城戸俊三と愛馬「久軍号」物語



城戸俊三と愛馬「久軍号」物語







明治22(1889)74日、城戸俊三は宮城県仙台市一番町に生れ

。仙台一高より市谷の陸軍士官学校へ、明治42年(1909)陸軍

学校卒、騎兵将校となる。フランスの高等馬術の殿堂「国立

ュール騎兵学校」へ馬術留学を終えて、習志野の陸軍騎兵学

教官となる。昭和7年(1932)城戸騎兵少佐は騎兵学校の訓

練馬新規導入のために、フランスへ外遊して外国産馬の買付けを

一任されている。







陸軍騎兵学校は、明治21年(1888)東京麹町に陸軍乗馬学校とし

開校する。日本全国の陸軍の各連隊から選抜された甲乙種の尉

官級の将校学生の為の実施学校として設置された。その後、上目

黒の駒場野に移り、大正5年(1916)に千葉の習志野原に移転し

、翌年に陸軍騎兵学校と改める。齣場野の陸軍騎兵学校の跡地

に信濃町から、軍事物資を輸送する輜重連隊が移転してきた。

信濃町の輜重連隊跡地は慶応大学病院となる。








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        城戸俊三 騎兵中佐

  









大正3年(1914)日本馬術の父「遊佐幸平」、そして、「騎兵の父」秋山好古も「国立ソミュール騎兵学校」へ馬術留学している。






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仏国立乗馬学校「ル・カドルノワール・ド・ソミュール」





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昭和3年(1928)第9回アムステルダムオリンピックの馬術競技に

日本代表4名が出場した。馬場馬術/遊佐幸平/魅号、 馬場馬術/

岡田小七/涿秋号 、 障害飛越/吉田重友/久山号、 総合馬術/

戸俊/久軍号である。馬場馬術では29名中、遊佐中佐が28位、岡

田少佐が20位。障害飛越では吉田大尉が失権。総合馬術では46名中

21である。初参加の馬術競技に対応する技術実績もなく惨敗であ

た。




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       遊佐幸平 城戸俊三 岡田小七 吉田重友











昭和7年(1932)のロサンゼルスオリンピックの監督選手は千葉

習志野の陸軍騎兵学校の在籍者で構成されていた。当時の馬術競

技は「軍人の競技」で男性の軍人しか参加権はなく、純粋なスポ

ーツ以外の面である「騎兵の力量」を世界に誇示する場でもあっ

た。その中で城戸中佐が馬術日本代表の主将を拝命したのであ

る。







      <日本代表メンバー>



   監  督  騎兵大佐 遊佐幸平



  総合馬術  騎兵中佐 城戸俊三 久軍号



  総合馬術  騎兵大尉 山本盛重 錦郷号



  大障害飛越 砲兵大尉 奈良太郎 孫神号



  大障害飛越 騎兵少佐 今村 安ソンネボーイ号



  大障害飛越 騎兵大尉 吉田重友 フアレーズ号



  大障害飛越 騎兵中尉 西 竹一 ウラヌス号






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左端 城戸俊三「九軍号」  右端 西竹一「ウラヌス号」





遊佐監督以下選手団一行は、昭和7年(1932)4月22日に横浜港を「秩父丸」で出港し、21日間でロサンゼルスのサンペドロ港に参加国中一番乗りで到着した。選手団一行はリビエラカントリークラブに宿泊した。馬匹輸送は別貨物船には馬丁として多くの陸軍騎兵学校の兵卒も乗り込み、このオリンピックは国の威信を掛けた遠征であった。






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      ロサンゼルス・メモリアル・コロシアム




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城戸選手と久軍号の出場する総合馬術競技は三日間かけて同一人馬により行なわれ、初日に馬場馬術競技(調教審査)、二日目にクロスカントリー(耐久審査)、三日目に障害飛越競技(余力審査)が行なわれ、三日間の減点の少なさが競われる。二日目の総合馬術競技の耐久決勝戦は、山林丘陵地を22マイル(3229m)走破するもので、コース途中の起伏に50個の障害が設置され、これを飛越しながら全力疾走するという非常にハードなもので、とりわけ馬の持久力が勝敗を左右する競技である。






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初日の調教審査では、翌日に開催される総合馬術のメイン競技である野外騎乗「クロスカントリー競技」に向けて騎乗馬の調教がどれほど進んでいるかが審査される。この競技は自然の状態の地形に、竹柵、生垣、池、水濠、乾濠に天然木材の丸太などを飛越する障害物が40以上あり、その設置距離は6kmに及ぶ苛酷なものである。そして、三日目の最終競技が「障害飛越競技」である。







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その苛酷なクロスカントリ-競技の翌日には、獣医師による「ホ-スインスペクション」即ち、馬が競技を続行出来る状態か否かを検査する。その後、高さ130cmの障害物を1013個設置されたコースを試験走行し、前日のハードな走行を終えて、尚、馬の余力がどの程度残されているか慎重に審査される。






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            城戸俊三と久軍号





さて、久軍号の初日の調教審査の公式記録は400点満点で「21262014組中の12位であった。城戸選手は2日目のクロスカントリ-競技途中の34番障害の前で久軍号から下馬したことで無念の棄権であると観客や審判員から判断されている。確かに完走まで後残り少しであったが、久軍号は全身に異常な汗が噴き出ており、無理をすれば完走出来たかも知れないが、馬齢19歳という人間の後期高齢者にあたる馬齢を考えれば死に至ると城戸選手は直感しても不思議ではない。国威を背負い、日本陸軍と陸軍騎兵学校の名誉と重荷が有るにせよ、尚且つ、途中で断念したことは「愛馬精神」の発露と称えられるのであろう。







だが、翻って見ると、久軍号は最初から総合馬術競技の正式出場馬ではなく、障害飛越の第二以下の予備馬の登録であった。そこに総合馬術の出場馬の故障馬が続出して、やむなく、これまで実績のある久軍号19歳の高齢馬を総合馬術に送り出したのである。遊佐幸平監督の生身の高齢馬と共に競技する人間の苦渋の選択と決断であった。それが城戸選手に通じて棄権と判断したのであろう。それは、国際馬術連盟憲章や、全ての国際馬術競技規則の中心に据えられている「愛馬精神」の発露が毅然と存在するからである。







愛馬精神に徹した城戸選手の行為を讃えて、二年後にアメリカ人道協会は2枚の記念碑を銅板で鋳銅した。昭和9年(1934)その1枚をカリフォルニア州のルビドウ山にある「友情の橋」に取付けられた。もう1枚はリバーサイド・ミッションインという協会が保管した。銅板には横書きの英文の横には縦書きの日本語で「情けは武士の道」と武士道精神の神髄が刻まれている。太平洋戦争が勃発し、アメリカ国内で敵国となった日本を讃える石碑が撤去されそうになる事態が生じたが、城戸選手と久軍号には罪はないのだからとアメリカ人道協会は「友情の橋」から撤去せずに現在に至っている。





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10回オリンピック馬術競技で城戸俊三中佐は愛馬を救うため、栄光を捨てて下馬した。彼はその時、怒涛の様な喝采でなく、静かな憐れみと慈しみの声を聞いたのだ。アメリカ人道協会は城戸選手の愛馬精神を讃えてこの銅板を建立するのである。競技の翌日、城戸選手が使用していた鞍は日本馬術チームを親切に世話して頂いたルイス・ゴスネー・カッスル夫人に記念として贈呈された。それから幾霜月を経ていた昭和39年(1964)の第18回東京オリンピックの時、アメリカの関係者の好意により、ライシャワー駐日大使の手から日本オリンピック委員会の竹田恆徳委員長にリバーサイド・ミッションインに保管されていた銅板記念碑と鞍が共に贈呈され、秩父宮スポーツ博物館に展示保存されている。





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大会後、現地のカリフォルニア動物愛護協会は城戸選手を表彰しようとする。城戸選手と久軍号の光景を観ていた観客達の「彼は疲労した馬のために走行を止めたのだ」と大きな感銘と賞賛の声が広がっていた。当時ロサンゼルスで発行されていた、北米で現存する最古の邦字新聞「羅府新報」に「熱涙を呑んで城戸少佐、馬を救う最期の障害で棄権」との見出しで書かれている。城戸選手は九軍号に寄り添い(たてがみ)を愛撫すると肩に深く何度も頭を沈め、静かに並んで歩いて退場して行く姿に観客と数名の審判員までも思わず涙し、城戸少佐の愛馬精神に惜しみない拍手で見送った。







城戸少佐が後年に親戚に語った実話がある。「あれは障害を跳べずに失格になったので下馬して帰っただけで、そもそも軍人は競技中に動物愛護で下馬はしない」と事実を語ったのである。その事実は34番障害物の前で、久軍号が三度果敢に飛越に挑んだが「三連続拒否」による失格である。野外の障害物は地形や樹木に遮られ、必ずしも観客席や審判員の位置からすべて確認出来る訳ではない。選手の自己申告を待たずとも審判員が三拒否失格を見届けていれば、速やかに騎乗のままで退場して競技は終了した。






ところが、下馬して並んで歩いて静かに退場した行為が、アメリカ騎馬民族国家の礎である馬と共にあった西部開拓史時代の愛馬精神や動物愛護の琴線に触れ、賞賛と美辞麗句の総花的な美談に終始する結果となった。これら予期せぬ異様の賞賛を浴びて、独り淋しく苦笑する同選手の心情には同情に値するものがある。城戸選手は後に「自分は馬の使い方が下手だとつくづく感じた。久軍号には気の毒なことをした」と下馬した反省の胸中を述べているのが印象的である。







ロス五輪後の城戸俊三は、習志野の陸軍騎兵学校に戻り、馬術教官として勤務していた。昭和9年(1934)宮内省に入省、昭和天皇や皇太子明仁殿下の乗馬指導にあたっていた。皇居東御苑のパレス乗馬倶楽部で指導教官を務めた。また、日本馬術連盟の常務理事として長く馬術振興に尽力した功績がある。さらに、日本中央競馬会と常陸宮華子妃殿下の父である津軽義孝氏の後援を得て、岩手県遠野市で乗用馬の育成事業が始められた。この地を五輪総合馬術の訓練と競技施設に発展させている。五輪馬術競技代表であった千葉幹夫氏「平成26年(2015128日死去」が東京から移転して「遠野馬の里」で馬匹改良に取り組んでいた。







明治の初期から昭和20年(1945815日の終戦に至るまで、幾多の大戦において、多くの駿馬が大陸にまた南方に徴発され、一頭も帰還することなく彼の地に没した。日本全国から九州の高原に集められた軍馬は将校用や荷役用など用途別に分類され戦地に向かった。徴用馬は累計100万頭に及ぶ軍馬となって戦場に散ったのである。





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大砲を分解しても1トン、弾薬も入れると2トンを運ぶ。機関銃の重装備は日夜不眠で移動する。雨でぬかるむ場合など馬には苛酷な負担で何時間、何日も費やし疲労困憊して動け無くなると消耗品として廃棄処分される。







それは苛酷な重労役や容赦のない虐待に過労死が戦場に蔓延しており、兵隊の命と大差を付けられた待遇が戦地の宿命であった。もの言わぬ彼らの犠牲を悼んで戦後記念碑建立に私財を投じて尽力したのが、生涯に千数百の馬像を制作した彫塑家の伊藤国男である。この鎮魂の馬像の台座の資金が底を尽き建立が見送られていた。







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靖国神社  戦歿馬慰霊像






これを聞いた城戸俊三が、旧軍人や馬主に呼びかけ、昭和32年(19574月に「戦歿馬慰霊像奉献協賛会」結成して浄財を広く募った。翌、昭和33年(195847日に建立除幕式を行ない、靖国神社に奉納された。現在も毎年47日の「愛馬の日」に「戦没馬慰霊祭」が行なわれ、永遠にその霊を慰めるのである。昭和61年(1986103日城戸俊三は97歳の長寿で永眠する。









ある著名な馬術家は「どんな名人の騎手であっても、適切な調教がなされていない馬では高等馬術の演技はできない」と述べている。馬を制御する「騎手の技術」のみならず、「馬の調教」が重要だということである。如何に従順に活気をもって競技ができる馬を育てられるかが、馬術の勝敗を決めることになる。そのためには長い期間をかけて、騎手と馬がお互いを理解し合わなければならない。その上、馬術競技は何年もかけて騎手が馬を調教し、また、馬が騎手を成長させて始めて形となる。オリンビックの馬場馬術は、長期の調教を要するため八歳馬以上でないと出場資格を得られないまさに「人馬一体」を目指す奥深い忍耐の競技と言えるのである。








オリンピック陸上競技が終わったばかりのメインスタジアムで、閉会式の直前に満員の観衆を前に「大障害飛越競技」が行なわれてきた歴史がある。馬術競技において、男女差と年齢差は競技に関係しない。唯一動物と人間が一緒に競技する類を見ない珍しいスポーツである。オリンピック公式記録に栄光のメダリストと共に馬の名前が記載される。悠久の歴史の中、これまでオリンピック馬術競技で日本人選手が優勝したことは一度もなく、1932年ロス五輪での西竹一とウラヌス号の大賞典障害飛越競技の優勝は例をみない快挙であった。2024年パリオリンピックにて、日本代表(田中利幸、戸本一真、大岩義明、北島隆三)が総合馬術団体で銅メダルを92年ぶりに獲得した快挙である。。






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ロス五輪の大賞典障害飛越競技の西竹一選手とウラヌス号の飛越写真である。飛越時に通常の馬は膝を折り畳むが、ウラヌスは前足を前方に突き出している。これは後肢の踏込みが余程強くないと前肢を障害に掛けて横木の落下や固定障害での人馬転倒による失格となりえる。しかし、この飛越写真を見ると五輪の高度障害をいとも軽快に気持ち良く飛越している人馬一体の妙技である。







ロサンゼルス・オリンピック大会における

「オリンピック大賞典障害飛越競技」の障害配置


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障害の総数は15個、高さ1m④~1,6m⑤⑬、幅は15m①~2,1m④、二段障害⑭、三段障害⑫、水濠幅46m⑩の標準配置図である。




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障害馬術競技(jumping


馬術障害設置コースを馬に騎乗して、順番に障害を飛越して障害の落下や不従順などの減点なく通過する技術を競う競技である。明治33年(1900529日パリオリンピックで史上初の「乗馬走り高跳び」と「乗馬走り幅跳び」が馬術障害飛越競技の創始である。このパリ大会を機に馬術競技の改革が進み、馬場馬術、障害馬術、総合馬術の大会となった。しかし、昭和23年(1948)ロンドンオリンピックまでは男子の騎兵隊将校のみに参加資格が限定されていた。




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だが、昭和27年(1952)ヘルシンキオリンピック以降は、馬術選手の男女差と年齢差が区別されない唯一のオリンピック競技となった。障害飛越では通常の小勒しょうろくはみを用い、1本手綱である。障害鞍は膝の衝撃を受ける部分が厚くなっており、大きさも馬場馬術用の英式鞍に比べて障害鞍はやや小さい造りである。






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馬場馬術競技(ドレッサージュ)


馬場馬術の目的は調和のとれた調教により馬を幸あるアスリートに育て上げることにある。その結果、馬は沈着で関節の柔軟性や伸び伸びとした前進性、筋肉の柔軟といった数々の上達を見せ、騎手の指示に注意深く敏捷に従い、自信に満ちた演技を見せるようになる。そこに人馬一体の妙技が出来上がっていくのである。




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上級の大会では黒か濃紺の燕尾服にシルクハット、白またはオフホワイトのキュロット、ストックタイまたはネクタイ、手袋、黒の乗馬ブーツに拍車を着用する規則である。馬場馬術では小勒銜(しょうろくはみ)大勒銜(たいろくはみ)を用い、手綱は2本用いる。





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20m×長さ60mの競技アリーナ内で行なう演技の正確さを競う競技である。(なみ)(あし)(はや)(あし)駈足(かけあし)の三種歩様と短縮(たんしゅく)尋常(じんじょう)伸長(しんちょう)の三種歩度を基本に高等馬術の様々なステップを踏み図形を描く演技を構成する。規定演技と自由演技で競い、馬の調教進度によって、オリンピックではグランプリ競技で妙技が行なわれる。





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左右の肢を交差させる「ハーフパス」、常足より遅く一歩毎に肢を高く跳ねるように上げて前に進む「パッサージュ」、パッサージュと同じ歩き方の足踏みで前進はしない「ピアッフエ」、右後肢を中心にその場でピヨンピヨンと飛ぶように1回転する「ピールエット」など、馬が自ら楽しんでダンスを踊っているかの如く演技が披露される。






それら馬場馬術の馬への指示合図のすべては、騎手の小さな扶助で行われる。脚の軽い圧迫、重心の移動、手綱の微細な操作など極めて繊細なやり取りで馬を導く、それは恰も馬の自由意思で楽しんで躍動しているように見えるのが最上の演技であろう。馬術の理想とされる「人馬一体」その神髄は人と馬が織りなす調和から生まれる。ゆえに、馬場馬術は競技一辺倒のスポーツではない。馬との絆を強め、馬に学び、自分と向き合い心身を磨く。その「心の芸術」に優雅さ正確さの技術と人と馬の調和から「静かなる芸術」が生まれ感動を呼ぶのである。





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高等な馬場馬術は、曲芸を仕込むように運動を記憶させるだけでは成し得ない、選ばれた馬の背中に必要な柔軟な筋肉をつけ、脚を中心に関節の可動域を柔軟に拡げる必要がある。これには数年間に及ぶ入念な調教が不可欠である。競走馬では2歳~3歳で新馬戦競走もあるが、オリンピック出場の上級馬は8歳馬以上でないと出場資格が得られないのである。競走馬は「4歳~5歳」でピークを迎えるが、馬場馬術に適合した馬がピ-クを迎えるの「9歳~11歳」である。その息の長い調教過程において人と馬の信頼関係が醸成され、馬場馬術の神髄である「人馬一体」の境地に達し得るのであろう。









by watkoi1952 | 2025-08-04 19:43 | 馬と人の歴史風景 | Comments(0)