歴代日本の征夷大将軍



歴代日本の征夷大将軍






倭国のヤマト王権は、大和地方の大王と豪族の連合政権である。その政権は倭国統一へ向けて近畿から中国地方に勢力を拡大した。孝徳天皇の大化元年(645)大化の改新で天皇を中心に中央集権的な体制強化に急速に向かった。ヤマト政権は西海道より九州を制定して、大化5年(649)筑紫に外交と防衛を主任務とする「太宰府政庁」を置いた。西街道9国の行政統治と東アジアとの外交貿易と軍事上極めて重要な直轄地が太宰府である。






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太宰府は律令制時代における九州の軍事拠点であるが、東北蝦夷地には直轄軍事拠点を置かず、適宜に征夷将軍を任命して統治範囲の拡大を進めていた。天智2年(663)倭国と百済再興の遠征軍は、「白村江の戦い」で唐と新羅連合軍に敗戦して百済は滅亡した。この敗戦で唐・新羅の侵攻を恐れた天智天皇は防衛強化で太宰府より遣唐使を送り、沿岸には防人を広域配備した。






天武天皇元年(672)古代日本最大の戦乱「壬申の乱」で勝利した大海人皇子は、翌年(673)天武天皇と天皇を自称して即位した。天武天皇の孫の42代文武天皇の時代、大宝元年(701)大宝律令の制定で倭国を国号「日本国」、元号を「大宝」と定め、元号の継続が正式に定められた。唐の律令制を倣った中央集権国家の体制に整え、ヤマト政権時代の大王(おおきみ)に代る新しい中央集権国家の君主号を「天皇」と法令で定めた。







天皇中心とする「朝廷」は、律令制下で中央集権の官僚組織を伴った政府および政権である。天皇の語源は、中国の天皇・地皇・人皇の三皇に由来する。天皇の称号は、中国を意識した対外向け文書上の称号であった。国内では天皇を「オオキミ」、「スメロキ」、「スメラミコト」と称した。在位中の天皇は、御門(みかど)(みかど)禁裏(きんり)内裏(だいり)禁中(きんちゅう)御所(ごしょ)と呼ばれた。天皇を直接名指すのを憚った御所や御門の湾曲表現である。








初代征夷大将軍


奈良時代後期の延曆13年(794)桓武天皇は京都の平安京に都を移し、関東から東北の蝦夷(えみし)地を征服するため、初代征夷大将軍に大伴(おおとも)(のおと)麻呂(まろ)を任命した。この時の副将軍の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が蝦夷征伐で大きな成果を挙げため、弟麻呂は将軍職を返上した。延曆16年(797)坂上田村麻呂は東北経営にかかわる全指揮権を与えられ、蝦夷征伐の征夷大将軍に任命された。






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征夷とは、ヤマト王権と対立していた東北地方の蝦夷(えみし)と呼ぶ住民を支配下に同化従属させ、税を納めさせて統治する目的があった。その東征ために臨時に任命した官職が「征夷大将軍」であり、大宝令の軍団制の三軍を総括する最高指揮官である。いわゆる、東北の蝦夷(えみし)征討であるが、北海道の蝦夷(えぞ)地と同形異音語である。





奈良時代末期の延曆20年(801)第三次蝦夷征討では4万の軍を率いて胆沢の地を攻略し、翌(802)年に蝦夷の首長アルティを降伏させて、胆沢城(岩手県奥州市)を築いて、東北の自治を行なう鎭守府を多賀城(宮城県多賀城市)から移した。延曆22年(803)さらに北進して志波城(岩手県盛岡市)を築いて蝦夷地経略に多大の功績を残した。






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平安時代の弘仁4年(813)に文屋綿麻呂が任命されたのを最後に臨時の官職であった征夷大将軍は廃絶した。平安時代に入ると藤原北家の良房流一族が、天皇と強い姻戚関係を結び、摂政・関白・内覧の要職を占め、政治の実権を支配継続した「摂関政治」の始まりである。






昌泰2年(899)醍醐天皇により菅原道真は藤原氏を抑えるために右大臣に抜擢された。昌泰4年(901)学者の道真は家格を超えた栄進を妬まれていた。左大臣藤原時平は、醍醐天皇に道真は謀反を企てたと讒言した。これを受けた醍醐天皇は道真を九州太宰府に左遷、さらに側近の左遷、子供を流罪させた「昌泰の変」である。





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延喜3年(903225日菅原道真59歳は政庁南館で薨去し、安楽寺に葬られる。道真を左遷に陥れた藤原時平は6年後に39歳で病死した。その後も失脚に加担した関係者の病死や怪死に天災疫病が続き、道真の怨霊祟りを怖れた。醍醐天皇は道真の太宰府行きの勅書を破棄して正一位、太政大臣を追贈した。無実が証明された道真は怨霊から神格化され、文官で書道の達人から「学問の神様」として広く信仰された。






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延喜19年(919)菅原道真の墓の上に勅命により太宰府天満宮の社殿が梅の植樹と共に建てられた。天曆元年(947)に天満大自在天の神号を贈られ、全国12,000社ある天神社の総本山であり、道真は天神として崇敬されている。






平安時代中期の白河天皇は広徳3年(1086)堀河天皇に譲位して、白河上皇となる。しかし、堀河天皇に代わり上皇が引き続いて政務を執る「院政」が始まった。天皇の個人資産は持てないが、譲位して政治的制約の生じない上皇や法皇、つまり隠居した私人として大きな権益で富の集積を行なった。この資産をどう相続させるかが皇位継承に関わるため、上皇は朝廷に君臨できるのである。この院政は127年間続いたが、後鳥羽上皇の承久の乱で武家政治の優位が確立、公家勢力の失墜により院政はその役目を終えた。





しかし、院政の政治形態は存続して、断続的に江戸時代の天保11年(1840)光格天皇まで続いた。また、現職を引退してなお実権を掌握する将軍と大御所との二元政治などに変容していった。保元元年(1156)保元・平治の乱で権益闘争に勝利した平清盛が閨閥政治を強引に進めた。清盛の義理の妹滋子を後白河天皇の妃に入れ、滋子妃の産んだ高倉天皇に自分の娘徳子を入れて安徳天皇を産ませた。






これまで白河・鳥羽・後白河天皇と受け継がれてきた莫大な資産を安徳天皇に相続させるのが清盛の目的であった。平安末期に清盛による閨閥支配外に置かれていたのが、後白河天皇の第三皇子の以仁王もちひとおうである。平家の支配に不満を募らせた以仁王の令旨で、治承4年(1180)信濃源氏の源義仲に平氏打倒の挙兵を命じ、征東大将軍に任命した。寿永2年(11835月砺波山の倶利伽羅峠の戦いで、平氏10万の大軍を破って入京する。






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義仲は皇位継承問題に介入して、後白河天皇との不仲決裂で軍事政変を起こした。義仲は従兄弟にあたる源頼朝が送った義経と範頼の軍勢による粟津の戦いで討死にした。義仲の征東大将軍は蝦夷征伐と関係なく、自らの覇権を権威づける源氏棟梁の称号であった。






 

鎌倉幕府の征夷大将軍


源頼朝は清和源氏流の河内源氏の源義朝の三男に生れる。建久元年(1190)奥州藤原氏を平定した源頼朝は、朝廷より「権大納言」と「右近衛大将」の最高官位に任命された。しかし、朝廷に縛られ朝廷を警護する任務で鎌倉には戻れず最高官位を辞退した。頼朝には関東武士の総取締役として諸国に君臨する狙いがあり、征夷大将軍の官位を必要とした。そのため、後白河法皇に願い出たが許されず、建久3年(1192)法皇の崩御により認可された。源義仲の征東大将軍を凶例とし、坂上田村麻呂の征夷大将軍を吉例として源頼朝に任命された。





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鎌倉幕府の初代将軍頼朝は「鎌倉殿」と呼ばれ、源氏武士の首長で幕府の樹立や存続するための征夷大将軍となった。建久10年(1199)12月頼朝51歳は相模川の橋供養の帰路体調を崩し薨去した。建仁2年(1202)二代将軍頼家は、父頼朝と母政子の長男で征夷大将軍に任命された。建仁3年(1203)三代将軍実朝は、頼朝と政子の次男である。しかし、実朝26歳は御家人の権力闘争によって、鶴岡八幡宮境内で二代将軍頼家の子で僧侶の「公暁」に暗殺された。二代三代は征夷大将軍に執着することもなく、鎌倉幕府の源氏将軍は三代で断絶した。





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鶴岡八幡宮は康平6年(1063)河内源氏の源頼義が平忠常を討取り、京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜に勧請した。治承4年(1180)賴義の5代後の源頼朝が鶴岡若宮社を現在地に移した。鶴岡八幡宮は鎌倉武士の精神的団結の拠点となり、諸国の武士もこれに倣い、国中に武家の護り神となる八幡社が建立された。全国4,4000社に及ぶ八幡社の総本社は、豊後国「宇佐八幡宮」である。






嘉禄2年(1226)四代将軍の藤原頼経は、頼朝の妹の曾孫あたる関白九条道家の子である。摂関家から招いた幼い頼経の後見人に、頼朝の正室北条政子が就任した。政子は幕政の最高権力者として政務を執り「尼将軍」と称された。寛元2年(1244)摂関家出身の五代将軍藤原頼嗣と共に「摂家将軍」と呼ばれた。





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建長4年(1252)六代将軍宗尊親王は後嵯峨天皇の嫡子である。文永3年(1266)七代将軍維康親王の父は六代将軍宗尊である。正応2年(1289)八代将軍久明親王は後深草天皇の嫡子であり、徳治3年(1308)九代将軍守邦親王は八代将軍久明親王の嫡子である。このように北条氏が四代の皇族の宮様を将軍に迎えた。






幕府の実権は北条氏の執権政治が掌握しており、将軍とは名ばかりの傀儡であった。幼少で高貴な皇族将軍をお迎えして、成人すると解任して京都に送還することを九代将軍守邦親王まで繰り返して「宮将軍」と呼ばれた。元弘年(1333)後醍醐天皇の倒幕軍の足利尊氏、新田義貞によって、北条一族は東勝寺で自刃、御家人制を根幹とする鎌倉幕府は9141年間で滅亡した。







室町幕府の征夷大将軍


建武3年(1336)北朝初代の光明天皇から征夷大将軍に任命された足利尊氏は「建武の乱」において、南朝の後醍醐天皇による建武政権を崩壊させた。すると、天皇は吉野の南朝と京都の北朝に分裂した南北朝時代の到来である。尊氏は後ろ盾である北朝の光明天皇を南朝の後醍醐天皇から京都で護る必要があった。曆応元年(1338)関東を拠点とする足利尊氏は、京都三条坊門に幕府を置いた。





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将軍尊氏は河内源氏の義国流足利氏本宗家八代目棟梁の足利貞氏の次男に生まれた。鎌倉幕府を共に倒した新田義貞は同族である。新政権は尊氏が主従的支配権を握り、武士の棟梁として君臨した。政務を司る統治的支配権を弟直義との両頭政治を行なった。しかし、この二元化した権力は徐々に幕府の内部闘争に発展して行くことになる。正平13年(1358)12月、初代尊氏の長男よしあきらは2代征夷大将軍に任命された。南北朝の権力闘争に伴って幕府内の分裂造反は絶えなかった。





そこで、幕府の基盤固めで所領問題を解決するための「御前沙汰」を設立、この評定制度は15代で継承された。正平22年(1367)12月に義詮38歳は病死した。その100日後に長男義満が生れた。正平23年(1369)三代将軍に就任した義満10歳は、管領、足利一門の守護大名が幕政を主導して、明徳3年(1392)「明徳の和約」で60年に及ぶ抗争の末に南北朝合一を果たした。さらに、有力守護大名の勢力を抑えて幕府権力を確立させた。





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永和4年(1378)皇室から譲られた北小路室町の「花亭」を政庁を兼ねた足利将軍家の御所とした。通称「花の御所」である。御所の西側の室町通りに正門を設けて「室町殿」と呼ばれた。これが室町幕府名の由来である。







応永4年(1397)義満は西園寺家から京都北山の屋敷地を譲り受け、舎利殿を中心とする山荘の北山殿を造営した。義満は北山文化を開花させ、政治,経済、文化の最盛期を築いた。義満の死後に北山山荘を鹿苑寺とし、金箔を貼られた舎利殿から「金閣寺」と呼ばれた。





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臨済宗相国寺の山外塔頭の一つである鹿苑寺(金閣寺)の1階は平安貴族の寝殿造りに、阿弥陀三尊像が置かれている。2階には武家造りに観音像が置かれている。3階には仏舎利を納めた仏堂で、あの世の極楽浄土をこの世に出現した姿でもあった。公家と武家に日明貿易文化が融合した華やかな北山文化の象徴である。







応永元年(1394)12月、3代将軍義満より将軍職を譲られた
義持9歳は第4代将軍に就任した。実権は大御所の父義満にあり、義持は応永7年(1400)の幕府評定始めからである。義持は室町歴代将軍の中で、調整役として機敏に立ち回り、比較的安定した政権を築いた。義持の将軍在籍28年は室町幕府の歷代最長である。応永30年(1423)3月、父義持38歳から長男義量17歳は、将軍職を譲られ第5代将軍に就任した。義持は父義満に倣い大御所となった。






隠居した父と有力管領による幕政で、義量は実権はなかった。応永32年義量は急死したため、義持が将軍代行として、正長元年(1428)に死去するまで政務を執った。正長2年(1428)義満の子義教が第6代将軍に就任した。嘉吉元年(1441)将軍義教47歳が嘉吉の乱で殺害されると,足利将軍の権威は著しく失墜して、管領細川氏に実権を奪われる。絶対的な強権を誇った足利将軍は義教で実質最期となった。第7代将軍は義教の長男義勝が就任したが9歳で病没した。






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文安6年(1449)第8代将軍に義教の五男義政が就任した。応仁元年(1467)京都の東西を主戦場とする「応仁の乱」が勃発した。義政は後継に恵まれず、弟義視を次期将軍に指名していた。ところが、正室に義尚が生まれて将軍の後継争議となった。そこに畠山・斯波両管領家の家督争いに介入し、全国の守護大名を二分する騒乱となった。






いわゆる、実力のみが物を言う「下克上」の戦国時代に突入していった。文明5年(1473)第9代将軍に義尚9歳は譲位され就任したが、形式の将軍職であった。文明9年(1477)に応仁の乱の終結、勝者は将軍の地位を得た義尚と管領の地位を独占した東軍の細川家である。文明15年(1483)義政は東山山荘の銀閣に移り住み、実権を握り続け「東山殿」、義尚を「室町殿」と呼ばれた。






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義政の造営した慈照寺(銀閣寺)は、臨済宗相国寺の山外塔頭の一つである。金閣寺の舎利殿を模した杮葺屋根の1階は、禅宗の影響を受けた質素な武家の書院造りで「詫び寂び」の思想から連歌、茶の湯、生け花が広まった。現在の日本家屋の原型である。2階は禅宗様仏殿で特徴のある花頭窓が造られ静かな東山文化の雰囲気を醸し出している。







室町幕府は権威を失墜し、弱体化した政権を形式的に保持した足利将軍が就任した。第9代将軍義尚、第10代将軍義材、第11代将軍義澄、第10代将軍義材が義殖と改名して就任、第12代将軍義晴、第13代将軍義輝、第14代将義栄、兄で13代義輝が三好三人衆に殺害されると、弟の義昭和が第15代将軍に就任した。永禄11年(156810月最期の将軍義昭は、信長の軍事力を背景に15代征夷大将軍に就任する。元亀4年(15737月将軍義昭は織田信長によって京都から追放され、事実上の室町幕府の終焉となった。






天正4年(1576)2月、義昭は備後国鞆の浦に移り、毛利輝元を副将軍として庇護を受ける。義昭の勢力は「鞆幕府」として幕府の形式を100名ほどで備えていた。天正13年(1585)秀𠮷が朝廷より関白に任命されると「関白秀𠮷・将軍義昭」の時代が2年半続いた。この期間が秀𠮷の天下統一にあたる。天正16年(1588)1月13日に義昭は秀𠮷と共に朝廷に将軍職を返上した。事実上の235年間、あるいは将軍返上までの244年間続いた室町幕府の終焉である。







安土桃山時代の関白と太閤


永楽11年(1568)織田信長は足利義昭を擁立して上洛し、義昭を足利幕府15代征夷大将軍職に就け、自らその実権を握ると天下統一政権樹立の端緒を開いた。天正10年(1582)4月25日、朝廷は信長が征夷大将軍、太政大臣、関白の何れかに就任するか正式な返答が待たれていた。





朝廷は三職推任という曖昧な推任で信長の様子を覗っていた。信長は天皇朝廷の権威も越え、安土城に見える「天主」その眼下の本丸御殿を内裏清涼殿の様式で築くなど天下に君臨する野望があった。その真意を怖れた光秀と朝廷側の近衛前久が密かに通じて千載一遇の機会を覗っていた。光秀には朝廷を介して、足利義昭と織田信長の連絡役として信長の家臣となった経緯がある。





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天正10年(158262日京都本能寺に宿泊中の織田信長は、家臣明智光秀の謀反による襲撃で父信長は自刃、織田政権二代目に就任していた信忠26歳は二条新御所で自刃した。信長は伝統的な権威や秩序を否定し、犠牲を厭わない手法で天下統一を目指していた。この手法が天皇朝廷に及ぶ懸念を確信の上、光秀は独裁者親子の暴走を断ち切ったのである。





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五摂家筆頭の近衛前久は,同年2月に太政大臣に就任していたが、同職を信長に譲る意向なのか5月に辞任していた。本能寺の変後、近衛前久は織田信孝や羽柴秀𠮷から光秀との謀議の嫌疑を受け、家康を頼り遠江浜松に下向、出家して東求院龍山と号した。帰京後も立場に窮し、実子の信尹との不仲で失意の余生を過ごした。




征夷大将軍の武家政治下で朝廷の力は弱まるが、天皇は歴史から排除されることなく名目上の統治者として王政復古まで存続した。それは,天皇が任命した征夷大将軍の武家政権に国の統治を委譲したに過ぎない。いずれの統治形式であれ、織田信長の政権が確立すれば、天皇朝廷を頂点とする統治組織の根幹を信長一族に執って変わられるという信長の構想その真意に怖れ怯えたのである。




秀𠮷は信長の三男信孝を擁立して山崎の戦いで光秀を破ると、大徳寺で信長の葬儀を行ない後継者としての地位を確立した。天正18年(1590)相模の小田原北条氏を滅ぼし、奥州仙台の伊達氏を服従させて天下統一を成し遂げた。これまで摂政関白には、藤原北家嫡流の五摂家の者に任命されていた。秀𠮷は関白になるため、光秀との謀議を疑った五摂家筆頭の近衛前久の猶子(形式的な養子)になり姓を平から藤原に改め太閤の資格を得たのである。





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天正13年(15857月に関白就任、9月正親町天皇から豊臣の本姓を賜った。秀吉は武家出身でないため、源氏流征夷大将軍の地位を諦め、摂家筆頭の近衛前久の養子になり買収と圧力で公卿の最高位・関白太政大臣に任官して豊臣政権への箔付とした。秀𠮷は秀次を関白に就任させ、前関白の秀𠮷は念願の「太閤」に就任した。なお、関白が出家すると「禅閤」と称される。






安土桃山時代は(1568)織田信長の入京から(1600)関ヶ原の戦いまでの32年間である。信長が「安土城」を本拠に天下統一を推進した。秀𠮷は晩年の居城である「伏見城」は、後に伏見を「桃山」と改称のため、安土桃山時代と名付けられた。(しょく)(ほう)時代とも言うが、ともに征夷大将軍に就任した源氏政権ではないので豊臣幕府や安土桃山幕府などと呼ばない。







江戸時代の征夷大将軍


鎌倉時代以降は、源氏武士の首長で幕府を樹立存続できる征夷大将軍の官位となった。三河国松平藤原氏流の徳川家康が清和源氏流へ改姓する必要に迫られていた。平安時代に源清蔭、平伊望、藤原忠平、橘公頼が朝廷の要職に選ばれた四姓に始まる。その歴史ある四姓の中で、平氏・藤原氏・橘氏では、征夷大将軍の叙位任官の資格者と認められないからである。





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そこで家康は、清和源氏流新田氏の一族吉良家から系図を借受けて、新田氏の系筋に初代松平親氏以降の松平家九代を追記して体裁を整えた。源氏流新田氏の子孫・松平宗家の誕生である。この系図の文脈捏造の作成は、家康の側近で神道家の神龍院梵舜によるものである。慶長8年(1603)徳川家康が征夷大将軍に任命された。徳川幕府は歴代将軍15265年にわたり世襲した。






薩長土肥の新政府軍には最強国イギリスが、徳川幕府軍には準強国のフランスが後方支援に就き、植民地支配を画策していた。この状況で両軍の内戦が始まれば、疲弊した日本は英仏両国の植民地・租借地となる。慶喜はこの内戦を避けるため「大政の奉還」の秘策に転じた。政権を放棄して徳川幕府が消滅すれば、新政府軍は討幕の根拠を失うことになる。






大政奉還とは、慶応3年(18671014日京都二条城において、江戸幕府の第15代将軍徳川慶喜が、朝廷から任命されていた征夷大将軍の職を辞し、国家統治権を朝廷に返上することである。同日返上を朝廷に奏上、翌15日に天皇が奉上を奉勅した。慶喜は1024日に諸藩への軍事指揮権を有する征夷大将軍職の辞職願を提出する。1110日は、武家政治を廃止して、元来の天皇による君主政治に復した日である。ゆえに、現在11月10日には天皇の即位の礼など皇室儀礼が行なわれている。





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129日の王政復古では、摂政・関白と幕府の廃絶、総裁・議定・参与の三職の設置など諸事神武創業の始めとする宣言「王政復古の大号令」を発した。ここに徳川幕府は形式上の終焉を迎えた。しかし、朝廷には政権を維持する機能は備えておらず、慶喜の目論見どうり、引き続き幕府が政権を掌握した。慶喜はこの状態で武家による議会を発足させる構想があった。倒幕強硬派が目指すのは西洋式の新国家であり、西郷隆盛らは慶喜に対して官位と領地を朝廷に返還を求めた。





慶喜はこの要求を拒否して、朝廷と対立できない慶喜は、衝突を避けるため本拠地を京都からに大阪城に移した。旧幕府軍は新政府軍の高圧的な態度に武力での抵抗を決意し、慶応4年(1868)に「戊辰戦争」が勃発した。慶応4年(1868)1月2日、前年暮れの薩摩藩による江戸騒乱を受け、大阪城の慶喜は薩摩の不法に対する「討薩表」を掲げ、旧幕府歩兵隊、会津・桑名の両藩兵を主力とする軍勢を京に向かわせた。翌3日夕刻、京都南の鳥羽・伏見において、薩長兵の新政府軍と衝突、戦端が開かれた。





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4日には仁和寺宮嘉彰親王を征伐大将とする朝命が下り、錦の御旗を掲げた新政府軍は正式に官軍とされ、旧幕府軍は賊軍となった。意気上がる5千の新政府軍に対し、賊軍となった1万5千の旧幕府軍は総崩れとなった。6日夜半に乗じて慶喜は大阪城を脱出して海路江戸へ退却に及び幕府軍の敗北が決定した。7日には慶喜追討令が出され、旧幕府勢力は朝敵となった。





「鳥羽伏見の戦い」に始まり、4ヶ月後には江戸城の無血開城が行なわれた。新政府軍は北上する旧幕府軍を追い、会津、函館まで追い詰め、榎本武揚らが降伏した事で、新政府軍が勝利し、「戊辰戦争」は終結した。ここに織豊時代を除く鎌倉時代から643年間に及ぶ「征夷大将軍」による武家政治の終焉を迎えた。





歴史上の将軍名称は、奈良時代の大将軍、将軍、副将軍に始まり、征夷将軍、征東将軍、征東大将軍、征狄将軍、征越後蝦夷将軍、陸奥鎭東将軍、陸奥鎭守将軍、鎭狄将軍、征西将軍、征隼人時節大将軍、鎭西将軍などの将軍名で任命されていた。幕府とは、これら征夷大将軍などが蝦夷征伐の謀議をするために、戦陣に幕布を張った軍営を意味した。後に武家政権が全国統治を行なう場としての意味を持つようになった。











by watkoi1952 | 2022-05-05 18:28 | 江戸城を極める | Comments(0)