江戸前の大うなぎ



江戸前の大うなぎ



江戸湊の江戸前とは、江戸城西方の品川州崎一番棒杭から、東方の深川州崎松杭棒より内を江戸前と称した。江戸幕府が公式に浅草川と呼び、庶民が大川と呼んだ隅田川も範囲に入る。徳川幕府三代の威信をかけた天下普請で全国大名から築城の人夫が集められた。江戸初期の鰻は駕籠籬や飛脚に工事人夫など重労働者の栄養補給原であった。









そこに過酷な江戸城の石垣普請の労働者が加わった。浅草川河口で獲れる大鰻を輪切り串焼きに塩をして滋養強壮のため栄養価の高い鰻を食べていた。その後、江戸城の修築、拡張、整備工事は以降三十年続くことになる。彼らが国元に入れ替わりで帰ると、江戸前の大鰻の話で盛り上がった。江戸城の拡張と埋立てに埋め残した造成水路に、浅草川上流から肥沃な栄養素が運ばれた。魚の稚魚が育つ気水域には、江戸の船運を担う濠割の石垣が縦横に造成された。










その石垣の隙間が絶好の「鰻の寝床」となった。ここで育つ魚の稚魚を餌に育ち過ぎた鰻が「江戸前の大うなぎ」である。この鰻は、棒手振り、担ぎ屋台、屋台見世で売られた。初期は生鰻をその場で捌いて串打して売る。家で調理済の蒲焼きを売る。その場ですべて蒸し味付調理して売ると徐々に高価になり、うなぎ蒲焼専門店に変化した。





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それは栄養豊かに脂の増した大うなぎの皮は厚く、泥臭さは庶民には受け入られなかった。そこで焼き・充分に蒸す・味付けなど独特の工夫こそが、「江戸前」と誇る大蒲焼きの誕生である。江戸の拡張と共に河口の淀んだ泥水域で獲れるため、充分に蒸して脂と泥臭さを抜いた大鰻を江戸庶民が最高の味と賞賛した。この「江戸前大うなぎ」が「江戸前大蒲焼」と看板を掲げた鰻専門店が大繁盛した。




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宝暦年間に、「江戸前の風を団扇で叩き出し」という川柳がある。また「丑の日に籠で乗り込む旅鰻」とある。江戸前で獲れる大鰻以外を旅鰻と称して安値で扱い見下していた。だが、消費の多い丑の日には旅鰻が助太刀に来る。つまり、江戸前と言えば、鰻のことで江戸名物、江戸自慢の意である。その後、江戸前で漁をする魚介類の寿司、天麩羅などにも江戸前の言葉が広く適用されていった。







鰻の歴史


うなぎの歴史を紐解くと、日本古来より鰻は食されていた。奈良時代に編纂された万葉集に大伴家持の和歌に「石麻呂に吾物申す 夏痩せに吉しと云う物ぞ むなぎ取り寄せ」とある。その鰻の古名「むなぎ」が登場する。現在の養殖の鰻の胸は白いが、古来より天然の鰻の胸は脂で黄色くむなと呼ばれていた。胸黄に「武奈伎」を当て、そして「むなぎ」から「うなぎ」に転じた。うなぎの口より尾まで竹串を通して塩焼き、さらに煮焼した鰻を筒切りにして、塩や魚醤などの香辛料で味付けして食べていた。




鰻が蒲焼として食べられるのは、室町時代の応永6年(1399)の著書「鈴鹿家記」に始まる。鰻を筒切りにして串刺で焼くと、その姿が沼湿地に自生する「蒲の穂」の形状に似ていることから「蒲焼」と呼ばれた。「蒲鉾」の原形も同様に小竹を軸に練物を巻付けたものであった。江戸時代になると小板上に練り物を塗りつけたものに変わり、元のカマボコは軸を抜き取り「竹輪」の名が与えられた。




江戸初期の蒲焼きには、関西の下り薄口醤油で味付けされていた。元和2年(1616)頃から関西方面の醤油職人が、関東の大消費地の醤油造りに最適な立地の野田や銚子に移住した。元禄10年(1697)関東の醤油職人が風土に適した関東風の「濃口醤油」を考案した。その濃口醤油が「味醂」「酒」「砂糖」などと絶妙な合わせタレが、江戸料理の食通の嗜好に合い瞬く間に広まった。










鰻を生裂き、焼きに蒸し、秘伝のタレとの相性で蒲焼料理法が確定した。当初の蒲焼きは酒の肴に出され、その後、酒の飲めない人のために蒲焼きと白飯を付けて出した。文政10年(1827)これら蒲焼店で使われた竹箸は、洗っても鰻の脂は落ちないので杉材の使い捨て「引き割り箸」、つまり、割箸の事始めである。やがて、明治になると蒲焼きが冷めないように、丼の白飯の中や上に蒲焼の切身を入れた「うなぎ飯」、すなわち丼物の初登場である。





東西の鰻調理法の相違


関東の鰻の調理工程は、背開き後に竹串打ち、白焼き後に蒸してタレに付けて焼くを繰り返す。関西の鰻の調理工程は、腹開き後に金串打ち、白焼後に蒸さないでタレを付けて焼く。



関東の背開きは、(せい)()で柔らかく白蒸しするため、左右の背で中央の腹身の形を保っている。一方、関西の腹開きは、柔らかく白蒸しをしないので左右の腹身の部分が身崩れしないのが特徴である。



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この白焼きから蒸す、蒸さないという東西の調理法の違いは、うなぎの育った環境に起因する。隅田川の河口の縦横の濠のわずかな潮の干満の流れのみで淀んでいる。その淀んだ水で育った鰻の泥臭さを蒸すことで解消した。しかし、江戸の上流にある清流で泥抜きと泥臭さを落とすには、かなりの日数を要することになる。




つまり、上方の清流で育った鰻には鯉と同様に臭いは付かないので蒸す必要はないのである。現在は養殖鰻が主体で皮の厚みも臭いはないが、江戸の天然鰻時代の調理法を東西で受け継いでいる。私たちは蒸した蒲焼きの柔らかさに江戸前を感じているのであろう。鰻職人の技術の習得に「串打3年、裂き八年、焼きは一生」と云われ、江戸前の伝統を継承している。




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明和8年(1771)人口増加に伴う水質汚濁で清流に棲む白魚の漁獲量が激減して、江戸期の白魚献上は終焉を迎えた。その後、さらに埋め立ても進み、人口密集で汚濁した隅田川河口では、江戸前の鰻や魚たちの姿を見ることが少なくなった。




明治6年(1873)名古屋市の熱田神宮前に、懐石料理「あつた蓬莱軒」の創業者鈴木甚造が考案した「ひつまぶし」発祥の地である。細かく刻んで出汁をかけた鰻御飯が大好評で、全国で人気うなぎ料理となった。木製のお櫃に入れ、まぶし(混ぜ)て食べる「櫃まぶし」である。






土用の丑の日


土用の丑の日の土用とは、暦の一年二十四節季を四季にして、「立春・立夏・立秋・立冬」それぞれ直前の18日間を土用と呼んでいる。丑の日とは、十二支で「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・亥」の丑の順番が廻ってきた日をいう。



夏の土用の丑の日は、立秋の前の18日間の丑の日である。年2回ある場合は「一の丑」、「二の丑」と呼んでいる。土用の入り18日間の土用の明け、その翌日が「立秋」、まだ猛暑が続くが暦の上で秋の始まりである。





江戸前の濃口醤油


江戸時代初期には、上方の醤油が人気で高価な溜まり醤油や澄み醤油が「下り醤油」として、船荷で大量に江戸に入荷していた。下り醤油は関東醤油の二倍値で販売していた。元禄年間(16871703)になると、味も江戸っ子の嗜好にあった関東地廻り醤油いわゆる「濃口醤油」の生産が始まった。この濃口醤油が好まれて、鰻蒲焼、蕎麦、天麩羅、寿司、煮物など、江戸前の食文化を劇的に造り上げた。




関西の醤油は「たまり醤油」が一般的であった。慶安3年(1650)頃から濁り酒と異なる清酒を()す技法を醤油製造に転用した。すると醤油のもろみを漉し取る「澄み醤油」の生産が増大した。元禄10年(1697)頃に、江戸では関西のたまり醤油から「濃口醤油」の生産に移行した。




正徳年間(171116)には、関東でも「澄み醤油」が造られた。江戸後期には下り醤油から関東の濃口醤油が大半を占めていた。関西では「薄口醤油」が主流となり、澄み醤油は姿を消していった。幕末までには、利根川にキッコーマン、銚子にヤマサ・ヒゲタ醤油で製造される関東地廻り醤油の「濃口醤油」が一大消費地の江戸市場を制圧したのである。





江戸前大蒲焼の見立番付


嘉永5年(1852)相撲や芝居の番付や評判記の体裁に倣って、東西に見立てた「江戸前大蒲焼」の番付表である。江戸で名物料理として鰻屋が大流行していた。尾張町の大和田を筆頭行司に、東大関は麹町の丹波屋、関脇は室町の大金、小結は尾張町の喜多川である。西大関は霊雁島の大黒屋、関脇は茅場町の岡本、小結は田所町の和田平である。因みに尾張町が銀座4丁目、田所町は現日本橋掘留二丁目である。



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by watkoi1952 | 2021-12-10 16:07 | 江戸学よもやま話 | Comments(0)