若き日の黒澤明と神楽坂



若き日の黒澤明と神楽坂






映画監督の黒澤明は、明治43年(1910323日、父黒澤勇と母シマの44女の末子に生れた。兄姉は茂代、昌康、忠康(夭折)、春代、種代、百代、丙午である。生誕地は京急立会川駅に近い父の勤務する荏原中学校の職員社宅の品川区東大井3264である。慶応元年(1864)生まれの父勇の先祖は、秋田久保田藩で代々神職であったが、戊辰戦争で官軍に参戦した功績で帯刀を許され士族となった。仙台鎮台(師団)の軍人であった勇は、明治18年(1885)陸軍戸山学校の第一期体育学生で、卒業後に武術体育の教官を務めた厳格な職業軍人であった。







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明治24年(1891811、西南戦争に従軍した日高藤吉郎が牛込区原町に成城学校(成城中学高等学校)を創立した。日高は富国強兵に占める体育の価値を重視した体位、体力の向上、その普及と実践のため日本体育会(日本体育大学)を創設し、黒澤勇は理事に就任した。日高は陸軍時代の上司であり、勇は東大井の日本体育会の役員で体操学校と荏原中学校の教官であった。同会は明治32年から国庫補助金、東京府の教員補助金で運営されていた。






大正4年(1915425日、明5歳は南高輪の裕福な家庭の子が通う私立南高輪幼稚園に入園した。同年928日に邸内に開校した私立南高輪小学校には、翌大正5年に入学した。この学校は、明治34年(1910)実業家森村市左衛門の邸内の庭を解放して創立した学校である。その母体は、明治9年(1876)森村市左衛門兄弟によって創建した日本を代表する陶磁器産業である。現在のノリタケ、TOTO、日本ガイシ、INAXNGKなどの森村グループである。この私費を投じた森村学校は、昭和53年(1978)横浜緑区に移転した森村学園の前身である。黒澤家の兄姉も入学し、明の姉百代は卒業後の大正11年(1922)に森村小学校の教師となる。








東京大正博覧会と日本体育会



大正3年(1914)に上野公園で開催された「大正博覧会」へ日本体育会も体育館(工事費3万円)を建設して出展した。しかし、期待した補助金を受けられず、想定外の不人気で体育館の観客動員は振るわなかった。体育館建設費や運営費などの諸経費は大赤字で不渡手形を乱発した。この不正経理の発覚で経営破綻となった。





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東京大正博覧会は、大正天皇即位を祝って開かれた
上野公園を第一会場に、不忍湖畔を第二会場にして、
大正3年(1914320日~731日まで開催された。







理事で会計責任者の黒澤勇が、その責任を負わされて常任理事を解任される。大正博覧会の名誉総裁である閑院宮載仁親王の称号は「元帥陸軍大将」である。その閑院宮家の式部官と華族と関係の深い丁酉銀行支配人が異例の警視庁刑事の取り調べを受けた。余程の問題と証拠がない限り有り得ないことである。これらは閑院宮家の財政上の赤字を出展館の国庫補助金を期待した建築諸経費に付加えたのではないかと噂されたが、個人流用はなく不起訴でうやむやとなった。






ところが、21年前の明治31年(18981月、体育の振興こそ富国強兵の基本であると、閑院宮載仁親王は「日本体育会総裁」に就任していたのである。今回の事件で、大正3年(1914)大正博覧会終了前の627日に同会の臨時総会が開かれた。日本体育会の財政健全化のため、総裁推載に関する条項が定款から削除され、閑院宮載仁親王は退任の止むなきに至った。





大正3年後に日本体育会が一新して存続したのは、近代国家に欠かせない国民体育を推進する体育指導者(卒業生)が体育界に大きな影響力を持っていたからである。以後、日本体育会体操学校、日本体育専門学校へと変遷して、昭和12年(1937)現在の日本体育大学(世田谷区深沢711)に発展している。








黒澤プロ第1号作品「悪い奴ほどよく眠る」



さて、幾霜月を経た昭和35年(1960)に黒澤プロ第1号作品「悪い奴ほどよく眠る」が封切られた。この原案が黒澤明をよく知る甥から、政治家や官僚の汚職に関わる連中を成敗する「悪い奴の栄華」という題名作品が提出されていた。大正3年に読売新聞に報道された皇族との会計疑惑で責任を負った黒澤監督の父親の話しではないかと巷間で囁かれていた。父親勇の処分は責任上に切腹して贖罪する「詰腹」にあたる。映画の脚本は土地開発公団の不正入札汚職で上司に濡れ衣を着せられ、公団ビルから飛び降り自殺に追いやられた父の復讐を果たそうとする男の姿を描いている。





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父親の復讐に取り憑かれた主役の息子役が三船敏郎である。三船の鬼気迫る演技に黒澤監督の怨念が憑依したかのような熱意を感じる作品である。この映画の「悪い奴ほどよく眠る」のタイトルは「本当に悪い奴は表に自分が浮かび上がる様なことはしない。人目の届かぬ所で、のうのうと枕を高くして寝ている」という趣旨である。黒澤は晩年に「是非作りたい題材があるが、作ると自分のみならず子にも累が及ぶのでできない」と語っていた。それは宮家と父親勇の冤罪を正面から扱った作品ではなかろうか。









黒田小学校と神田川



大正6年(1917)父勇52歳が日本体育会を辞職したため、職員社宅を退去して、一家は文京区西江戸川町9番地(現水道1丁目4)に転居した。明7歳は神田上水沿いの黒田尋常小学校(文京区小日向21615)に転校した。江戸川の桜名所で知られる大曲近くの家から毎朝江戸川沿いに兄丙午と一緒に黒田小学校に通った。明治39年(1906)の丙午ひのえうまに生まれた4歳上の兄が丙午へいごである。この一帯の住民には、承応年中(165255)に神田上水の白堀の定浚じょうざらえを命ぜられたため、小日向は上水道を管理する水道町と改称している。





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筑前福岡藩第12代/最期の藩主黒田長知は、上屋敷(外務省)を返上して赤坂本邸に住んでいた。明治11年(1878)に隠居した長知は、黒田家抱屋敷小日向二丁目の別邸に小学校を自費で建て東京府に寄贈した。東京府は黒田尋常小学校と命名し、黒田家の家紋である「藤の花」を校章に定めた。明少年は三年担任の立川精治先生に絵を褒められ絵を描くことに夢中になり、他の学科の成績も伸び始める。しかし、生徒の個性を伸ばす立川先生の斬新な教育方針が校長と正面衝突して辞任、後に進歩的な九段の暁星小学校に招かれて多くの才能を世に送り出している。






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黒田小学校東側と服部坂(小日向涯線の急坂)







井の頭池を水源に流下し、善福寺川と妙正寺川を合流して関口大洗堰までを神田上水、大洗堰から飯田橋までを江戸川と呼び、その下流の隅田川合流までを神田川と呼んでいた。昭和40年(19654月の河川法改正で、井の頭から隅田川に注ぐ全長255kmを「神田川」と改称した。関口の大洗堰で江戸川と分水した神田上水は、水道町12丁目を通り徳川水戸家上屋敷内を経由した。明治17年(1884)頃から江戸川沿いの住民が玉川上水の小金井のような桜名所にと、江戸川橋から龍慶橋までの両岸に桜の木を植えて江戸川は桜名所になった。





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江戸川の中ノ橋付近の花見風景である。夜には雪洞が灯

夜桜見物に粋筋が連れた神楽坂芸者が花を添えていた。







明治19年(1886)黒田小学校に入学した大先輩の作家永井荷風は近くの安藤坂上の金富町45番地に住んでいた。黒田小学校の跡地は、区立第五中学校から音羽中学校になり、現在は筑波大学の特別支援教育センターになっている。そして、神田川は洪水の被害が甚大で流域住民に恐怖を与え河川改修が急務とされた。桜の風情を楽しむのか、それとも洪水から身を守るのか、大正8年(1919)に竣工した護岸工事で両岸を高くして、コンクリートの壁を築き放水路にしてしまい、夜桜見物で賑わった桜名所の面影はなくなった。








神楽坂の映画館「文明館」



厳格な職業軍人であった父勇は、日本古来の武術は基より、欧米のスポーツの普及に努め、日本初のプール設置にも関わった先進的な体育教官であった。また、活動写真(無声映画)にも理解があり家族を連れて神楽坂の映画館に良く見に行った。明治45年(1912)神楽坂の通寺町(神楽坂六丁目)に時代劇を主とする常設映画館「文明館」が開館した。初期の映画は活動写真と呼ばれ、大正3年(1914)にデビューしたチャップリンの映画に代表される音の出ない映像のみの無声(サイレント)映画であった。





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明治45年に牛込通寺町に開設した活動写真館「文明館」

跡地に戦後建てられた武蔵野館(神楽坂6丁目)である。







この活動写真はブームと供に弊害も指摘され始めた。大正6年(19178月に活動写真取締規制が公布され、館内は男子席、女子席、夫婦席に分かれていた。同伴しても未婚男女の同席はかたく禁じられていた。同年2月、神楽河岸の神楽坂警察署に正力松太郎32歳が署長に就任した。映画館内の後部座席の一段高い所に臨検の神楽坂署の巡査が厳しく目を光らせていた。その頃、徳川無声や松井翠声などの弁士(映画説明者)が活躍していた。だが、映画の筋から外れたことや少しでも性的なセリフの言い廻しがあると、すかさず「弁士中止」の大声が館内に響き渡るのである。








京華中学校と読書



大正11年(1922)明12歳は黒田小学校を首席で卒業し、卒業式では総代として答辞を読んだ。そして、お茶の水の順天堂病院と道路を隔てた京華中学校(文京区本郷21)に進学した。明は勉学よりも日本文学やロシア文学に熱中した。この読書が後の黒澤明の人間形成に大きな影響を与えている。後に黒澤は中学時代に読みふけった読書について、世界中の優れた小説や戯曲を読むべきだ。それらがなぜ名作と呼ばれるのか、考えて見る必要がある。作品を読みながら沸き起こってくる感情はどこから来るのか。






その登場人物の描写やストーリー展開に、どうして作者は熱を入れて書かねばならなかったのか。こういったことを全て掴みきるまで読み込まなくてはならないという。当然、自分の人生経験だけでは足りないのだから、人類遺産の文学作品を読まないと人間は一人前にならないと記している。黒澤は読書を通して多様な価値観と出会い、作者の立場にになって世界を見る力を養えと訴えている。そこから異なる意見への寛容さが醸成される。それが人間にとって一番大切であると述べている。






大正12年(192391日の関東大震災で京華中学校は校舎を全焼失した。神楽坂界隈は外濠と神田川に囲まれた地域で地震後の火災延焼被害を免れたため、銀座の有名店が復興までの2年間仮店舗を設けていた。神楽町二丁目の東京物理学校(東京理科大学)は、当時夜学校で空いた昼間の校舎を借りて、京華中学生は一年間授業を受けた。同校は文京区白山に移転して、京華中学高等学校(旧制京華中学校)となる。この京華中学の卒業生には三名もの文化勲章の受章者がいる。日本画家の前田青邨、歌舞伎役者の尾上松綠、映画監督の黒澤明である。







神楽坂の洋画封切館「牛込館」



神楽坂通り最古の老舗相馬屋前から高台の牛込城跡にある光照寺に向かう地蔵坂がある。この急坂の里称藁店(わらだな)の中腹右側(袋町3番地)に江戸後期から都々逸など色物寄席「わら新」は賑わっていた。明治22年(1889和良店亭(わらだなてい)と改め、落語好きな夏目漱石がよく通っていた。その後、牛込高等演芸館に俳優養成所を併設していた。大正3年(1914)に木造二階建て定員五百十三人の洋画セカンド館「牛込館」がオープンした。当時、山の手の洋画封切館として有名になる。この牛込館に良く通ってくる中学生がいた。洋画を観ることに父親の積極的な理解もあり、映画鑑賞に打ち込んでいた若き日の黒澤明である。





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木造二階建て定員五百十三人の洋画セカンド館「牛込館」





黒澤明が晩年に上梓した「蝦蟇の油 自伝のようなもの」がある。中学生頃から昭和初期の神楽坂で過ごした貴重な体験を綴っており、それらが後の黒澤作品に大きく影響を及ぼしていると語っている。「子供の私も食事の作法では良く叱られた。そんな父だが前にも書いた通り、映画は良く見せてくれた。それも主に洋画であった。神楽坂に牛込館という洋画の常設館があって、そこで私は連続活劇やウィリアム・S・ハートの主演する映画をよく見た」と記している。






この時分見た日本映画は洋画に比べて、子供の私にも幼稚であまり熱を上げなかった。父は映画ばかりでなく、神楽坂の寄席によく連れて行ってくれた。覚えているのは、小さん、小勝、円右。円右は渋すぎたのだろう。子供の私にはあまり面白くなかった。と述懐している。当時の音声のでない活動写真は登場人物のセリフやナレーションを入れて、映画を楽しめるよう弁士が活躍していた。楽士は楽器の生演奏でさらに館内を盛り上げていた。





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「神楽坂演舞場」戦後には落語家の柳家金語楼の定席であった。








無声映画の弁士と楽士


無声映画(サイレント)は弁士や小楽団などの媒体が混合した形態の舞台芸術である。見どころ、聴かせどころは、語り手と舞台上のストーリーの間の緊張感に存在する。ゆえに、観客は出演俳優や監督よりも「誰が弁士を務めるか」によって観る映画を決めていた。活動弁士は一つ話芸となり、弁士はナレーターとしてスクリーンの横で物語を語り、役者として登場人物の声を演じたのである。






弁士達の名セリフには、「春や春、春南方のローマンス」、「花のパリかロンドンか、月が泣いたかホトトギス」、剣劇では「抜けば玉散る氷の刃」、危険に巻込まれる者へ「命あっての物種」、大辻司郎のドロボーが出てくる場面の名文句「胸に一物、手に荷物、落つる涙を小脇に抱え、勝手知ったる他人の家」、上映の終わりに「一巻の終わり」などのセリフは観客の拍手喝采を博していた。また、徳川無声の間の取り方は別格で話芸の神様と呼ばれていた。





活動写真や映画はキネマトグラフと呼び「キネマ」と略した。大正2年(1913)英国からキネマカラーが輸入され、天然色活動写真会社やキネマレコード社が生まれる。大正8年(1919)にはキネマ旬報が創刊、大正9年(1920)には松竹キネマ、続いて帝国キネマ、東亜キネマといった映画会社が設立される。活動写真は見世物から芸術への発展と供に、大正6年(1917)頃からは映画と呼ばれ始め、昭和10年(1935)頃に映画の呼称が定着していた。





大正8年(1919)兄丙午13歳は、陸軍士官学校の予備校であった牛込原町の成城中学校に進学した。大正14年(1925)同校を別財団に分離し、世田谷区に移り成城学園となる。父親の勧める軍人の道に馴染めず、文学青年であった丙午は、神楽坂で見た映画の世界に夢中になる。大正10年(1921)丙午15歳は黒澤謡村の名で雑誌「キネマ旬報」に映画評を投稿、映画館のパンフレットの原稿を書くまでになり、活動弁士を目指していた。









関東大震災と黒澤兄弟



大正12年(192391日正午2分前、南関東一帯の広域に大震災が発生した。この大震災は日本海沿岸を北上中の台風に向かう強風が関東地方に吹き込み、家屋の崩壊と昼食準備中の火で燃え広がった。黒澤丙午は弟の明を連れて、東京の焼野ケ原を徘徊した。隅田川を渡ると幕府の米蔵「本所御蔵」43千坪の跡地に軍服など作る陸軍被服廠跡があった。大正8年に(1919)に被服廠は赤羽へ移転して、大正11年(1922)に跡地は逓信省と東京市に跡地を払い下げていた。






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大正12年に横網公園の建設も始まったばかりの広大な空地に4万人もの家財道具を抱えた被災民が集結避難していた。一度避難した住民がここは安全と倒壊した自宅に戻り、持てる限りの家財を抱えて戻っていた。そこに火災旋風が発生して高熱の竜巻「火災旋風」が4万人を襲い38千人が焼死した。東京全体で6万人、大半の焼死者がこの一帯で亡くなる大惨事となった。黒澤丙午は弟明に折重なる死骸の惨状を目に焼き付けさせ、恐ろしさを克服することを教えた。






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黒澤明は大曲の自宅から陸軍砲兵工廠の煉瓦塀沿いを歩き、外濠通りに出て神田川沿いにお茶の水の京華中学に通学していた。左に水道橋駅と煙たなびく操業中の砲兵工廠、震災後に九州博多に移転する。







黒澤家に近接した小石川の陸軍砲兵工廠では、地下の武器弾薬庫の破裂音が33晩断続的に続いて壊滅的な被害を受けた。この大震災は近代日本において史上最大規模の広範囲の被害をもたらした。これまで江戸川の洪水で緩んだ地盤の黒澤家の建物も被害を受けた。この震災で人々は地盤の強固な山の手の高台へ移動し始めた。特に地盤の軟弱な銀座では郊外の世田谷、目黒、大田区方面に住宅を移し、再開した銀座商店街に通勤した。








神楽坂「牛込館」の専属弁士須田貞明



大正13年(1924)丙午18歳は成城中学を卒業する頃、近所に住む活動映画弁士の山野一郎を尋ね、弁士になりたいと熱く懇願、山野の勤める新宿武蔵野館で弁士見習いとなった。さらに、山野の紹介で赤坂溜池の葵館で弁士修行を重ねる。大正14年(1925)黒澤丙午19歳は、神楽坂の洋画封切館「牛込館」で須田貞明の芸名で初出演、2年間牛込館専属弁士を務める。弁士須田貞明は「甘く叙情的かつ劇的な語り」で観客を魅了する人気弁士となった。昭和元年(1926)神田シネマ・パレスにも出演して、翌年には同館の専属弁士となる。昭和4年(1929)に浅草と新宿の松竹座に移る。昭和5年(1930)須田貞明24歳は浅草の大勝館で主任弁士と活躍の場を広げる。






昭和2年(19273月、中学6年の明17歳は、京華中学校を卒業すると、画家を志して美術学校を受けるが不合格、川端絵画研究所へ通う。昭和3年(19289月の第15回「二科展」で油彩「静物」が入選した。10月には丸の内の「造形美術研究所へ通い始める。翌昭和4年に同研究所が豊島区長崎に移転する。4月に全日本無産者芸術連盟傘下の日本プロレタリア美術家連盟の造形美術研究所の会員となる。無産者新聞の左翼運動の末端活動に手を染めていたが、政治運動に活路を見出せず、連絡も途切れていた。






昭和5年(1930)黒澤明20歳は、神楽坂の津久戸小学校で兵役検査を受ける。甲種合格は現役兵、乙種は予備兵、丙種は兵役免除、丁種は事故病気で再検査となる。その時の徴兵司令官が陸軍戸山学校の体育教官であった父親の教え子で、明は虚弱児と配慮され兵役を免除された。徴兵司令官は「国に奉公する事は、軍人でなくとも出来る」と、明治生まれながら身長182cm体重75kgの頑強な若者は終戦まで徴兵されなかった。昭和5年頃はまだ平和な時代で、後に戦況が悪化した日本帝国軍は、満43歳まで徴兵年齢を延長して戦地に送り出していた。








トーキー映画の出現で無声映画の衰退



昭和6年(1932)に無声映画から映像と音声が同期化したトーキング・ピクチャーの略「トーキー映画」の時代の波が押し寄せ、洋画には字幕スーパーが公開された。当然、音声や軽音楽は必要なく弁士や楽士は転職を余儀なくされた。この失業弁士が考案したのが漫談であり、楽士は新規開店を宣伝するチンドン屋に転向する者が多かった。しかし、日本における無声映画は非常に楽しく、活動弁士が台詞と解説を加えていたため、全く問題なく完成された形態であった。唯、トーキーでは何かが優れてわけでなく、映画館側が弁士や楽士に賃金を払わずに済む、経済的な理由で活動写真は瞬く間に衰退したのである。






昭和7(1932)22歳は、兄丙午の住む神楽坂上の通寺町(神楽坂6丁目)に隣接した横寺町の棟割長屋に身を寄せた。自伝の蝦蟇の油によると「兄の住んでいる長屋も小路も、落語に出て来る長屋そっくりの雰囲気で水道もなく、昔ながらの井戸や井戸端があり、住人は江戸の生き残りのような人達ばかりだった。そこの長屋の老人達は、大方、神楽坂の寄席の下足番や映画館の雑役をしていて、その役得に、その寄席や映画館の定期券のようなものを勝手に作って安い金で近所に人に貸していた。「私はそれを利用して足繁く通った」と述懐している。






昭和7(1932)この年に須田貞明は松竹、大勝館、電気館でトーキー映画による解雇争議の争議委員長となる。映画館との労働争議で板挟みとなった黒澤丙午27歳は、昭和8年(1933710日、伊豆湯ヶ島温泉の旅館で愛人と服毒自殺を遂げた。その4ケ月後に長兄の昌康も病死した。黒澤家唯一の男性となった明は、神楽坂の兄丙午の長屋に居候していた。定職を持たず雑誌の挿絵を描くなどデザインのフリーターの状態から真剣に定職を考えるようになった。






黒澤明の晩年の自著「蝦蟇の油」には「私にとって、兄の住む長屋での生活は、もの珍しくとても勉強になった。そこにいる間、毎日毎晩、映画館と寄席に通った。当時、神楽坂の映画館は洋画の牛込館と日本物の文明館の二つ、寄席は神楽坂演舞場と、あと二つあった。寄席の芸を存分に味わう事ができたのは、神楽坂に近い長屋生活の賜物だろう。落語、講談、音曲、浪花節、この庶民に親しまれた芸を、それが将来の私にどれほど役に立つかなどとは夢にも考えずに気軽に楽しんだ」と述懐している。






そして、その著名な芸人の芸のほかに、寄席を借りて自分の芸を披露する幇間(ほうかん)(芸妓と客の間を取持つ太鼓持)達の芸に接する事もできた。「今でも忘れられない幇間の芸に、馬鹿の夕暮れというのがある。それは夕暮れ時に馬鹿が一人、夕焼け空の(ねぐら)に帰る鳥をポカンと見て立って入るだけのパントマイムであるが、その可笑しくて、なんだか哀しい情景を彷彿として見せたその幇間の芸に驚嘆した」と述べている。








黒澤明の運命「助監督募集」



昭和11年(1936)黒澤明26歳に運命を変える新聞広告「助監督募集」が目に飛び込んできた。映画は弁士の兄丙午の影響を受け、洋画はよく吟味し咀嚼していた。一次試験の論題は、日本映画の根本的欠陥を例示し、その矯正方法について述べよ」であった。「助監督募集」5名の募集枠に500人が書類審査に申込んだ。成城学園駅近くのPCR(写真化学研究所)映画撮影所で130名の二次試験では、シナリオの提出と口頭試問が行なわれた。そして、三次試験の人物考査の難関を突破して、昭和11年(19364月、黒澤明はP.C.L映画製作所に晴れて入社する。





5名の助監督は幹部候補生であり、映画製作に必要な部門すべての仕事に精通しなければ、映画監督は勤まらないのである。昭和12年(19379月にPCR映画撮影所はJOスタジオと合併し、東宝映画株式会社となった。助監督の公募は毎年4月に同様に行なわれていた。








黒澤助監督デビュー



昭和15年(19408月、黒澤明は師と仰ぐ山本嘉次郎監督「馬」で助監督デビューとなる。岩手の馬産地の曲り家で子馬から軍馬を育て上げる国策映画である。山本監督は多数の撮影を掛持ちするため、助監督に任せて実質的には黒澤が監督に近い存在であった。この撮影で娘役の主演女優高峰秀子17歳と黒澤助監督30歳が恋に落ちた。初乗馬の高峰が落馬しそうになり、それを黒澤が優しく抱き留めた事がきっかけであった。高峰には常に義母の監視役が付くため、交際には限界があった。






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その後、黒沢が借りた仕事部屋の逢瀬で義母に連れ戻され自宅二階に軟禁、新聞に「黒澤明と高峰秀子が婚約」と記事が出ると、協議の上二人を引き離すことで決着した。ロケ地は東北各地で、山形県最上町の長期ロケで熱狂的なファンを持つ高峰秀子に人目惚れした地元医院の少年が門脇貞男である。彼は後に芸名を医療ドラマのベン・ケーシー、そして初恋の高峰秀子に因んで「ケーシー高峰」と名付けた医療漫談の創始である。昭和30年(1955)高峰秀子31歳は義母の反対を押し切って松山善三と結婚するが、当時の松山は松竹映画の助監督であった。









黒澤監督デビュー作品「姿三四郎」



黒澤は助監督の腕を高く評価され異例の早さで監督に就任した。この時代の映画検閲制度は、シナリオ段階と映画化段階の二度情報局の検閲を受けていた。昭和18年(1943)黒澤明33歳は、富田常雄作の小説「姿三四郎」の映画化で監督デビューを果たした。この作品は戦時下の要求を受け入れた武士道精神を発揚するのに好都合な原作であった。






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この姿三四郎のモデルは会津藩家老西郷頼母の養子「西郷四郎」である。17歳で上京して嘉納治五郎と出会い講道館へ入門する。身長5尺(150cm)の小兵ながら天性の素質と激しい稽古で頭角を現した。豪快に相手を投げる独自の「山嵐」で、四郎は柔道界の花形となる。明治19年(1886)警視庁武術大会で、強敵の照島太郎を倒し名声を上げた。その実話が映画作品の姿三四郎(藤田進)と宿敵の檜垣源之助(月形龍之介)が強風の仙石原で戦った迫力満点の決闘シーンが大ヒットした。







戦時下の昭和19年(1944)には、戦意高揚映画で黒澤監督の脚本で「一番美しく」が封切られた。戦時下の平塚の日本光学の工場で働く女子工員の物語で、軍事用のレンズを作るために勤労動員された女子挺身隊の青春を明るく描いた作品である。昭和20年(1945)黒澤明35歳は、山本嘉次郎夫妻の媒酌人により、一番美しくのヒロインを演じた女優矢口陽子と明治神宮で結婚式を上げた。同年12月に長男久雄が生れる。このように戦時下のプロパガンダの国策映画を手掛けているため、徴兵が45歳まで延長されても、充員、臨時招集での兵役は免れていた。前年の昭和1810月の神宮の学徒出陣式以降に残る国民男子は17歳以下と46歳以上の老年人口で、女子の労働力が必要不可欠とされた時代である。







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入江たか子と矢口陽子









話芸の名人徳川夢声



大正2年(1913)に活動弁士となった福原駿雄は、大正49月にその評判から赤坂葵館の主任弁士に迎えられる。芸名の徳川夢声は葵館の葵紋から徳川、夢のある無声映画弁士になるように夢声と命名された。大正14年(1925)には新宿武蔵野館に移り、東京を代表する弁士として人気を博する。山本嘉次郎監督「綴方教室」のチ-フ助監督をしていた黒澤は、主演の徳川夢声から「君は、兄さんとそっくりだな。でも兄さんはネガ(陰性)で君はポジ(陽性)だね」と語っている。





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赤坂溜池葵館(赤坂1ー1-17)







神楽坂の本書き旅館「和可菜」



神楽坂の本書き旅館「和可菜」は、昭和29年(1954)に客室5部屋で開業した。女将の和田敏子が少人数で、平成27年(2015)まで60年間切り盛りしていた。深作欣二、山田洋次、内舘牧子、中上健次、伊集院静、野坂昭如などが原稿を書き、作家の出世旅館として人気を博した。この物書き旅館の三種の神器は、電気スタンド、鉛筆削り、特大のゴミ箱である。さらに広辞苑を常備し、執筆中には一切声掛けしないことが最上級のおもてなしであった。





寅さん35作から山田洋次監督の専用一部屋となる。女将和田敏子の姉が松竹の人気女優小暮実千代の縁で、脚本家が和可菜に缶詰になり映画五千本の脚本を仕上げている。女優木暮実千代は、昭和23年(1948)黒澤明監督の「酔いどれ天使」の妖婦役や昭和54年(1979)の「男はつらいよ」翔んでる寅次郎のマドンナ母役で出演している。





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神楽坂の本書き旅館「和可菜」、右は料亭「幸本」








黒澤作品と三船敏郎



昭和15年(1940)から陸軍航空隊の兵役で写真部に所属していた三船敏郎は、昭和21年(1946)東宝撮影部にカメラマン助手希望で応募した。その履歴書が誤って第一期ニューフェース募集の面接官に廻っていた。昭和23年(1948)黒澤監督38歳は、別映画のオーデションに落ちたデビュー1年目の若手俳優の三船敏郎に一目惚れ、「酔いどれ天使」で初主演に大抜擢した。以後、黒澤監督と三船敏郎コンビは15本の作品を残した。さらに三船と志村喬のコンビ作を次々と発表した。昭和20年、生まれ故郷の秋田に疎開していた父親の黒澤勇が83歳の長命で死去した。






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    東宝第一期ニューフェース 三船敏郎






黒澤明監督は黒田小学校の同級生植草圭之助と映画製作に関わることになった。黒澤級長と植草副級長の仲で、映画監督と脚本家コンビになる。植草は菊池寛主宰の脚本研究会に所属し、戯曲が文学座で上演されていた。昭和17年(1942)「母の地図」で映画シナリオに転向していた。昭和22年(1947)黒澤監督、脚本植草の「素晴らしき日曜日」は戦後の貧しい青春を描いた作品である。翌23年の「酔いどれ天使」は、戦後社会の象徴である闇市にのさばるヤクザを取上げ、中年過ぎの酔いどれ医師(志村喬)と結核を病むヤクザの青年(三船敏郎)との交流を描きながら、日本の戦後社会の世相の動揺と混乱を鮮烈に捉えた作品である。






昭和25年(1950)公開の「羅生門」が翌年の第12回ベネチア国際映画祭でグランプリを受賞した。以後、「生きる」「七人の侍」「蜘蛛の巣城」「どん底」「用心棒」「椿三十郎」「天国と地獄」「赤ひげ」など多くの作品が世界の注目を浴び、日本映画の世界的評価を高めた。「世界のクロサワ」の誕生である。





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「七人の侍」の演技指導する黒澤監督






黒澤監督作品に多大な影響を及ばしたであろう神楽坂。黒澤明は人出も多かった最盛期の華やかな神楽坂の通りを闊歩し、文化の香り高き多くの映画、演劇に触れ貪欲に吸収していった。「羅生門」「七人の侍」「生きる」など躍動感あふれる映像美と人間味あふれる作品で、映画の面白さと楽しさを、世界の映画愛好家に与え続けた日本映画史上もっとも偉大な巨匠である。さらに、国際的にクロサワの名は広まり、内外の映画人から師と仰がれるようになり、ジョージルーカスやスピルバーグをして「現在における映像のシェクスピア」と言わしめた。






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しかし、黒澤映画は日本よりもむしろ海外での評価が高いという現象が続いている。黒澤監督は自伝の中で「日本人は何故、日本という存在に自信を持たないのだろう。何故、外国の物は尊重し、日本の物は卑下するのだろう」と述べていることが印象に残る。「人の一生に影響を与えるような映画を創りたい」という思いが、多くの映画史に残る名作を世に送り出し「世界のクロサワ」と称えられた。






昭和60年(1986)世界的映画の功績の評価から文化勲章を受章する。平成2年(1990)にはアカデミー賞名誉賞を受賞した。数々の栄誉ある映画賞を受賞した黒澤明監督は、平成10年(199896日世田谷区成城の自宅で脳卒中のため、八十八歳の米寿で亡くなった。奇しくも命日がクロさんの愛称である。その輝かしい功績を称えた映画監督初の「国民栄誉賞」が贈られた。平成22年(2010)生誕百年を迎えて、世界の黒澤明を語り継ぐ文化交流が世界各地で開催された。

 







                  






by watkoi1952 | 2022-11-06 15:23 | 牛込神楽坂の百景 | Comments(0)