生粋の「江戸っ子」の誕生



生粋の「江戸っ子」の誕生




江戸住民の呼称として江戸中期頃までに「東男(あずまおとこ)」や「江戸者(えどもの)」などと呼んでいた。そこに江戸生まれ「江戸っ子」の言葉が使われ始めた。それは、江戸中期の明和8年(1771)の川柳「江戸っ子の、わらんじをはく、らんがしさ」が「江戸っ子」の初見である。「わらんじ」は草鞋(わらじ)、「らんがしさ」は「(らん)がしい」、言ってみれば江戸っ子は騒々(そうぞう)しい人達と詠んだようである。また、寛政9年(1797)の洒落本「廓通遊子」にも「江戸っ子」が登楼した記載が見られた。





この頃も、全国各地から多くの人々が江戸に仕事を求めて流入し、江戸住人と江戸の気風に馴染み切れない地方出身者との意識に差異が生じていた。地方出身者や上方文化に対抗する自尊心から「江戸生まれ」としての確固たる美意識が芽生えたのである。その結果「自分は江戸っ子である」という意識に確信を持った生粋の「江戸っ子」の誕生である。









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「本格江戸っ子」の気質



江戸っ子はどういう気質を持っていたのか。天明7年(1877)山東京伝の洒落本「通言総籬つうげんそうまがき」の巻頭に表記されている。「金のしゃちほこをにらんで、水道の水を産湯うぶゆびて、御膝元に生まれて出ては、おがみつきの米を喰らって、乳母おんぼ日傘ひからかさにてひととなり、金銀の細螺きさごはじきに、陸奥山みちのくやまひくきとし、吉原本田のの間に安房あわ上総かずさも近しとす。すみだかわしらうおも中落ちを喰す、本町のかど屋敷やしきを投げて大門をうつは、人の心の花にぞありける。江戸っ子の根性こんじょうほね、万事に渡る日本橋の真中から」云々とある。







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これらを要約して特性を列挙すると、江戸っ子とは(1)将軍のお膝元で生まれで水道の水で産湯をつかった。 (2)金離れがよく宵越しの金は使わない、本町の角屋敷を売り払って吉原遊びをする程気前がよい。 (3)乳母おんぼ日傘ひがさで大変高級な育ちであること。食べ物や遊び道具も極めて贅沢ぜいたくであること。(4)日本橋の真中、本町の角屋敷という江戸の中央部で生粋の生え抜きであること。(5)「粋」と「張り」に男を磨く生きの良い人間、それが「江戸っ子」像である。







また、「ちやきちゃきの~」という言葉を冠しての表現は「生粋の江戸っ子である」ことを強調する言葉である。日本橋本町屋敷を構え家督を三代相続する長男の「嫡男」を意味する「嫡嫡ちゃくちゃく」が訛った「江戸言葉」である。このように「本格の江戸っ子」は徳川将軍家のお膝元の江戸で生まれ、「宵越しの金を持たない「乳母日傘で過ごした高級町人」「市川團十郎を贔屓とし、「意気」や「張り」に男を磨く粋の良い人間」が本格の「江戸っ子像」であり、その資産で江戸文化の花を開花させたのである。その後の文化文政期になると、裏店の長屋に住む武家奉公人、火消し、日雇い左官や大工達が文化活動に参加するようになり、「自称江戸っ子」を称して空威張りするが、結果的に重層的に江戸文化の支えとなった。










「江戸っ子」出現の背景



戸っ子が上記のような気質を特色とし、明確な独特の人間像として、その存在が江戸の社会の中で顕在化してきたのには理由がある。それは諸国から参勤してくる大名に従って江戸に駐留した田舎侍は、文久2年(1862)の参勤交代制度の廃止まで、入れ代り立ち代わり江戸駐留を長年に渡り続けたため、大名の数だけ田舎が幕末まで江戸に存在し続けた。また、江戸店えどだなは地方からの出店で、すべて男性ばかりの店員で経営がなされていた。







しかも、その多くが上方本店からの出張滞在であった。これら店員はすべて大阪、近江、伊勢、尾張など同鄕の上方の方言圏で、国元の上方生活慣習を維持し続けた。このように江戸には恒常的に、少しも江戸化しようとしない地方色が鮮明に永続していた。さらに、地方から江戸へ仕事を求めて大勢の出稼ぎ人などが臨時雇いで入れ替わり流入している。これら地方色のままの言葉や生活習慣が維持され続け、何時まで経ても「江戸らしさ」や「江戸ならではの文化」の生まれる土壌が構築されることはあり得ないのである。







これに対して、江戸初期から先祖代々江戸を居住地と定め定住した古住民たちは、五十年や100年では、それほど相違や対比は目立たなかった。ところが、百数十年を歳月を過ぎる頃になると、これらの地方色と江戸色とが、人間像としてはっきり識別されるように顕在化していたのである。この顕在化した江戸色の人間像が「江戸っ子」の登場であった。対比的に目立ってきた「江戸っ子」とは具体的にどのような人達であったのであろうか。







その「江戸っ子」たちは、日本橋川の一石橋/日本橋/江戸橋/界隈の魚河岸で働く魚の卸小売商人や魚の仕入商人などである。日本橋本町を中心に東側の外濠東に架橋された常盤橋/呉服橋/鍛冶橋/数寄屋橋/山下橋/土橋の外側の海域を江戸幕府は江戸城天下普請の大工事で埋め立て、広大な町人地を築いた。外濠の橋名はその近在に住む職人の職業名である。古くからの同職人や商人が同じ町割区分の中の住宅に職場と住居があった。その中に蔵前の札差や新川の酒問屋、霊雁島や木場の材木商も仲間内であった。







彼らの贔屓筋である市川團十郎や岩井半四郎が舞台の科白せりふの中で「ただ江戸っ子と御贔屓ごひいきを・・・・おこがましくは候らえども」などと言って、自分も江戸っ子であることを披露する程であった。役者は人気商売のため自称する事もあった。だが、この頃の江戸生粋の町人達は、自ら江戸っ子であることを鼻にかけて威張るようなことは粋筋の心意気として封印していたようだ。






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     当世五明人 市川團十郎 元治元年(1864)国周




  


17世紀後半頃に浮世絵が始まった。「二大悪所」とされていた吉原遊郭と歌舞伎を舞台にした美人画、役者絵が主題として描かれた。18世紀後半には喜多川歌麿や東洲斎写楽らが登場し、浮世絵の黄金期を迎えた。19世紀に入ると庶民文化が成熟すると行動範囲や娯楽の対象はさらに広がり、浮世絵にも多彩な主題が見られる。幕府認可の社寺を訪ねる旅は一番人気の的となる。そこに生まれたのが東海道の風景画であり江戸名所図会である。





自称(にわか)「江戸っ子」の出現


ところが、文化文政期以降の幕末になってくると、江戸の下層町人までが行動文化の潮流に乗って、江戸近郊や遠隔地の寺社詣でに出掛けるようになった。その旅先で自分は江戸生まれの江戸育ちの気質を備えた江戸っ子だと吹聴して、空威張りする自称にわか「江戸っ子風」が続々と出現してきた。しかも、このような空威張り自慢の江戸っ子風だけを「江戸っ子」の全てだと歴史家は見ていたのである。それは江戸っ子の初見が寛政7年(1795)で、その後江戸っ子が一般化していった。しかし、多くの文献に見られるのは文化文政期(18041826)以降の事だという見当外れの論拠になったからである。



正統の江戸っ子は代々生粋の江戸町人の大旦那や代々手仕事をしてきた下町の職人などによる、江戸の都市生活の長年の慣行によって成立し、洗練されてきた町人としての江戸っ子である。江戸市中に流れ者として流入してきたとか、火事などで下町に住み着いた下層町民が、すでに成立した見事な江戸町民を背景に捉えて、他国者に向かった時、あるいは地方遊びの旅先などで自慢げに「おらあ江戸っ子だ」と空威張りするようなやからに成り下がったのである。彼らは江戸市中の正統な江戸っ子が居る処では一切沈黙するという、人の風上に置けない自称「江戸っ子」達は同じ江戸町人とはいえ、時代によって程度に相違が見られ、重層的な二重存在であった。





「江戸っ子」の江戸文化創造


戸には地方色が鮮明に永続し続けていた。これに対して、江戸生粋の札差し、魚河岸、酒問屋、材木商、多品種の職人達も、十八世紀後半期を迎えると、その経済的な実力は資産を大きく成長させてきた。その経済力と並行して、大都市の江戸っ子という独自の人間像による行動原理や美意識などによって、そこに目に見張る江戸文化が出現したのである。それは、江戸歌舞伎、浮世絵、川柳、洒落本、黄表紙、吉原遊郭遊行、花見、月見、雪見、花火、勧進大相撲、納涼川船遊などの江戸文化を豪華絢爛に開花させ、展開させていったのである



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      江戸っ子を夢中にさせた「両国勧進大相撲」



江戸という大都市に新しい社会現象が永続したことで、大きな存在となった「江戸っ子」は極めて旺盛な文化創造に邁進したのである。彼らの漲るエネルギーは、寛政の改革で大きな弾圧を被り、一時停滞を余儀なくされた。しかし、文化文政期から幕末にかけて、その創造力は一層広汎に満面開花し、江戸文化の様々な名人芸を披露したのである。




「江戸っ子」の江戸言葉


戸っ子の「張り」を象徴する言葉には「いな」がある。出世魚であるぼらが稚魚から成長するに従って、「ハク」「オボコ」「スバシリ」「イナ」「ボラ」「トド」と名前が変化する。最終形が「とどのつまり」の語源となる。5番目の未成魚「イナ」の背が日本橋魚河岸で働く若衆の結ったまげに似ていることで、威勢の良さを表わす言葉に転じていった。魚河岸で働く棒手振の一心太助に見る威勢の良さ、猛火に立ち向かう命知らずの町火消達は、共に威勢の良さ、気風の良さ、勇み肌を意気地の誇りとしていた。彼らは江戸市中で働く中で人気の江戸っ子であった。




また、(いな)()のもう一つの語源に背中に彫った彫物の「青」が鯔背の「青」に極めて似ているからとも言う。高級魚「鯛」と違い「(いな)」は江戸っ子のイメージである。浮世絵師の歌川廣重は天保3年(18323月に武士の身分である「定火消同心」職の家督を長男の仲太郎に正式に譲り、浮世絵師として出世街道を邁進する廣重と出世魚の鯔を描いた廣重が重なる。「(いな)」は秋に川を下って海に出るが、翌春に「鯔」に成長して浅瀬に戻って来る。廣重は「(ぼら)」に「椿の花」を添えて、草画風に独活(うど)の絵を描いている、早春の季節感満載の錦絵である。



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「江戸っ子が慌てちゃいけねえ、泡食って出世したのは鯔ばかり」は常套句として使われていた。生後百日目の「お食い初め」の目出度い魚として御善にも登る。鯔の卵巣漬けは「(から)(すみ)」として酒のアテに珍重される。「鯛」と違い「(いな)」は江戸っ子のイメージである。しかし、幕末の世相を反映して、「(いな)()」は崩れた若者ものとして捉らえられた語意であつた。吉原遊郭で遊女の揚げ話で「間夫にするなら「いなせ」はよしな」、安政5年(1858)の清元「(しのぶ)(がおか)恋曲者」に「まだ新宅の見世先をそそる「いなせ」地廻じまわり衆とあって」、小粋な浮良小年風の若者の容姿や服装についていったものであろう。



by watkoi1952 | 2025-07-27 11:27 | 江戸学と四方山話 | Comments(0)