幕府番方武官 長谷川平蔵



幕府番方武官 長谷川平蔵





鬼平犯科帳の歴史

鬼平犯科帳の鬼平こと長谷川平蔵は、火付盗賊改方の長官として、実働八年もの永きにわたり活躍した実在の人物である。昭和42年(1967)歴史小説作家池波正太郎の原作「鬼平犯科帳」の出版に始まる。昭和44年(1969107日にTV時代劇「鬼平犯科帳」がモノクロ画面でスタートした。初主演の長谷川平蔵役は、初代の八代目松本幸四郎のち白鴎、二代の丹波哲郎、三代の萬屋錦之介、四代の二代目中村吉右衛門と合わせて四代による継続放送により、類い稀な超人気時代劇に成長した。




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鬼平こと長谷川家の歴史


徳川将軍家直属の旗本・長谷川家の家祖史実を紐解くと、駿河国今川義元の家臣・長谷川藤九郎正長に遡る。永禄3年(15605月、尾張の織田信長が桶狭間の戦いで、尾張に侵攻した今川義元軍の本陣を急襲して今川義元は討死する。今川家の没落により藤九郎正長は、後に家康に召し抱えられる。元亀3年(157312月、上洛途上の武田信玄軍を迎え撃つ織田徳川軍が敗退した。この三方原の戦いで、奮戦するも長谷川正長37歳は討死する。




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討死した戦国武将の長谷川正長には、長男正成、次男宣次、三男正吉の三男があり、本家正成と二分家の宣次・正吉は旗本武官として江戸時代の幕末まで存続した。さて、この主人公の鬼平の家系は、永禄9年(1566)正長の次男に生まれた宣次である。長谷川家分家の初代宣次の家系が連なることになる。天正10年(1582)宣次は家康の御小姓を勤める。






二代宣元は、慶長元年(1596)宣次の長男に生れ、二代将軍秀忠公に仕え御小姓を勤めた。大阪冬の陣、夏の陣に供奉する。駿河大納言忠長に付属するが、寛永13年(1637)三代将軍家光の御小姓に仕える。御小姓は将軍に近待して、日常生活に必要な雑事や身辺警護を担当した。御小姓は戦国時代には主君の盾になり、命を賭して守る役目であった。家柄も良く諸作法や武芸に秀でた頭脳明晰な15歳~24歳までの若者が選任された。





三代宣重は宣元の長男に生れる。寛永15年(16387月、御書院番を勤める。宣重は四谷戒行寺に葬られ、長谷川家代々の墓所となる。四代宣就は宣重の長男に生れる。寛文元年(1661)宣就は将軍家綱に拝謁する。寛文7年(1668)御小姓組番士を勤める。





五代宣安は、御書院番を勤める。六代宣尹は、西丸御書院番を勤める。幕府の軍事部門の職制五番方は、「書院番・小姓組・大番組・小十人組・新番組」で編成されている。両御番と呼ばれた「書院番と小姓組」は、高い格式をもつ徳川将軍の騎馬親衛隊「馬廻衆」である。





書院番は戦陣に馬廻りを固め、平時は城内に詰めて将軍を守護、出行にも供をして身辺を護った。旗本良家の優秀な子弟は、まず両御番に任じられた。その後、将軍の側近として認められて、幕府官僚に出世するのが通例であった。






鬼平の父平蔵宣雄



七代宣雄は、四代宣就の三男宣有の長男であるが、従兄の六代宣尹の強い要請で末子養子に迎える。宣雄は通称を平蔵と称した鬼平の父親である。延享5年(17481月、六代宣尹の死去により、七代宣雄は初代平蔵宣雄として四百石の家督を相続して、西丸御書院番となる。宝暦8年(1758)将軍護衛の小十人頭になり、登城では狩衣「布衣」の着用を許された。





平蔵宣雄の家格は旗本、家禄は四百石、役職は番方小十人頭である。肩書は許されて「布衣」となるので、官位は正六位相当となる。しかし、武家の官位は従五位下まで、正六位の叙任がないので布衣は官位名ではない。従って、城内式典において着用する布衣をもって代称とした。布衣とは無紋無地の狩衣のことである。従四位の大名の着る狩衣には、紋地綾紗で家紋を織り出している。




明和2年(1765)宣雄は有事には先陣を努める役で、武勇に優れた者から選ばれた御先手八番弓頭となる。御先手弓頭一組に与力が五~六騎、同心三十人が配属された。御先手弓頭は千五百石高で布衣、躑躅の間、譜代席である。明和8年(17711017日、火付盗賊改加役補任となる。明和9年(1772)田沼意次が老中格から正式な老中となる。





老中首座は9代将軍家重以来25年間老中を務める松平武元である。平蔵宣雄はこの二人の老中に認められ、引き立てられていく。明和9229日正午、西南の風烈しい目黒行人坂大円寺より出火し、麻布、神田、日本橋、浅草、北千住に達した。焼失町数934町、死者14700人の大災害となった。大名屋敷の焼失169件、老中に就任直後の田沼意次の屋敷も焼失した。




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火盗改の平蔵宣雄は、大円寺の縁故者の犯行と勘働きの聞き込みにより、大円寺の和尚から破門になった坊主真秀こと長五郎が庫裏に放火したと判明した。放火犯の武州熊谷の無宿長五郎を捕えて、裸馬に縛り上げられ江戸市中の引廻しでは怨嗟の声が凄まじかった。同明和9621日、小塚原刑場の仕置場で火焙りの刑に処せられた。この功績が評価され、同明和9年(177236火付盗賊改定役(長官)となる。同年11月、明和めいわ九年くねんから安永に改元して、人心を一新した。




安永元年(17721015日、京都西町奉行に転任、従五位下備中守を叙任する。京都押小路千本角の役宅には、父宣雄と正妻(五代宣安の娘)、長男平蔵と妻子が赴任した。2年間の町奉行を務めると江戸での栄進は確約されていた。しかし、安永2年(1773622日、町奉行在任中に平蔵宣雄55歳で急逝する。京都千本華光寺に埋葬後、江戸四谷戒行寺に改葬する。江戸幕府が置いた遠国奉行の京都町奉行が、二条城西側の千本通り沿いの中京中学校前に西町奉行所跡碑がある。




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火付盗賊改方の設置


江戸の治安を護る組織は、朱引内の町人庶民は「町奉行」、神社仏閣その門前町、神官、僧侶などは「寺社奉行」。農民は「勘定奉行」、天領直轄地は郡代役所管轄の「代官」と分担制度であった。寛文5年(1615)江戸幕府は、明暦大火後に現れた凶器で徒党を組む盗賊団に対処するため「盗賊改」を設置した。幕府の戦闘隊で有事に先陣を努める番方(軍事武官)の御先手組には、先手弓組10組と先手鉄砲組24組がある。この両組を合わせた34組の組頭の内から、火付盗賊改役頭が任命され、与力5~10騎、同心30~50人の精鋭部隊が配属された。




この役頭を定役(長官)と呼ぶ。冬期に火災が頻発すると定役を補助する加役があり、さらに犯罪が多発すると、臨時に加えられる増役があった。これら定役・加役・増役の三役を合わせて通称「加役」と呼んでいる。御先手弓頭から出役した火付盗賊改定役には、御先手組頭の本役があり、一般の出役を火盗改のみが「加役」と称していた。一方、江戸市中を治安する町奉行は役方(行政文官)で、与力・同心は帯刀しているが刀は使わず、岡引に十手や捕物道具で生け捕りにさせている。




徒党を組み訓練した盗賊団に対して、町奉行所の人数、武力、機動力で武力制圧するには荷が重かった。さらに盗賊団は捜査攪乱を狙って犯行後に家屋に放火して逃走する手口が横行した。そこで、天和3年(1683)幕府は「火付改」を設けた。両改ともに広域捜査になるため、騎馬や船の河川通行を自由にし、寺社奉行、郡代役所との制限事項を取り除き、関東一帯の捜査や捕縛権を認めた。放火を取り締まる専任の「火付改」の新設で、大身旗本・御先手持筒頭の中山勘解由直守が加役を拝命した。




勘解由は「今日只今から、自分は信仰も慈悲心も全て捨て去り、この世の悪と不条理を打ち砕く。神棚と仏壇を庭先に投げ捨て、神仏の加護も罰も不要である」と宣言した。勘解由は集団放火強盗団、鶉の権兵衛一味を捕縛し、御法を破る六法者、傍若無人に振る舞う旗本奴を次々と一掃して業績を上げた。勘解由の役宅から拷問による悲鳴と号泣に唸り声が聞こえた。役宅に近寄る者もなく、人々に怖れられて鬼勘解由と称された。元禄12年(1699)苛酷で非道な取締りに冤罪で死罪になる者も多く、盗賊改と火付改は廃止されて、寺社、勘定、町奉行の三奉行の管轄に移る。




ところが、元禄15年(1712)火消装束で武装し、徒党を組み吉良邸に四十七士が討入りした赤穗事件が勃発した。幕府は有事に対応する盗賊改を復活させた。そこに博打改を加え、翌年には火付改が復活した。享保3年(1718)盗賊改と火付改が「火付盗賊改」に一本化されて御先手頭の加役となり、博打改は町奉行所に移管された。文久2年(1862)には御先手頭の兼任から独立して専任制となった。文久3年(1863)火付盗賊改は増員百人扶持となる。御先手頭上席に置かれ、若年寄支配から老中支配に格上げされた。




長谷川はせがわ平蔵へいぞう藤原ふじわら宣以のぶため

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 名字 通称 姓  諱



鬼の平蔵八代宣以は、延享2年(1745)平蔵宣雄の長男に生まれる。母親は正妻でなく長谷川家4百石の知行地(下総・山辺・武射)から江戸に出て長谷川家に女中奉公していた戸村品左衛門の娘と推定されている。幼名銕三郎として、赤坂氷川神社や勝海舟旧宅に近い赤坂築地中之町(港区赤坂6-11547坪の拝領屋敷で幼少期を過ごす。




寛延3年(1750)宣雄一家は、鉄砲洲築地湊町(中央区湊2)の拝領屋敷へ転居する。船上から手を合わせ参拝する鉄砲洲富士で知られる鉄砲州稲荷神社の南側の屋敷で、銕三郎は5歳から19歳の多感な時期を鉄砲州で過ごした。




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銕三郎は元服で父親譲りの平蔵宣以(へいぞうのぶため)に改名した。(いみな)の宣似では忌名の穢れとなるために化名(けみょう)(通称)の平蔵、鬼の平蔵と呼ばせる。父親は京都で叙任され長谷川備中守宣雄となり、以前の通称平蔵から備中守の官職名で呼ばれる。藤原の姓は四姓(源氏・平氏・藤原・橘)の一つで、長谷川家は藤原氏を遠祖とする武士の系統を名乗る。




明和元年(176410月、父宣雄の屋敷替えで、築地鉄砲州湊町から江戸本所三之橋通り菊川町(墨田区菊川3-16-21238坪の拝領屋敷に転居する。鉄砲州湊町の屋敷跡には、松平阿波守重喜が入り、父宣雄一家の転居した菊川町屋敷の桑島元太郎持古は、松平阿波守の目黒白銀の屋敷に転居した。つまり、平蔵の父宣雄と松平阿波守と桑島元太郎の三名が願い通り屋敷の三方相対替えを行なったのである。




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  墨田区菊川3-16-2 都営新宿線菊川駅3番出口





若い頃の銕三郎は、妾腹の子の由縁なのか放蕩無頼の風来坊「本所の銕」と呼ばれ恐れられていた。明和3年(1766)平蔵21歳は、岩井左馬之助、井関録之助と共に柳島の本法寺裏で無頼者20余人と喧嘩、土壇場の勘兵衛を殴り殺す死闘であった。明和5年(1768125日、平蔵23歳の時、10代将軍家治に御目見し、長谷川家の家督相続人となる。明和6年(1769)平蔵23歳は、二百俵取の御船手の大橋与惣兵衛ちかひでの三女ひさと結婚する。親英は二百五十俵取の黒田佐太郎忠恒の三男に生まれ、大橋伝八郎親定の養子となる。




船手頭となって、鬼の平蔵が裁可した罪人を三宅島や新島へ送った記録がある。翌年、幕府は御仕置御書にある品盗の条には、十両以上は死罪なり、今後、途中之盗とて十両以上は死罪なりと三奉行に発令した。明和8年(17711017日、父宣雄は火付盗賊改役の加役補任を勤める。同年平蔵26歳に長男辰蔵が生まれる。明和9年(177239日、父宣雄は火付盗賊改方の定役(長官)に就任する。同年7月、目黒行人坂の大円寺から出火して、江戸城東南方面を焼き尽くした「目黒上人坂の大火」で、死者14700人及ぶ大被害となった。





火付盗賊改の父宣雄は、放火犯の武州熊谷無宿長五郎坊主真秀を捕えて、市中引き廻しの上、小塚原刑場にて火刑に処した。この功績により、安永元年(177210月に父宣雄は京都西町奉行に栄進する。翌、安永2年(1773)父宣雄55歳は京都西町奉行の在任中に急逝する。家族と京都に転居していた平蔵は4百石の家督を相続する。安永3年(1774)平蔵29歳で江戸城西ノ丸御書院番士、将軍近習の将軍世子の警護役に任じられる。この年に長女初子が生まれ18歳で嫁入りする。





安永4年(1775)旗本と諸大名の家臣の中から手練れの士を選び、御前試合が行なわれ、平蔵も出場して丹羽庄九郎と立ち合う。同安永41111日、西ノ丸仮御進物番として、贈答品の管理にあたる。同安永4128日、西丸御徒頭に異例の抜擢となり、登城には狩衣無地の布衣を着ることを許される。天明3年(1783)平蔵38歳の時、浅間山の大噴火、被害は四十里四方に及び死亡者二万人余と伝わる。大凶作による天明の大飢饉、全国の百姓一揆が江戸に波及し、天明の打ち壊しが幕藩体制を揺るがし始めていた。6年(1786726日、平蔵41歳のとき、番方最高位の御先手組三番弓頭に任命され役高千五百石となる。




天明7年(17875月、冷害飢饉、米価の異常高騰、貧困層の増大で天明の江戸打ち壊しが極めて激しく、買い占めや売り惜しみ商人が標的となった。幕府内では老中と側用人を兼任した田沼意次の政権派と松平定信を押す譜代派の争いが決着して、松平定信が老中首座に就任した。同天明7年(178799日、平蔵42歳で火付盗賊改定役・堀帯刀の加役に補任される。天明の打ち壊しにより、平蔵ほか九人の御先手頭に出動命令が出るが、捕縛は僅かで江戸市中を巡廻していた。この年の平蔵には、板橋無宿三之助坊主の死罪ほか三件の事件記録が残されている。







火付盗賊改定役(長官)長谷川平蔵


天明8年(178810月に長谷川平蔵43歳は堀帯刀の後任として、御先手弓頭兼火付盗賊改定役「長官」に就任する。役高は千五百石に六十人扶持が付く。本役の御先手組の配下を使うので、与力五騎~十騎、同心三十人~五十人である。平蔵が19歳の秋から住む本所菊川町の自宅が火付盗賊改の役宅となる。役宅内には、詰小屋(仮牢)、白州、訴所を設けた。この屋敷内で与力・同心の役所詰(総務)、召捕方廻方(巡廻)、溜勘定(会計)、書役が勤務した。




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召捕方廻方は、与力も同心も町方を真似て袴を履かない、着流しで町を巡廻した。町方では同心でさえ、岡引や手下に捕らえさせ自ら手を下さない。しかし、火付盗賊改自身で賊の捕縛は常であった。駆動力を与えられ仕事は、強力犯専門であるから手荒く非人間的であった。大盗、凶盗、独り働きの盗賊たちが狙った押込み先、その盗人宿の突き止めなどの探索における密偵宿、繫ぎ宿、見張り所を置いた。足を洗い差口奉公と呼ばれた密偵たちは、平蔵の手足となり眼となって、自在に活躍して成果を挙げた。また、この年長男辰蔵が初めて将軍家斉に拝謁している。





天明の大盗賊・真刀徳次郎は剣術神道流の使い手であった。東北、関八州筋の豪商・豪農宅に押入り非道の限りを尽くす広域強盗集団であった。一味は数百カ所で夜盗を働き、道中では盗品の荷物に御用札を立て、公儀の役人を偽装した。さらに、関所の警戒網を潜り抜けるため、野袴を着て帯刀し手下を若党に仕立て御用筋の往来を演じ通した。





寛政元年(17894月、平蔵は盗賊団の根城であった武州大宮宿に配下の与力・同心を派遣し、長期の張り込みを続け、隠れ家の四恩寺焔魔堂でついに頭目の捕縛に成功した。関八州を荒し回っていた凶悪犯の真刀徳次郎一味を一網打尽にしたのである。




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暗闇の中に高張提灯、手持の火盗提灯の灯火が盗人宿を取り囲む。そして、同心・捕方の中からゆっくり進み出る長谷川平蔵。長官おかしらの合図で板戸が蹴破られ、突進する同心たちと、ひるむ盗人たち。「火付盗賊改方・長谷川平蔵である。神妙に致せ」抵抗する盗賊どもを十手で叩き伏せ「手向かう者は斬り捨てい」で殺陣が展開する。






徳治郎28歳は子分等とともに町中引廻しの上、中山道大宮宿の下原刑場にて盗賊一党は打首獄門に処された。この極悪盗賊を捕らえたことで世間を驚かせ、江戸の火付盗賊改方頭・長谷川平蔵の名が世に広く知られた。これが悪党盗賊に心底恐怖心を抱かせ震え上がらせる端緒となった。幕府はこれまで無宿人対策として、宝暦9年(1759)江戸の無宿人を捕らえて佐渡金山の人足に送り込む制度とした。




だが、佐渡送りは生きて帰れず限界があった。安永9年(1780)南町奉行の牧野成賢が深川茂森町に無宿養育所を設置した。老中松平定信はこの養育所に言及して、当時千数百人捕らえて放り込み、その内千人以上が死亡している。定信はこれら無宿人対策を鑑みて、人足寄場の制度化を考え、志ある人材を募る。寛政元年(1789)火付け盗賊改定役の長谷川平蔵が名乗りを上げた。




寛政2年(1790219日、無宿人の更生施設の建議書「寄場起立」を老中松平定信に提出する。定信は平蔵に加役人足寄場の再建を命じた。鉄砲州向島の石川大隅守屋敷裏と佃島間の葭沼地1万6千坪を用地とした。軽犯者や戸籍から外された無宿者を収容して、彼らに見合った手業を習得させ、工賃の一部を積み立てて、出所時の更生資金に充て、授産所として成功させた功績は大である。





宗門人別帳と無宿人


江戸幕府の寺請制度とは、全ての人々に何れかの寺院の檀家となるよう強制して、寺院から「寺請証文」という身分証明書を受取る制度である。所属する菩提寺の檀家となり、「お布施」を収め先祖代々にわたり葬儀や供養の一切を行なうことが義務づけられた。お布施で経済基盤を整えた寺院は、檀家となった住人の動向や戸籍の管理を請け負う義務が生じた。




現戸籍にあたる「宗門人別帳」が作成され、出生、死亡、結婚、養子縁組、旅、住居移転には「寺請証文」が必要であった。但し、寺が檀徒としての責務を果たせないと判断、また逃亡不明の場合は檀徒除名になり、宗門人別帳から削除され「無宿人」や「非人」になり社会から除外された。




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人足寄場の予算は減額され、拝領地の埋立て整地も寄場人足で行った。しかし、費用節約するもこの窮状を打開するために平蔵は老中松平定信の許可を得て、官費を元手に銭相場を使い寄場の費用を捻出した。銭安のときに銭を買い上げて流通量を減らし、銭高になると銭を支出すれば利益が出る。その利益を人足寄場の維持費にあて自立支援が継続可能となった。江戸時代は子供の借金や犯罪に対して、親族は連隊責任を執らされるため、戸籍を外される事で無宿人が増え犯罪に手を染める者が多かった。




松平定信は自叙伝において「この人足寄場によって、無宿人たちは自然と減り犯罪も少なくなった。全て長谷川平蔵の功績である。長谷川は利益を貪るために山師のような悪行すると人々が悪く言うが、そうした者でないとこの事業は行えない」と記している。寛政3年(1791)将軍家の葵御紋を付けた提灯を掲げて商家に押込強盗を行ない、必ず婦女強姦する極めて凶悪な手口で江戸を荒らし廻っていた。同年6月、板橋で江戸の盗賊集団の首領葵小僧を火盗改が捕縛した。被害者の心痛を慮って、平蔵と老中の専断で供述を取らず、10日後に小塚原刑場において獄門に処された。




「本所の平蔵様」と庶民の人気を集めた寛政5年(1793)老中松平定信が失脚する。平蔵は通常23年勤務のところを異例の長期8年間も激務の火付盗賊改本役を務めた。平蔵の後任本役は森山源五郎孝盛である。寛政7年(1795519日御役御免を申し出て認められ、療養三ヶ月後に平蔵50歳は本所菊川の役宅で病没する。長谷川家の菩提寺戒行寺に祀られた平蔵宣似の戒名は「海雲院殿光遠日耀居士」である。二代平蔵宣以の役宅は長男三代平蔵宣義が継ぎ、この菊川町の役宅は初代平蔵宣雄の京都西町奉行の折にも変動なく、長谷川一族が所有していた。




明和8年(1771三代平蔵宣義は父平蔵宣以の長男に生れ、幼名を辰蔵と称した。寛政7年(179583日宣義24歳は、家督を継ぎ平蔵と改称した。御先手弓頭になり、祖父宣雄と同じ組頭で、山城守を叙任する。天保5年(18351222日舘野忠四郎勝詮に屋敷地1,238坪の内258坪を売却する。天保7年(1836226日宣義65歳で没した。




四代平蔵宣昭は、父平蔵宣義の次男に生まれ、幼名を久蔵と称した。天保7年(1836)家督を相続して平蔵と改称した。船手頭を務めたとき、罪を被って小普請入り閉門となる。閉門とは屋敷の門を閉ざし、昼夜の出入りを許されない刑罰である。1年ほどで許されるが、軍事武官の名家・長谷川平蔵一家の衰退の一因となった。弘化3年(1846)四代平蔵宣昭の時に菊川町屋敷地980坪を売却、南町奉行の遠山左衛門尉景元の下屋敷となる。




四代平蔵宣昭は、駒込四軒寺町(文京区向丘二丁目)二百坪の屋敷に移る。嘉永5年(18521116日、四代平蔵宣昭没する。五代長谷川平蔵は幼名を成之助と称した。嘉永5年(1852)家督を相続して平蔵と改称する。しかし、安政5年(1858)御書院番士となるが以後不詳となる。慶応2年(1866)8月4日、旗本軍事武官は幕府歩兵隊に役替えになり、火付盗賊改役はその役目の終焉を迎えた。




目白台にあった与力・同心の組屋敷を原作者が平蔵の役宅と取り違えて、役宅が目白台では不便だから清水門外の馬預御用地を火付盗賊改の役宅と設定した。平蔵宣以が父宣雄の没後に京都から江戸に戻ったとき、十九代御先手弓頭・赤井越前守の目白台組屋敷であった。その後、二十六代御先手弓頭・長谷川平蔵宣以を経て、享和3年(1803)三十代御先手弓頭・朝比奈弥太郎まで変動なく幕府大縄地の組屋敷であった。





明治末期に四谷戒行寺の墓所を杉並区堀ノ内の共同墓地に改葬移転の際に長谷川家遺族の立ち合いがなく無縁墓として処理され無縁仏になった。そのため、平成6年(19947月に長谷川平蔵宣以の供養碑が建立された。


 

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令和3年(20211128日、テレビ時代劇「鬼平犯科帳」四代目長谷川平蔵役を務めた二代目中村吉右衛門が鬼籍に入った。鬼平犯科帳は池波正太郎原作の歴史小説を元に、昭和44年(1964)松本白鵬、昭和50年(1975)丹波哲郎、昭和55年(1980)萬屋錦之介、昭和63年(1989)中村吉右衛門~平成13年(2001)まで放送された超人気の時代劇であった。




令和6年(2024)1月8日に時代劇専門チャンネルで公開される「鬼平犯科帳」の主人公・長谷川平蔵役を祖父(白鴎)、伯父(吉右衛門)に続き、十代目松本幸四郎(48歳)が五代目長谷川平蔵を演じる。


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by watkoi1952 | 2022-08-14 16:54 | 江戸幕府の主要役職 | Comments(0)