藤堂高虎と植木職の染井吉野桜
藤堂髙虎と植木職の染井吉野桜
戦国武将/藤堂高虎
藤堂高虎は弘治2年(1556)近江国犬上郡藤堂村(現犬上郡甲良町)在土の土豪/藤堂虎髙の二男に生まれた戦国武将である。高虎は15歳で①近江小谷城主の浅井長政に足軽として仕えた。主君の浅井長政は織田信長の妹お市の方を正室とした義弟で、茶々、初、江、三姉妹の父親である。元亀元年(1570)織田徳川連合軍と対峙した「姉川の戦い」の初陣で高虎は武功を挙げるが、朝倉浅井連合軍は敗北、主君長政は戦死する。以後、②阿閉貞征、③磯野員昌、④織田信澄と主君を替えながら渡り歩く事になる。⑤豊臣秀長、⑥豊臣秀𠮷、⑦徳川家康、秀忠、家光の歴代主君に連綿と仕えた。江戸時代初期の封建的道徳では「武士は一生を一人の主君に仕えるべきである」と言う思想から高虎はあまり評価されなかった。
高虎は7回も主君を変え、「渡り奉公人」の代表格とされていた。その渡り奉公人とは自らの才覚に自信があり、大身を目指す自尊心も高く、主君との主従関係は対等に近いものであった。この戦乱時代は室町幕府の失墜により、守護大名に代わる群雄割拠の時代となった。南北朝から続く下層武士が国主や主家を政治的、軍事的に権力を奪取し、戦国大名として勢力を拡大した乱世であった。また、農民も領主に反抗して一揆を蜂起するなど下克上の社会風潮にあった。高虎はその混乱した京都や大阪に大量に滞留して、仕官の道を模索する戦国流浪人の一人であった。その戦国の乱世において、仕えるべき主君を見誤れば家族や家臣もろとも命を奪われてしまう。ゆえに人の上に立つに相応しい力量と器を持つ主君を探し求めることになる。
天正4年(1576)高虎21歳のとき⑤羽柴(豊臣)秀𠮷の弟秀長に仕え、生涯の重要な転機となった。秀長が天下を狙う兄秀𠮷の片腕となって、懸命に兄を引き立てる参謀の役割に心血を注いでいた。高虎はその姿に間近に接する内に、自らは天下人を狙わず、それに相応しい主君を補佐する生き様に目覚めたのである。天正11年(1583)「賤ケ岳の戦い」や天正13年(1585)の「雑賀/根來攻め」などで戦功を立て小大名の地位を確立する。天正13年紀州を平定した羽柴秀吉は弟秀長に和歌山城の築城を命じる。高虎は秀長に普請奉行に任命され、初めて本格的な築城に関わることになる。
髙虎は7回も主君を変え、「渡り奉公人」の代表格とされていた。その渡り奉公人とは自らの才覚に自信があり、大身を目指す自尊心も高く、主君との主従関係は対等に近いものであった。この戦乱時代は室町幕府の失墜により、守護大名に代わる群雄割拠の時代となった。南北朝から続く下層武士が国主や主家を政治的、軍事的に権力を奪取し、戦国大名として勢力を拡大した乱世であった。また、農民も領主に反抗して一揆を蜂起するなど下克上の社会風潮にあった。高虎はその混乱した京都や大阪に大量に滞留して、仕官の道を模索する戦国流浪人の一人であった。その戦国の乱世において、仕えるべき主君を見誤れば家族や家臣もろとも命を奪われてしまう。ゆえに人の上に立つに相応しい力量と器を持つ主君を探し求めることになる。
秀𠮷と家康と高虎
天正14年(1585)秀𠮷が関白に就任した祝事に謁見する家康の上洛が決定する。秀𠮷は家康に忠誠を誓わせるために接遇する屋敷を聚楽第の邸内に造るよう秀長に命じた。秀長はすでに和歌山城の見事な築城に実績ある藤堂高虎を普請奉行に任命する。高虎は渡された設計図に警備上の不備があると、独断で設計を変更した。家康に引見され、設計図との相違点を問われると、「天下の武将である家康様に御不慮があれば、主人である秀長の不行届、関白秀𠮷様の面目に関わると存じ、私の一存で変更致しました。御不興であれば、ご容赦なくお手討ち下さい」と返答した。家康は高虎の心遣いに感謝を述べその才覚を記憶に留めた。
慶長3年(1598)秀𠮷没後に幼い秀頼の豊臣政権に危惧を抱いた高虎は豊臣家臣団の分裂に際し、家康に仕えるという意思表示を明確に示した。高虎は豊臣秀𠮷に仕えるに及び秀𠮷の存命中は豊臣家臣と同様に才覚をもって忠義を尽くした。高虎は決して、「風見鶏」や「裏切り」で主君を替える武将ではなかった。高虎の考える天下人とは戦乱を終わらせ、民に平和と安定をもたらす主君であると確信を抱く。さらに高虎が補佐すべき主君が目指すべきものに、自らが共感出来るか否かであった。
家康が東北の上杉征伐のために兵を進軍すると高虎も進んで従軍した。高虎は「武士たる者、七度主君を変えねば武士とはいえぬ」と豪語していた。しかし、高虎の生き様は主君への忠義を否定する者でなく、主君が代わる毎に自らの実力や築城技術を高め貢献してきた人物である。慶長年間の全国築城の先駆となった高虎は、加藤清正、黒田官兵衛と並び三大築城名人で知られるようになる。高虎は豊臣恩顧の外様大名でありながら家康の側近として、豊臣家との交戦の守備固めの築城に専念する。だが、家康は高虎を幕閣に重用せず譜代別格の外様大名として処遇したのである。
何れにしろ、髙虎は徳川将軍家の存続のため、次の一戦に備えた築城を一任され、大阪城を取り巻く見事な周辺十四城の縄張りによる防御陣を完成させた。縄張りとは築城予定の敷地に文字通り縄を張って濠や石垣に御殿や天守などの位置を決める設計図である。いわば、豊臣政権下の派閥争いでもある関ヶ原の戦いで武功により伊予半国20万石を拝領した高虎は、慶長7年(1602)今治城の築城を始める。瀬戸内海に面した海岸に広大な船入堀を築き、城内の港として日本屈指の海城であった。この今治城が徳川家康の目に留まり、後の徳川家や江戸幕府に関連する城の縄張りを多く手掛けることになった。慶長14年(1609)高虎が伊勢国津城に移封となり、天守は丹波国亀山城に移築されたと伝わる。
天正年間は望楼型天守が主流であったが、構造上に無理があり不安定で風や地震に弱く、必ず屋根裏が出来るため使い勝手が悪かった。籐堂高虎の縄張りは、方形曲輪を並べて、その空間を活用した構造と、そこに堅固な高石垣上に長屋形式の多聞櫓と広い濠幅による防御と攻撃力が特徴である。高虎の築城した今治城天守は「層塔型天守」最初の城である。短形の天守台を造成し、最下層から規格化された部材を上層階へと階を重ねる毎に床面積を減じながら積み重ねていく構造の天守である。
江戸城天守も高虎の層塔型天守で築城し、全国天守建築の主流となった。加藤清正の熊本城は慶長6年(1601)から7年間かけて、中世の隈本城を取り込み現在の本丸一帯を改築した。築城目的は秀𠮷死後の権力闘争に伴う大規模な戦乱に備えて築城した。「望楼型天守」は難攻不落で石積は武者返しを備えた重厚長大で戦闘と長期籠城に絶える強固な城であった。その結果、江戸城から見た熊本城は薩摩藩島津家に対する第一防衛の堅固な城となった。
高虎の築城は城下町まで想定した「統治のための城」で外観は白色で平和の象徴であった。工期短縮ため規格化した高石垣に犬走りの技術を始め、舟入堀の石垣上には居住空間を広げる多聞櫓を巧みに巡らした今治の海城である。高虎は大阪冬の陣、夏の陣でも先鋒を努め戦功を挙げ、伊勢津藩32万石の大名に登り詰める。慶長16年(1611)春より、自らの伊賀上野城天守閣の完成間近まで作事奉行を務めた。その功績は幕閣に匹敵する異才の知将として認知された。しかし、高虎は特別な扱いを受けつつも、元々外様であることの分を弁え、増長の誹りを受けないよう慎重に身を処していた。
伊賀上野城の髙石垣、大阪城と日本一の高さを競う、
大阪城に軍配だが共に藤堂高虎の縄張りである。
江戸城の天下普請
慶長9年(1604)6月1日、江戸幕府は全国の諸大名に命じ、江戸城郭の石垣普請、道路普請、河川工事など天下普請の大号令を発令した。翌慶長10年(1605)家康は僅か2年で秀忠に征夷大将軍の座を譲り、将軍職は徳川家が世襲していく事を天下に知らしめた。家康は駿府城で大御所政治を始める。元和2年(1616)4月1日、家康は高虎の変わらぬ忠義心を受けてか、側近の堀直寄を呼ぶと、家康は「これから先、国に大事あらば、高虎を先鋒の一陣とせよ。井伊直孝を二陣、そしてお前は両陣の間に備えて横やりとなって敵を攻めるのだ」と遺言した。
江戸城の築城は家康と高虎共同の縄張りである。天守閣を本陣に西の濠に高石垣の防御と北と南の幾重もの馬出防御で本丸実戦に備えていた。征夷大将軍を2年で秀忠に譲り将軍職を徳川家世襲すると天下に示しても、豊臣秀吉の遺児秀頼は健在である。まかり間違えば、西国に配置した豊臣恩顧の15大名が秀頼を担ぎ兼ねず、改易による浪人も巷に溢れている。家康はその疑念を拭い去ることができなかった。その証が鉄壁な江戸始図の本丸に見て取れる。
江戸城の築城は家康と高虎の縄張りの元に、江戸幕府が諸大名に命じた天下普請によって工事が進められた。家康の慶長期は、江戸城に始まり、駿府城、名古屋城、膳所城、伏見城、亀山城、篠山城などの普請も重複して命じた。西国の外様大名には財政面で大きな負担となった。二代将軍秀忠による元和期の普請は、慶長期と異なり譜代大名にも命じたことが特徴である。本丸御殿や天守台の改築も完了した。外郭の枡形見附など諸門も完成し、江戸城は中世城郭から日本最大規模の近世城郭となった。
江戸幕府作事方の大棟梁の職にあった甲良家に伝来した江戸城造営に関する指図や記録類が保存されている。指図類は寛永度から万延度にいたる各造営年度に関して保存している。また記録類は、指図と関連を有するものや、江戸城造営全体に関わる本途帳等を伝え、具体的な造営規模や工程仕様を知ることができる。
藤堂高虎の築城術
築城の名人「藤堂高虎」の巧みな築城技術は、近江国近在の工芸職能集団との結束によるものである。天正4年(1576)織田信長の本格的な安土城の築城が始まった。豊臣秀𠮷は築城奉行を命じられ縄張りを担当した。高虎は豊臣秀長に従って安土城の築城工事に関わり、近江国坂本の穴太衆石積の石工技術を習得した。
石垣は比叡山延暦寺の山岳斜面地造営で実績のある穴太衆、作事は大和法隆寺大工の中井家、近江建仁寺大工の甲良家など一流技術が大きく貢献することになる。甲良家は現在の滋賀県犬上郡甲良町法養寺の出身で、建仁寺派とよばれた工匠の家柄であった。初代甲良宗広から11代棟隆の幕末まで江戸幕府に大棟梁として仕え、江戸城や日光東照宮など大建築物の造営に深く関与した。東照宮を華やかに仕上げたのが左甚五郎の彫刻と漆塗り極彩色の塗師である。尚、藤堂髙虎は甲良宗廣と組む造営が多いが、甲良家法養寺村隣の藤堂村の出身の知己である。
藤堂高虎の縄張りは、堅固な高石垣上に長屋形式の多聞櫓と広い濠幅による防御と攻撃力が特徴である。高虎の築城した今治城天守は高虎の築城した最初の「層塔型天守」である。最下層から上層階へと階を重ねる毎に床面積を減じながら積み重ねていく構造の天守である。江戸城天守も高虎の層塔型で築城し、全国天守建築の主流となった。
高虎の築いた伊勢津城の石積
「犬走り」は今治城の築城において、高虎は海城の欠点である軟弱な地盤を補強して、石垣の崩壊を防ぐため外側から補強する目的で考案した工法である。石垣に沿って濠の間に設けた細い補強の通路を「犬走り」と呼ぶ。反対に城壁や石垣の内側に設けた通路は「武者走り」と呼び、城攻めの敵の動きを見ながら、城中の兵が狭間の移動などの目的で使われた。
伊勢津城の周囲も沼地のため犬走りで地盤を強固にして高石垣の下部に築いている。尚、この高石垣から野面積みの石を打込み接(はぎ)、切込み接と石垣加工を進化させ強靱な髙石積工法を完成させた。
藤堂高虎の拝領屋敷と分家
藤堂髙虎が江戸幕府から最初に拝領した江戸上屋敷5、600坪は江戸城大手門前の辰の口にあった。家康の側近として配慮された重臣と同近距離の屋敷である。明暦3年(1657)の大火による江戸城大改造が行なわれた。北の丸の徳川綱吉の屋敷を辰の口の藤堂家上屋敷に移転した。藤堂家は文京区湯島1丁目に上屋敷を拝領移転した。明暦4年(1658)湯島の藤堂家は前年の類焼火災で神田向柳原町の中屋敷に移り、上屋敷1万4568坪に昇格した。湯島1丁目の上屋敷跡地は幕府昌平坂学問所及び馬場や鉄砲稽古場となった。津藩下屋敷で最大規模の染井下屋敷(豊島区駒込3~7丁目)に「拝領屋敷・抱屋敷・借地」を合わせて約8万坪を領有した。
伊勢津藩藤堂家の家督は養子高吉でなく後に生まれた長男高次が二代藤堂家を継承した。父高虎と戦陣で戦った高吉は、織田信長の重臣丹羽長秀の三男に生まれ、4歳で豊臣秀長の養子になり、10歳で高虎に後継男子なく養子に迎えていた。慶長6年(1601)高虎の長男髙次が生まれ、藤堂家2代となる。寛永13年(1636)二代髙次の命により高吉は伊勢国名張に分家「名張藤堂家」を興した。
寛文9年(1669)9月29日、伊勢津藩32万石余から五万国が分けられ、久居藩が立藩した。初代久居藩主の藤堂高通は藩祖高虎の孫にあたり、兄高久は同9月29日に伊勢津3代藩主となった。高虎直系の血脈が絶えると久居藩から12代の内、4代藩主を迎えて存続していた。久居藩の江戸上屋敷(7164坪)は、藤堂家の神田和泉町の道路1本隔てた北側、現在の凸版印刷の社屋辺りにあった。当時、大名に世継がなき時「改易」で領地没収、御家取り潰しとなり,大名が最も怖れたことである。
日光東照宮の創建と大造替
元和2年(1616)4月7日家康公は駿府城で75歳の生涯を閉じて、久能山へ神葬された。元和3年(1617)4月、家康の遺言により久能山より日光東照社の御祭神として移設された。2代将軍秀忠は父家康公を御祭神として日光東照宮が創建された。甲良宗廣は慶長元年(1596)の慶長大地震で荒廃した伏見城の改築を行い家康に拝謁、慶長9年(1604)江戸で御作事掛大工方を務め、寛永9年(1632)より作事方大棟梁となる。同年、芝増上寺台徳院造営の統領を務め上げる。家康21回忌にあたる寛永13年(1636)三代将軍家光の命により「日光東照宮大造替」工事の大棟梁に甲良宗廣が指名された。「寛永の大造替」の大棟梁となった甲良宗廣と作事奉行は藤堂高虎である。
東照宮の陽明門など55棟の総工費56万8千両、総延べ参加人数453万人、まさに徳川幕府の威信をかけた大工事であった。わずか1年5ヶ月で絢爛豪華な現在に見る日光東照宮として完成した。宗廣を筆頭にその子孫、甲良大工一門に彫師左甚五郎らが総力を挙げて参集した。世界に誇る近世日本建築を代表する豪華壮麗な日光東照宮は、寛永の大造替によって、甲良宗廣を大棟梁として造営完成したものである。改替前の旧日光東照宮の社殿は、この大造替時に群馬県太田市の世良田東照宮として移築された。
豊臣大阪城を徳川大阪城へ
元和元年(1615)大阪夏の陣で豊臣家が德川家康に敗北すると、大阪城は黒田勘兵衛の築城30年で徹底的に破壊されてしまう。その後、徳川幕府の直轄地になると、元和6年(1620)二代将軍秀忠により西国の抑えとして、藤堂高虎を総責任者/普請奉行とする天下普請「大阪城の再建工事」が行なわれた。西日本の外様大名55家と北陸外様大名9家を動員した。豊臣時代の大阪城は全て埋め立てられ痕跡を無くした。建築工事は桂離宮や二条城の建築や造園で知られる小堀遠州である。
再建は三期9年に及び、寛永6年(1629)三代家光の時政に完成した。濠はより深く、石垣はより高く本丸東面は32mに築き直された。再建天守は白亜の5層6階で豊臣時代の漆黒の5層天守より18m高く築き直された。しかし、築城から39年後、落雷によって天守は無残に焼失した。昭和6年(1931)11月7日三代目の大阪城天守が再建されるまで266年間、江戸城天守と同様に大阪城天守は再建されなかった。
現在の大阪城の濠と石垣は徳川幕府が築いた。濠の水量低下に伴い、大阪市水道局が工業用水を大量に注ぎ、塩素で石垣の汚れが白色となっている。
上野寛永寺の創建
元和2年(1616)駿府城に見舞いの為にいた藤堂高虎と天海僧正は、危篤の家康公の病床に呼ばれ、家康より三人一処に末永く魂鎮まる処を造って欲しいと遺言された。徳川家康、秀忠、家光の三代将軍が帰依している天台宗の南海坊天海が江戸城鬼門の方角を憂慮していた。元和8年(1622)天海の江戸城の鬼門封じを願い出ると、三代将軍家光は上野忍岡一帯を天海僧正の天台宗寺地に与えた。当時この地には伊勢津藩主/藤堂高虎、弘前藩主/津軽信枚、越後村山藩主/堀直寄の三大名の屋敷地は収公され寺地となった。
最澄が平安京の鬼門である北東の方角に比叡山延暦寺を創建したことに倣い、寛永2年(1625)江戸城北東の方角に江戸城と国家を鎮護する目的で寛永寺の本坊を創建した。三代将軍家光を開基、山号は東の比叡山「東叡山」、院号は「円噸院」、開山は「天海僧正」、本尊は「薬師如来」、寺名は創立年号の「寛永寺」である。藤堂家の上野下屋敷は現在の上野動物園から上野東照宮にかけた一帯にあった。高虎はこの下屋敷地を上野東照宮の庶民参拝参道のため、そして江戸城鬼門にあたる寛永寺造営のために献上したのである。天海は家康の第一側近の重責を担い東叡山寛永寺を創建し「天台宗大僧正」を拝命した。
寛永寺の天海僧正と吉野山桜
天海僧正は京都に倣って上野寛永寺の造営に取り組んできた。
文禄3年(1594)太閤秀吉が南朝を忍んで吉野山の吉水神社を本陣に総勢5千人の武将を引き連れ、一目千本の花見の宴を5日間催された。また、慶長3年(1598)3月15日山城醍醐寺の三宝院で太閤秀吉の醍醐花見の宴が1、300人の女性を招待して華やかに催された。秀𠮷の花見は花を愛で散るを惜しむ宴から賑やかに楽しむ宴の転換であった。秀𠮷は醍醐花見を最期に同年8月に永眠した。天海僧正はこれら華やかな吉野山の花見を上野寛永寺に移植して江戸の山桜名所を再現したのである。
寛永7年(1630)三代将軍家光は儒者林羅山に上野忍岡五千坪を与え家塾「弘文館」を建てた。その二年後に尾張初代義直は羅山の為に「先聖殿」を建てる。これが中国儒教を創始した孔子を祀る聖堂の起源である。この地は寛永寺の境内にあたり、5千坪の邸内に百余種の桜を植えて眺めて楽しみ、塾舎を「桜峯塾」と改めた。やがて、寛永寺境内は桜の名所となり、学塾に相応しくない行楽の地に変貌した。
淸水観音堂より不忍池を展望
元禄3年(1690)五代将軍綱吉は儒学が文教の基幹たるべきと、さらに向学の実を挙げるため、聖堂を神田湯島の拝領地6千坪に湯島聖堂を建立した。淸水観音堂は、寛永8年(1631)天海僧正が京都の清水寺の観音堂に倣って、寛永寺境内の擂鉢山古墳上に建立した。元禄7年(1694)9月、湯島に移転した上野聖堂の跡地に淸水観音堂が移築された。この淸水観音堂が上野の山に現存する元禄創建年時の明確な最古の建造物である。
上野東照宮・寒松院・五重塔の建立
元和8年(1622)天海の江戸城の鬼門封じで高虎の忍岡下屋敷を返納した。寛永2年(1625)江戸城北東の方角に江戸城と国家を鎮護する目的で寛永寺の本坊を創建した。寛永4年(1627)藤堂高虎は上野東照宮の別当寺として、寛永寺の子院の一つ「寒松院」を開基した。天台宗に改宗した高虎は天海大僧正より「寒風に立ち向かう松の木」意の寒松院の法名授かり、同名寺院の「寒松院」を創建したのである。
上野動物園内の藤堂家寒松院墓所 初代①高虎、
②髙次、高久、④髙睦、⑤髙敏、⑥高治、⑦髙豊、
⑧髙悠、⑨高嶷、⑩髙克までの歴代墓所である。
寛永4年(1627)家康に対する忠誠心の高い高虎は忍岡の自らの下屋敷内に上野東照宮を勧請した。江戸には既に浅草寺の北西境内に東照宮が造営され、家康公の月命日17日に江戸詰の大名諸侯が参詣に出向いていた。そんな折、浅草東照宮が火災で延焼失し、将軍家光は再建を許す事は無かった。そのため大名や旗本などの参拝が途絶え、江戸庶民の浅草寺となった。
上野東照宮「金色殿」
上野山が将軍家の寛永寺になると、三代将軍家光の命により、東照宮社殿を権現風に改築造営したのが、今日非公開の上野東照宮「金色殿」である。高虎は天海僧正と共に寛永寺の広大な寺地の縄張りを計画していた。その間、寛永7年(1630)藤堂高虎は神田和泉町の江戸上屋敷で死去した。享年74歳であった。墓所は上野公園内の寒松院に眠る。寛永8年(1631)土井利勝より、上野東照宮の一部として五重塔が建立され寄進された。
上野動物園内の寒松院墓所 藤堂高虎宝塔
伊勢津藩/藤堂家の染井下屋敷
明暦の大火翌年の万治元年(1658)藤堂家の上野下屋敷を寛永寺用地に返上、その代替地として幕府から染井下屋敷を拝領した。初代高虎の没後も遺言により藤堂家二代髙次は7年間上野寛永寺の忍岡の侍屋敷に滞留して寛永寺造営の整地や植樹など造園業に尽力していた。藤堂家は伊勢津城32万石を所領する外様大名で江戸城の縄張りした藤堂髙虎を藩祖とする。高虎は多くの築城、三代将軍家光まで忍者偵察、仏閣の造営、大名上屋敷の建築、大名下屋敷の造園などと、時代の要請により藤堂家の家臣の仕事内容が変わっていった。染井屋敷(豊島区駒込3~7丁目)は拝領下屋敷と抱屋敷6万8千坪に借地1万2千坪を合わせて約8万坪を領有した。拝領下屋敷の侍屋敷には伊賀上野より2千人の伊賀忍者改め造園植木技能職人集団の住居であった。
拝領下屋敷の南向き斜地は水利や植木や観葉植物の育成に適して選ばれた。江戸期には巣鴨御薬園と藤堂家下屋敷に跨がる広大な湧水を満たした「長池」長さ158m幅32、4mがあった。いわゆる、切絵図に見える長池の水源から西ヶ原まで「谷戸川」、駒込の境界あたりで「境川、、北区に入り田端付近で「谷田川」、さらに下流の台東区根津から「藍染川」、と呼ばれて全長5、2kで不忍池に流入していた。
江戸の都市改造の転機となった明暦の大火後に大名家には上屋敷、中屋敷、下屋敷が与えられた。火災や地震の避難地とし、下屋敷に池や広場の機能を設けた。その広大な屋敷に大名庭園と呼ばれる独特の池泉廻遊式庭園、枯山水、茶庭などを競って千の大名家が作庭した記録がある。それら庭園の造園家や整備する作庭師の重要があり、植木職人では藤堂家に所属する二千名の植木技能集団がいた。
拝領染井下の侍屋敷は、伊賀上野より2千人の伊賀忍者改め造園植木の技能職人集団であった。観賞庭園部は2万坪あり、広大な庭園見本市には、幅10間(18m)もの広い大通りを造り、稀少な動植物を集めた。この大通りは地元の人々にも庭園内を開放して観賞してもらった。広大な屋敷の園中に林泉亭館あり、風致の美木石、石造奇岩、布袋、文殊、奪衣婆、不動地蔵、役小角、夷大黒、鐵拐千人などの大小石像を配置した。また、園中いたる所で庭園木や観葉植物を買い求める来園者が東屋で茶と酒の接待を受ける。花時の季節には、門扉を開き一般人の来遊に任せ、茶や酒は縦横に振舞った。
伊賀上野城と伊賀忍者
伊賀上野城は天正13年(1585)秀𠮷の家臣筒井定次が大阪城の支城として築城した。慶長13年(1608)伊予宇和島城より築城の名手藤堂髙虎が入国した。高虎は伊勢津城を本城、伊賀上野城を支城と定めた。慶長16年(1611)大阪城、大和、紀伊を抑える為、家康の命を受けた髙虎は籠城に備えた実戦本位の伊賀上野城大改修を行なった。西側に大阪城の高石垣と一、二を競う日本屈指の高石垣を築いた。根石より天端まで29、7mの高さを誇り、三方に折廻して延長368mに及ぶ「切込接ぎ」の石積技法で築いた。接(はぎ)とは接合の意で石を割り削り接合面を平に積み重ね隙間を無くして登れない石垣に仕上げる。高虎はこの三倍増の大改修に際して、伊賀忍者に命じて58ヶ国148城の要街図を盗写させ伊賀上野城改修の参考にしたと伝わる。
高虎は慶長19年(1614)伊賀郷士10名を「忍び衆」として登用し、上野城下の忍町に拝領屋敷を与えて間諜活動に使っていた。実際に高虎が命じた役目は参勤交代の警固、御殿や城内の監視、武士、町人、百姓の観察であった。正保2年(1645)に「忍び衆」では聞こえが悪いため「伊賀者」と改めた。伊賀で多数が「無足人」いわゆる「足すことのない武士」として扱われた。つまり、藩内で名字帯刀は許されるが俸禄の無い郷土制度であり、通常は半農半士とした農民である。寛保元年(1741)1900人、店名3年(1783)1200人の無足人が記録されている。
この項続く
by watkoi1952 | 2024-11-16 13:26 | 徳川将軍家と諸大名家 | Comments(0)