弱い更衣には耐えられない。懊悩の果て絶え入るように死ぬ様が物語の発端となっている。特に後見もなく位も低い更衣が宮廷でどんな辛い思いをするかが良く現わされている。
「御息所」
御息所とは元天皇の休息所や御寝所の意である。転じて更衣の別称となるが、女御にも用いられている。また、上皇および天皇の「院の御息所」や「東宮の御息所」と称した。だが、鳥羽天皇(1103~56)以降は他用せず、「御息所」は皇太子配偶の専称となる。源氏物語では「夕顔の巻」で十六歳の光源氏が六条御息所の元へ通う場面がある。この御息所は春宮に先立たれ、唯一人の姫君と共に六条あたりに住んでいた。光源氏はその元へ通ったのだが、後の「葵の巻」に至って大変な事件展開となる。
源氏は当時「葵の上」と親しいため、御息所に酷くライバル視されていた。折しも賀茂の祭礼に「御息所」が牛車で見物に行くと、「葵の上」の行列と群衆の中で鉢合わせとなった。その瞬間、従者たちがライバルの車と見てとった。いち早く「葵の上」の下部たちが罵詈雑言を浴びせかけ、果ては「御息所」の牛車を数多の見物車の奥へ押し込んでしまった。
それに対して「御息所」側は気押されて手も足もでなかった。後世の川柳に「腑甲斐ない御息所の舎人ども」とある。御息所はいよいよ葵の上を怨む。そして、「もうもう口惜しいと御息所言い」と牛の「もう」に掛けている。その怨念が妊娠中の「葵の上」にとり憑き、大いに悩ませる。辛うじて彼女は若君「夕霧」を生むが、自身は儚く絶えるのである。
by watkoi1952 | 2025-10-26 13:58 | 皇居の歴史と景観 | Comments(0)

