徳川将軍家の歴代御台所



徳川将軍家の歴代御台所





初代征夷大将軍の徳川家康や二代将軍秀忠の戦国時代は、敵対する勢力同士の和睦や臣従、同盟関係の締結などで戦争を回避するための政略結婚が常態化していた。家康は一族や家臣の娘を養女にして有力外様大名に嫁がせ、姻戚関係を結んでいた。武将同士が婚姻で強い関係を結ぶことは、権力の配置図を浮き彫りにする義礼であり、一種の安全保障を意味していた。江戸幕府では大名同士の婚姻による結束が強まる事を怖れ、武家諸法度で大名同士の結婚に幕府の許可を得るように規制していた。





元和9年(1623)家光20歳は父秀忠と供に上洛し、伏見城で将軍宣下を受け、征夷大将軍・正二位・内大臣に任命される。3代将軍家光は、父祖家康と格式が異なる生まれ乍らの将軍であると、諸大名と一線を画する存在となった。幕府は三代将軍家光より、皇族の四親王家(伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院宮)及び、五摂家(近衛、鷹司、九条、二条、一条家)、さらに天皇家皇女を江戸城の将軍家の御台所に輿入れすることが慣例となった。徳川15代御台所の出身地は、駿河1名、尾張1名、近江1名、三代将軍家光より京都13名、薩摩2名の合計18名である。





これらは徳川将軍家の家格に朝廷の権威を加え、政権の正当性と将軍家の安泰を保つためであった。御台所とは平安朝の大臣職の正室が用いていたが、源頼朝の正室政子が称して以来、徳川将軍家の正室のみに許された呼称で、呼びかけは「御台様」である。御台所が老退して、現将軍の実母であれば大御台所となり、呼びかけは「大御台様」である。また、将軍就任前に嫁いだ正室は、御三家、御三卿の正室と同様に「御簾中」と呼ばれ、西ノ丸大奥に居住した。将軍宣下で御台所になると江戸城本丸の大奥御殿の北西にある「松御殿」や「新御殿」に居住した。








初代徳川家康 正室「築山殿」継室「朝日姫」



家康の将軍在位は、慶長8年(1603212日 ~ 慶長10年(1605416日までの2年間で正室は不在であった。家康の正室築山殿(西光院)の父親は、駿河今川家重臣の関口親永、母親は今川義元の妹とされている。弘治3年(1557115日、駿府今川家の人質の松平元信(家康)は築山殿と結婚する。永禄2年(1559)長男松平信康、翌年に亀姫が誕生する。家康と信長による清洲同盟が成立する。永禄10年(1567)家康の長男信康と信長の長女徳姫が9歳同士で結婚する。




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       家康の正室 築山殿





天正4年(1579)岡崎城で徳姫21歳には登久姫、翌年に熊姫が誕生する。だが、いつまでも信康の長男を産まないため、築山殿は心配して信康に元武田家の家臣の娘二人を側室に迎えさせた。天正7年(1579)徳姫は夫信康との不仲や築山殿が武田勝頼との内通があったなど12条の訴状を父親の信長に送った。これにより信長が家康に信康の処刑を命じた。築山殿は徳川家の将来を危惧した家康の家臣が独断で殺害して、首は安土城の信長の元に届けた。信康20歳は幽閉中の二俣城で自刃した。






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     家康の継室 朝日姫





秀𠮷は小牧・長久手の戦い後の和睦で、家康の次男秀康を養子としていた。さらに、秀𠮷は家康を妹婿として主従関係を深め、従属を深めるため、妹の朝日姫を強制的に夫と離縁させた。天正14年(1586)五月14日、浜松城で家康45歳は朝日姫44歳を継室に迎え入れた。朝日姫(南明院)は、豊臣秀吉の生母大政所(仲)の再婚した父親が竹阿弥と伝わる。つまり、朝日姫は秀𠮷の異父妹にあたる。朝日姫は家康が小田原征伐に出征準備中の天正18年(1590)正月に47歳で没した。







2代徳川秀忠  御台所「お江の方」



秀忠の将軍在位は、慶長10年(1605416日 ~元和9年(1623727日までの18年間である。正室のお江の方(崇源院)の父親は、近江小谷城主の浅井長政、母親は織田信長の妹お市の方である。いわゆる浅井三姉妹の一人で、長姉の淀殿(茶々)は豊臣秀吉の側室であり、次姉の初(常高院)は若狭小浜藩主の京極高次の正室である。天正12年(1584)お江の方の最初の婚姻相手は織田家の家臣佐治一成だが、裏切りの嫌疑で秀𠮷によって追放され、お江も離縁させられる。このようにお江は秀𠮷の養女で政略結婚の手駒であった。




お江の2度目の婚姻相手は秀𠮷の甥の豊臣秀勝である。文禄元年(1592)秀勝は朝鮮出兵中に戦病死した。秀勝との間に誕生した娘の羽柴完子(さだこ)は長姉茶々の猶子となる。お江の三度目の婚姻相手は二代将軍秀忠である。秀忠は天正18年(1590)に上洛し、織田信雄の長女で秀𠮷の養女となった小姫と縁組みしていたが、小姫の死去で婚礼に至らなかった。文禄4年(1595917日、お江の方は伏見城において徳川家康の世嗣である秀忠の正室に再々稼する。秀𠮷の狙いは、秀頼の後ろ盾として徳川家に期待をかける婚姻であった。




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    お江の方






慶長2年(1597)お江の方は長女千姫に始まり、珠姫、勝姫、初姫、家光、忠長、和子の25女を儲けた。寛永3年(1626915日お江の方は江戸城西ノ丸で死去、享年54歳であった。2代将軍秀忠の御台所に生まれた3代将軍家光の生母である。お江の方は第108代後水尾天皇25歳に入内した徳川和子14歳の生母で、第109代女帝の明正天皇の外祖母にあたる。二度目の豊臣秀勝との間に生まれた豊臣完子は、淀殿の尽力により摂関家九条家の九条幸家の正室となる。




豊臣家滅亡後、九条幸家の正室完子(お江の4女)は43女を儲けた。その2男の九条道房の血統を引く九条道孝の4女節子15歳が、明治33年(1900)に大正天皇の妃となった貞明皇后であり、昭和天皇の生母である。つまり、父親から浅井家の血筋を母親から織田家の血筋を引くお江の血統は、昭和天皇、明仁上皇、今上天皇の血脈に連なっているのである。







3代徳川家光  御台所「鷹司孝子」



家光の将軍在位は、元和9年(1623727日~ 慶安4年(1651420日までの28年間である。御台所の鷹司孝子(本理院)の父親は五摂家「鷹司家」の関白・鷹司信房、母親は佐々成政の娘輝子である。元和9年(16238月、家光が将軍宣下を受けるための上洛中に摂家鷹司家から鷹司孝子が江戸に下る。御台所お江の方の猶子となり12月に輿入れする。猶子とは相続の権利を有しない名前だけの養子である。寛永2年(1625)に正式に婚礼して御台所となり、「若御台」と呼ばれた。





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    鷹司孝子






しかし、家光との仲は結婚当初から険悪で、実質的な夫婦生活は皆無であった。程なくして、家光から事実上の離縁となり、大奥から追放され江戸城内の中ノ丸(三の丸)の新御殿に移る。さらに御台所の称号も剥奪され「中ノ丸様」と呼ばれ、長期にわたる軟禁生活を余儀なくされた。家光は祖父家康を敬愛しており、三代将軍の世継問題で異議のあった父秀忠お江の方の形式的な猶子になり輿入れした。家光はこの猶子となった孝子御台所を在世中に許すことはなかった。しかも、家光は孝子を終始忌み嫌い、冷遇し続けて当然子供は儲けていない。




家光には戦国武将のように男色の性癖があり、側近に仕えた小姓3名が寵愛を受けていた。これに困り果てたのが乳母の春日の局であり、家光好みの側室の設置に継嗣存続の執念を燃やした。そして、浅草寺の帰路に見初めたお楽の方に「4代家綱」、鷹司孝子付き侍女お夏の方に「甲府藩主・綱重」、公家お万の方の侍女お玉の方に「5代綱吉」、お振の方に「千代姫・尾張藩正室」などが側室に誕生した。





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春日の局は「将軍様御局」と呼ばれ、やがて大奥幹部の「御年寄」に定着して、将軍継嗣を管理監督する立場で老中を上回る強大な権力を手中に収めていた。家光の命により継嗣の家綱や綱吉と孝子との養子縁組も一切結ばせなかった。さらに歴代御台所の位階は、従二位または従一位であるのに対し、孝子は生涯にわたり無位無冠であった。




明和2年(176310代将軍家治の時代に従一位が送られたのは、没後89年後のことであった。孝子の墓所は歴代将軍・御台所の眠る墓所でなく、小石川伝通院に眠る。家光は父秀忠と同じ増上寺墓所に入ることを忌み嫌い、天海僧正の念願と自らの御霊屋となる天台宗寛永寺の開基となった。家光は自身の葬儀は寛永寺で行ない、遺骸は家康の廟のある日光へ、寛永寺墓所には家光の血筋を引く将軍の菩提寺にせよと遺言している。








4代徳川家綱  御台所「浅宮顕子」



家綱の将軍在位は、慶安4年(1651818日~延宝8年(168058日までの29年間である。御台所の浅宮顕子(高厳院)の父親は親王家筆頭「伏見宮家」の伏見宮貞清親王、母親は豊臣秀吉の養女(宇喜多秀家の娘)の三女である。2代将軍秀忠の五女和子(東福門院)の推挙により顕子女王は4代将軍家綱と婚約、明暦の大火を免れた江戸城西ノ丸で婚儀が執り行なわれた。




万治2年(16599月、本丸大奥に入り御台所を称した。京都よりお付き上臈として、姉小路局や飛鳥井局が付き従った。延宝4年(1676)に御台所は乳がんを発症して、家綱が奥医師の診察を助言した。だが、「御簾外の者に対面するのは、公家方の礼を乱すことになる」と言って触診を拒否した。苦しさを訴えることもなく、同年85日に37歳で薨去された。




家綱との間に子はなく、寛永寺に葬られる。延宝5年(1677)に従一位が追贈された。家綱には嗣子もなく病弱で危篤となり、秀忠・家光からの直系男子は断絶した。そこで家光の四男で館林藩主の松平綱吉を養子に迎え将軍嗣子とした。延宝8年(168058日家綱40歳は病弱で死去した。








5代徳川綱吉  御台所「鷹司信子」



綱吉の将軍在位は、延宝8年(1680823日~ 宝永6年(1709110日までの29年間である。御台所の鷹司信子(浄光院)の父親は、五摂家「鷹司家」の左大臣・鷹司教平、母親は鷹司家系の冷泉為満女の長女に生まれる。三代将軍家光の御台所の鷹司孝子は大叔母にあたる。寛文3年(166310月、上野国館林藩主の徳川綱𠮷と縁組みが調い、翌年9月に東福門院(後水尾天皇の和子皇后)の侍女が信子に付き添って下向、江戸上屋敷の神田御殿で婚礼を挙げた。




綱吉とは子宝に恵まれなかったが、側室お伝の方に鶴姫や夭折した徳松を儲けても変わらず、能鑑賞や祭礼見物など行動を供にする機会が多かった。延宝8年(1680)綱吉の征夷大将軍の就任により、江戸城大奥に入城する。貞享元年(1684)鶴姫が紀州藩主の徳川綱教への輿入れでは、鷹司家を通じて右衛門佐局(大奥女中)を鶴姫付きの上臈として随行させている。後年、右衛門佐局は江戸に戻り、綱吉付きの筆頭上臈御年寄として大奥を取り仕切った。





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     鷹司信子





元禄4年(1691)ドイツ人医師で博物学者のエンゲルベルト・ケンペルは表御殿で綱吉と御台所信子に対面した。ケペルは信子の様子を「小麦色の丸顔の美しい御方で、背は高くぱっちりとした黒目が印象に残った」と日本の見聞記に記している。宝永6年(1709)綱吉が没すると、落飾して浄光院と号したが間もなく綱吉の後を追うように59歳で逝去した。墓所は綱吉と同じ寛永寺に眠る。








6代徳川家宣  御台所「近衛熙子」



家宣の将軍在位は、宝永6年(170951日~正徳2年(1712年)1014日までの3年間である。御台所の近衛煕子(ひろこ)(天英院)の父親は五摂家筆頭「近衛家」の関白・太政大臣の近衛基煕、母親は後水尾天皇の第十五皇女の常子内親王である。延宝7年(167912月、甲府藩主の徳川綱豊(家宣)の江戸上屋敷「桜田御殿」にて婚礼の儀式を挙げ、熙子を正室に迎えた。父基煕にとってこの婚儀は不本意であったが、幕府の要請に断ることができず、近衛家一族の権中納言の養女となって嫁いだ。




しかし、この養子縁組は幕府を侮辱する行為であったが、互いに秘匿して熙子の扱いは近衛家の娘として嫁いだ。綱豊との仲も良く、長女豊姫、長男夢月院を儲けたが両名とも夭折する。宝永元年(170412月、綱豊を家宣と改め、将軍綱吉の嗣子として江戸城西ノ丸へ迎える。熙子は御簾中として西丸大奥へ入った。宝永6年(17091月に綱吉が病没すると家宣は第6代将軍に就任した。




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    近衛熙子





熙子は従三位に叙され、御台所として本丸大奥に移った。正徳2年(1712)家宣が病没すると、熙子は落飾して「天英院」と号し従一位を賜る。家宣の側室お喜世の方(月光院)の産んだ家継が7代将軍となるが、家宣の遺言により本丸大奥内で家継の嫡母として後見人となった。そして、大奥の首座は天英院、次席は将軍生母の月光院となった。天英院は家継への八十宮降嫁にあたり主導的な役割を果たした。




天英院は家継の早世後に8代将軍吉宗を迎えるにあたり、「これは先代将軍家宣公の御意思なのです」と強く働きかけた。また、吉宗に御台所が不在のため将軍家女性の筆頭として大奥に権勢を奮い、幕府に対する発言力も絶大であった。享保16年(1731)に二ノ丸御殿に移り、寛保元年(1741)天英院(熙子)は76歳で没した。同年従一位を追贈され、家宣と同じ芝増上寺に葬られた。









7代徳川家継 幻の御台所「八十宮吉子」



家継の将軍在位は、正徳3年(171342日~ 享保元年(1716430日までの3年間である。御台所の八十宮吉子(浄琳院)の父親は、「天皇家」第112代霊元天皇であり、その第13皇女「吉子内親王」に生まれる。生母は天皇後宮の右衛門佐局の松室敦子である。同母兄に有栖川織仁親王がいる。家宣亡き後、史上最年少の将軍家継に権威付けのために皇女の降嫁を進めていた。特に幼君を戴いて正徳の改革を推し進める側用人の間部詮房や新井白石ら幕政運営者の念願であった。




この降嫁には天英院に対抗する権威を朝廷に求めた月光院も御台所を皇室から迎えることに前向きであった。正徳5年(1715)吉子内親王15ヶ月は将軍家継7歳と婚約する。正徳6218日に納采の儀を行なったが、その僅か2ヶ月後に家継が薨去したため、天皇家より史上初の武家への皇女降嫁と関東下向には至らなかった。家継が7歳で死去のため、家光の生母お江の直系子孫は途絶えた。享保11年(172617ヶ月で後家となった八十宮吉子は親王宣下で吉子内親王となる。





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    八十宮吉子






享保17年(1726)父親の霊元法皇薨去後に出家して法号を「浄琳院宮」と号した。宝暦8年(1758)吉子内親王は45歳で薨去、墓所は京都知恩院である。正徳4年(17147代将軍家継の生母月光院に仕える大奥御年寄の絵島が名代として、前将軍家宣の芝増上寺に墓参に赴いた。その帰途に木挽町で歌舞伎役者の生島新五郎の芝居を観た。その後、生島を相手に遊興に及んだ事が発覚し、関係者1400人が処罰された綱紀粛正の絵島生島事件が大奥を騒がせていた。








8代徳川吉宗  正室「真宮理子」



吉宗の将軍在位は、享保元年(1716813日~ 延享2年(1745925日までの29年間である。正室の真宮(さなのみや)理子(さとこ)(寛徳院)の父親は伏見宮家の第13代伏見宮貞致親王の王女に生まれる。母親は関白近衛尚嗣の好君である。宝永3年(1706)理子女王は第5代紀州藩主の徳川吉宗との縁組みで江戸藩邸の赤坂御殿に入り婚礼が行なわれた。宝永7年(1710)正室の理子は懐妊して着帯したが死産となり、産後の肥立ちが悪く64日に薨去した。




墓所は紀州報恩寺と池上本門寺にある。以後、吉宗は二度と御簾中(正室)を迎えることはなかった。8代将軍に紀州吉宗を指名した天英院が御台所の役割を務めたように、江戸時代を通して、御台所不在の期間が100年近くあり、その実権を大奥老女や側室が握っていた。




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9代徳川家重  御簾中「比宮増子」



家重の将軍在位は、延享2年(1745112日~ 宝暦10年(1760513日までの15年間である。正室の比宮(なみのみや)増子(ますこ)明院)の父親は伏見宮家の14代当主伏見宮邦永親王の第四女王に生まれる。母親は霊元天皇の第五皇女の福子内親王である。紀州藩主時代の吉宗の正室理子は叔母にあたる。享保16年(173112月に家重21歳と増子女王17歳は結婚し、江戸城西ノ丸に入り御簾中様と呼ばれた。




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    比宮増子





増子は家重の虚弱で言語不明瞭の障害を承知で嫁いできており、初めから覚悟が違っていた。結婚後半年も経つと増子以外に言語を理解できる者はいなかった。これは家重にとって大変な収穫であった。だが、宮家から迎えた正室は健康に恵まれなかった。享保18年(1733)に懐妊するが早産死となり、増子23歳も産後の肥立ちが悪く御台所になる前に薨去した。従二位が追贈され上野寛永寺に葬られる。家重はその後正室を迎えることはなかった。延享2年(1745)父吉宗は隠居して大御所となり、家重は第9代将軍に就任した。








10代徳川家治  御台所「五十宮倫子」



家治の将軍在位は、宝暦10年(1760513日~天明6年(178698日までの26年間である。御台所の五十宮いそのみや倫子ともこ(心観院)の父親は世襲親王家「閑院宮」を創設した閑院宮直仁親王である。母親は閑院宮家の家女房讃岐である。寛延元年(1748)京都所司代と朝廷との交渉で将軍家重の世嗣家治と五十宮倫子の縁組みが決呈する。翌寛延2年に京都を発ち、江戸に到着すると江戸城浜御殿に入る。




宝暦4年(1754)江戸城西ノ丸に入り、婚礼の式を挙げ「御簾中様」と呼ばれる。宝暦6年に長女千代姫を産んだが2歳で夭折した。宝暦10年(1760)に家治が10代征夷大将軍に任命され、江戸城本丸の大奥に移り「御台様」となる。翌明暦11年に次女の万寿姫を生んだ。また、側室お知保の方の生んだ長男家基は男子のいない倫子の養子となって成長した。明和8年(17718月、倫子34歳は薨去し、江戸上野の春性院に葬られた。




天明3年(1783)従一位を追贈された。倫子女王の死後、婚約していた尾張藩世嗣の徳川治休への輿入れを待たず次女の万寿姫は13歳で死去した。安永8年(1779)倫子の育てた家基は、鷹狩で和蘭から輸入したペルシャ馬に騎乗中、落馬事故で重体となり、急遽立ち寄った品川の東海寺で手当をするが、3日後に16歳で急死したと独人博物学者シーボルトが記述している。11代将軍として期待され、徳川宗家の歴史の中で唯一「家」通字を授けられ乍らも将軍位に就任できず「幻の第11代将軍」と呼ばれている。嘆き悲しんだ家治は子を儲けることも無く血筋は断絶した。




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11代徳川家斉  御台所「近衛寔子」



家斉の将軍在位は、天明7年(1787415日~ 天保8年(183742日までの50年間である。御台所の島津寔子(ただこ)(広大院)の父親は薩摩藩8代藩主の島津重豪(しげひで)、母親は側室のお登勢の方で篤姫として生まれる。篤姫3歳の時に御三卿の一橋治済(はるなり)の長男豊千代(家斉)と婚約する。また、島津重豪の正室保姫は家斉の父治済の妹であり、治済は8代将軍吉宗の孫にあたる。篤姫は婚約に伴い茂姫と改めて、薩摩から江戸に向かい芝三田の薩摩藩上屋敷から江戸城内の一橋家に移る。




茂姫は「御縁女様」と呼ばれ、婚約者の豊千代と一緒に養育される。10代将軍家治の長男家基の急逝により、天明元年(1781)一橋豊千代が次期将軍に決まり、家治の養子となって西ノ丸に入り家斉と称した。天明6年(178610代将軍家治50歳が病死のため、翌年4月、家斉15歳は第11代将軍に就任した。将軍家の正室である御台所は宮家や五摂家の姫が慣例であり、前例のない外様大名の茂姫に幕府は難色を示していた。




しかし、近衛家は以前から島津家より正室を迎えていた縁から、茂姫は五摂家の25代近衛家当主の近衛(つね)(ひろ)の養女となり、近衛寔子と称した。寛政元年(17892月、家斉は近衛寔子を御台所として正式に結婚した。寛政8年(1796)御台所が家斉の五男敦之助を生む。御台所が男子を出生するのは2代将軍秀忠の御台所お江の方以来であった。




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     近衛寔子





しかし、この3年前に側室の産んだ敏次郎(家慶)が将軍世嗣と定まっていた。そこで、敦之助は御三卿の清水徳川家の当主となるが、3年後に夭折した。だが、家斉の側室が生んだ多くの子供は、すべて「御台所御養」として御台所の子とされ、寔子の権勢は揺るぎないものであった。天保8年(1837)家斉が引退して大御所となり西ノ丸に移ると、御台所は「大御台様」と称された。




天保12年(1841)家斉68歳が死去すると落飾して「広大院」と称し、翌年に従一位の宣下を受ける。生前に従一位に叙され御台所は天英院、今回2人目が広大院である。天保15年(1844)広大院71歳は本丸大奥の松の御殿で死去した。墓所は家斉の寛永寺でなく、広大院は芝増上寺である。広大院は徳川家康の次女督姫の血筋を引いている。







12代徳川家慶  御台所「楽宮喬子」



家慶の将軍在位は、天保8年(183742日~ 嘉永6年(1853622日までの16年間である。御台所は楽宮(さざのみや)喬子(たかこ)(浄観院)の父親は6代当主の有栖川宮織仁親王であり、母親は側室の高木敦子の第6王女に生まれる。享和3年(1803)に喬子女王は家慶と婚約が成立、幕府の要望により8歳から婚儀までの5年間を江戸城西ノ丸で過ごす。文化6年(1810)正式に家慶と婚姻、御簾中と称される。文化10年に長男竹千代、文化12年に次女儔姫、文化13年に三女最玄院を生むが何れも夭折した。




天保8年(1837)家慶は歴代最高齢45歳で第12代征夷大将軍に就任した。御簾中の喬子は本丸大奥に移り御台所となる。天保11年(18401月、喬子女王46歳で薨去する。上野寛永寺の徳川家墓所に葬られる。京都の一心寺に遺髪塔が建てられ、従一位が追贈された。家慶は1413女を儲けたが、多くは早世し20歳を超えて生存したのは13代将軍家定のみである。








13代徳川家定   御簾中「鷹司任子」


         御簾中「一条秀子」


         御台所「篤姫・近衛敬子」




家定の将軍在位は、嘉永6年(18531123日~ 安政5年(185876日までの5年間である。御簾中の鷹司(たかつかさ)任子(あつこ)(天親院)の父親は関白の鷹司政煕、母親は正室の蜂須賀儀子である。任子は父の兄鷹司政通の養女として輿入れした。文政11年(1828)家定の幼名家祥と納采し、西ノ丸に入り婚儀が行なわれ御簾中と呼ばれた。だが、嘉永元年(1848)疱瘡のため25歳で薨去する。芝増上寺に葬られ、従二位に追贈された。





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    鷹司任子






嘉永2年(1849)家祥は関白一条忠良、母親は細川冨子の十四女秀子(澄心院)を継室の御簾中に迎えたが、半年後に病没した。父親の一条忠良は明治天皇の皇后である昭憲皇太后の祖父にあたる。継室・御台所の藤原敬子(篤姫・天璋院)の父親は、島津今和泉家の島津忠剛、母親は島津久丙の娘お幸の長女に生まれる。母は薩摩藩9代藩主の島津斉宣の孫にあたる。篤姫は本家当主の島津斉彬の養女となり、源敬子と称した。




嘉永6年(18538月に薩摩から陸路で熊本を経由して江戸薩摩藩邸に入る。安政3年(1856)五摂家筆頭の近衛忠煕の養女になると藤原敬子と改称する。11月に第13代将軍家定の御台所となり、年寄の幾島を伴って大奥に入った。さて、大奥が島津家に縁組みを持ちかけたのは、家定の正室が次々と早死したため大奥の主が不在で、家定自身が虚弱で一人の子宝にも恵まれなかったことによる。




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      篤姫





島津家出身の健康体の御台所「広大院」を迎えた先々代の将軍家斉が長寿で子沢山にあやかろうとした。島津斉彬が養女にして「篤姫」と名付けたのも広大院の幼名篤姫にあやかったものである。安政5年(18587月、徳川家定の急死、島津斉彬までも死去している。篤姫の結婚生活は僅か19ヶ月であり、落飾して天璋院を名乗る。藤原朝臣敬子は十三位の叙位を受ける。




天璋院は維新後に薩摩に戻らず徳川の人間として振舞って、東京千駄ヶ谷の徳川宗家で暮らした。元大奥関係者の就職や縁談に奔走するが、勝海舟や和宮と度々会うなど生活を楽しんでいた。明治16年(188311月、天璋院47歳は徳川宗家邸で脳溢血にて死去した。葬列の沿道には1万人もの人々が集まり、上野寛永寺の家定の隣に葬られた。





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14代徳川家茂  御台所「和宮親子」



家茂の将軍在位は、安政5年(18581025日~ 慶応2年(1866720日までの8年間である。御台所の和宮(かずのみや)親子(ちかこ)内親王(静寛院)の父親は第120代仁孝天皇、母親は側室の橋本経子である。嘉永4年(18517月、異母兄の孝明天皇の命により、和宮5歳は有栖川宮織仁親王と婚約する。安政5年(1858627日、孝明天皇の勅許を得ずに日米修好通商条約を無断調印した幕府の批判が高まり、天皇を尊ぶ「尊王論」と外国勢力を追い払う「攘夷論」が結び付き、尊王攘夷論へ展開していった。




幕府の弱体化を朝廷との連携よって幕府を立て直す公武合体策により、孝明天皇は「攘夷を実行し、鎖国の体制に戻すならば和宮の降嫁を認める」という勅書に対し、幕府は「鎖国体制への復帰」を奉答したことで天皇は和宮の降嫁を決断した。天皇の直系である内親王の嫁ぎ先は本来、宮家や摂家に限られており、武家に降嫁した前例はない。しかも、家格を重視するため、相応しい嫁ぎ先がなければ独身で終わる内親王も多かった。和宮内親王は有栖川熾仁親王との婚約を解消された。




文久元年(18611020日、和宮一行は桂宮邸を出立した。東海道筋では川留めによる遅延や攘夷派の妨害阻止もあり、和宮の輿を4基造り3名の庄屋娘を載せた輿入行列は中山道から江戸に下向した。和宮の行列は50km総勢3万人、御輿の警護に12藩、沿道警備に29藩が動員された。1115日に江戸到着、江戸城北ノ丸の清水御殿に入った。しかし、和宮側は江戸の武家風でなく、大奥の暮らしを京都御所風にする要望の調整が難航していた。





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    和宮親子





文久2年(1862211日に本丸大奥に入り、和宮内親王は第14代将軍家茂と婚儀を行ない御台所となる。この婚儀はこれまでの13代将軍と異なり、和宮が征夷大将軍よりも高い身分の内親王の地位のため、嫁入りした和宮が主人、嫁を貰う家茂が客分の立場で行なわれた。また、和宮の御台所の呼称を「御台様」から「和宮様」と改めた。




文久3年(18632月、徳川将軍家の上洛は家光公以来229年ぶりの上洛であった。家茂は3千人を率いて江戸を出立して、二条城に入り、3月、孝明天皇と鎖国攘夷の実現を祈願するため加茂神社行幸に供奉した。4月の石清水八幡宮の行幸は風邪の高熱を理由に天皇から「攘夷の節刀」を受けるのを忌避している。将軍職は源氏の棟梁でもあり、源氏の氏神である八幡神に攘夷を誓える情勢ではなかった。和宮は芝増上寺の黒本尊の御礼を勧請して御百度詣で上洛の無事を祈願している。このように家茂と夫婦仲の良かった和宮は、上洛や長州征伐など出立の折に将軍の速やかな江戸帰還を祈願している。




慶応元年(18655月、家茂は大奥の対面所で和宮の見送りを受け、第2次長州征伐のため品川から海路大阪へ向かった。これが二人の今生の別れとなった。慶応2年(1866720日、第2次長州征伐の途上で家茂20歳は大阪城で脚気衝心のため薨去した。和宮は落飾し、号を静寛院宮と称した。家茂の遺言で継嗣は田安亀之助(家達)としていたが、和宮は幼い亀之助が成長した暁には、慶喜の跡を継がせれば良いとした。




兄の孝明天皇の崩御により、慶応3年(1867)甥にあたる明治天皇が即位した。明治4年(1868)鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争が勃発する。苦心の公武合体策は結局実らず、討幕運動は激しさを増し、戦いに敗れた慶喜は海陽丸で江戸に戻った。江戸城では体勢は主戦論だが、既に朝廷に恭順を固めていた慶喜は、天璋院の仲介で和宮に面会して取り成しを頼んだ。和宮は徳川家の家臣に向け、徳川家存続の内意を知らせ「今は恭順謹慎を貫くことが徳川家の忠節であると幕臣の説得にあたった。




朝廷は慶喜の助命と徳川家存続の処分を決定したことで、江戸城から和宮は清水邸へ、天璋院は一橋邸へ立ち退いた。明治2年(18691月、天璋院に面会して暇乞いした和宮とその一行は東海道を京都に入り、聖護院から参内して明治天皇対面する。和宮は翌年、念願であった仁孝天皇陵への参拝を果たし、京都に逗留した。明治7年(18747月、甥の明治天皇などの薦めもあり、東京に戻り麻布の元八戸藩主南部信順の屋敷に居住した。




そして、皇族、天璋院、徳川家達、徳川一門、勝海舟など幅広い交流を深めた。明治10年(18778月、和宮は脚気を患っており、元奥医師より転地療養の勧めで箱根塔ノ沢温泉へ向かった。しかし、程なく明治1092日和宮31歳は療養先の塔ノ沢還翠楼で大勢の待女に看取られ薨去した。墓所は和宮の遺言を尊重して家重と同じ芝増上寺に葬られた。




家茂が上洛の際に凱旋の土産に和宮が所望した西陣織は形見として届けられた。和宮は「空蝉の唐織ごろもなにかせむ 綾も錦も君ありてこそ」の和歌を添え、その西陣織を増上寺に奉納した。後に和宮の追善供養の袈裟に仕立てられ、「空蝉の袈裟」として今日まで伝わっている。







15代徳川慶喜  御台所「一条美賀子」



慶喜の将軍在位は、慶応2年(1866125日~ 慶応3年(1867129日までの僅か1年間である。御台所の一条美賀子(貞粛院)の父親は権中納言の今出川公久であり、左大臣の一条忠香の養女となる。慶喜は当初、一条忠香の娘千代君と婚約していたが、婚儀直前に疱瘡を患い、その代役が延君(美賀子の幼名)諱は省子である。安政2年(185511月結納、12月に結婚した。安政5年(18587月に省子は慶喜の間に女児を出産するが夭折した。




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一条美賀子

    




慶喜は将軍後見人となり、将軍家茂と供に上洛のため、省子と長い別居生活を余儀なくされる。慶応2年(1866)慶喜は15代将軍となるが入洛中であり、省子も御台所として江戸城大奥に入城することはなかった。慶応4年(18681月に慶喜は江戸に戻るが、既に将軍職を返上後のことであった。慶喜は上野寛永寺から徳川家駿府の菩提寺である宝台院で謹慎生活に入り、省子は対面することができなかった。明治維新後にも慶喜は静岡、省子は一橋屋敷の別居生活が続いた頃、省子から美賀子と改名した。




明治2年(18699月慶喜の謹慎が解除され、美賀子は静岡に向かい10年ぶり再会で供に暮らすようになった。但し、美賀子は病弱で二度と子供を授かることは無かった。慶喜はその後、新村信と中根幸という側室を儲けた。二人の側室に生まれた子供は美賀子を実母として全て育てられた。明治27年(18945月、美賀子は乳癌を発症し、治療のため東京千駄ヶ谷の徳川家達邸に移る。7月に手術を受けるが肺気腫を併発しても美賀子60歳は死去した。院号は貞粛院、東京谷中墓地に葬られた。








by watkoi1952 | 2023-02-13 14:22 | 江戸城を極める | Comments(0)