精進/本膳/懐石/会席料理
精進/本膳/懐石/会席料理
日本料理の起源「神饌」
伊勢神宮の豊受大御神は、内宮の天照大御神の御食事を司る御饌都神である。御饌殿では朝夕の二度、神宮の神々に御食事を供える日別朝夕大御饌祭が1544年前から行なわれている。神職により忌火屋殿で調理された神饌は、御飯三盛、鰹節、魚、海藻、野菜、果物、御塩、御水、御酒三献に御箸が添えられる。

大正13年(1924)伊勢神宮の大御饌の御料酒に全国の蔵元の清酒の中から、唯一「白鷹」が選定された。御饌殿に備えられ鯛、昆布、御飯、鰹節、野菜などに、専用の土器に白鷹が注がれ供えられる。御神酒三献に素焼きの土器が清酒を吸い、恰も神々が飲み干したかのようである。
御饌殿に運ばれて御祭神にお供えされ、神職が御饌殿の前で祝詞を奉上し、皇室のご安泰、国民が幸福であるように、日々祈りが捧げられる。神饌とは神の供物として、特別に選び抜かれた食材である。この食べ物が人の手に触れて穢れないように竹を二つに折曲げた折箸で調理していた。今日の御箸の創始である。儀式が終わると神饌を下げて神と共に皆で食する儀式宴が「直会」である。

禰宜・権禰宜・宮掌の各1名に出仕2名の神職で毎朝夕
欠かさず、辛櫃に納められた神饌を御饌殿に運ばれる。
皇室で毎年行なわれる新嘗祭も同様である。神と同じ食事を取り入れる事で神と親密に結び付き、一体感と共にに霊力を取り込み御加護と恩恵に預かっていた。これを「神人供食」と言い、日常生活に取り入れていた。他の人達と一緒に同じ食事を分かち合う事で親密さが増し、協力的な人間関係が醸成される。この神饌が日本料理の原形となって、わが国の和食文化が発展していった。
古代に神饌で使われた竹の折箸は奈良の正倉院に保存されている。古くは手食で柏の葉などに食物を盛って手掴みで食べていた。今日でも柏餅に柏葉を使うのはその名残である。推古朝(600~618)の遣隋使の派遣で二本一組の箸を持ち帰り、祭祀の神饌や朝廷の食事に採用された。平安時代には食物を口へ箸渡しする箸食文化が一般化していた。
伊勢神宮の式年遷宮
伊勢神宮の「式年遷宮」は、飛鳥時代690年に創始1300年の悠久の歴史を有する神宮の伝統行事である。「式年」とは定められた年を意味し、「遷宮」とは新しい社殿を造って「御神体」を遷すことである。20年に一度、社殿や宝物などを造り替えるもので、天皇の許可「御聴許」を受けて遷宮の準備が始まる。この式年遷宮が20年に一度行なわれる理由は、木造建築の尊厳を保持するため、宮大工などの技術を伝承するため、20年は人生で三度の技術継承の区切りである。

社殿は「唯一神明造」という日本最古の建築様式が用いられ、創始より変わらぬ姿を見ることができる。式年遷宮で最も重要な行事が、御神体「八咫鏡」を新しい正殿に移す荘厳な「遷御の義」である。平成25年(2013)10月5日に第62回目の式年遷宮が行なわれている。
禅宗の精進料理
精進料理は、鎌倉時代に禅宗が日本で流布し始めて、仏教の戒律を守る修行僧の食事として生まれた料理法である。天台宗の書に見える、雑なき故に「精」、間なき故に「進」から「精進」と呼ばれた。ゆえに精進とは、雑念に囚われる事なく修行に専念し、正しい努力をする事をいう。仏教における戒律に基づいて、殺生を避け、煩悩を刺激せず、野菜など植物性の食材のみで作った「精進料理」が生まれた。
曹洞宗の開祖である道元禅師が、日本の精進料理の礎を築いた。道元は料理の作法や心構えを「典座教訓」に記した。食材に対する敬意を持つこと。整理整頓を心がけ、道具を大切にすること。食べる人の立場になって作ること。手間と工夫を惜しまないことである。さらに、1,喜心(作る喜びやもてなす喜び)2,老心(思いやりや気配り)3,大心(偏りや固執のない大らかな心)の「三心」を大切にするよう説いている。
精進料理の食材である精進物とは、野菜類、穀類、海藻類、豆類、木の実、果物などである。戒律の殺生にあたる動物性の食材、肉類、魚介類、卵、乳製品は一切用いない。さらに、臭気の強い野菜の忍辱、野蒜、韮、葱、辣韮の「五葷」は煩悩を刺激すると禁じている。禅院の山門の石碑に「不許葷酒入山門」と刻まれている。「葷酒山門に入るを許さず」と僧侶に五葷と酒を戒めている。

精進料理の特徴は、「煮物」には鰹出汁を使わず、昆布や乾椎茸などで「精進出汁」を作る。「胡麻豆腐」には豆腐の名があるが、大豆の豆腐と異なり、実際は胡麻を擦り潰して、水で溶いた葛粉と混ぜ合せて固めたもの。「精進揚げ」は野菜の天麩羅で、人参、茄子、蓮根、薩摩芋、椎茸など、天麩羅粉には卵は入れない。

「がんもどき」は肉の代用品で、豆腐を潰して人参や牛蒡などを刻んだ野菜を混ぜ、油で揚げたもの。けんちん汁は、大根、人参、牛蒡、里芋、蒟蒻、豆腐を胡麻油で炒め、醤油で味を整えた「すまし汁」である。鎌倉建長寺の僧侶の発祥で「建長寺汁」から「けんちん汁」に転じた由来がある。禅宗では門下の禅僧の悟りの深浅を試すために行なう押し問答を「一挨一拶」という。修行者が疑問を問い、師家がこれに答える。
いわゆる禅問答で悟りを開く修行の一環である。これが転じて「挨拶」の語源となった。「挨」は心を開いて近づく、「拶」には擦り寄るの意がある。つまり、お互いの心を開いて相手の心に近づいていくことである。茶の湯における茶会の儀礼なども、修行の場として発展した。
普茶料理は黄檗宗を京都宇治の万福寺に開山した隠元禅師が江戸初期に伝えた中国風の精進料理である。普茶とは「普く衆人に茶をほどこす」意で、料理を通じて親睦を深め労う。客膳の形式は四人一卓択煎茶に始まり、胡麻豆腐、巻繊汁 卓袱料理のように机を用い、大皿に盛って複数人での食事形式である。
臨済宗の博多承天寺の開祖聖一国師は、鎌倉中期の中国留学で点心の基になる羹・饅・麺を持ち帰った。点心は禅語の「空心(すきはら)に小食を点ずる」が語源で、空腹を凌ぐ僅かな食事という意である。早点(朝御飯)、午点(おやつ)、晩点(夜食)と空腹を満たす事を目的とした軽い食事が点心である。座禅中の眠気覚ましに許された、茶を飲みながら点心を食べる事を「飲茶」という。
武家の本膳料理
本膳料理は、鎌倉時代の武家料理の作法に始まり、室町時代の武士階級で発達した最も格式の高い料理である。それまで、平安時代の公家による大陸由来の饗応料理は、大きな一卓に全ての皿を並べる「大饗料理」であった。室町幕府を京都に開くと、武家の礼法が確立され、食事の作法や礼儀が厳しく定められたことで「本膳料理」が形成された。足利将軍家は鎌倉幕府と異なり、公家との交流も盛んで酒宴での饗応が行なわれた。
この武家社会の中で、公家の大饗料理のもてなしに儀式的な要素や禅宗の精進料理の技術の高さを取り入れた。こうして、公家と武家との交流儀式料理として確立したのが「本膳料理」である。この本膳料理が今日の和食と呼ぶ日本料理の原型となる。本膳料理は公家の好む能や狂言を鑑賞しながら、「式三献」の酒礼で開かれる。お酒を一杯振る舞われる事を一献といい、振る舞われた盃は三回で飲み干す盃事で始まる。
初献に雑煮、二献に饅頭、三献に吸い物が出される。極めて儀式的な式三献は、今日の酒席での乾杯や駆付け三杯や婚礼儀式の三三九度の盃事にあたる。さて、式三献の酒礼が終わると「饗膳」へ移り、飯汁を中心とした料理が出る。次ぎに「酒宴」に移り、肴と吸い物が出される。酒杯が交わされる間に様々な芸能が演じられる。本膳料理は一汁三菜を基本とする。一汁三菜とは、一汁は汁物、三菜は、膾・煮物・焼物である。

だが、御飯と香物は数に入れない決まりがある。一の膳(本膳)に始まり、宴会の規模により二の膳、三の膳、与の膳、五の膳まで膳数が増えると二汁五菜、三汁七菜と増えていった。これらの膳は一度に全部揃えて出された。

本膳料理には、同じ皿の料理を続けて食べてはならぬという作法がある。それに従い、御飯とおかずを一口毎に交互に食べる。本善の香の物は御飯の最後か、お茶が出てから食べる。三汁七菜の場合、与の膳に乗っている焼き物は、箸を付けずに折り詰めにして持ち帰る。五の膳に乗っている引き物は食べずに持ち帰る土産用で、今日の結婚式での引出物に継承されている。
織田信長は甲州征伐で勝利し、甲斐武田家を滅亡させた。その長年の功労者である徳川家康に駿府一国が贈られた。天正10年(1582)5月15日、家康は信長に戦勝の祝宴に招かれた。安土城に登城した家康は3日間の饗応で滞在した。この祝宴の饗応役に命じられたのが明智光秀で、饗応料理が「本膳料理」であった。しかし、この饗応に不手際があり、光秀は信長に激しく叱責され、人前で足蹴にされ饗応役を解任され丹羽長秀に交替した。家康は20日から上洛して京都、大阪、堺の見物に出掛けた。

さて、信長の怒りは、家康の本膳料理が主君信長より豪勢なもてなしにあった。一度に出される本膳料理は、膳の数や盛り付けで武家の権威と格付けを表現していた。駿府を贈与された家康は信長との同盟関係から臣従の意を示しており、新たな二人の主従関係に相応しくない配膳であった。信頼する光秀が気働き、忖度が及ばないことが逆鱗に触れたのであろう。天下人へ間近に登り詰める男の矜持がそれを許さなかった。
室町時代の儀礼形式の本膳料理は、江戸時代中期の上級の武士階級から、本膳料理を済ませて、裃を脱ぎ二次会形式で少々簡略化した味本位の「袱紗料理」でもてなした。書体に例えれば、本膳料理は楷書、袱紗料理が行書、懐石料理は草書といえる。本膳料理が廃れるに連れ、袱紗料理が主体となったが、明治以後は懐石風の料理に座を譲った。
「椀飯」とは、公家社会の饗宴の意であり、中世武家社会では大名たちが輪番で将軍に祝膳を奉る意であった。近世農村社会では、本家当主の元へ正月やお盆に親族が集まり供応を受ける意となった。このように親類縁者や友人知人をご馳走でもてなす事を「椀飯振舞」と呼ばれ、「おうばん」が気前よく振る舞う意の「大盤振舞」と転じた。
茶会と懐石料理
わが国の喫茶の歴史は、鎌倉初期の建久2年(1191)臨済宗の開祖「栄西禅師」が宋から持ち帰った茶木の種子による薬草栽培に始まる。安土桃山時代、千利休によって茶の湯が確立すると、禅寺の精進料理をもとに質素な茶の湯での料理、器、盛付け、配膳、振る舞い方が定められた。すなわち、茶の湯の会席料理は、茶道の流儀により、お茶を楽しむ前の饗応料理である。
江戸中期になると割烹料理屋が会席料理を出すようになり、区別するために禅の懐石の由来から「懐石料理」と名付けられた。この由来を紐解くと、禅宗の修行僧は一日一食で、空腹や寒さを凌ぐため、薬石を暖めた温石を懐に入れて一時の餓えを凌いだことによる。禅宗に深く関与した茶道の懐石料理は、薄茶や濃茶を美味しく嗜む前に懐に入れる温石のように空腹を和らげる少量の食事である。
献立の基本は、一汁三菜で御飯、汁物、向付に椀盛、焼物、煮物のおかず三品に香物も出る。茶道の心得である「侘び寂び」を料理に表現しており、旬の食材を使い、素材の持ち味を生かし、心配りを持っておもてなしする。会席料理と同じ発音の混同を防ぐため、茶事を目的とする本来の懐石料理を特に「茶懐石」と呼んで、一般料理屋の豪華で品数の多い「懐石料理」と一線を画している。
正午の茶事懐石の作法と流れは、「折敷」という脚のないお盆の手前左に飯椀、その右に汁椀、奥に向付が置かれ、手前に利休箸を添える。主催の亭主が自ら折敷を運び客に手渡す。飯椀と汁椀は塗物の蓋付であり、向付は陶器の皿が基本である。飯椀には炊き立て柔らかい飯を少量盛り、汁椀の味噌汁も具が頭を出す程度の控えめにする。向付は一汁三菜の一菜目でありお造りなどを盛る。利休箸は両端が使える杉箸で、箸置を用いず折敷の縁に乗せ掛けてある。

さて、飯は裏千家では一文字に形を整える。裏千家ではふっくらと盛り、一口程残して、後で出される湯漬けのために取り置く。汁椀は全部飲み切った頃合いを見て、亭主が銚子と人数分の盃が乗った盃台を運び、客に酒を注ぐ。客はここで向付の肴に手を付ける。酒は懐石の中で三回ほど出される。

一献目の酒が出された後、一汁三菜の二菜目にあたる煮物椀はやや大きめの蓋付き椀で出される。煮物は懐石の主役料理であり、しんじょ、麩、湯葉、野菜などが彩り良く盛り、すまし汁仕立てで出される。この煮物の前後に人数分の飯次が出され、客は各自の飯椀にお替りの飯を付ける。また亭主から汁替えが勧められ、味噌汁のお替りが運ばれる。わが国特有の「侘び寂び」の美意識は、中国伝来の禅宗と結び付き広まった。
室町中期以降、禅宗の物事の本質を求める思想から、「村田珠光」らが始めた簡素で静寂を感じる道具を使う新しい茶の湯の礼式が「佗茶」である。この珠光の茶の湯をさらに広めたのが堺の豪商「紹鷗」で、彼に茶の湯を学んだのが「千利休」である。利休は人びとの心の交流を中心に緊張感のある茶の湯を目指した。自らの審美眼により独創性の高い茶器道具を創造して佗茶を大成した。
江戸時代には茶道における侘びは、根本美意識と位置付けられた。因みに、「侘び」は慎ましく質素な物にこそ趣を感じる。「寂び」は時間経過による変化が織りなす多様な美しさを感じる。こうした「侘び寂び」の美意識は禅や茶の湯、絵画や庭園、美術工芸品など日本文化と日本人の価値観に大きな影響を与えている。
宴会の会席料理
会席料理は、室町時代に武家が客人を饗応した格式の高い「本膳料理」を簡略化した料理である。日本料理の原形である本膳料理の儀礼的な形式は衰退したが、さらに簡略化した会席料理は「お酒を楽しむための宴会の料理」として誕生した。同音異語のため混同される懐石料理は「お茶を楽しむための茶席の料理」で料理形式も大きく異なる。
江戸の文化文政期に庶民の一膳飯屋や茶漬茶屋に対し、上客を目的とする割烹料理屋が、連歌や俳句の会席での「会席料理」の看板を掲げた。俳人の会である句会・俳席を「会席」と呼び、会席の終盤にお酒が振る舞われ酒宴が開かれた。会席料理は、酒の肴が中心の酒を振る舞うための料理で御飯と汁物が最後に出てくるのが特徴である。割烹料理には「割主烹従」の言葉がある。
割烹の「割」は、包丁で切る刺身などの仕事が第一で、次の「烹」は火を使って煮焼する仕事がこれに続くとされている。また「椀刺」とは、椀すなわち吸い物と刺身を食べれば、どの店でも料理人の腕前を確かめられる。すなわち、刺身で包丁の冴えを見極め、吸い物で味付けを確認するのである。古くから魚介類を生で食べるものは膾と言い、刺身は造り身という調理技術であったが、刺身の刺を忌み造り身が醤油の発達に伴い「お造り」という言葉が定着している。
日本料理に使う包丁は、薄刃包丁や出刃包丁など用途に合わせて使い分ける。包丁の「包」は調理場、場所の意、「丁」はその仕事に従事する料理人の意である。また、遠方の特産食材の鮮度を保つため、馬を走らせ馳せ参じた事から、生産、運搬、調理の人達に感謝の気持ちを表現する「ご馳走様」という言葉が生れた。

「句会の終盤から始まる酒宴に出される会席料理の配膳」
①「先付」は、お酒を一口呑んで最初に食べる料理である。折敷というお盆や平皿に和え物や膾の酢の物をのせる料理である。
②「煮物椀」は椀を左手で抑え、右手で蓋を取る。旬の魚や野菜に鶏肉などのすまし汁で、この出汁が料理人の腕の見せ所である。
③「造り」の刺身には、昆布締め、隠し包丁を入れて盛り付けている。
④「焼物」はメイン料理となる旬の白身の焼き魚である。近年は和牛や鮑に伊勢海老が出されることもある。尾頭付きの焼き魚は、左に頭、右に尾の向きで盛り付けられる。まず中央部の骨の上の身を頭側から尾に向かって箸で食べる。次ぎに左手で魚の頭を抑え、骨と下の身の間に箸を入れて骨をはずし、頭と骨を皿の奥に置いて下の身を食べる。
⑤「箸休め」は、箸洗いとも呼ばれる小椀で出される吸い物である。口中に残る料理の味を洗い落として、次の料理に備えるため、汁は全部飲み切る。
⑥「八寸」は正方形20cm角のお盆に、酒のあてとなる魚介類と野菜に山海の珍味が華やかに盛り付けられている。
⑦「炊き合わせ」は、各種の野菜を飾り切りし、薄味で煮たものである。
⑧「御飯と香の物」は、炊きたての白米、あるいは炊き込み御飯に赤だしの味噌汁、小皿に数種の漬物、漬物は締めの合図で料理は終了となる。
⑨「菓子・抹茶」は、食後の菓子は和菓子が中心だが、果物やアイス類が出されることもある。和菓子を先に食べてから抹茶を頂くのが基本である。
今日のようにテーブルで食事をする以前には、折敷という足付きの膳に一人前ごとに料理が並べられた。高さは正座をした時の膝の高さにあり、食器を手に持って食べるには片手で様々な使い方のできる箸使いが必然であった。これが日本人独自の食事様式となり、その指先の器用さが緻密で精巧な伝統文化製品作りの礎となった。
私たちは誕生から約100日~120日の間に、初めて食べる膳を調え、箸をとって食事のまねごとの儀式を「お喰い初め」または「箸はじめ」と言う。亡くなる時は「枕飯」といって、故人が愛用していた箸を一本、高盛りした御飯に立てて、お箸をあの世とこの世を結ぶ架け橋に見立てて死者を送る。火葬後に遺骨を箸で拾う「骨揚」で生涯を終える。人の一生は「箸に始まり、箸に終わる」と言われる由縁である。合掌
by watkoi1952 | 2022-04-04 18:30 | 江戸学と四方山話 | Comments(0)

