日本酒の起源と歴史



日本酒の起源と歴史







日本酒の故事来歴の源流を尋ねると、縄文後期から弥生前期時代の稲作伝来と共に大陸から九州や近畿に伝わったとされる。弥生時代中期には東北地方まで稲作文化は広がり定着していった。日本酒の原料は米と米麹と水である。その発祥起源において、八百万の神々を祀る神社に奉職する神官の元で巫女が米飯を口で良く嚼んで醸す「口嚼くちかみのさけ」は神へ捧げる御神酒であった。神のために造られ始めた神聖な酒は、巫女の唾液に含まれる酵素で糖化し、野生酵母によって発酵させた。まさに偶然性に期待した原始的な酒造りであった。








奈良時代には中国からの交易による米麹を使った製法が伝来した。朝廷に酒を献上する「造酒司(さけのつかさ)」が置かれて、米飯の「白濁酒造り」が見られた。「大神に供えていたお米に(かび)が生えたため、酒を造り捧げた」と文献にある。すでに米麹の原形を用いた酒造りが広まっていた。






平安時代の日本酒は主に朝廷への献上や豊穣祈願をする神事の御神酒であった。この頃、国政の混乱から宮廷の酒の技術者が寺院や神社に流出した。高野山延暦寺の宿坊などで造られた「僧坊酒」は、品質の良い濁酒と僧侶に評判であった。





鎌倉時代に入ると鎌倉仏教の隆盛を迎え、酒屋に寺院や神社の酒造りが増えていった。商業の発展に伴い、濁酒は米穀に匹敵する価値を持ち流通している。室町時代になると、蒸した米と麹に水を加える行程を二度に分けた「二段仕込み」製法が確立されて、濁酒の酒造技術は格段に飛躍していった。






江戸時代には、酒造の専門職人による大量生産の道が開け、品質の絶え間ない努力と向上も見られた。冬期の「寒仕込み」、酒の香りを整える「温和法」、保存性を高める「火入れ法」などの酒造技術が発達していった。灘の名水の湧出する地方には、良質の酒造りが多く生まれ「日本の酒には水が大切」という概念は江戸初期に確立されていた。しかし、江戸幕府は酒市場の規模拡大に伴い、大手酒造業の統制「酒株制度」を設け、酒税の徴収など酒造りに一定の制限が課せられた。江戸時代中期には、お燗をする道具やお猪口が広まり、燗酒を楽しむ庶民が増えていった。










古代の濁酒から清酒へ



天正6年(1578)戦国時代の尼子氏の家臣山中鹿之助の長男山中新六幸元が大叔父の山中信直を頼って伊丹鴻池村に住居を移した。新六は15歳で元服して商いで身を立てようと武士の身分を捨て、新左衛門と改めた。慶長初年に酒造業を創業した。鴻池村は室町中期から濁酒造りの盛んな土地柄であった。







米を麹で発酵させることを「(かも)す」と言い、米を醸すことで「(もろみ)」ができる。つまり、米を発酵させただけの醪が残った白濁のままの「濁酒どぶろく」である。鴻池村の人々は濁酒を神々に供えて、五穀豊穣を祈願していたのである。後に発酵を終えた醪を漉すことで、澄んだ液体(清酒)と酒粕に分けることが知られる。






慶長5年(1600)に鴻池山中酒屋は独自の革命的な「双白もろはくすみさけ(清酒)」の醸造製法を開発発見した。新右衛門は、麹と掛米の双方に精白米を用い、麹米,蒸米,水を三回に分ける三段伊丹諸白の仕込み製法を考案して、「伊丹諸伯」と呼ばれる無色透明の清酒を生み出したのである。






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さらに、冬季に集中して仕込む「寒造り」を採用した。酒造職人の杜氏集団を分業化して、酒造工程を連続させ量産化を図り、高級清酒としての伊丹酒の地位を確立した。この清酒諸白は大変評判良く、同年に樽詰にした清酒を江戸に運んで商売をする「江戸送り」の準備を始めた。江戸時代の初期の酒造業における主導的地位を占めていたのは、奈良の寺院で僧侶が酒母で造る「南都諸白」であった。南都の諸白が銘酒中の第一で、伊丹、鴻池、池田、富田、攝津の酒がこれに続くとされていた。






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慶長5年(1600)関ヶ原の戦いが終わり、徳川家康による江戸の町造りが始った頃、新右衛門は透明で芳醇な清酒の全てを4斗樽に詰め、伊丹から江戸まで東海道を馬で運んだ。1頭の馬の背に振り分けた4斗樽2樽を「1駄」の荷駄単位に集約した。新右衛門が定めた清酒の販売価格は、10駄(20樽)が最小単位であり、10駄、すなわち馬10頭分を10両で販売した。多いときは馬100頭(200樽)を連ねて、東海道中を江戸まで運んだという。







「伊丹諸伯」の顧客のほとんどは、この国の新しい支配者となった徳川将軍家の家臣たちであった。京都や大阪での販売量は、それに比べると極僅かであった。鴻池屋に続いて池田の万願寺屋、伊丹の 猪名寺屋も江戸への酒の輸送に力を入れたが、「伊丹諸伯」が一歩先んじていた鴻池屋が断然有利な地位を占めていた。









灘の宮水「男酒」と伏見の温香水「女酒」



六甲山系の伏流水が、西宮神社一帯で湧出する「灘の宮水」は、優れた清酒の賜物であった。宮水の硬水で造られる灘の酒は酸が利いてキレが良いことから「男酒」と呼ばれていた。一方、京都伏見には清和天皇から「御香水」の名を賜った名水「伏見の御香水」に「伏見の七井」が湧出する。御香水は灘の宮水よりも軟らかい中軟水で、伏見の酒は滑らかできめ細やかで「女酒」と呼ばれて、灘の「男酒」と対をなしていた。名水のある所に銘酒ありと言われる由縁である。






樽には香り高い吉野杉が用いられ、灘地方が日本有数の銘酒醸造地となった。酒米、米麹、名水を原料に発酵させてもろみができる。この醪を漉して「源酒」と「酒粕」に分離して、透明に洗練された諸白もろはく「清酒」になる。この醪を漉さないものは古来よりの濁酒どぶろくである。日本を代表する酒蔵「日本三大酒処」は、①神戸市灘区周辺の酒処で「灘の男酒」キリっとした飲み口が特徴である。②京都伏見区周辺の酒処で「伏見の女酒」優しく甘い飲み口が特徴である。③東広島市西条周辺にある酒処で、この銘水の地で生まれた三浦仙三郎が「吟醸酒」の生みの親である。毎年10月の「酒まつり」では1,000銘柄を越える日本酒が楽しめる。






「伊丹諸白」と「灘の生一本」下り酒が生んだ銘醸地、伊丹と灘

五郷」は(2020)に文化庁の日本遺産に認定された。







酒の海上輸送「樽廻船と檜垣廻船」



寛文年間(16611672)頃「下り酒」が江戸を席巻した。酒の流通が馬による陸運から船による海運へと移行し、上方と江戸を行き来する伝法船(樽廻船)が就航するや、伊丹酒は江戸で大ブームとなる。「下り酒」と呼ばれて重宝され、「伊丹の酒、今朝飲みたい」(イタミノサケ、ケサノミタイ)上と下から読んでも同言葉、「徳利のお土産なにより伊丹入り」など、痛み入り(恐縮)の言葉あそびが江戸で流行語となった。元禄6年(1693)の江戸の総人口は6070万人である。当時の「下り酒」の出荷量で全人口の一人あたりの消費量を算出すると、なんと1年間で約4斗(一升瓶40本分)となる。






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江戸に酒樽を運んだ樽廻船や檜垣船。上方から江戸に運ばれた「下り酒」は、海路波に揺らされていくうちに、樽の吉野杉の香りが酒に移り、芳香な香りの酒になったという。江戸時代前期の下り酒は「伊丹酒」「池田酒」である。後期には「灘酒」が増え、江戸の酒の需要の八割を供給した。





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上方より江戸へ供給した「下りもの」各種の生活用産品である。
















by watkoi1952 | 2025-07-13 14:40 | 江戸学と四方山話 | Comments(0)