神田の「江戸っ子」物語


神田の「江戸っ子」物語



「神田の江戸っ子」という言葉を意識したのは、「酒を飲みねぇ」「寿司食いねえ」「江戸っ子だってねぇ」「おう。神田の生まれよ」「そうだってねぇ」の科白(せりふ)が初見である。「清水次郎長伝」の広沢虎造の浪花節十八番「石松三十石舟」の有名な下りである。旅行けば駿河の道に茶の香り、流れも清き太田川、若鮎(おど)る頃となる。松の緑の色も冴え、遠州森町良い茶の出どこ、娘やりたやお茶摘みに、ここは名代の火伏(ひぶせ)の神、秋葉神社の参道に産声あげし快男児、昭和の御代(みよ)まで名を(のこ)す、遠州森の石松を不便ながら努めます」。



さて、その物語の始まりは、清水次郎長の恩人である長兵衛が密告により捕われ牢死したのである。次郎長は日頃信仰する讃岐の金毘羅大権現に祈願した後、首尾よく密告者「保下田の久六」の仇討ちを果たして長兵衛のおんを晴らした。そのお礼参りの代参に若くて威勢の良い森の石松を讃岐の金毘羅さんに差し向けたのだ。江戸幕府が社寺参詣を庶民に許可した唯一の楽しみが旅であった。万延元年(1860)森の石松は代参で金比羅宮大権現に奉納金と刀を携えて参拝した。金比羅さん名物の御本宮まで785段、奥社までは1368段上ることになる。



現在の金刀比羅宮宝物館には、次郎長が石松に奉納させた刀が現存しているという。石松が参拝を終え、大阪から京都に向かう帰り道に高速船「三十石船」に乗るため、大阪本町橋の鮨屋で名物押寿司と小酒樽を買い込み乗り込んだ。乗合船の乗客の中で江戸の神田生まれという「江戸っ子」が、「街道一の親分は清水次郎長」と言い出したことに森の石松は大変嬉しくなった。



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重の京都名所之内「三十石船」は、淀川を往来して京阪二都を連絡した快速客船である。手前の茶舟の売り子が「喰らわんか」「喰らえ」と口汚く罵って、三十石船の客に声を掛けていた。それは古代から悪霊追放のために悪態をつく呪術の伝承があって、旅の安全や無病をもたらすとして、客は喜んだほどのものであった。



その江戸っ子に、「もっとこっちへ寄んねえ」と声をかけた。「淸水次郎長ってのは、そんなに偉いのか」「街道筋に親分が数ある中に、次郎長ぐらい偉いのが二人とあってたまるか」「飲みねエ、飲みねエ」「オゥ酒を飲みねエ」「オゥ寿司食いねエ」もっとこっち寄んねエ「江戸っ子だってねエ」「オゥ神田の生まれよ」「そうだってねエ」次郎長の子分28人衆の話しになるが、石松の名前が出てこない。最期に石松は東海道で一番馬鹿だと噂され、子供達が子守歌まで歌って大変だよ。


「お茶の香りの東海道、清水一家の名物男。遠州森の石松は、素面しらふの時は良いけれど。お酒飲んだら乱暴者よ、喧嘩早いが玉に傷。馬鹿は死ななきゃ、治らない」。


一見でヤクザとわかる風貌の石松に声かけられても、対等に受け答えする庶民の姿があった。戦前までの仁侠の世界では「ヤクザは堅気に手を出さないという不文律が徹底していた」。我欲のために暴力を振りかざすことはヤクザの貫禄を著しく(おとし)めることで、例えヤクザ同志の喧嘩でも堅気に迷惑を掛けないことが大前提であった。大衆から後指を指される要ではヤクザ稼業は勤まらない時代であつた。その結果、ヤクザの親分が、地域の親分と十手持(警察官)という二足の草鞋の役目を担うことができたのであろう。



これで神田は江戸っ子の産地であると浪花節の中で開花したのである。森の石松は、次郎長とその子分の評判を石松が「江戸っ子」に尋ねている「江戸っ子だってね」「神田の生まれよ」と数回念押しさせたのだ。それは自分達の華である武勇伝が、お江戸でどう噂されて評判なのか、それが森の石松の最大関心事であるからである。江戸の端唄にこんなのもある。「芝で生まれて神田で育ち、今じゃ火消の(まとい)()ち」。火消しの纏持ちと言えば、勇み肌の男伊達の象徴である。その気っぷの良さが男伊達を育て上げたのが神田の町というのだろう。



万延元年(1868)6月のことであった。讃岐の金比羅様へ刀と奉納金を納めた金比羅宮代参の帰途、遠州中郡の都鳥吉兵衛の騙し討ちに会い、森の石松は悲壮な死の最期を遂げたのである。石松は極めて正直で単純な性格であったが、正義を尊び、不義背徳を憎しみ、粗暴な権力に反抗し、常に弱い者の味方であった。当時の侠客時代にあっても希に見る理想的な快男児と評判であった。




神田の町の成り立ち


では、神田とはどの地域を指したのか。「神田の生まれよ」って言えるのは、神田明神の氏子だけである。しかし、その範囲は神田/日本橋/秋葉原/大手町にまで広がる。日本橋と神田では、同じ江戸っ子でも個性は異なる。それは町の性格の違いに由来する。江戸城の城下町建設にあたって、商人職人町の日本橋に続いて置かれたのが職人町の神田である。その町づくりは同業者を最初から纏める形で行われた。例えば、竪大工町と横大工町は大工職人。蝋燭(ろうそく)町は蝋燭製造業。白壁町は左官職人。新銀町は銀細工職人。鍛冶町は鍛冶師と鋳物師。紺屋町は藍染職人。こうして、仲間意識の強い地域社会が生まれ、職人気質の理想像が「江戸っ子」となった。



現在も町名が残る「紺屋町」界隈は、家康に紺屋頭を任命された土屋五郎右衛門は、石神井川の不忍川を水源とする遊水池「お玉が池」で配下の染め物職人に軍旗や戦装束の生地に藍染をさせ、豊臣方との天下分け目の戦いに備えた。慶長年間(1596年~1615年)に徳川家康から軍功として関東一円の藍の買い付けを認可されていた紺屋頭の土屋五郎右衛門が支配していた町である。そのため、町には五郎右衛門の配下の染物職人が大勢住んでおり、いつしか「紺屋町」と呼ばれるようになった。やがて、江戸を代表する藍染めの浴衣と手ぬぐいの大半は、紺屋町一帯の染物屋で染められるようになる。紺屋町は流行の発信地にまでになり、「その年の流行は紺屋町に行けばわかる」と言わしめるようになった。そして、紺屋町以外で染められた藍染めは「場違い」と揶揄された言葉が生まれ語源となった。



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また、ここが舞台の落語「紺屋高尾」である。神田紺屋町の染物屋吉兵衛の職人久蔵が、吉原の花魁道中で見た三浦屋の高尾に一目惚れして恋患いになってしまう話しである。「紺屋町近くにあり藍染の川の流れも水浅黄なり」 これは、町内に古くから流れていた藍染川を詠んだ狂歌である。藍染川は幅一間(1.82m)ほどの小川で、染物の布を洗い流していたことで名付けられた。洗った反物は二階の虎落(もがり)という物干台で乾かす。




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その様子は、この町のシンボルであったが、広重は「名所江戸百景」「神田紺屋町」で見事に描いている。虎落にたなびく藍染め反物の風情が江戸の風物詩であった。左の源氏車と市松模様柄、右の{魚」の染め物は名所江戸百景版元の魚屋栄吉を表わし、菱形染めは廣重のヒロをあらわしている。この鮮やかな紺色は、ベロ藍と呼ばれたベロリン(ベルリン)からの輸入品で、ヒロシゲ/ブルーの名で世界に知られている。





by watkoi1952 | 2025-08-21 11:42 | 江戸学と四方山話 | Comments(0)