赤坂の地名と由来
赤坂虎ノ門の歴史百景
赤坂の地名と由来
赤坂の地名は現在の弁慶濠東側から赤坂迎賓館と真田濠に向かう左坂上に赤根草が自生しており、古くから赤色染料の採れる里称「赤坂」と呼び慣わしていた。その広大な赤根山一帯に、御三家の紀州徳川家が中屋敷を拝領した。そして、紀州家により坂名の赤坂が「紀伊乃国坂」と改称されたのである。そこで赤坂下の集落の住民は地名を「元赤坂」と改めて、現在に及んでいる。

島原の乱と幕府の道中伝馬制
元和2年(1616)島原藩主有馬直純4万3千石の転封後に入封した松倉重政は有馬氏の居城を廃し、七年もの歳月をかけて分不相応な島原城10万石を築いた。城主重政は幕府に領内の検地で石高を倍以上の10万石で申請受理されている。そのため、領民に対して弾圧策を課す事になる。領民に不足分の禄高6万石の苛酷な重税を課し多くの餓死者を出した。そもそも島原や天草は、漁業と対外の南蛮貿易が主で、見るべき水田耕作地の少ない4万石程度の土地柄であった。

寛永8年(1631)重政の子勝家が後継者となるが、幕府の鎖国政策によって収入源たる対外貿易の収入を絶たれた。勝家は失政を住民の信仰による抵抗勢力にすり替え、あらゆる生活物資に課税し、その取立ては残忍で筆舌に尽くせない苛酷を極めた。勝家は領国経営失策と反乱惹起原因の当事者であり、大名としては切腹は許されず、唯一無二の極悪非道の罪人として江戸で斬首刑に処された。幕府はこれら不都合極まり無い真実を隠蔽し、キリシタンの反乱にすり替えた歴史として後世に伝えられている。
寛永14年(1637)10月に島原と天草の領民が苛酷な圧政による餓死に耐えきれず、天草四郎(益田時貞)を首領に勃発した我国最大の戦乱「島原の乱」である。幕府は東海道の総元締め大伝馬町の馬込勘解由に命じ、全国街道の緊急有事体制を布告した。幕府は九州の大名に兵役を命じ、他の大名には石高別に供出させた鉄砲弾薬など軍需品や食糧を東海道に集約し、島原城を攻める九州の数万の兵士に必要な物資を寸断無く供給した。それが戦時下の兵站の役目であり、その兵站の働きが重要な勝敗の分かれ目となる。そのため、戦乱の世でも現在でも敵方の兵站の供給路線を絶つ戦略が必勝条件となっている。

兵站が軍事理論の後方支援など補助的な存在でなく、むしろ主要な位置を占め、軍事作戦の遂行を基礎付けることを示唆している。軍事学において極めて有名な格言である「戦争の素人は戦略を語り、戦争の玄人は兵站を語る」これは兵站の重要性を端的に強調したものである。部隊の物的な戦闘力を維持増進するために、作戦に必要な『物資』を必要な『時期』に必要な『場所』に充足させることである。
寛永十四年(1637)島原の乱における軍備品供給の兵站と人馬継立て道中伝馬制を統括した馬込勘解由の幕府御用の働き、その功績により大伝馬町に次いで、四谷伝馬町一~三丁目・新一丁目、四谷塩町一~三丁目を拝領した。現在の四谷中心部商人地一円の支配権を得た町名主「馬込勘解由」である。神田神社境内社の江戸神社(旧牛頭天王社)は大伝馬町の鎮守であった。そこで拝領地の四谷では稲荷社を信仰しており、四谷の氏神様として牛頭天王を合祀し「須賀神社」を建立した。通称「四谷の天王様」として今日まで親しまれて来た。

南伝馬町(京橋一~三丁目)は大伝馬町と同様に島原の乱で軍備や食糧の兵站と大伝馬御用を滞りなく勤めた。その功績によって寛永13年(1636)高野新右衛門・小宮善右衛門・吉田主計ら伝馬役3名は、南伝馬町に次いで元赤坂に隣接した「赤坂表伝馬町一、二丁目」と「赤坂裏伝馬町一、二丁目」を助成地として拝領した。日本橋の南伝馬町より品川に近い人継ぎ集落として、あらゆる荷物に対処する道中伝馬役の「助郷」の役割を果たした。赤坂伝馬町から「人継ぎ」の人足たちが、現在の「赤坂一ツ木通り」を通過して品川宿を往復する役目であった。一ツ木とは人馬継立ての「人継ぎ」から「一ツ木」と転じた通り筋名である。

赤坂御門(赤坂見附)
寛永13年(1636)三代将軍徳川家光の命により、江戸城外濠の牛込見附から赤坂見附までの濠掘削工事が、東国の諸大名52家が分担して行なわれた。赤坂見附門は、寛永13年(1636)筑前国福岡藩主の黒田忠之が右折れ枡形石垣を築いた。赤坂門は、地盤の軟弱な低地を避けた高台に築いた。そのため、御池(現弁慶濠)と赤坂川の水位差を保つための土橋の版築は極めて難工事となった。寛永16年(1639)御普請奉行の加藤正直と小川安則に引き継がれ、赤坂見附門は完成した。しかし、難工事により枡形門に付属すべき木橋は架けること叶わず、土橋の下で水位差を保ちながら余水を配水していた。

by watkoi1952 | 2025-06-12 20:24 | 赤坂虎ノ門の歴史百景 | Comments(0)

