仏教寺院の名称と由来
仏教寺院の名称と由来
「寺院の山号/院号/寺号」
日本の全国七万七千寺に及ぶ十三宗五十六派のお寺の名称は、山号、院号、寺号で基本構成されている。山号は総括した姓、院号は地名、寺号は名にあたる。京都の浄土宗総本山の正式名称は「華頂山/知恩教院/大谷寺」であるが、通称「知恩院」と院号で呼んでいる。また、江戸で最古の「金龍山/伝法院/浅草寺」は、通称「浅草寺」と寺号で呼んでいる。このように寺院や寺の正式名称は長いので呼びやすく省略する場合に院号(知恩院)や寺号(浅草寺)の歴史的な背景などで何れか特徴のある方を選択している。
これら寺の名前は品川宿の品川寺のように音読みが基本である。仏教伝来時の経典も呉音や漢音で読めるのが、当時の知識人である僧侶や漢方医であった。つまり、中国語における発音に由来する読み方が音読みである。一方、日本語において個々の中国漢字の意味に相当する大和言葉(和語)によって、解きほぐして翻訳した訓読みの和訓、いわゆる国訓が定着していった。

京都音羽山から湧出した三筋の懸樋「音羽の滝」
しかし、京都の音羽山清水寺の創建当初は北観音寺と呼ばれていた。ところが、寺には創建前から音羽の滝の名水が湧出しており、地元民は親しみを込めて霊水を「清水さん」と訓読みであった。その影響を受けた寺も清水寺と音読みに命名したが、どうしても寺の参詣者は清水さんへ行くと呼ぶ慣わしから清水寺の訓読みが定着していった。
このように京都の鞍馬寺、奈良の松尾寺、神奈川の大山寺なども地名の影響で訓読みとなっている。東京で最古の浅草寺の本尊は、地名から浅草観音であり、浅草寺を守護する三神を祀る浅草神社は訓読みであり、境内で音訓が混在して通用している。尚、寺は宗教儀式のできる施設であり、寺院は宗教儀式と修行僧など他の僧侶たちが宿泊できる僧坊を備えた施設である。
「山号」
仏陀在世中の霊鷲山のように印度や中国では、山中に精舎や寺院を設ける伝統があった。山中に建てた寺院の所在を示す山名を付して、「比叡山延暦寺」と山名と寺名を連称して呼んでいた。また、高野山金剛峰寺を省略して「高野山」と呼び、金剛山金乗院平間寺は参拝対象名「川崎大師」を通称名としている。
わが国の仏教伝来時の寺院は、権力者のための建造物であり、都の街中に建てられたため山号は称しなかった。しかし、鎌倉時代に禅宗が広まって寺院は仏道修行の道場であり、俗世とは離れた山岳地に建てられ、日本古来の山岳信仰と結びついた。
山中の修行により寺院名の前にその山名を冠して「山号」の創始となった。鎌倉時代に禅宗が中国の五山制度に倣い平地の寺院にも山号を冠するようになった。京都五山の瑞竜山南禅寺や鎌倉五山の巨福山建長寺など禅宗寺院を中心に山号を付与された。平地の同名寺院であれば地域名や仏教用語を形式的な山号と称して冠した。ゆえに、お寺の門は「山門」、宗派を統括する「総本山」と呼んでいる。
京都五山と鎌倉五山の格式


「院号/門跡」
院とは本来、唐代宮中の一院に垣を巡らし内道場とした修行の場であった。わが国では正倉院のように、寺院の広い境内の中に塀で囲まれた特定の範囲を院と称していた。これに準じて一山、一寺それぞれの建築物を指して「院」と呼んでいる。わが国の院号は、弘仁14年(823)嵯峨天皇が京都嵯峨に御所を移し、「嵯峨院」と称したことで「太上天皇」の異称としての院号が定着した。例えば、冷泉天皇が譲位後に太上天皇となり「冷泉院」と称している。
平安時代以降に皇族や貴族が僧籍に入り住職を務める際の呼称「門跡」や皇女の務める「尼門跡」などの特定の寺院名に対して院号が許された。門跡寺院は寺格が高く、皇室から特別の礼遇と特権を与えられ、住職は各宗派の管長と同待遇を受ける。京都に多い門跡寺院の塀には、三~五本の白い横方向の定規筋を引き、本数の多さで格式の高さ「寺格」を表わし、内外に対する優位性を確立している。中央権力と結び付きの強い、これら門跡を多く迎えた浄土宗の京都知恩院の門跡は「浄土門主」と呼んでいる。
仏教施設では、鎌倉時代まで天皇、皇族、摂家、将軍家の戒名として院号が用いられた。これらの院号宣下とは、上皇の称号、天皇の追号、女院の称号を授けることである。時代が下がると、将軍家、大名家の正室や側室などの俗名戒名に及ぶようになる。将軍家御台所の篤姫「天璋院」、皇女和宮「静寛院」などが知られる。現在では戒名に院号と位号(居士、大姉、信士、信女)を付するのが一般的である。
「寺号」
中国の寺号は外国からの来賓や使節を宿泊させる宿舎の名であった。後漢の明帝の時代に印度より、二法蘭の二師渡来に際し、一宇を増築して使節の宿舎とした。以来、仏師の居所を「寺」と呼ぶ仏教寺院の名称となった。寺号には、仏教用語の「本願寺」、僧侶や開山の名称「法然寺」、開創時代の元号「延暦寺」や「寛永寺」などがある。
因みに奈良時代の草書の万葉仮名を草仮名と呼んでいた。平安時代に漢字の草書体が簡略化され、文字体系の「かな文字」が独立して使われ始めた。平安貴族の女性は大和言葉を用いた仮名文字で多くの作品を残した。延期5年(905)の「古今和歌集」が「平仮名」の創始である。片仮名は9世紀初めに奈良の古宗派の学僧が漢文を和読するために、訓点として「万葉仮名」の字画を省略して付記したものに始まる。
「寺社と社寺」
寺社は日本における寺院と神社の総称である。寺社は江戸時代まで神仏習合の「仏主神従」の思想により、寺院の仏を主に神社の神も供に信仰の対象として変わりなく扱われていた。その寺社を統括するために寺社諸法度や寺社奉行が置かれていた。明治新政府の国家神道を目論んだ「神仏分離令」における神社優先に基づいて「社寺」あるいは「神社仏閣」と呼ばれるようになった。これら社寺両方の建築物を「神社」「仏閣」と読み解くことができる。
「本山/本寺/別院/末寺の称号
本山とは比叡山や高野山など密教系の宗派が山岳に寺院を開くようになり「本山」と称して、平地の都にある寺院は「本寺」と呼ばれた。宗派によって呼名は異なるが、「本山」、「本寺」、「中本寺」、「直末寺」、「孫末寺」の階層があり、上下関係が存在する。さらに重要な本山の頂点にあって宗派の法脈を継承、法務を統括する寺を「総本山」や本寺の頂点を「大本山」と呼んでいる。
例えば、天台宗の比叡山延暦寺は「総本山」であり、奈良の東大寺は華厳宗の「大本山」である。また、総本山や大本山に準ずる役割を持つ寺院は「別格本山」であり、本山と遠距離都市の拠点寺院は「別院」と命名される。さらに、本山の傘下に入る寺院を「末寺」と称している。
「本末制度」
本末制度とは、江戸幕府により全国の諸寺院を宗派ごとに本山に対して末寺を統括させる制度である。幕府は「寺院本山法度」を発布して、本山と本寺の権力を強化した。一宗一派寺の末寺を統率させた中央集権化を諮り、寺社奉行の支配強化が行なわれた。寛永10年(1633)幕府の命令で提出された全国の諸宗教(天台、淨土真宗を除く)本寺と末寺の「諸宗末寺帳」には、末寺1万2千寺の所在地、寺名、寺領石高が記載されている。
これまで都にあった大寺院(本寺)は所有地の税を免除されることがある。一方、地方の小寺院(末寺)は国司や豪族による税の取立が厳しく、国と関係の深い都の本寺に属して末寺を守ること考えた。末寺は所有地を本寺に寄進して、末寺の形式で土地管理人として寺を守り、そこに「本末関係」が生まれたのである。
しかし、本寺が末寺に対し強権になり、末寺からの収入を重視する経済的な関係が主となり、師弟関係の本末関係にも腐敗が蔓延していた。江戸幕府はこの本末関係による諸問題の諍いを利用して、「本末制度」を確立させて寺院の統括支配に及んだのである。
「寺請制度と檀家制度」
寺請制度とは、江戸幕府がキリスト教や不受布施派を排除する目的で定めた制度である。幕府はキリスト教ではないことを証明するために全ての人々に何れかの寺院の檀家となるよう強制した。その所属した寺院から「寺請証文」という身分証を受取る制度を定めたのである。そして、檀家は所属する菩提寺に「お布施」を収め、先祖代々にわたり葬儀や供養の一切を執り行うことが義務付けられていた。
一方、お布施によって経済的基盤を整えた寺院は、檀家となった住民の動向や戸籍の管理を請け負う義務が生じたのである。寺院では、現在の戸籍にあたる「宗門人別改帳」が作成された。そこには、出生、死亡、結婚、養子縁組、旅、住居移転には「寺請証文」が必要であった。但し、寺が檀徒としての責務を果たせないと判断、また逃亡不明の場合には、檀徒除名になり「宗門人別帳」から削除されて、「無宿人」や「非人」となり社会から除外された。
檀家制度とは、寺院が檀家の葬祭や供養を独占的に取り行なう条件に結ばれた「寺と檀家」の関係である。寛永8年(1631)の「新寺建立禁止令」などを通じて、江戸時代の宗教統制の一環で設けられた「寺請制度」が檀家の始まりである。寺請制度に端を発する檀家制度において、寺の権限は強く経済的な支援者の筈の檀家は、寺に人身支配された状態であった。
貞享4年(1687)の幕法において、寺院側は常時、参詣、年忌、命日法要などは檀家の義務と説き、さらに寺院の改築費用や本山上納金などの名目で檀家に金銭的負担を強いていた。現在の彼岸の墓参りやお盆の法事は檀家制度によって確立した。しかし、檀家を持たない寺院は「現世利益」を標榜して信徒と布施を集め、檀家を持つ寺院も「先祖崇拝」の側面を強めた。末寺は本寺への上納などの寺門経営に勤しむなど、本来の仏教信仰の教えは形骸化して、今日の葬式仏教の隘路に陥ったのである。
これら寺院の腐敗は、明治新政府の国家仏教から国家神道への切り替えで、寺院の破壊を伴った「廃仏毀釈運動」に繋がることになる。明治4年(1871)国民は在郷神社の氏子となることを義務付ける「氏子改」に寺請制度は受け継がれた。しかし、檀家制度は依然存在しているが、家人の葬儀や先祖の年忌法要の儀礼でしか寺と檀家は接点を持たない。所謂、葬式しか必要とされない「葬式仏教」として存在しているのである。
「開山と開基」
「開山と開基」は、人跡未踏の山を開き、仏道修行の寺院を建立した僧侶のことである。多くの場合に開山と開基は同義語であるが、禅宗や浄土宗では寺院創建で土地や資財を寄進した檀家を「開基」と呼び、その開創の僧侶を「開山」と呼び区別している。後には未踏の山に限らず、新しく寺を創建した僧侶も「開山」と呼んでいる。
開山には実際に寺を開いた「創建開山」と高徳な人物ゆえに請われてなった「勧請開山」がある。また、衰退した寺を復興した僧を「中興開山」、あるいは「準開山」という。さらに、開山のための追善供養の法要を「開山忌」、開山の像や位牌を祀る建物を「開山堂」、「祖師堂」、「御影堂」などと呼んでいる。
「閣/堂/坊/庫裏/庵」
「閣」は仏像や蔵書を納める建物で、二階建て四周に扉を設けて四方を見渡せる構造を主としている。本願寺の飛雲閣、北山鹿苑寺の舎利殿などがある。「堂」は寺院の境内に建てられている建造物である。法堂、講堂、金堂、御影堂、阿弥陀堂などがあり、ご本尊が安置されている堂もある。「坊」は寺に帰属する小さな宿坊などである。「庫裏」は仏教寺院の伽藍の一つで僧侶の住居である。また、庫裏を守る住職の奥さんを「お庫裏さん」と呼んでいる。
「庵」は「あん」や「いおり」と言い、俗人が住む集落から離れ、茅葺き屋根で夜露を凌ぎ、寝泊まりできる質素な建物の意である。出家した人や世俗を離れた生活を好む隠遁者の小さな住居である。俳聖芭蕉の住んだ「芭蕉庵」や良寛和尚の暮らした「五合庵」が著名である。また、蕎麦屋に庵が多いのは、江戸中頃に浅草の弥住院の境内に道光庵があり、この庵主は信州出身で蕎麦打ちの名手で檀家の人達に蕎麦を振る舞うと忽ち評判となる。江戸市中の蕎麦屋がこの評判にあやかり屋号に「庵」の文字を入れ繁盛したという。
「僧侶と住職」
僧侶は出家して仏門に入り、厳しい戒律を守り、日々修行を積み重ねている修行者である。仏門に入って仏教の教えを守る人はすべて僧侶といえる。この僧侶に対して親しみを込めて「お坊さん」と呼んでいる。僧侶は俗世への未練を断ち切る為に剃髪して欲望を捨て去った事を如実に現わしている。住職は自らの寺に住み、維持運営や管理をする僧侶の代表が住職である。つまり、僧侶の職業が住職であり、宗教法人のお寺であれば、住職は代表役員といえる。一寺一人の住職が基本で、住職に次ぐ立場の僧侶を「副住職」と呼んでいる。
「和尚」
和尚とは出家して受戒した僧が、日常親しく教えを受ける師匠を「和尚」と呼び慣わした敬称である。所謂、毎日の修行を積み、人々に教えを説く立場を認められた僧である。奈良時代の天平勝宝6年(754)に渡来して、律宗を開祖した鑑真和尚に「大和尚」の号が授与された。中世以降は高徳の僧を和尚といい、住職以上の僧の敬称となった。「戒和尚」とは、弟子に戒を授けて僧とし、これを教育して一人前の僧にする和尚の敬称である。
和尚の呼名は宗派によって読み書き方が異なる。(呉音:わじょう、漢音:かしょう、唐音:おしょう)がある。臨済宗や曹洞宗などの禅宗や浄土宗の僧侶を「和尚」と呼ぶ。天台宗や華厳宗では「和尚」、真言宗や法相宗では「和尚」と呼び、律宗の儀式指導者を「和上」と呼んでいる。「和尚」の言葉には戒律を授ける者の意がある。しかし、日本で一番門徒の多い淨土真宗には、戒律の考え方がなく和尚は存在しない事になる。「戒律」とは仏の戒めを自発的に守る「戒」と、その集団規則を守るための罰則を「律」という。
「不受布施派」
日蓮宗の一派が不受不施派である。文禄4年(1595)9月、太閤秀吉は京都嵐山の方広寺大仏殿を竣工した。この完成で秀𠮷は千僧供養を営むため、諸宗の僧と供に日蓮宗の僧も招請した。そのとき、京都の妙覚寺住職の日奥が「法華経の信者以外からは布施を受取らず、また、与えもしない」ことを主張して秀𠮷の要請を断った。日蓮宗の諸門派は、教義である法華経を信仰しない者を「謗法者」と呼んでいる。
この謗法者から施物供養を受けず、また謗法者には施さないことを信条としていた。家康の時代になると、日奥の主張は国主の権威を損なうとして、慶長5年(1600)日奥は対馬へ流罪となった。その後、家康の制定した「寺社諸法度」とも整合せず、徳川時代を通じて排他性のゆえに幕府からキリシタン同様の弾圧を受け続けた。明治9年(1876)4月に明治政府の認可を受け「日蓮宗不受不施派」を再興している。
「僧侶の肉食妻帯」
仏教界では一度女を見れば、三悪道に陥り、長い間三途の業に迷う。これを犯せば無間地獄に堕つという思想と戒律が支配していた。ところが、法然に師事した親鸞はこの思想と戒律を破って、建仁元年(1201)関白九条兼実の娘「玉日」と結婚、あるいは「恵信尼」を妻にして、子供を設け家庭を築いたことで「非僧非俗」を宣言している。
これは親鸞の宗派のみに認められた事で、他宗派や伝統的な世間は公然と認めた訳ではなかった。そこで「法衣着た狼女ばかり喰い」という悪習が仏教界に生じていた。明治5年(1872)に至ると、公然と僧侶の肉食妻帯が認められるようになって今日に至るのである。
「僧兵」
寛平6年(894)9月に朝鮮半島新羅の賊徒侵入に対して、対馬の嶋分寺の僧侶たちが武器を手に戦った記録がある。これが僧侶の軍事に関与した最初である。平安朝の中期以降は、律令制の崩壊によって治安が乱れ強盗の類いが横行していた。地方の豪族が自ら開発した土地を、国司郡司による賦課金徴収の追求から逃れるため、寺院に寄進する「寺領荘園」が増大していった。
寄進者は荘官や地主として、寺領荘園の農民から年貢を徴収、さらに寺領の治外法権化を進めた。大宝元年(701)大宝律令では僧侶や尼僧が兵書を読むのを禁じていた。しかし、僧院も公家も、武家や悪党の侵入から寺領荘園を自衛するしかなかった。そこで、僧徒に弓薙刀に刀槍の武芸を修練させ、軍団を組織して仏法の擁護に努めた。これが僧兵の起源である。
僧兵の勢力強大で知られた寺院は、興福寺(奈良法師)、東大寺、延暦寺(山法師)、園城寺(寺法師)の四大寺である。さらに、高野山、金峯山、熊野、多武峰、白山、彦山などの諸山があり、醍醐、鞍馬、根來、播磨大山、伯耆大山の諸寺などが連なる。これら寺院連合が共同戦線を持つとき、源氏や平氏を凌ぐ一大軍事勢力となっていった。平安後期には、武家の集団指導性の欠如を伴うにつれ、寺領荘民による強大な僧兵武力に発展した。

天台宗の開祖である最澄が開山した延暦寺には、山法師と呼ばれた数千人の僧兵を擁していた。だが、元亀2年(1571)織田信長に敵対した延暦寺は、比叡山焼き討ちで軍事力を喪失した。信長は元亀元年(1570)~天正8年(1580)までの11年間に渡り各地の一向宗と凄惨な戦いを繰り広げ、本願寺派の一向一揆を鎮めた。
その一向宗(淨土真宗)の本山が大阪の石山台地にあり、信長は戦国の世を平定するために石山台地の要衝地を抑え、大阪湾の制海権を得る必要があった。この石山合戦の本願寺跡地には現在、大阪城が聳えている。天下統一を果した豊臣秀吉は、根来寺焼き討ちや刀狩りで寺院の法師武者「僧兵」や神社の武装集団「神人」などの寺社勢力から兵器を没収したのである。
このように織豊政権の全国統一が進むにつれ僧兵は消滅していった。これまで寺院で武装した僧侶を僧衆や悪僧と言い、江戸時代以降に「僧兵」と呼んだ。徳川家康の江戸幕府では、巨大な勢力を持つ本願寺派を東西の二分裂の弱体化に成功した。さらに、寺社を幕府が寺請制度などで管理することで僧侶達の生活を安定させて武装させないように務めたのである。
明暦の大火後「寺院の江戸分布図」

by watkoi1952 | 2023-03-28 16:40 | 江戸学と四方山話 | Comments(0)

