籐堂家と染井吉野桜物語


籐堂家と染井吉野物語









家康から絶大な信頼を受けた籐堂高虎



元和2年(1616121日、徳川家康は駿府城から藤枝に将軍権威を誇示する鷹狩に出掛ける。家康は若い頃から鷹を身近に置いて大切に育て、鷹狩で山野を駆け巡ることを好み、健康維持のため晩年まで熱中し続けた。大御所になり20数回目の鷹狩で東海道藤枝宿に近い田中城の御殿に宿泊中に腹痛で倒れた。同年125日に大御所は駿府城に戻り、急報を受けた将軍秀忠も駿府に駆けつけ看病にあたる。同年214日、見舞いの為に駿府城に訪れた籐堂高虎と天海僧正は危篤の家康公の病床に呼ばれた。








家康は高虎に「死後もそなたに会いたいが、宗派が違うから難しいな」と言うと、籐堂家は代々日蓮宗であったが、隣室にいた天海僧正の元へ行き天台宗に宗旨替えを願い出たそして、家康は「三人一つ所に末永く魂鎮まる所を作って欲しい」と遺言したのである。家康は重篤の317日、念願の朝廷より史上四人目の「太上大臣」に昇進した。417日、75歳の長寿で波乱万丈の生涯を閉じた。上野寛永寺内にある東照宮金色殿の黄金扉の奥に徳川家康公、右に藤堂高虎、左に天海大僧正の三名の像が奉られている。






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         上野東照宮「金色殿」








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     籐堂家拝領下屋敷は、左上に上野東照宮、参道、

     上野五重塔、その右側の上野動物園一帯である。










東叡山寛永寺の創建



寛永2年(1625)家康の遺言と共に徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の東北鬼門にあたる上野台地の忍岡一帯に東叡山寛永寺を建立した。家康、秀忠、家光の三代にわたり深く信奉された慈眼太師/天海僧正によって本坊が建立され、東叡山寛永寺の創建日となった。籐堂高虎は上野東照宮から上野五重塔に現上野動物園の一帯にあった拝領下屋敷を寛永寺領地に返納した。高虎は天海僧正とともに寛永寺の建立に尽力して創建に至った。その後、305千坪に及ぶ広大な寺地の縄張と36子院の造成や伽藍建設に籐堂家一族と伊賀上野城の家臣で心血を注いでいた。






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         江戸東叡山寛永寺境内図










籐堂家の墓所「寒松院」



その最中、寛永7年(16301015日、伊勢津藩32万石城主の初代籐堂高虎は、神田和泉町の上屋敷で死去した。築城名人と称された籐堂高虎は、家康と同年75歳の長寿で壮絶な波乱に満ちた生涯を閉じた。身長は62寸(190cm)の大男で高虎の遺骸は、体中に玉疵や槍疵が全身にあり、左右の指の欠損などその姿は戦国武将の凄まじい勇猛果敢な勇姿を物語っている。







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籐堂高虎の下屋敷地に建てられた上野東照宮、その別当寺である籐堂家墓所「寒松院」は、東京国立博物館の隣接寺地に移転した。だが、高虎の眠る墓所は、上野動物園の旧正門を入って正面に石塀を巡らせた籐堂家1014基の宝印塔型墓石、灯籠12基が残されている。(非公開/台東区有形文化財)高虎墓碑の側面に「寒松院」、「従四位伊賀少将藤原高虎」と刻まれている。







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江戸幕府初期の武断政治と改易



家康に最も信頼された高虎は、大阪豊臣方との決戦に備えた包囲網を築くため、多くの築城の縄張り造営を手掛けた。さらに高石垣に濠割の技術を初め、望楼型天守の構造上の欠陥から層塔式天守を考案した。石垣上に多聞櫓を巡らす築城の巧みさから築城三名人の一人と称された。また、高虎は外様大名でありながら家康の側近として幕閣に匹敵する実力を発揮した勇猛な武将であった。江戸幕府の基盤を固める武断政治では、関ヶ原の戦い後に西軍についた大名88家の世情不安な統治時代が三代将軍家光まで続くことになる。







その間、高虎は徳川家の要衝である伊勢津城及び伊賀上野城の城主となる。小田原五代北条氏に仕えていた風魔忍者の江戸争乱への謀計調略や盗賊の諜報に対応した。その伊賀の忍び衆は、全国諸大名の動勢偵察による情報収集に尽力を注いだ。また、幕命により籐堂家は会津藩蒲生家、高松藩生駒家、熊本藩加藤家に家臣を配し、合わせて160万石を統治した。これら大名家は諸問題を抱え、高虎の存在でかろうじて家名を保ったが、彼の死後は悉く改易されている。武断政治で統治した三代将軍家光までに、関ヶ原戦後処理で外様大名「82家」、その後、親藩/譜代大名「49家」が改易されている。






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         伊勢津城と籐堂高虎騎馬像







改易とは大名の所領を没収することであり、減封や転封も準ずる処罰である。また「末期養子の禁」では、大名の養子は事前に幕府に届けて、許可を得る必要があった。死の直前の届け出は認められず、早く養子を決めて、そこに実子が生れると、世継の御家騒動に発展する。そこに城主が急死すると、寛永年間(16241643)の19年間だけで、改易「21大名家」に達した。また、同期間に発狂や領内一揆に御家騒動などで、「17大名家」が改易された。熊本城二代忠広の反幕の言動や内紛から籐堂家の家臣六十名を治安のため送致していたが、高虎の死後に改易となった。







幕府は改易や転封された空白地を直轄地である天領にして、親藩と譜代大名を新たに配置した。さらに外様大名は遠隔地に転封させるなど、幕府権力の絶対優位を確立した。そして、江戸幕府の参勤交代制度の導入による江戸大名屋敷の拡充や蔵屋敷や町屋敷の造成に籐堂家の築城技術を活かした土木や建築を手掛けた。初期の大名屋敷は日光東照宮の影響もあり華美な建築となった。このように時代の要請により藤堂家の家臣の仕事が伊賀者から土木工事や大名屋敷の庭園作庭の植木職人へと職務内容が変遷していった。








伊勢津城主藤堂家の染井下屋敷



高虎の死後、藤堂家二代目髙次は、7年間に及び上野寛永寺の忍岡の下屋敷に滞留して、寛永寺造営の僧坊建築や造成に植樹などに尽力していた。江戸最大の火事「明暦の大火」、翌年の万治元年(1658)藤堂家の上野下屋敷を寛永寺用地に返上、その代替地として幕府から染井下屋敷を拝領した。藤堂家は伊勢津城32万石を所領する外様大名で江戸城の縄張りをした藤堂髙虎を藩祖とする。






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染井屋敷(豊島区駒込3~7丁目)は拝領「下屋敷30168坪」と「抱屋敷69531坪」に「借地12000坪」を合わせて「81699坪」を領有した。これは御三家の尾張家市谷上屋敷や水戸家小石川上屋敷に蹕的するため、自ら買い求めた抱屋敷や借地と合算した坪数としている。染井下屋敷の侍屋敷は伊賀上野城より2千人の伊賀出身者の植木職人集団の住居であった。







拝領染井下屋敷の南向き斜地は水利や植木や観葉植物の育成に適して選ばれた。江戸期には幕府の巣鴨御薬園と藤堂家下屋敷に跨がる広大な湧水を満たした「長池」長さ158m幅324mがあった。所謂、江戸切絵図に見える長池の水源から西ヶ原まで「谷戸川」、駒込の境界あたりで「境川」、北区に入り田端付近で「谷田川」、さらに下流の台東区根津から「藍染川」と呼ばれて、全長52kで不忍池に流入していた。不忍池の余水は三橋の架かる忍川から三味線堀より鳥越川の下流にて隅田川へ注いでいた。







大名の拝領上屋敷、中屋敷、下屋敷


江戸の都市改造の転機となった明暦の大火後に大名家には上屋敷、中屋敷、下屋敷が与えられた。火災や地震の避難地とした下屋敷に池や広場の機能を設けた。その広大な屋敷に大名庭園と呼ばれる独特の池泉廻遊式庭園、枯山水、茶庭などを競って大名家が作庭し、招待客にその出来映えを披露した。それら庭園の造園や維持管理する庭師の重要があり、藤堂家に所属する植木技能集団が対応した。







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染井の侍屋敷は、伊賀上野出身者2千人の造園植木の技能職人集団であった。観賞庭園は2万坪あり、広大な庭園見本市には、幅10間(18m)もの広い大通りを造り、稀少な動植物を集めた。この大通りは地元の人々にも庭園内を開放して観賞してもらった。広大な屋敷の園中に林泉亭館あり、風致の美木石、石造奇岩、布袋、文殊、夷大黒などの大小石像を配置した。また、園中いたる所で庭園木や観葉植物を買い求める来園者が東屋で茶と酒の接待を受ける。花時の季節には、門扉を開き一般人の来遊に任せ、茶や酒は縦横に振舞った。







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伊賀上野城と伊賀忍び衆


伊賀上野城は天正13年(1585)秀𠮷の家臣筒井定次が大阪城の支城として築城した。慶長13年(1608)伊予宇和島城より築城の名人の藤堂髙虎が入国した。高虎は伊勢津城を本城、伊賀上野城を支城と定めた。慶長16年(1611)大阪城、大和、紀伊を抑える為、家康の命を受けた髙虎は籠城に備えた実戦本位の伊賀上野城大改修を行なった。





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         伊賀上野城の髙石垣





西側に大阪城の高石垣と一、二を競う日本屈指の高石垣を築いた。根石より天端まで297mの高さを誇り、三方に折廻して延長368mに及ぶ「切込接ぎ」の石積技法で築いた。接(はぎ)とは接合の意で石を割り削り接合面を平に積み重ね隙間を無くして登れない石垣に仕上げる。高虎はこの三倍増の大改修に際して、伊賀忍者に命じて58ヶ国148城の要街図を盗写させ伊賀上野城改修の参考にしている。





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         伊賀上野城と染井吉野





高虎は慶長19年(1614)伊賀郷士10名を「忍び衆」として登用し、伊賀上野城下の忍町に拝領屋敷を与えて間諜活動に使っていた。実際に高虎が命じた役目は参勤交代の警固、御殿や城内の監視、武士、町人、百姓の観察であった。正保2年(1645)に「忍び衆」では聞こえが悪いため「伊賀者」と改めた。伊賀で多数が「無足人」いわゆる「足すことのない武士」として扱われた。つまり、藩内で名字帯刀は許されるが俸禄の無い郷土制度であり、通常は半農半士とした農民である。寛保元年(17411900人、天明3年(17831200人の無足人が記録されている。










藤堂家の歴史と無足人


藤堂高虎は外様大名ながら家康と秀忠の篤い信任を受けて、幕府の支配体制確立や各地の築城、家康を神と祀った日光東照宮の造営や、秀忠の娘和子を後水尾天皇に入内させる際にも一方ならぬ尽力した。最終的に伊勢津城「323950石」を幕末まで主所領とした。この津城の地域は古くは「安濃津」と呼び、安濃津藩ともいう。また、三代城主高久が家督を継承する際、弟の高通に5万石を分け与えて、久居(ひさい)藩藤堂家を設立させた。後に本家の嫡流が絶え、度々この久居支藩から養子が迎えられた。




津藩の特徴として、まず「無足人制度」がある。これは農村の有力者の中から選ばれたものに武具の所持を認め、特に身分の高い無足人は苗字と帯刀まで認められた。平時には農兵として治安維持をさせ、有事には戦力として活用する。本来の目的は土着の半農半兵的な農民を懐柔し、藩の勢力に取り込む目的であった。江戸時代を通じてこの形態は維持された。津藩の領内にある伊賀忍者は諜報と工作技能集団としての忍者の居住地である。高虎より籐堂家はこの地に住む人々を懐柔して家臣団に組み込み、大名家の庭園管理する植木職人と幕命による情報収集を兼務し治安維持などに活用したのである。











藤堂家の植木職人「伊藤伊兵衛」



大名屋敷の多くには大小様々な庭園があり、この染井の植木屋には藤堂家の植木職を代々務めた「伊藤伊兵衛」に縁のある珍しい樹木や草花を育てている。江戸では世界に先駆けて園芸が隆盛し、将軍から諸大名、武士、庶民に至るまで樹木や草花の鑑賞、花卉園芸の栽培が大流行した。伊藤伊兵衛は江戸で最も有名な植木屋であり、伊兵衛の名を代々世襲した。






元禄から享保期(16901720)に活躍した三代目伊藤伊兵衛三之丞、四代代目伊藤伊兵衛正武が特に有名で見識と技量に優れていた。江戸城にも出入りして将軍吉宗の御用植木師となり、城内の植木管理したツバキ、カエデ、ツツジなど山野に自生する植物を元に様々な新種を創出した。同時に数多くの園芸植物の図解入りで記載した多くの著書を出版した。





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         江戸の園芸と熱情





元禄5年(1692)三代目三之丞が世界初のツツジ図鑑「錦繍枕」を上梓した。この100年後にヨーロッパのシーボルトやフォーチュンなどが同図鑑を出版している。また、植物学者やプラントハンターらが来日し、日本の植物とその多様性をヨーロッパに伝えたことで、彼らは世界的な園芸の発展に貢献している。彼らの努力のかいもあって、江戸時代の後期には江戸を代表する「染井園芸センター」として知られる。英国の植物学者であるロバートフォーチュンは「私は世界のどこへ行ってもこんなに大規模に、売り物の植物を栽培しているのを見たことがない」と染井村のことを自身の著書に記している。







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染井通りに軒を並べる植木屋「伊籐家」



元々染井に住んでいた農民は、明暦の大火後に居を構えた藤堂家の広大な下屋敷に、大名庭園用の樹木や盆栽に花卉園芸の作業の為に出入りしていた。彼らはそこで不要になった観葉植物などを自宅の庭に植え栽培し植木屋になったと巷間伝えられている。しかし、まだ政情不安な当初は伊賀上野の出身者として表向きに顔出しできず、地元農民の植木屋と称して終始させた。この植木屋は全て籐堂家ゆかりの伊賀出身の武士で苗字帯刀を許され伊藤家を代々名乗る。江戸中の大名屋敷の庭園を管理と幕命による情報収集を兼務する植木屋である。近隣の実農民はその植木屋職人の元で下働きをしていた。






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籐堂家の家祖は天皇家に連なる四姓(源氏/平氏/藤原氏/橘氏)の「藤原氏」を源流とする武家の出自である。籐堂高虎の墓石には「従四位伊賀少将藤原高虎」と刻まれている。藤原氏から籐堂の苗字を名乗る。その籐堂家の家臣であり、染井通りの植木屋を代表する「伊藤伊兵衛」は、遠祖伊賀の藤原氏で「伊藤」の苗字に、伊勢の「伊兵衛」である。染井通りに軒を並べる植木屋の伊藤はすべて籐堂家ゆかりの者である。






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唯一の丹羽茂右衛門は籐堂高虎が養子に迎えた丹羽家の髙吉に始まる。天正7年(1579)織田信長の重臣丹羽長秀の近江沢山城で三男高吉は生れる。信長の死後、羽柴秀吉が戦力と所望する丹羽家と縁籍を結ぶため、高吉は弟の羽柴秀長の養子となる。秀長の家来であった髙虎に子供無く、秀𠮷の命で高虎の養子となり高吉と改名した。しかし、慶長6年(1601)高虎46歳に初めて実子の髙次が生れ、髙吉は二代目籐堂家髙次の家臣となる。寛永13年(1636)高次の命により、髙吉は伊賀名張に移湗され、「名張籐堂家」12代の初代当主となる。







丹羽家跡地の「門と蔵のある広場」



丹羽家は天明年間(1780)頃から明治後期まで伊藤家に次ぐ染井を代表する植木職人として、代々茂右衛門を襲名した。名張籐堂家8代籐堂長教の正室を津藩9代城主籐堂髙嶷の娘を迎えている。丹羽家は造り菊、石菖、蘭、躑躅を得意とし、籐堂家の遠祖一門で縁のある伊勢津藩や尾張藩の大名屋敷に出入りし厚い信頼を得ていた。






明治29年生まれの八代目茂右衛門の代で植木屋を辞めたが、地域の地主と知られていた。丹羽家の八代目茂右衛門が、昭和11年(1936)九代目の造った蔵を鉄筋コンクリートに造り替えた蔵が国の登録有形文化財建造物に登録された。豊島区は丹羽家の用地を取得し、門は椀木の梁で屋根を支える「椀鬼門」と呼ばれ、籐堂家下屋敷の裏門を移築している「門と蔵のある広場」を開場した。










上野寛永寺の花見桜


寛永2年(1625)江戸城の鬼門鎮護として上野寛永寺を創建した天海大僧正は京都に倣って、上野寛永寺の造営に取り組んできた。文禄3年(1594)太閤秀吉が南朝を忍んで吉野山の吉水神社を本陣に総勢5千人の武将を引き連れ、一目千本の花見の宴を5日間催した。また、慶長3年(1598315日山城醍醐寺の三宝院で太閤秀吉の醍醐花見の宴が1300人の女性を招待して華やかに催された。秀𠮷の花見は花を愛で散るのを惜しむ宴から賑やかに楽しむ饗宴の転換であった。秀𠮷は醍醐花見を最期に同年8月に永眠した。天海僧正はこれら華やかな吉野山の山桜を上野寛永寺に移植して、江戸の花見名所を再現したのである。



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天海大僧正はその境内を奈良吉野山の桜景色に見立て、山桜の苗木を吉野山から若木を取り寄せ植樹した。二十年も過ぎると境内には数種の花見桜が咲き誇っていた。寛永7年(1630)三代将軍家光は儒者林羅山に上野忍岡五千坪を与え家塾「弘文館」を建立した。その二年後に尾張藩初代義直は羅山の為に「先聖殿」を建てる。これが中国儒教を創始した孔子を祀る聖堂の起源である。




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この地は寛永寺の境内にあたり、5千坪の邸内に百余種の桜を植えて眺めて楽しみ、塾舎を「桜峯塾」と改めた。やがて、寛永寺境内は桜の名所となり、学塾に相応しくない行楽の地に変貌したのである。







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元禄3年(1690)五代将軍綱吉は儒学が文教の基幹たるべきと、さらに向学の実を挙げるため、聖堂を神田湯島の拝領地6千坪に湯島聖堂を建立した。淸水観音堂は、寛永8年(1631)天海僧正が京都の清水寺の観音堂に倣って、寛永寺境内の擂鉢山古墳上に建立した。



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元禄7年(16949月、湯島に移転した上野聖堂の跡地に淸水観音堂が移築され、不忍池が望めるようになった。この淸水観音堂が上野の山に現存する元禄創建年時の明確な最古の建造物である。




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四代将軍家綱(16511680)の頃から江戸の庶民が寛永寺で物見遊山として花見を楽しんでいた。だが、武士や庶民が桜の下で敷物を広げて幕を張り、飲めや唄踊りに酒宴で騒ぐようになる。そこは徳川家の菩提寺の神聖な境内で不謹慎であると、八代将軍吉宗の時に歌舞音曲の酒宴を禁止した。暮六つの鐘と共に山門は閉ざされ、花見の見物人は追い出され夜桜は禁止された。




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この後の様子を戸田茂睡の書いた「紫の一本」に花見で大賑わいの上野の様子が記されている。「東叡山、黒門より仁王門の並木の桜の下には花見衆なし、東照宮のお宮の脇後松山の内淸水の後、幕はしらかして見る人多し。幕の多きとき三百余あり、少なきときは二百余あり、毛氈花むしろ敷きて酒飲むなり、小唄浄瑠璃、踊仕舞は誰も咎めることなし」この時も夜は閉門中であった。



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         上野開山堂「御車返しの桜」




吉宗は逼迫した幕府体制を立て直すために質素倹約を旨とする享保の改革を断行した。当然、歌舞伎芝居や遊郭などの取締まりは庶民の楽しみを奪う事になる。それに変わる健全な娯楽として、吉宗が取り入れたのが花見であった。吉宗は新たに常陸国の桜川の山桜名所から若木を取り寄せ、享保2年(1717)から江戸東郊の隅田川の墨堤へ山桜の植樹を行なった。墨堤では歌舞音曲が許され、柳橋も近く芸者衆連れの酒宴も賑わっていた。桜名所の墨堤では桜の葉で包んだ「長命寺桜餅」という名物が生まれた。







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染井吉野(ソメイヨシノ)の誕生


上野寛永寺の吉野山桜は横に広がらず、二十年を過ぎると25m以上の高木に成長する。山桜の下に花見の敷物を敷き、古木の上を眺めると木の葉の茂った上部に桜花が見えるようになる。奈良の吉野山であれば、山頂から三千本の山桜を一目千両と眺めれば絶景である。しかし、江戸の半ばから平地の花見に適した高さ枝振りや桜の散った後に葉の出る桜木が待望されていた。寛永寺専属の植木職人である籐堂家の染井屋敷を始め、染井通りの大名屋敷の周遊庭園を管理する植木屋も新種の桜数十種類の育成に試行錯誤を毎年繰り返していた。





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          「ソメイヨシノ」






そこに寛永寺境内の桜木を起源とした百年の悠久の時を経て、理想とする念願の新種「ソメイヨシノ」が誕生したのである。その特性は成長が早く樹高は10mから15mである。樹形は20年程で木の枝が横20mに傘状に広がる。母種の「エドヒガン」の特徴を受け継いで、花弁5枚の一重咲きで、新芽が出る前に花が密集して木を埋め尽くすように咲く。父親の「オオシマザクラ」の特徴を受け継いでいるため成長が早く若木から花を咲かせ、大木になることで花見にこの上ない最適な新種であった。







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「エドヒガン」








新種の「ソメイヨシノ」は「エドヒガン」と「オオシマザクラ」の雑種が交種してできた単一の桜樹を始原とする栽培品種である。同一の起源を持ち、さらに均一な遺伝情報を持つ核酸、細胞、個体の複製集団であることが、平成7年(1995)詳らかにされた。また、「ソメイヨシノ」を「クローン」と呼ぶのは、明治36年(1903)ハーバード・ウェッバーが栄養生殖によって増殖した個体集団を指す生物学用語として「クローン」という語を考案した。本来の意味は「挿し木」のことである。





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      「小金井公園のオオシマザクラ」





つまり、ソメイヨシノはエドヒガンとオオシマザクラの雑種が交雑して生れたサクラの中から、特徴ある特定の一本を選びぬいて接ぎ木で殖やしていったクローンの栽培品種である。そして、ソメイヨシノは野生と異なり、種子を植えて育てることは出来ない。そのため、オオシマザクラの根の台木にソメイヨシノを接ぎ木して、全ての苗木を殖やしているのである。






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    左の「ソメイヨシノ」右の「オオシマザクラ」












靖国神社と桜の歴史



明治3年(1870)招魂社の時代に木戸孝允が社参において最初に境内に染井吉野を植樹したと伝わる。同年、海軍の徽章が「錨と桜花」の組み合わせに制定される。「大和魂もつ日本に生れたならば、戦いでは桜のように潔く散れ」と「ソメイヨシノ」が軍事思想に利用されていく。陸軍は五芒星、近衛師団は五芒星を桜葉が包む「抱き桜」の徽章である。明治12年(187964日に靖国神社と改称する。明治新政府は新種の「ソメイヨシノ」と武士道との象徴的関連を強化する為に全国の城址に桜を植える計画が持ち上がった。







明治政府は廃城令を発布し、全国の城の管理は陸軍省に委ねられた。城郭の建造物は破却され、学校、公園、神社へ姿を変えていった。上物の無くなった石垣や土塁の崩落が相次いで報告された。崩落を防止するには根の張る木々を植樹すれば良い。そこで選ばれたのが見栄えの良い桜、陸軍省推薦の「ソメイヨシノ」であった。城の荒廃を嘆いた旧藩士による桜の植樹も多く見られた。







明治15年年(1882)の弘前城の植樹を始め、全国の城跡に桜が植えられた。長野県の高遠城址や新潟県の高田城址の花見の名所は、明治に植樹されたものである。陸軍省の国威発揚「武士道は、武士に限らず日本人全員の魂を体現するものとして大和魂へと変容し、その大和魂を象徴するものが桜である」と標榜し、明治政府の富国強兵政策が強力な統一国家を造り上げたのである。






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 弘前城の桜景色






靖国神社には東京の「ソメイヨシノ」の開花時期を知らせる三本の標本木が、気象庁から預託され植樹されている。この木の何れかに56輪以上の花が咲くと、気象庁より桜の東京の開花が発表される。境内にはソメイヨシノ、ヤマザクラを始めとする800本の桜が咲き誇り「九段の桜」として、毎年満開のサクラを楽しみに多くの人が訪れる。





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        靖国神社の夜桜薪能舞台




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天皇陛下主催の観菊会と観桜会


明治になると天皇が主宰する戸外の宴会として、明治13年(1880)に11月に赤坂離宮で「観菊会」が行われた、明治14年(18814月、桜の花見は「観桜会」という名のもとに天皇皇后両陛下に皇族の臨幸する行事として注目された。会場は旧江戸城の「吹上御所」で毎年4月に内外の賓客が招待されて花見を楽しまれた。



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     江戸城吹上お庭の花見風景(千代田之大奥)



これを嚆矢として、大正5年(1872)に「観桜会」は八重桜の咲く浜離宮に会場が移され、「観菊会」は赤坂離宮で行われた。大正6年(1917)より観桜会は「新宿御苑」で開催された。当時の苑内には野生種の桜、園芸品種の桜あわせて181560本の桜が植栽されていた。



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            八重桜の一葉




大正8年(1919)全国各地域に桜の特産品種を中心に注文を行った。翌、大正9年に新宿御苑内の圃場に1881140本の苗木が植栽された。新宿御苑は桜の本数と種類数も他に例のない、まさに日本における名花の御苑となった。特に八重桜の一葉(いちよう)()(げん)(ぞう)は観桜会の必見品種であった。昭和13年(1938)まで新宿御苑を会場として皇室主催の観桜会が行われていた。



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天皇皇后両陛下の主宰する園遊会


観桜会は日中戦争の中断を経て、戦後に皇室行事「園遊会」として復活した。昭和28年(1953115日より「秋の園遊会」に1500人が参加して、毎年秋のみ開催された。昭和40年(1965)より「春の園遊会」も開催されるようになる。これまでの観桜会は内閣総理大臣主催の「桜を見る会」、「観菊会」は環境大臣主催の「菊を見る会」に受け継がれている。




毎年2回「春の園遊会」と「秋の園遊会」は赤坂御苑で開催されるのが通例となった。園遊会は両陛下や皇族方が招待客と懇談することを目的に開催されている。招待客が楽しみしているのが、会場で振舞われる料理や飲み物である。名物のジンギスカン料理のラム肉や焼鳥に新鮮野菜などは、宮内庁の御料牧場(栃木県高根沢)で開催日に合わせて生産された皇室向け食材が振舞われる。春の園遊会で振舞われるお酒が「桜正宗」、秋の園遊会で振舞われるお酒が「菊正宗」である。



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これを嚆矢として、「観桜会」は八重桜の咲く浜離宮、新宿御苑、「観菊会」は赤坂離宮で行われた。戦時の中断を経て、戦後に「園遊会」として復活した。毎年、2回「春の園遊会」と「秋の園遊会」として、赤坂御苑で開催されるのが通例となった。春の園遊会で振舞われるお酒が「桜正宗」、秋の園遊会で振舞われるお酒が「菊正宗」である。









by watkoi1952 | 2025-03-31 12:26 | 徳川将軍家と諸大名家 | Comments(0)