江戸の御鷹匠と鷹場の終焉
鷹狩の世界史
鷹狩とは、幼鳥から飼い慣らした鷹や隼などの肉食猛禽類を山野に放ち獲物を捕らえる狩猟法である。鷹匠は野生の鷹を長い歳月かけて訓練調教し、捕獲能力の高い鷹に育て上げる専門家である。すなわち、人間と食物連鎖の頂点にいる猛禽類と協力して行なう人類最古の伝統狩猟法の一つである。悠久の時を経て、人類は地球の自然環境で生きる上で必要な食物資源を獲得してきた。鷹狩は世界130ケ国以上に存在したと言われ、放鷹術は国や環境に猛禽の種類によって異なる。四千年以上前は中央ユーラシア大陸の遊牧民による生活技法として編み出された歴史を有する。

四千年程前のアルタイ山脈や天山山脈でイヌワシ、オオタカ、ハヤブサなどの猛禽類を飼い慣らして狩猟を行なう「鷹狩」が始まった。現在でも、キルギス牧畜民やカザフ遊牧民は、大型の猛禽イヌワシを用いた騎馬鷹狩の伝統猟法を連綿と受け継いで日常生活の一部に溶け込んでいる。三千年ほど前に中国に伝わり、その後は中世ヨーロッパ、アラブ諸国に広まる。日本では中央アジア/東アジアを起源とし、中国大陸との交易を経て伝来した説が有力である。
鷹狩の日本史
日本書紀によると、西暦355年に仁徳天皇が飼慣らした鷹を使って雉を捕獲した記録があり、鷹を調教する「鷹飼部」が設置されていた。天皇の鷹狩を司る役職に大宝令/放鷹司、養老令/主鷹司が置かれていた。平安時代に主鷹司が天皇の鷹狩を、新設した蔵人所が贄調達の鷹狩を行なう。だが、仏教の殺生禁止の思想の広まりと共に鷹狩の否定的な考えが生まれ、規制の強化や復活を繰り返して存続していた。

天皇の鷹狩図
仏教による鷹狩の規制は、鷹の飼育や鷹狩にマタギで生活してきた東北の蝦夷の生活を圧迫し、平安時代前期の東北反乱の要因の一つであった。第52代嵯峨天皇(786~842)は、鷹狩の流行に伴い漢詩で認めた「新修鷹経」三巻を鷹所に下賜している。鷹狩の技術書「新修鷹経」は、世界で2番目に古い書籍である。818年に鷹狩の普及により技術書が広まった。
平安時代まで鷹狩は天皇統治のための宮廷行事の儀式に用いられた。鎌倉時代の宮廷の鷹匠の家柄として「西園寺家」と「持妙院家」が生まれている。室町中期の鷹匠の家柄は、宮廷では「園家、坊門家、梅家」で、地下人では「秦家、下毛野家」である。
しかし、武士が台頭した鎌倉時代より武家の権力者による鷹狩が行なわれ、室町時代に鷹の力強さが好まれ、高額で売買するなど盛んになった。戦国武将は権力の象徴として信長や秀吉も鷹狩を好み、「信長公記」には諸国の武将が信長に競って鷹を茶の湯の茶器のように献上したと記されている。
徳川家康を夢中にさせた鷹狩
德川家康は若い頃から常に鷹を身近に置いて大切に育て扱い、鷹狩で山野を馬で駆け巡ることを好み、健康維持のため晩年まで熱中し続けた。元和2年(1616)1月、家康は駿府城から藤枝方面に大御所となって20数回目の鷹狩に出掛けた。東海道の藤枝宿に近い田中城の御殿宿泊中に腹痛で倒れる。将軍権威の象徴である鷹狩に没頭し、波乱に満ちた生涯を閉じたのである。家康には「鷹匠組」なる鷹狩の技術者が側近として常勤していた。家康に近侍していた鷹匠組頭の伊部勘右衛門は、大御所時代の駿府城まで鷹と共に長年寝食を共にしていた。

今川家人質時代の若き竹千代は、今川家の鷹狩りに好んで参加していた。竹千代の鷹が隣家の今川家臣の孕石元康の屋敷内に迷い込んだとき、元泰は「人質の分際で鷹狩とは生意気な」と嫌みと苦情を言い放った。家康はその言刃(言葉)を積年の恨みに思い続けていた。幾霜月、遠江国の高天神城の戦いで武田軍に寝返り、そこから逃亡していた元泰を捕縛し切腹を命じたのである。若き日夢中になっていた大好きな鷹狩を咎められたのが余程気に入らなかったのであろう。家康は晩年まで生涯千回以上の鷹狩が記録されている。
天正18年(1590)家康は関東入国後に東金、忍、川越、鴻巣、越谷、中原、など江戸の外郭地域で広域治安維持のため盛んに鷹狩を行なった。これらは江戸から10里(40km)の要衝地の視察であり、小田原北条の残党や土豪、家康と対抗する安房国の里見氏や常陸国の佐竹氏と対峙する場所でもあった。家康は江戸周辺に鷹場を設け、後に多くの鷹匠を召し抱えることになる。家康の側近から老中となった本多正信も鷹匠であった。

慶長8年(1603)家康は征夷大将軍に就任すると全国の有力大名の鷹狩を禁止した。鷹狩は朝廷や貴族の古来よりの儀式行事であるが、翌慶長9年には公家の鷹狩を一切禁止して放鷹権をすべて独占して全国統治者として権威を高めた。天皇に代わり摂政、関白、将軍が日本国を統治する権限と共に鷹狩を催す権限も譲与された。鷹狩は最高権力者の象徴であり、これら権力者の庇護を得て途絶えることなく鷹狩文化が維持継承されていった。
御鷹匠と鷹場の職制
慶長12年(1607)小田原北条氏の家臣であった間宮左衛門信繁が鷹師を支配する鷹師頭に任命され、将軍直属に置かれた。やがて、幕府の職制が整備され若年寄の支配下に鷹場の職制が整えられた。鷹匠たちに勤務する鷹部屋は本郷弓町に置かれた。寛永2年(1625)の旗本屋敷割で神田小川町に鷹匠町が設定された。本郷弓町の鷹部屋は享保2年(1717)に雑司ヶ谷と千駄木町の2カ所に移転した。
寛永5年(1628)10月28日、三代将軍家光は鷹場に関する五ヵ条の厳守事項とそれを布達する「鷹場法令」を発布した。寛永10年(1633)2月13日には、江戸から五里~10里の地域に御三家、続いて徳川一門や諸大名に鷹場が与えられた。幕府の鷹場には鷹の訓練師である「御鷹匠」、鷹場を管理する「鳥見」、鷹の餌を集める「餌差」などの役人が任命され、家光の時代に近世の鷹場制度の基礎が形成された。家光は二ノ丸に鷹を飼う鷹坊を設置した事で知られる。将軍家光と大名家の間では鷹そのものと獲物の贈答が頻繁に行なわれていた。
「徳川実紀」の家康の言葉に次のように記されている「鷹狩は遊娯の為にのみにあらず、山野を奔駆し身体を労働して、兼ねて軍務を調達給わんとの盛慮にて」とある。山野を駆け巡り健康維持に最適であり、鷹狩の名目による領地視察、武家社会では狩猟の形式を執った有事の軍事訓練として行なわれた。

将軍家の小金牧狩場における軍事訓練
江戸時代には江戸五里(20km)以内の地域は将軍の鷹場「御場拳場」になり、江戸市中と周辺農村に跨がって指定されている。将軍の鷹場よりさらに五里外側は、葛西筋、戸田筋、中野筋、目黒筋、品川筋の六筋に区分されて管理された。鷹場の役割負担は、六分割された「筋」の内部の「領」の枠組みで「鷹場組合」を組織し鷹場に指定された村々から徴収される。この地域の村々は尾張、紀伊、水戸、の御三家と御三卿、御家門、有力大名に貸与され「御借場」と呼ばれていた。

鷹匠は、鷹場の置かれた村々を泊り歩き、鷹場の監視や鷹の飼育と訓練にあたり、将軍の鷹狩りに従い奉仕する役目である。また、諸国を漫遊して巣鷹を探すことも重要な任務の一つであった。鷹匠頭はこれら任務をもつ鷹匠を支配すると共に犬牽と餌差が配置されていた。

犬牽とは狩猟のとき、勢子人足と同時に獲物を追い出すための犬を扱う役目である。この犬は、鷹部屋に付属した犬部屋で、犬牽によって飼育及び訓練が行われていた。慶安元年(1648)に、鷹匠の一人に犬を預け、同心二名をこれに所属させたのが犬牽頭の起原である。

餌差というのは、鷹に与える生餌を集めて鷹を飼育するのが主な役目であり、餌差たちの居住地が「本郷餌差町」であった。鷹の餌鳥に与える餌は、ケラ虫/蜘蛛など江戸周辺の村々から高役が高掛物として上納させていた。明暦二年(1656)九月、日光道中の千住宿から栗橋宿までの六宿場が、伝馬など課役負担の過重と宿の窮乏を理由に、高役の免除を訴願して許された。

「鷹匠」が鷹に関することを扱うのに対し、鷹場の管理にあたるのが「鳥見」である。家康の時代から鳥見はあったが、寛永二十年(1643)九月、幕府の新職制「鳥見役」10名を改めて任命した。承応二年(1653)には、鳥見の大平角助俊宗と幸田孫助友治の両名が鳥見の巧者として「鳥見頭」に任命された。鳥見は鷹匠と同じく若年寄の支配にあったが、鷹匠とは別系列であり、独自な任務を帯びていた。彼らの職務は鷹場村々を巡視し、野鳥の繁殖状態や鷹場の整備状況などを視察し、農民を指揮督励することにあった。
また、将軍の放鷹の期日が近づくと、餌をまいて野鳥を集め飼い付けするのもその役目の一つである。しかし、鳥見は鷹場の管理を表面の任務としながら、実は地方の探索を職務としており、外聞をはばかって鳥見と称していた。江戸の近郊にしだいに増えてきた諸大名の下屋敷や抱屋敷の庭に、野鳥の状況を調べると称して自由に出入し、密かに屋敷内の動静を探索する役目を帯びていた。


将軍家の駒場野御狩場図
生類憐令と鷹場の廃止
家康以来さかんに行なわれてきた鷹狩りは、五代将軍綱吉は動物愛護の法令である「生類憐れみの令」によって鷹狩を段階的に廃止し、鷹狩に関連する贈答も全て禁止した。元禄六年(1693)6月に御三家などの鷹場が幕府に返上された。同年九月、幕府も放鷹を廃止して鷹部屋で飼養中すべての鷹を伊豆の新島の自然に放した。元禄九年(1696)10月には、鷹匠や鳥見の役も廃止して鷹匠町は小川町、餌差町は富坂町と町名も改称した。
また、無役となった鷹匠で犬の飼育や訓練の担当者五名が、生類憐令で新設された野犬などの保護養育のため、大久保犬小屋の支配に任命された。鷹場は制度的にも廃止され、鷹場地域における野鳥や川魚などの殺生取締りは、鳥見役から代官所に移管され、依然厳重な監視が続行した。綱吉自身は将軍になる前に練馬御殿で度々鷹狩を楽しんでいた。綱吉の死後に生類憐れみの令は廃止されたが、鷹狩が復活するのは8代将軍吉宗の時代である。
享保元年(1716)吉宗が8代将軍に就任して直ぐに鷹狩を復活させた。江戸周辺一帯に鷹場を設置、翌年には亀戸/隅田川で鷹狩を再開させた。諸事により家康を見習った吉宗も、鷹狩によって将軍の統治者としての権威を確立させ「鷹将軍」と呼ばれた。

「ハヤブサ」

「ハイタカ」
鷹場より命名「三鷹市」
三鷹市の野崎には、明和7年(1770)頃に記載された石杭には「従是東西北尾張殿鷹場」とある。案内板には「三鷹の北西部井口大沢各新田は尾張家の鷹場として定められており、尾張家の鷹場は北多摩から埼玉南部まで広大な土地に及んでいた」と記されている。明治22年(1889)野方、世田谷、府中の3領地に分かれていた10の村々が合併して「三鷹市」が成立している。鷹場には鷹匠が鷹を調教する「御捉飼場」があり、寝泊まりしながら鷹の調教をする鷹匠に、宿屋人馬の提供に鷹の餌となる小鳥を供給していた。
御鷹匠支配二人に六人の組頭が分属し、二十二人の御鷹匠が所属する。二名の支配は二カ所の拝領組屋敷に住み、千駄木の支配は戸田氏、雑司ヶ谷の支配は内山氏が家康時代から世襲していた。御鷹匠は公用の鷹を飼い獲物を捕る訓練をし、将軍の鷹狩に用を供するものである。小紋の羽織に同じ生地の袴姿、左手に鷹をすえて歩くので「鷹匠は左の腕で扶持を取り」と川柳にある。
御鷹匠と鷹場
江戸幕府の将軍の鷹を預かっていた鷹匠は、両刀を差した武士の職務であった。ゆえに鷹匠は庶民にとって、非常に権威ある怖れる存在であった。鷹匠の下僚には同心五十人、野廻り役二十三人がおり、その附帯役に組頭2人に鳥見衆二十二人がいる。鳥見は上目黒、東大森、志村、亀有、東小松川、上中里、高円寺の各村に住み巡検して、野鳥の状態を見張る役である。
御鷹の餌となる小鳥が多ければ多いほど良い。唯それだけで平の鳥見役で八十俵、組頭で二百俵の録を貰っている。その他に犬索や餌指の役目の者もいた。将軍の鷹を預かる鷹匠は、大勢を引き連れて「お鷹馴らし」に郊外に出掛る。江戸の何処の鷹場に出掛けてもお泊まりは品川、新宿、板橋、千住の江戸四宿の何処かに宿泊することになる。
御一行は鷹を先頭にぞろぞろ宿場妓楼に繰込むのが慣例であった。当日は一切の客を断らせ、遊行費飲み食い一切は無料、宿場の飯盛女郎には二重三重の災難であった。そこで文句を言おうものなら、上様のお鷹を驚かせたと難題を吹き掛けられる。京伝に「怖がるものはお鷹匠のお泊まり」とある。この傍若無人の振舞いの弊害が昂じて、嘉永6年(1853)御鷹匠支配の戸田五助が千住宿の妓楼大枡屋からの収賄で摘発された。その事件が発端の一つで、ついに江戸時代の鷹匠制度は全廃され、江戸湾防衛の軍事組織に組み込まれた。
鷹場制度の終焉
慶応2年(1866)12月、横浜周辺に最初の「鷹場差止令」が出され、鷹場解体が一気に進行していった。これは安政6年(1859)6月の開港以降、治安上の最重要拠点となった横浜周辺の半径五里四方に広がる四郡「武蔵国橘樹郡、久良岐郡、都筑郡、相模国鎌倉郡である。江戸幕府が対外的危機感の高まりに対して、西洋式軍事制の採用に踏み切り、大規模な軍事改革を断行したのである。新軍事制度では第2番隊千人「鷹匠組頭/鳥見組頭を含む19役職」、第3番隊千人「鷹匠」、第4番隊千人「鳥見」が組み込まれていた。

続いて関東全域の御拳場に御捉飼場、御三家鷹場に交付された。その鷹場維持組織を追われる役人には新たな組織が用意された。新軍事制度に編入前の御目見持役格の鳥見7人が銃隊に編入、鷹匠同心41人、犬牽4人、部屋番4人、鷹匠同心見習16人などが撤兵勤方に編入された一部の記録である。幕府は動乱の幕末期において、新軍事組織を創設し、鷹場制度を始めとする旧組織を解体して、江戸湾の防衛、治安維持に対処したのである。
諏訪流鷹師の歴史
信州諏訪大社の贄鷹神事に奉仕してきた初代諏訪流鷹師の小林家次は、天皇から鷹狩を許された織田信長に招請され、「家鷹」の名を賜った。その後、戦国大名の豊臣秀𠮷、徳川家康に召抱えられた。小林家は徳川将軍家の直参鷹匠として、千駄木の御鷹部屋に幕末まで仕える。明治維新により鷹匠は失職し、諏訪流は宇和島藩伊達家の預かりとなる。雑司ヶ谷の御鷹部屋の吉田流は加賀前田家の借受けとなる。十三代諏訪流鷹師「小林鳩三」まで徳川将軍家に仕えた。
明治天皇は伊達家本邸にて諏訪流小林家の鷹狩を披露される。明治天皇の命により宮内省の皇室鷹匠として招聘され、放鷹術の保存として鷹狩を伝承する役目を担った。十四代諏訪流鷹師「小林宇太郎」から宮内省に仕え、浜離宮の新銭座鴨場復興、新宿御苑にて伝統的な鷹狩を復活させる。しかし、宇太郎には実子なく、宮内省に仕えていた弟子の十五代諏訪流鷹師「福田亮助」に受け継がれた。戦後の混乱した社会情勢の影響もあり、十六代諏訪流鷹師「花見薫」の時代を最期に公式の鷹狩は中止され、江戸の流れを受けた日本の鷹狩は終焉を迎えた。
17代諏訪流鷹師「田籠善次郎」は、世の中に日本の伝統的な鷹狩の文化的価値を認識してもらい、底辺を広げる事を目標として、昭和58年(1983)に「日本放鷹協会」が創設された。この活動は民間鷹狩の黎明期を支え、鷹匠による放鷹実演や諏訪流放鷹術の技術研鑽など、後世への貴重な鷹狩文化の伝統継承となり得るであろう。さらに、平成18年(2006)12月、17代田籠宗家は師弟制度による積極的な指導と訓練によって優れた諏訪流門下生を育成する為に「諏訪流放鷹術保存会」を発足した。平成27年(2015)18代諏訪流鷹師「大塚紀子」(写真中央)が宗家となり、門下生の指導を行っている。

諏訪神社の「諏訪の勘文」
仏教伝来による戒律の中で殺生を容認しない考え方が流布すると、肉食の鷹を養育するために生餌の動物を殺生する鷹匠が、責められ事もあった。それら餌動物が食べる昆虫や植物から肉や魚に至るまで、全ての命は鷹と人間に繋がっていると鷹匠は日々身近に感じている。何故なら、猛禽類は食物連鎖の頂点にいて、他の動物の命を奪って生命を維持する宿命から逃れることは出来ないからである。その命を頂く自然界の生態系の掟であり役割であり、人間も鷹も地上の肉食獣と同様に命を頂いて生きているのである。
この自然界の節理の感情から、諏訪流鷹匠たちは諏訪神社の「諏訪の勘文」に救いを求めるのである。「業尽有情、雖放不生、故宿人身、同証仏果」、鳥獣や魚の業が尽きて人間に捕らえられたのなら、その死は他の命を支え維持する食物連鎖の宿命である。そして、人間と同化したその魂は人間が成仏する時に供に成仏するのである。生に感謝し、奪った命共々成仏しようと言う考えが、神仏融合の信仰から生まれたのであろう。(諏訪流放鷹術保存会)
「鷹狩」ユネスコ無形文化財登録
さて、鷹狩は「人類の遺産」また「生きた人類の伝統」として、平成22年(2010)11月16日にユネスコの無形文化財に登録された。これを契機にアラブ首長国連邦、フランス、イタリアなど11カ国の鷹狩登録が行なわれた。現在2021年までオーストリア、ドイツ、モンゴルなど合計24ケ国の登録が完了している。
現在、「NPO法人日本鷹匠協会(JFA)」は「世界鷹匠協会」の加盟団体である。しかし、日本は江戸時代末期に鷹匠制度が終焉を迎えたため、鷹狩に対する社会的認知度が極めて低い情況にある。ゆえにユネスコ申請への壁は厚く、高く、遠いのである。ところが、日本伝統の技と心によって独自に伝承されてきた高度な放鷹術を日本の鷹匠から直接学びたいとする「鷹狩ユネスコ登録国」との技術提携が結ばれ、放鷹術の輸出協力が既に始まっているのである。現在、日本には古来の放鷹術を連綿と継承する「諏訪流」と「吉田流」の二流派があり、鷹匠を目指して多くの門弟達が学んでいる。
世界の鷹や隼の猛禽活用
世界の空港周辺では鳥類が人工構造物に衝突する「バードストライク」が起きている。特に航空機と衝突する事例が多く、高速移動中の衝突は例え小鳥であっても非常に衝撃が強く重大事故に発展する可能性がある。航空機の鳥衝突「バードストライク」は、離着陸の動作中の速度が比較的遅く、高度が低い時に起きることが多い。この時間帯は特に危険な「クリティカル・インブンミニッツ」、すなわち、「離陸動作中3分」、「着陸動作中11分」を「魔の11分」と呼ばれている。これら防止のため、鷹が鳥を追い払うのに用いられている。
人形町鳥料理「玉ひで」
狩猟における鷹は、鶴や鴨に雉子や兎の捕獲、鷲は狸や狐の捕獲、隼は雁や鳩の捕獲などそれぞれ獲物により特性を活かした使い分けがなされている。鷹狩獲物の中で最も喜ばれたのは鶴であった。江戸時代に鶴を狩る鷹狩は「鶴御成」と呼ばれ、幕府は年度初めての鶴の獲物は朝廷へ献上する習慣であった。献上する鶴を捕らえると、御鷹匠は将軍の前で鶴の左腹を刀で割き、腹腸を出して塩を入れ、これを縫い合わせて京都まで東海道宿場道中を継飛脚の早継3日~4日で献上していた。

宝暦10年(1760)御鷹匠として幕府に仕えていた山田鐵右衛門と妻たまが興した「軍鶏料理専門店」が人形町の鳥料理「玉ひで」の歴史の始まりである。歴代将軍の前で鷹が捉えた鶴を捌く包丁作法を披露する格式高い秘伝の技を「御鷹匠仕事」という。朝廷時代から継承された血を見せることなく、肉に手を直接触れる事無く、鳥を捌き薄く切るという、代々踏襲してきた格式高い一子相伝の技である。山田家は御鷹匠の特殊技能をもって「軍鶏料理専門店」という新たな道を切り拓いた。一子相伝の技は今日まで脈々と250年山田家八代目まで受け継がれ、「玉ひで」の鳥料理の根幹をなしている。
by watkoi1952 | 2025-04-17 16:03 | 徳川将軍家と諸大名家 | Comments(0)

