江戸城の登城と格式



江戸城の登城と格式






江戸城の登城には、将軍宣下、勅使院使の迎接、年始、五節句、八朔、月次式日、外国使節の接見など表御殿の大広間、白書院、黒書院で行なわれる。これら公式行事における諸大名や旗本の登城口は、大手門と内桜田門(桔梗門)である。両門ともに門外の下馬所まで来ると、これまで供連れで来た者は、乗輿の資格を認められた者以外は、ここで馬や駕籠から下り、あとは数人の供だけで入城することになる。







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城内制止と下座触



日光御門主、公家衆、三家、三卿、同嫡子、大老、老中、若年寄、京都所司代が通行の時は、大手門始め城郭諸門内の諸人往来を止め、番士、与力、同心一同は下座を為す決まりである。但し、日光御門主、三家、三卿、同嫡子の格式では、番士等は下座台を離れて地上にて平伏する。











下馬札



「下馬」の高札は、足利将軍以来の伝統をもつ筆法で記されている。江戸幕府2代将軍秀忠の右筆「曾我尚祐」は、15代将軍足利義昭の側近として仕えていた。室町幕府滅亡後は織田信雄、豊臣秀吉を経て、慶長6年(1601)家康から秀忠に仕えた。徳川家には武家故実や書札礼など幕府儀礼に関する蓄積はなく、曾我尚祐の旧室町幕府の知識は極めて貴重であり、永く江戸幕府右筆の規範として継続した。







下馬札には表門と裏門の格式があり、大手門など表門の下馬札の馬字は四つ足に由来する点四つで記している。大手門の閉門中に緊急で登城する裏門とは、平川門のことである。下馬札の馬字は点四つを草書の一で略している。尚、神社仏閣の表門の下馬札の馬字は四つ足を点三つで表し、裏門の馬字は平川門同様に横一である。






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下馬札のある表門は、「大手下馬」、「桜田下馬」、「西丸下馬」と呼んだ。だが、大手、桜田のどちらで入門してもすぐに下乗橋前の立札で駕籠を降り橋を渡って三之御門に入ることになる。また、登城人数が多くなる場合には、和田倉門、馬場先門、外桜田門に下馬札を立て「外下馬」として混雑を緩和した。






大名の格式が一番ものをいうのは江戸城の登城である。城主は乗物で下乗橋まで行けるが、無城の大名は差をつけられ下馬札で馬を降り、徒歩で大手橋を渡る決まりであった。それは無城大名は駕籠で登城する資格がないからである。旗本も無城大名と同様に下馬札で馬を降り「下馬の礼」を執った。騎馬登城の資格のある旗本(寄騎)は厩舎付の長屋門の屋敷に住み、 城内の緊急有事に迅速に駆け附けるためである。








乗物と駕籠


駕籠とは竹や木製の座席を一本の棒に吊し、前後の人が担いで運ぶ乗物である。竹製籠、木製箱など身分、階級、用途により様々な駕籠があった。駕籠の中でも引戸付きで装飾が施された居住性の良い高級な物は「乗物」と言い、大型で柄の長いものを「長柄」と呼んでいる。乗物は主に公家や大名など身分の高い者が用いる。駕籠を担ぐ業者を「駕籠舁(かごかき)」、担ぐ人を「駕籠者(かごのもの)」と言い、高級な乗物を担ぐ人を(ろく)(しゃく)(六尺の長身)と呼ばれていた。







これら乗物や駕籠の料金は駕籠者や陸尺の身長や目的地までの移動距離に速度、乗る人の体重などで決められていた。乗物には溜塗惣ためぬりそう網代あじろ(黒塗は将軍や公家、赤塗は官僧)、権門けんもん駕籠かご(諸大名、大名重臣)、宝泉寺駕籠(裃着用の小大名)などである。登城で乗物使用は、徳川一門、1万石以上の大名、国持大名、侍従に叙せられた者に限定されていた。







内桜田門に向かう登城行列図である。左の蛤濠沿いと右の桔梗濠沿いに立つ下馬札が描かれている。




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大手御勤番中絵図



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徳川譜代名門の酒井雅楽頭系の酒井忠清は、4代将軍家綱の大老職として、「左様せい様」と称される将軍の元で、門閥の権威から幕府主導の専権を振るう立場となった。忠清の上屋敷役宅が大手門の下馬札前にあることで「下馬将軍」と異名で呼ばれるほどの権勢を誇示していた。






「下馬札」この先は将軍の居城であり、大名といえども乗物での登城は許されない。つまり、徒歩で「下馬の礼」を執る幕府の権威を意識させる場である。大名や旗本は嫌が応でも忠清の屋敷の門前で馬から降りることになる。それらが忠清の権勢と将軍の権威が同等であると揶揄して「下馬将軍」呼んでいるのである。






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寛永令の武家諸法度を見ると、輿に乗る者は、徳川一門、藩主、城主、所領1万石以上、国持大名の息子、城主、侍従以上の嫡子、50歳以上の者、医者、陰陽道の者、病人等許可されている者に限り、その他の者は輿に乗せてはならない。但し、許しを得た者は別とする。公家、僧侶、その他身分の高い者は、その定めの例外とする。下馬札から先は、制限された数人の供を連れて登城することになる。乗輿身分の資格は、およそ大名、50歳以上、役人など様々な格式により、思いも寄らぬ例外を認めていたことが分かる。







下馬先で主人が下城するまで待機する供の者同志が話しあう興味本位の批評や幕府内の出世噂話を「下馬評」と呼んでいた。享保3年(1718)の登城規則では、四位および10万石以上並びに国持大名の嫡子は、門内に随行できる者、侍6人、草履取1人、挟箱持2人、六尺4人、雨天時笠持1人を連れて入る。だが、次の「下乗」札のある下乗橋を渡れる者、侍3人、草履取1人、挟箱持1人、雨天時笠持1人となる。







これ以下の一般大名、三千石以上の旗本、同格の役人は、侍2人、草履取1人、挟箱持1人、雨天時笠持1人である。三千石以下の旗本は、侍1人、草履取1人、挟箱持1人、雨天時笠持1人で、医者は薬持箱1人を加える。大手門、内桜田両門から入城した乗輿資格者も、大手三之門の下乗橋前で特別に許された者以外はすべての乗物を降りることになる。








下馬門前広場




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登城経路図



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大手三之門下乗橋(復元)



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例外として、下乗橋を駕籠で渡れるのは、勅使/院使、日光御門跡、徳川御三家である。将軍家との婚姻や官位の取得などによる格式の向上で稀に変動するすることもある。後の加賀前田家に下乗橋を駕籠で渡る家格であると認められている。下乗橋を渡ると直ぐに三之門で、百人番所前に中之門がある。








中之門


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下乗より中之門まで10万石以下の大名の場合、供侍2人、草履取1人、挟箱持1人が同行する。中之門から玄関までは供侍2人、草履取1人が同行した。大玄関では供侍の刀番が刀部屋に太刀を預ける。草履取には控の間があった。大大名の加賀前田家は中之門前と百人番所前の間で駕籠を降りて、徒歩で中之門を潜り登石段で中雀門へ進んだ。徳川一門は唯一の武家公卿であり、加賀前田家も武家公卿の官位を得て、特別に中之門前まで駕籠の入城が許されていた。






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中雀門(復元)

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中之御門より登坂の上に御書院東櫓と西櫓を前面にして最後の門「中雀門」がある。日光御門跡と徳川御三家は中雀門の桝形内で駕籠を降り、徒歩で「玄関前門」を潜り本丸大玄関に到達した。









玄関前門

 


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玄関前門で大玄関に続く遠侍、殿上之間、虎之間の外観が見える。玄関は東西五間、千鳥破風の金装飾の金具が美しい。この大玄関へ乗物を横付けできるのは、天皇の勅使、上皇の院使、親王及び摂家に限り、武家では1人も認められていない。








本丸御殿大玄関




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徳川将軍が迎接する格式の最上位は「大玄関前」天皇を長とする朝廷の使者である。二位は「中雀門内」家康公を御守りする日光御門跡と将軍家の血統を継承する尾張、紀伊、水戸の御三家である。三位は「中之門前」大名筆頭の加賀前田家である。四位は「下乗札」御一門、諸大名。五位は「下馬札」無城大名と御目見得上の旗本は下馬札より徒歩で登城する決まりであった。旗本は緊急時に駆けつける場合の限定騎馬登城の格式であった。







この登城の格式には特例があった。将軍宣下、正月儀式、公式行事などに於いて、公家衆と御三家の登城が同時刻で重なる場合がある。大玄関で迎える坊主衆との混雑緩和のため、その当日には一つ手前の御玄関門前に「公家下乗」の立札、中ノ門前に「御三家下乗」の立札があり、日光門跡もこれに準じる。前田家はこの日は下乗門前広場に戻ることになる。この特例日には各門で入城規制も行なわれ、当日以外は通常の登城となる。







さて、玄関に向かって左は、塀重門で門内に唐破風の御駕籠台があり、将軍外出時の車寄せである。その左側の壁に二つの「実検之窓」が開けている。戦陣で取ってきた敵の首を、将軍がこの窓から検分するためである。平穏な世であるが、武家の故実に従って長く儀式が存続した。






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「表玄関口」は大名の格式により表大名と溜の間詰大名の本丸入城口である。「中之口」は奏者番や寺社奉行など大名の役職者で雁の間詰と菊之間縁側詰大名の本丸入城口である。「御納戸口」は老中、所司代、大阪城代、若年寄など幕府要職の本丸入城口で「老中口」とも呼ばれていた。「御風呂口」は御三卿とその家老に中奥役職者は平川門より登城して、中奥の将軍に近接して詰所が置かれている。









表御門の大玄関に上がる際、大名は腰の大小の内大刀を抜いて供侍の刀番に預ける。草履は草履取りに預け、供侍は玄関前に待機していた。表中御殿は女人禁止のため、御女中の代わりに剃髪した僧衣姿の御坊主衆が務める。大玄関の式台を上がると、三百名の表坊主がそれぞれ懇意にしている大名を丁重に御出迎えして部屋に案内する。殿中は複雑な間取りになっているため、一人では自分の詰め間まで辿り着けないと言われている。







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江戸城内では部屋を間違えて一歩入ってもお咎めを受けた。明暦3年(1657)旗本の八王子千人同心頭の石坂勘兵衛正俊が殿中をさ迷い、違う部屋へ足を踏み入れてしまった。「参るあるまじき席に入りし落度」と処罰され、千人頭の職は一代限りで「躑躅の間詰」から「御納戸前廊下詰」に降格させられた事件があった。







警蹕の義礼



大名が玄関を上がると御坊主衆が出迎え、表御坊主が控之間まで先導して廊下を進む。その際に御坊主の役目である「しーしー」とすれ違う人に声かけして、静かに立ち止めさせる先払い「警蹕(けいひつ)」の義礼があった。この言葉一つで城内の空気は一変、一瞬のうちに静寂がもたらされた。城内の廊下において、この警蹕を受けられるのは、将軍、御三家、御三卿、老中、若年寄、御側衆に限られていた。






次の格式は御家門や有力な譜代大名に外様の十八国持大名には、御坊主衆が「咳払い」で静粛を促していた。それ以下の大名には、警蹕も咳払いの声も坊主衆は発しない義礼格差があった。二間半の廊下を隔て玄関の警備室である「遠侍之間」、襖絵は牡丹に獅子で徒士組の若侍が詰めている。その奥へ続くのは「殿上之間」で、公卿登城の休息所、襖絵は華やかな花鳥で迎える。さらに奥へ書院番の詰所である「虎之間」襖絵は虎に竹である。この続きの東面に車寄せを持つのが大広間である。






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公式の式典や外国使臣の応接を行なう「大広間」は、上段、中段、下段に二之間、三之間、四之間を付属している。大広間の手前に南北に連なる蘇鉄の襖絵のある「蘇鉄の間」は、大名登城の折に世話係の家臣が控える間である。大広間を奥に進み広い中庭を巡って松の廊下がある。この長廊下沿いに御三家の「上之部屋」「下之部屋」がある。







松の廊下は「桜之間」に通じ、その右奥に「白書院」がある。白書院には上段之間、下段之間、連歌之間、帝鑑之間、溜之間の五室合せて百二十畳あった。例年、勅使院使を迎えるのは白書院であるが、浅野刃傷の折には急遽、黒書院に変更された。






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白書院から奥に進むと竹之廊下の先に黒書院がある。黒書院には上段之間、下段の間、西湖之間、囲炉裏之間など合せて七十八畳である。白書院、黒書院は大広間と並んで幕府の公式行事に用いられた。この他、檜之間(小十人詰所)紅葉之間(小姓組詰所)ある。諸大名が登城のとき、格式によって定められた詰席がある。例えば、大広間は4位以上の外様大名二十三家の詰席、帝鑑之間は城主格譜代大名六十家の詰席である。その他、躑躅の間、菊之間、雁之間、山吹之間、竹之間、芙蓉之間、焼火之間、桔梗之間など大小の様々な部屋が並んでいた。





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by watkoi1952 | 2022-01-30 17:04 | 江戸城を極める | Comments(0)