江戸前の浅草海苔



江戸前の浅草海苔




「浅草海苔」といえば正方形に近い、黒色光沢の横19×縦21cmの乾海苔シートを思い浮かべる。わが国では、縄文・弥生時代の日本人は魚貝とともに岩海苔や海藻類を食べていた痕跡が貝塚の発掘調査などで見られる。飛鳥時代の持統天皇3年(689)「(むらさき)(のり)献上」が木簡に記され、海苔の文字が初めて登場した。主に出雲、志摩、石見、土佐、安芸で採取されていった。




奈良時代の大宝2年(70211日に施行された「大宝律令」に大和朝廷への租税の調として、三十四品目が挙げられている。その二十九品目目に「(むらさき)(のり)」が記載されている。これに因んで、大宝211日を大宝226日と西暦に換算して、昭和41年(1966)全国海苔貝類漁業協同組合連合会が26日を「海苔の日」と制定した。海苔は初春の季語であり、この時期は生海苔の旬の季節でもある。




奈良時代の和銅6年(713)に編纂され、養老5年(721)に完成した常陸国(茨城)の地誌「常陸国風土記」に海苔の記述がある。また、奈良時代の仏教渡来によって殺生が戒められた為、多くの寺院では滋養豊かな海藻類は貴重な精進物として尊ばれていた。平安時代の制度や儀式を記した延喜式には、宮中への献上品や上級貴族の階級別食事でも、紫菜と呼ばれた岩海苔は、最貴重品と記されている。




江戸で最古の浅草寺は隅田川の旧名浅草川河口にあり、浅草湊と呼ばれた物流の要所であった。浅草湊周辺を始め、江戸前一帯や下総葛西などで、岩や貝殻、流木などに自生した海苔を採取していた。徳川将軍家の祈願所であった浅草観音の門前市で賑わう境内で生海苔が旬の冬限定で売られていた。




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享保2年(1718)頃、新吉原遊郭に近い山谷で抄いた浅草和紙の製法を転用して、その四角の「漉き桁」で海苔を薄く漉きとる技法が考案された。天日乾燥した四角い板海苔は、冬に限らず四季を通して販売される「浅草海苔」が登場した。そして、寿司屋台で海苔巻が大評判となる。





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さて、天正18年(1590)徳川家康が江戸に幕府を開き、佃漁民に加え品川の漁民に日々ご膳魚の献上を命じた。そこで品川漁民は悪天候や不漁に備え、いつも新鮮な活魚を差し出せるよう、海岸に木枝や枝付竹の(ひび)で囲った活魚生簀(いけす)を造って備えていた。貞享・元禄年間(16841703)頃、この篊に冬になると自然に海苔の胞子が付いて繁藻しているのを漁民が発見した。これが大量の海苔養殖の起源となった。




享保2年(1718)品川の浅瀬に海苔養殖の粗朶(そだひび)が立てられた。粗朶篊は木枝や竹枝の葉を落として束ねたもので枝に天然の海苔胞子が付着する。海苔の大量生産始まりこれまで貴族階級の口にしか入らなかった海苔が、江戸に幕府が開かれたことが転機になり、ようやく庶民の口に入るようになった。







名所江戸百景「南品川鮫洲海岸」

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歌川廣重の描いた南品川鮫洲海岸は、南品川から大森にかけての海岸線で養殖海苔の一大産地であった。ヒビ材に付く海苔養殖の収穫期は11月~3月まで最盛期は真冬で、筑波山上空に描いた真雁の飛来が厳冬を物語っている。




海苔は主に浅草の海苔問屋に買い取られ、御用海苔として幕府に納められ、諸国に売り出された。浅草の特権商人が品川や大森の漁民に海苔製造の下請けをさせた。これを「浅草海苔」と称して全国に販路を広げたため、浅草海苔は海苔の代名詞となった。海苔の養殖技術は永く秘法とされ、幕末まで門外不出とされていた。








江戸自慢「品川海苔」

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廣重が風景を、豊国が人物を描いた二者合作である。火鉢で抄海苔を焼く花魁風の客の向こうの海に、海苔養殖の木枝や笹竹で造られたひびが立てられている。享保2年(1717)頃に品川浦で始まった海苔養殖は天明頃盛んになり、品川海苔は江戸の名物となった。




海で養殖された海苔を摘み取り、よく洗浄して細かく砕きペースト状にする。海苔の漉き桁で掬い取り、 天日干しで乾燥させて板海苔が出来上がる。しかし、海苔の胞子の付き方が不明で、年によって収穫高が乱高下して、海苔養殖は「運ぐさ」と呼ばれていた。そこで、幕府の保護を受け、海苔養殖は安定した江戸の特産品となった。







最盛期の海苔漁場図





万治2年(1659)に刊行された「東海道名所記」には、「品川海苔として名物なり」と記されている。養殖海苔の発祥地である大森村堀之内の野口六郎左衛門が浅草紙を作る手法を真似、乾燥海苔を考案して、八寸×七寸五分(242×227cm)の「板海苔」を売り出したと伝わる。







江戸近郊八景「羽根田落雁」

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江戸近郊八景は、東海道五十三次と並ぶ歌川廣重の代表作である。羽田村の洲崎の先にあった鈴木新田の玉川弁財天と海苔養殖ひびの湿地帯に舞い降りる雁の群れとともに叙情豊かに描いている。干潟を埋立て盛土に植えた松の防潮林が見える。この要島の鎮守には三つの社があった。




昭和20年(1945)9月13日に羽田飛行場が連合国軍GHQに接収された。多摩川と合流する海老取川河口の東側一帯の羽田穴守町など1200世帯3000人の住民に対して、同年9月21日に48時間以内の強制立ち退きを命じられた。跡地は朝鮮戦争に向かう戦闘機の滑走路となった。




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要島の神社なども例外ではなく遷座となった。玉川弁財天は、羽田六丁目の羽田水神社境内に、鈴納稲荷神社は羽田神社境内へ、穴守稲荷神社は、羽田五丁目にそれぞれ移転した。羽田空港の駐車場内にあった穴守稲荷神社の赤い大鳥居が浮世絵に見える要島の位置にあたる。







浅草和紙の資源再生


江戸時代には和紙の古紙再生が盛んになり、京都の西洞院紙、大阪の湊紙、江戸の浅草紙が広く知られていた。江戸時代の紙は貴重品で、一度使われた紙は、古紙回収業~古紙問屋~漉き返し業者で再生される。「紙屑買人」は天秤棒を担いで家々の不要の反古紙や帳簿などの紙屑を秤に掛けて買い取り古紙問屋に売る。また「捨集人」は籠を肩に掛け町中の紙屑を拾い集めて古紙問屋に売り日銭を稼ぐ。




延宝年間(167381)に新吉原の遊女に需要のあった生活必需品の「浅草紙」は古和紙の漉返紙である。塵と捨てられる和紙の再生紙のため塵紙(ちりがみ)とも呼ばれた。浅草紙は吉原遊郭の衣紋坂に近い山谷で製造していた。和紙には不純物がなく容易に再生紙が出来た。職人達は古紙や紙屑を細かく裁断して窯で泥状に煮詰め、紙舟に乗せて山谷堀の流れに一時(いっとき)2時間)ほど晒して「冷やかし」ていた。



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吉原遊郭の張見世は、往来に面した店先に居並び、格子の内から自分の姿を見せて客を誘う。見世とは格子内の遊女を世間に見せる意である。見世には花魁の登場する大見世から、中見世、小見世、切見世の格式があった。






職人達は次の作業の間、吉原遊郭内を見て回るだけで戻り作業を続けた。このように登楼せずに帰る客のことを遊女達は「冷やかし」と廓の隠語で呼んでいた。この言葉がいつしか遊郭から出て江戸市中に広まった。昭和33年(1958)に山谷堀の埋立てが始まるまで、架けられていた「紙洗橋」に浅草紙の名残を留めていた。






海苔養殖の変遷


大正14年(1925)頃、海苔養殖用の「ヒビ」から「網ヒビ」が考案され、シュロやパームなどの天然繊維から現在は合成繊維で養殖されている。昭和24年(1949)英国の海藻学者キャサリン・メアリー・ドリュー女史が海苔の一生、特に最大の謎であった「海苔が夏の間何処にいるのか」を解明した。なんと海苔は夏の間、貝殻の中で糸状になって過ごしていたのである。320年余、自然任せの天然採苗が続いていたが、海苔の一生が解明され、胞子を網に付着させる人口採苗が実用化された。




昭和35年(1960)浅瀬だけでなく水深のある海でも浮きに海苔網を張る「浮き流し養殖法」により、生産量が飛躍的に伸び始めた。その頃、海苔養殖が盛んであった大森海岸周辺は、昭和37年(1962)東京湾の埋め立てや汚染により漁業権を放棄して、その歴史の幕を閉じた。現在の海苔生産量は1位,佐賀県 2位,兵庫県、3位,福岡県、4位、熊本県である。東京湾沿岸の海苔発祥地では千葉県が10位と健闘している。







明治天皇と味付海苔


明治2年(1869)明治天皇は京都への還幸の際、御所への東都土産を江戸城無血開城の影の主役であった山岡鉄舟に依頼した。嘉永2年(1849)日本橋室町に創業した山本海苔店の二代目山本徳治郎は、親友鉄舟の相談を受けて、板海苔に調味料を刷毛付け8切加工した「味付け海苔」を考案して献納した。この献上海苔箱には宮内省御用と書かれ、山本海苔店は味付け海苔の発祥地となる。昭和29年(1954)に御用達制度が廃されるまで宮内庁御用達を務めていた。




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山本海苔店の○梅登録商標は、創業の頃江戸前の海では、梅の花咲く寒中に上質の海苔が採れたこと、海苔が梅の花と同じように香りを尊ぶことに因んでいる。




この味付け海苔は、京都を中心に瞬く間に関西全域に広まった。関東のおにぎりは焼き海苔だが、関西では味付け海苔で巻くのが一般的である。尚、鉄舟は神田お玉が池の千葉周作道場に通っていた時の門人仲間が二代目山本徳治郎である。明治5年(1872)禅、剣、書の達人といわれた山岡鉄舟は、明治天皇陛下の側近侍従長として教養及び剣術指南役を務めた。











by watkoi1952 | 2022-02-06 12:10 | 江戸学よもやま話 | Comments(0)