江戸の三甚内



江戸の三甚内






江戸の初期は江戸城天下普請の一大建設ブームで、大名諸藩の若い労働者が地方から押し寄せていた。その一方、関ヶ原の合戦や大阪冬・夏の陣で主家を失った浪人、家を焼かれ田畑を失った農民、諸国のあぶれ者たちが仕事を求めて大量に流れ込んでいた。その中には落城した小田原北条や甲斐武田の旧臣を名乗る野盗の群れが暗躍していた。








鳶沢甚内


江戸の治安の乱れに手を焼いていた家康は、小田原北条の遺臣と称して江戸を荒らしていた盗賊頭の鳶沢甚内を捕らえた。家康は「お前らが野盗の取締に手を貸したら罪を問わないから協力せよ」と伝えた。甚内は「それなら古着商の権利と土地を頂きたい。そうすれば盗品が見つけられるし、手下も生業に就けて盗みをしなくなる」と請願した。






幕府から拝領した古着商の地区を「鳶沢町」と名付け、甚内は町名主と古着商惣代に任命された。これが後に日本橋「富沢町」と改称して、繊維問屋の町として今も栄えている。江戸時代の庶民の普段着は古着が当たり前であった。麻、綿、絹といった天然繊維を糸にして織物にする過程もすべて手織りのため、衣類は高級品であった。






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江戸のお武家様は出世や役付の度に、それに見合った着物を仕立て登城する。呉服屋や太物店で新品の反物を買い、仕立屋に持ち込んで着物に仕立てる。そして、お金に困るか、古くなると古着仲買人へ売る。その古着を店頭で庶民が買い、その古着は何回か売り買い毎に傷み、手頃な安価になっていく。大人が修繕して使い尽くすと、子供の着物に仕立て直す。着物の端切れは「端切れ屋」に売る。子供の着物が擦り切れてくると、継当てや雑巾、または下駄の鼻緒にする。






最後は竈の煮炊きで燃やして灰にする。その灰は「灰買い」に売り、酸性土壌を改良する肥料になる。江戸庶民の三大リサイクルは「古着、屎尿、灰」で、江戸時代がエコ時代と言われる所以である。貨幣経済が普及していなかった当時は、盗みも金より着物が主体であった。盗品の新品衣料は高く売れ、古着でも高く換金できた。江戸時代の絹織物は手織の高級品で一般には普及していなかった。普段着となった木綿や麻も量産が始まったばかりの衣類は貴重品であった。






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古着が商品として売買されなくなったのは、実に昭和40年(1965)の高度成長期の「消費は美徳」の使い捨ての時代であった。幕府の認可を受けた鳶沢甚内の目論見通り、盗品の反物や着物を持ち込む者達も、古着屋は儲かる商売と、甚内より古着商の鑑札を得て、商売する者が増えた。商人の古着屋、回収業の古着屋、再生業の古着仕立屋が確立した。その千軒以上の同業組合に三千人が所属するようになった。






幕府の許可制で「古着買い、古鉄買い、古道具買い」には鑑札が必要であった。古着の仕入先となる回収業は、街を廻って古着を買取る「古着買い」がある。 これは二人一組で大風呂敷を肩に担いで街を回り、通りの両側に分かれ、歩きながら「古着、買いましょう」の掛け声で家の中の様子を窺う。 声が掛かれば、家の中に上がり込んで、話をしながら古着を買い集めて回る






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「竹馬古着屋」は、竹で組んだ四足の運搬具に古着や着物の修繕用の袖や襟などに端切れなどを下げ、棒手振りと同様に担いで町中を売り歩く行商人である。また、古着の縫いを解いて洗う和服の「洗い張り」や「染め直し」の技術は現在に受け継がれている。






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寛政6年(1794)筋違橋から浅草橋までの柳原土手は火除地になり、人家が取り払われて火除明地となった。その公用地に何時でも取り除ける葦簀張の古着屋や古道具屋などが軒を並べ始めた。江戸の主要な古着市場は、由緒ある富沢町市場であったが、日本橋越後屋呉服店が期末の売れ残り商品を富沢町に卸すと、他の呉服店も倣うなど、扱う商品が高級化するにつれて、古着の主要市場は神田川沿いの柳原土手通りへ移行していった。






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柳原の買い手は、一般庶民に、江戸市中の古着小売店主や地方から古着仕入れの旅商人である。明治6年(1873)に柳原の土手が除かれ町人地となる。柳原土手通りが拡張整備されると古着市場が集積した。明治14年(1877)東京府の許可のもと,神田岩本町に古着市場が開設した。明治18年(1881)になると、岩本町一帯に400軒の古着市場が集積して、新たに東京の古着流通の拠点となった。








高坂甚内


甲斐武田家の宿将・高坂弾正の長男と称する高坂甚内は、主家復興を願い、その軍資金を得るため江戸市中を荒らす盗賊の頭目であった。実の高坂は武田家に仕えた甲州流乱波の頭領で諜報、破壊、謀殺を任務としていた。その頃、東海道から江戸の治安を乱す相模足柄の風魔一族の所業に家康は手を焼いていた。風魔は小田原北条家に仕えた乱波の一派で主家を失い悪行の限りを尽くしていた。






同業の裏社会の忍者高坂と対立する風魔は邪魔者でしかなかった。高坂は家康に接近して、風魔一族の動勢と複数の潜伏先を探り、幕府捕方に密告した。慶長8年(1603)一斉の盗賊狩で風魔一族五代目の風魔小太郎は捕縛処刑された。江戸の治安が安定してくると、高坂は散り散りとなった風魔の残党などを掻き集め、裏社会で大きな力を持つようになった。






幕府はついに高坂甚内の捕縛を命じた。高坂は関東一円を10年に渡り逃げ回っていた。そこに家康の配下になり、江戸の古着商を統括している元盗賊の鳶沢甚内が裏社会の動勢を把握しており、蛇の道は蛇で逃亡中の高坂の居所を突き止めた。慶長18年(1613)大盗賊の高坂甚内を捕縛した。高坂は、流行(はやり)(おこり)んでいて、剣豪の腕前も難なく捕らえられ市中引き回しの上、鳥越刑場で磔刑(たっけい)になった






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高坂は刑場に引き連れられ竹矢来を囲む見物人に向かって「我おこり病にあらずば何を召し捕れん。我長く魂魄こんぱくを留、瘧に悩む人我を念ぜば平癒なさしめん」と叫んだ。この一声から高坂甚内は、熱病「瘧の神様」に祀られ、人々は蔵前の鳥越神社近くに小祠「甚内神社」を築いた。江戸の庶民は瘧になると神社に詣で甚内に祈り、現在も信仰されている。また近くの鳥越川に架かっていた「甚内橋」と刻んだ遺蹟がある。






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いかにも無秩序と混乱の江戸初期の姿を伝える話である。家康の江戸入府後の刑場四変遷は、日本橋本町四丁目から、麻生材木町とこの鳥越刑場である。正保2年(1645)聖天町西方寺前、慶安4年(1651)江戸北の日光街道千住宿南に小塚原刑場を開設した。一方、元和2年(1616)に東海道江戸の入口芝口門を設け、芝口札ノ辻刑場を置いた。






後の宝永7年(1710)札ノ辻より700m南に置かれる高輪大木戸付近に芝高輪刑場を併設した。札ノ辻と芝高輪の両刑場が手狭になり、慶安4年(1651)江戸南の東海道品川宿入口に鈴ヶ森刑場を開設した。また、江戸西の甲州街道・八王子に大和田刑場が置かれた。江戸の刑場は常に町外れの街道に面して、見せしめのため置かれるのが決まりで、江戸の拡大発展と町外れの所在の変遷が見て取れる。








庄司甚内


庄司甚内は、小田原北条家の家臣として生まれる。江戸に出た甚内は、若い労働力で城下町の造成も進み、人口増は男性中心で女性は1/3に満たない状況に商機を見据えていた。慶長17年(1612)甚内は道三堀沿いにできた初町並みの一つ柳町で遊女屋を営んでいた。江戸市中の遊女屋は、江戸の町々で遊里が分散していた。庄司甚内を代表とする遊女屋は、治安上好ましくないので、遊女屋を一カ所に集めて公許「遊郭」として、取締まる必要があると幕府に請願した。






まさに江戸に不逞の浪人や悪党が入り込んで、悪事を企んでいるご時世であった。当時の遊女屋には悪党であれ、金さえ出せばいくらでも隠れていられた。請願の内容は、1、客が遊興に溺れて使い込みなどさせぬよう、一夜以上の長居はさせぬ。2、子女の拐かしを防ぐため遊女の身許を改める。3、浪人や悪人の潜伏を防ぐなど、幕府の困りごとの解決策である。






元和3年(1617)幕府より取締覚書五箇条を下附された。

一、新傾城町の遊女雇入れ先で向後一切商売停止する事。

二、傾城買遊びは、一日一夜より逗留いたす間敷事。

三、傾城の衣類に金銀箔付け着させぬ事。常に紺屋染事。

四、傾城町家作普請は質素に、江戸町の格式通に勤事。

五、武士商人に限らず、狼藉者・不審者は奉行所に訴事。






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元和3年(1617)幕府は甚内の上申を認め、日本橋葺屋町東続きの葭の自生する低湿地の土地二丁四方を与え、甚内を惣名主に任じて遊女と遊客の取締を命じた。低湿地の埋立て造成に一年をかけ、元和4年(1618)11月、敷地1、4万坪の四方に浜町川を引き込み堀川を巡らせた江戸唯一の公許遊郭を開業した。






甚内は遊廓内を五町に分け、江戸町一丁目には、柳町の娼家を移し自らの居宅も置いた。江戸町二丁目には鎌倉河岸の14軒が移る。京町一丁目には麹町八丁目の14軒、京町二丁目には新規に京都の移住者を集めた。角町には京橋の角町から移った者である。それぞれの妓楼棟の部屋は北枕にならぬ方角に配慮されていた。






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遊廓の入口は北の大門(おおもん)口の1ヶ所のみである。この大門に通じる南北の道は、現在も使われ「大門(おおもん)通り」と呼ばれている。因みに将軍の菩提寺である増上寺の門は「芝大門(だいもん)」と呼び分け混同しないようにしている。また、この遊郭を「傾城町」と呼んでいたが、葭の繁る自生地から葭原、そして縁起の良い吉原と名付けた。当時の吉原には、幕府評定所に遊女を給仕役として派遣する義務が課せられていた。遊女の格式に、太夫、格子、端女郎という序列があり、評定所には最上位の太夫が務めた。






吉原大門を潜る遊客の大半は大名など要職の武家であった。そうした幕府高官を相手にするため、太夫には和歌や茶道、三味線、歌舞、書画など多彩な教養が必要であった。遊客はまず揚屋に登楼して、酒肴を注文し、揚屋の部屋に置屋から太夫や格子が呼ばれ、三味線・笛・太鼓も入って酒宴が始まった。この揚屋での遊び方が𠮷原で確立した。揚屋から馴染みの太夫を呼ぶと、置屋の遊女屋から揚屋までを大名行列の如く召し連れて練り歩く「太夫道中」が生まれた。






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後に移転した新吉原遊郭では太夫を花魁と言い、引手茶屋で豪勢に遊び、花魁は茶屋を通して「呼び出し」を掛ける。花魁は禿や振袖新造に荷持男衆を従えて、遊女屋と引手茶屋そして揚屋へと行き来した。その道中を「花魁道中」と呼んだ。揚屋は宴席料理を出す台所が有り、割烹料亭の元祖である。茶屋は料理を作らず、お取寄せする「待合」と呼ぶ貸座敷にあたる。






元和3年(1617)開業と同時に吉原への通路として、東掘留川に「おやじ橋」を架橋した。近くには、遊ぶか戻るか「思案橋」や「わだくれ橋」を渡る頃には、もうどうにでもなれと決心した。通称「親父」と親しまれた庄司甚内は、大盗賊の高坂甚内と同名であるため、庄司甚右衛門と改名した。





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「おやじ橋」東詰の葺屋町に、天保5年(1834)に埼玉郡千疋村の大島弁蔵は「水菓子安うり処」の看板を掲げ「千疋屋」を開業した。店頭には水菓子と呼ばれた甘い桃、西瓜、まくわ瓜、野菜など新鮮な果物が評判を呼び繁盛していた。右の店舗「呉服太物」とは、絹織物以外の天然繊維の着物を「太物」と呼んだ。木綿や麻の織物は、絹の薄地に比べ厚地であるため「太物」といい、その販売店を「呉服太物商」と称した。






元和4年(1618)から吉原遊郭の営業を始め、明暦3年(1657)までの39年間人々の歓楽街として栄えていた。江戸の繁栄と拡張につれて市街地が広がり、悪所と呼ばれた吉原遊郭の移転が急がれていた。浅草北と本所が選ばれていたが、本所には渡船でまだ橋がなく、陸路と山谷堀舟運のある浅草北の千束村が選ばれた。明暦2年(1656)江戸町奉行の石谷将監によって、元吉原から新吉原への移転が命じられた。






各遊郭の移転条件は、旧地2×2丁から新吉原2×3丁の5割増の坪数となる。夜間営業の許可、風呂屋敷200軒の取り潰し、11月28日引越保証料1万5千両が支給され移転準備が進められていた。その最中の明暦3年(1657)1月18日の明暦大火で吉原遊郭が焼失後、浅草北の仮宅に移り、復興事業と共に五割増の土地に「新𠮷原遊郭」が開業した。旧地は「元吉原」と呼ばれ、高砂町、住吉町、新和泉町、浪花町に変わり、隣接した富沢町など繊維の町と供に繁栄した。










by watkoi1952 | 2021-11-01 15:52 | 江戸東京の歴史観を深める