幕府行政文官の大岡忠相



幕府行政文官の大岡忠相




名奉行で名高い大岡忠相の一族は、三河松平家に仕えた譜代の出自である。三河国八名郡大岡村の大岡忠勝は、家康の父松平広忠の家臣になり、忠勝の「忠」の諱は広忠から与えられ、大岡家累代の通字となった。大岡家二代当主の大岡忠政は家康に仕え、関東入国に従い、相模国高座郡堤村(茅ヶ崎市・寒川町)に知行地600石を与えられ本貫地として、永代供養の浄見寺を建立した。家祖忠勝、初代忠政には三男があり、宗家忠行、分家忠世、分家忠吉の大岡家三系統となる。




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家祖大岡忠勝を弔うため永代供養の浄見寺を建立した。





大岡宗家二代忠政の三男忠吉は1700石を知行した初代旗本分家となる。延宝5年(1677)大岡忠吉家の三代大岡忠高の4男忠相として江戸屋敷に生まれる。忠相の母は家康に仕えた北条氏重の娘である。北条氏重の父母は高遠城主保科正直と多却姫で、多却姫の父母は久松俊勝に再稼した於大の方である。於大の方と松平広忠の両親に家康は生れ、異父妹が多却姫である。忠相の高祖母が於大の方(伝通院)であり、多却姫の曾孫が忠相である。



実父忠高は、貞享2年(1685)幕府直轄領で遠国奉行の一つ奈良奉行に就任した。貞享3年(168610歳になった4男忠相(幼名求馬)は、大岡忠世分家2代大岡忠真の実子早世のため養子となる。忠真は娘(珠荘院)を忠相に嫁がせ養子として迎えた。翌貞享4年(1687)には、5代将軍綱吉に初御目見する。元禄6年(1693)実父忠高の長男忠品(忠相の実兄)が5代将軍綱吉の逆鱗に触れ、八丈島へ流罪にされた。実父忠高は家禄が格下げとなり、奈良奉行を辞任し小普請入りした。元禄9年(1696)忠品は罪を許されて復帰して、父忠高の跡を継いだ。



さらに、元禄9年(1696)大岡宗家三代大岡忠種は旗本最高位の大目付を勤めた。忠種の次男に生まれた忠英は、忠相の従兄にあたる。分家初代となるが養子先を求めた忠英は、元禄9年(1696)大身旗本で上役の大番頭の高力忠弘の屋敷に養子願いに伺った。しかし、屋敷内で口論の末に養父となる筈の高力忠弘を殺害して忠英は自刃し、御家断絶となった。忠弘は島原藩主高力隆長の次男に生まれるが、父隆長の農民に対する圧政で改易(領土没収)に連座して、父は永蟄居し忠弘は後に赦されていた。



この事件は忠相19歳の時で、大岡一族は連座して閉門処分となるが翌年には赦免された。閉門とは江戸時代の武士や僧侶に科せられた門を閉ざして閉じ込める刑罰である。「閉門」は昼間の出入りを禁じた「逼塞」30日、50日の刑より重く、門扉と窓を閉ざし昼夜の出入りを禁じられた。但し、閉門の上、自宅の一室に謹慎させる「蟄居」より軽い刑である。一番軽い「遠慮」は自主的に行なうもので、他者の出入りや夜間の密かな外出は黙認された。公に申付けられる場合は「慎み」と呼んでいた。





書院番、使番、目付


元禄13年(1700)忠相23歳は、養父忠真の病死により家禄1920石と寄合旗本無役の家督を継承する。綱吉時代の元禄15年(1702)忠相25歳は、書院番となる。御両番の書院番と小姓組は、高い格式を持つ徳川将軍直属の騎馬親衛隊「馬廻衆」である。旗本良家の優秀な子弟は、まず御両番に任じられた。その後、将軍の側近として認められて、幕府官僚に出世するのが通例であった。



元禄16年(17031123日未明に房総半島の南端沖を震源とする相模トラフのM7,98,5の元禄大地震が関東を襲った。地震に伴う被害の復旧普請のため、忠相は臨時仮奉行を勤める。宝永元年(1704)忠相は将軍の護衛の書院番徒頭に就任する。六組ある書院番組頭は千石高、布衣、菊之間南襖際席である。各組に与力十騎、同心二十人、番衆を合わせて50人の配下で編成されている。



宝永3年(1709)忠相の奥方(珠荘院)が病死した。既に長男の市十郎と長女が早世している。宝永4年(1707)には諸国を巡廻して大名の治績動勢を視察する使番に就任する。宝永5年(1708)には有能な幕府官僚と認められて目付に就任した。目付は評定所の審議に加わり、旗本、御下人の監視や諸役人の勤怠など政務全般を監察した。宝永6年(1709)に忠相の後奥方(慈慶院)に次男忠宣が生まれ、長男が早世のため次男が世継ぎとなる。





伊勢山田奉行


6代将軍家宣のとき、正徳2年(1712111日、忠相35歳は幕府遠国奉行の17代目山田奉行に任命され、従五位下能登守に叙される。伊勢国度会郡御園村に置かれた山田奉行所の職務は、伊勢神宮の警備、式年遷宮の監督、伊勢国の幕領地の管理、鳥羽港の監視と多岐に渡る任務であった。



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伊勢山田奉行所




当地では奉行支配の伊勢山田の宮川を境に紀州徳川家領地松坂と接していたため、その境界線を巡って度々争いが起きていた。しかし、代々の山田奉行は紀州徳川家に遠慮して明確な判定を下していなかった。そこに新奉行の忠相が着任して、自ら懸案の事案を検地して紀州領内に入り込んだ地点に杭を打ち境界とした。忠相は権威に屈することなく公正に判定した力量を紀州藩主徳川吉宗が評価したと伝えられている。



ところが、山田と松坂を巡る境界の訴訟については、忠相の7代前の第10代桑山貞政奉行が紀州藩に申し入れ、寛文7年(166711月に確定している。山田奉行御役所旧録に記されており、また境界線も紀州藩領地と接しておらず、幕府より確定した朱印状が下付されている。これを大岡越前の業績としたのは、後の享保2年(1717)忠相が江戸町奉行に就任以降のことで、歌舞伎の題材や講釈師が世話講談に脚色して物語に華を添えた創作物であった。





普請奉行、南町奉行、町火消制度


7代将軍家継の時、享保元年(1716)に山田奉行から普請奉行となる。江戸城の石垣や濠や橋の普請、土木工事に武家屋敷割を指揮した。享保元年(17168月、徳川吉宗は8代将軍徳に就任した。老中に水野忠邦を任命して幕政改革を始める。翌年の享保2年(1717)に大岡忠相40歳は、将軍吉宗の命で江戸町奉行に大抜擢された。相役の北町奉行は中山時春、中町奉行は坪内定鑑である。この坪内と武家官位が同じ能登守のため、忠相は越前守と改称した。南町奉行・大岡越前守忠相の誕生である。



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将軍吉宗は「享保の改革」と呼ばれた幕政改革に着手、忠相は諸改革のうち町奉行として江戸の都市政策に参画した。享保3年(1718)大岡越前守は町政改革の一環で、木造家屋が過密した町人域の防火体制再編のため、町火消組合を創設した。享保5年(1720)町火消制度「いろは47組、深川16組」の小組に再編成した。瓦葺屋根、土蔵など防火建築の奨励、火の見櫓付自身番制度、火除地広小路の設定などの防火体制の整備で江戸の防火体制は強化された。




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目安箱、小石川養生所


江戸中期には江戸の人口増加により、困窮者などが溢れていた。これら下層民対策は享保の改革の一環であった享保6年(17217月、将軍吉宗は市中の高札に毎月2日、11日、21日の3回、評定所前に目安箱を設置すると触書していた。同12月に漢方医小川笙船が目安箱に投書して施薬院の設置を歎願した。享保7年(1722)正月、吉宗は笙船の上書を取上げて、紀州藩からの側近の有馬氏倫に施薬院の設置を命じた。



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有馬の命を受けた町奉行の中山時春と大岡忠相は、大岡邸に笙船を呼び意見を聴取した。享保7年(1722)小石川御薬園に町奉行支配の小石川養生所「施薬院」を設置した。長屋造の建物で人員は医師5人、与力2騎、同心10人、中間8人が配された。赤ひげ先生のモデルとなった町医者小川笙船の子孫が代々勤め、江戸の貧しい人々に無料で治療にあたる。収容人員100名の救済施設は、享保~明治元年の廃止まで146年間医療施設として機能した。




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享保10年(17259月、忠相には2000石加増され3,920石となる。将軍吉宗が主導した米価対策では、米会所の設置や公定価格の指導、物価対策では株仲間の公認などで引下げを行なう。前年の享保の大飢饉の被害から、享保18年(1733)忠相は青木昆陽から薩摩芋を伝えられ、小石川御薬園、下総(幕張)、上総(九十九里)の甘藷試作地で飢饉に備える薩摩芋の栽培を助成した。全国に普及した薩摩芋の栽培で餓えから人々を救っている。




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青木昆陽(甘藷先生・芋神様・蘭学の先駆者)




米価の下落から生活に困窮する武士や農民救済のため、忠相は貨幣改鋳を吉宗に強い進言を行なった。元文元年(1736)幕府は町奉行の大岡忠相と勘定奉行の細田時似を最高責任者として、貨幣改鋳を命じた。元文通貨は金銀の品位を落として差益を得る事でなく、純粋に通貨供給量を増すものであった。以後80年間に及び元文通貨は金銀相場の安定を続けた。さらに、忠相は関東地域の新田開発や治水事業を担当した。






寺社奉行と奏者番 西大平藩初代藩主


元文元年(1736812日、江戸町奉行を20年間勤めた忠相60歳は、旗本としては異例な寺社奉行に就任する。寺社奉行は1万石以上の譜代大名が任命され、全国の神官、僧侶、寺社領を統制した。町奉行と勘定奉行は旗本の役職で、寺社奉行は大名役の格上で三奉行の最上格である。忠相は2千石加増され5920石となり、足高分を加え1万石の大名格となった。



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大岡越前守忠相は、大岡忠世家3代当主であり、寛延元年(1748)三河国額田郡西大平(愛知県岡崎市)に陣屋を持つ初代大名となった。町奉行から大名になったのは忠相唯一人である。西大平藩の陣屋は、東海道五十三次岡崎宿の東の入口に位置する。大岡家の定紋は大岡七宝で、江戸上屋敷は外桜田(霞ヶ関113)に2268坪を拝領した。日比谷公園の霞門入口に近い大岡家上屋敷の跡地には現在、法曹界の弁護士会館が建っているのが意味深い。




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寛延元年(1748)忠相72歳は寺社奉行と奏者番の兼任を命じられた。奏者番の職務は殿中での「武家典礼」を司る。奏者番は武家礼式に則り、将軍の権威を輝かせるのが目的であった。それには、有識故実に通じ、師匠番に先例や故実を教わる必要があった。礼儀作法に詳しい職なので、高家と同一視されやすいが、高家は「宮中の典礼」を司るに対し、奏者番は「武家の典礼」を司る役職である。




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さらに、年頭や五佳節で将軍に謁見する諸大名の取次、諸大名からの御進物や献上物を将軍に披露、諸大名に対して将軍の上意を伝える上使を務めた。奏者番は譜代大名から選出された俊敏で頭脳明晰な二十名程で構成されていた。奏者番肝煎の命に従い、四名は寺社奉行を兼任した。奏者番寺社奉行兼務大坂城代京都所司代老中というのが、譜代大名5万石~10万石の出世コースであった。



寛延4年(1751620日、大御所となった吉宗が薨去した。同年1219日、将軍吉宗の後を追うように大岡忠相75歳は外桜田の上屋敷で亡くなった。忠相は町奉行就任から20年間に及び江戸の市政改革、司法、治安を取り締まる名奉行として、将軍吉宗を支え続けた。忠相は日本の歴史の中でも稀に見る有能な実務官僚であった。墓所は相模国高座郡(茅ヶ崎)の大岡家菩提寺の浄見寺である。



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大岡越前守は江戸の民政全般を司る町奉行であり、評定所の主たる構成員として幕政全体の基本政策面にまで参与する幕政運営者であった。その中心業務は江戸の行政で多忙を極めていたが、忠相の裁きぶりを描いた「大岡政談」長短90話の中で関わったのは僅かである。史実とは無関係なものが多く、人情と機知に富んだ古今東西の裁判話を江戸時代のものに巧みに脚色している。江戸の講釈師を起源に明治に人気を呼び「大岡裁き」は名判決の代名詞となっている。



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三河国西大平藩二代~七代藩主


二代大岡忠宜(ただよし)は忠相の次男に生まれるが、長男早世のため次男が世継ぎとなる。父と供に将軍吉宗に仕えた。西丸と本丸の小姓組番士を勤める。宝暦2年(175244歳で二代三河西大平藩の家督を相続する。大番頭に就任する。享年58歳。


三代大岡は、二代忠宜の次男に生れる。長男は廃嫡され、明和3年(1766)忠恒16歳で三代西大平藩主となる。明和6年(1769)日光祭礼奉行を勤める。播磨安志藩主・二代小笠原家の4男忠與を養子に迎える。長享年36歳。


四代大岡(とも)は、播磨安志藩主の4男に生まれる。天明3年(1783)忠與26歳で三代忠恒の養子になり、翌天明4年(1784)に四代西大平藩の家督を相続する。将軍家治に御目見するが2年後に病死した。享年29歳。


五代大岡(ただ)(より)は、三代忠恒の次男で養子となる。天明6年(1786)僅か3歳で西大平藩主となる。藩は財政難のため、寛政11年(1799)に倹約令を布き、借金返済の停止や資金調達を行なった。享和元年(1801)日光祭礼奉行、大阪加番などを勤める。文政11年(182845歳で病を理由に隠居する。享年54歳。


六代大岡(ただ)(よし)は文化4年(1807)五代忠移の長男に生れる。文政11年(182822歳で西大平藩の家督を相続する。日光祭礼奉行、大番頭、大阪在番などを歴任して、嘉永5年(1852)初代忠相と同じ奏者番に就任した。また、12代将軍家慶の鹿狩り御用掛を勤めた。享年51歳。


七代大岡(ただ)(たか)は五代忠移5男に生まれ、兄の忠愛の養子になる。安政4年(185730歳で西大平藩の家督を相続した。安政6年(1859)日光祭礼奉行、大阪加番、大番頭に就任する。当初は佐幕派に属したが、新政府軍に帰順して輸送の任務を務めた。明治2年(186942歳で県知事となる。明治4年(1871)に廃藩となり、華族令により子爵に列した。享年60歳。






豊川稲荷東京別院(赤坂豊川稲荷)


赤坂豊川稲荷の正式名は、「豊川閣・妙厳寺」曹洞宗の寺院である。大岡家は三河時代より豊川稲荷を信仰しており、越前守の守名乗りの時に赤坂一ツ木の江戸屋敷に屋敷稲荷として分霊を勧請した。豊川稲荷は仏法守護の善神「豊川吒枳(だき)()眞天(しんてん)」を祀る。大岡屋敷では毎月午の日と22日に門を開けて一般に参拝を解放していた。



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文政11年(1828)六代藩主大岡忠愛の時代に信徒の要望により大岡屋敷の1/4250坪を借受け、豊川稲荷の江戸参詣所を建立したのが東京別院の創建である。名奉行大岡越前の人気で何時でも参拝が可能となった。明治20年(1887)大岡屋敷の一角では手狭になり、靑山通り向いの元赤坂147の寺地34,900坪に東京赤坂別院に遷座している。




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by watkoi1952 | 2022-09-18 18:23 | 江戸幕府の主要役職 | Comments(0)