町(まち)と町(ちょう)の呼称



まちちょうの呼称






「町」と「丁」は、本来農地など田の畦道境界を意味する漢字であり、市街地などの区画の意の(まち)は、わが国独自の国訓である。近世戦国の世における兵農分離により、城下町において町人と武士が混在していた。そこに身分上の対立が起こり、武家屋敷地と町人屋敷地は、濠や土堤で明瞭に区分する「町割り」が始まった。







江戸幕府は城下に武家屋敷地と明確に隔てるため、外濠外の埋立地に町人地を設けた。そして、大名屋敷や大縄地の旗本屋敷地に付属する商家地を町家(まちや)と定めた。例えば、直参旗本の武家地「番丁」に付属した大通りの商人地を麹町(こうじまち)と名付けた。町人地に外濠で接した北町奉行所と南町(みなみまち)奉行所を置いた。寺社前には門前(まち)、江戸四宿には宿場(まち)が栄えていた。







江戸前期の武州江戸古地図に見る


武家地白地と町人地斜線地



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幕府は外濠に架かる常磐橋門、呉服橋門、鍛冶橋門の外側ちょう人地区域を設けた。そして、町人、商人、職人の集積地を町人地ちょうにんちと定め、武家地の町家と明確に差別化した。日本橋地域は大伝馬町、南伝馬町、小伝馬町、人形町、茅場町などすべてちょう名であるが、室町幕府の花の御所があった室町より名付けた日本橋室町は、日本橋町人地内で唯一「室町むろまち」と格式を持たせた節がある。また、町人や職人でも特別な役割の者には、まちを冠して、町火消、町鳶、町大工、町医者などと呼ばれた。






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武家地387㎢(68%)、寺社地88㎢(16%)、町人地89㎢(16%)享保6年(1721)武家地・寺社地の84%に50万人、町人地16%に50万人が犇めき合う。合わせて、当時世界に誇る100万人の巨大都市であった。








また、麹町(こうじまち)に隣接して「一番丁から六番丁」まで道路筋のちょうの通り呼名がある。それは将軍の身辺警護する大番組の一番から六番までの組名から命名されている。この一帯は旗本屋敷街で町名がないため、明治22年(1889)の市町村改制で、本来は「まち」と称すべきだが、呼び慣わした通り筋名の「一番ちょう」から「六番町」をそのまま町名としている。これはまちちょうの違いを理解した上での混在である。






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番町の旗本屋敷は、役職や官位により間口と坪数がやや異なる造りで、表札もない屋敷が密集している。「番町の番町知らず」という言葉が流布し、毎年の人事異動に屋敷移転も多く番町の特定屋敷の訪問は容易でなかった。そこで番町絵図が生まれ、手持の江戸切絵図が広まり毎年改訂版に追われた。右上の半蔵門から始まる大通りの細長い両側のグレーが商人地で麹町1丁目~麹町十丁目の四谷見附まで町家の店舗が連なる。これら町商家は武家地や大名屋敷に御用聞きの出入りが頻繁にあった。

(番町総図 麹町尾張屋製)







しかし、その後全国の度重なる改正で(まち)が上位である由来を知る行政地域は「まち」で統一、知る者のない行政地域は、その町名に似合う方を採用しているため、その命名理由も意味不明で混在が生じている。当然、中央官庁に問い合わせても指導もなく、その混在のため、テレビ局のアナウンサーの読み間違いの度に謝辞を述べ続けている。







全国的にみて、武家官僚役人の多い関東は「まち」、商人財界人の多い関西の「ちょう」に大別できる。明治以降に混在した全国の都道府県に「1718」ある市区町村の内、町名は「745」あり、ちょうは「466」、まちは「279」である。近年、市町村合併により多くの町が市に組み込まれ減少している。







北海道は「ちょう」、東日本は大まかに「まち」だが、関東や甲信越では「まち」が圧倒的に多い。西日本は近畿と島根県を除き、すべて「ちょう」で占めている。九州は「まち」3県と「ちょう」4県の混在だが、福岡県は「まち」が大多数、大分県は全町が「まち」である。







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静岡県にある12の町のうち「ちょう」が11町である。唯一の「まち」の由来は、遠州森の宮山にある三島神社に隣接した村を「森村」と称した。江戸時代になると、町場に発展し「森町村」と改称した。明治22年(1889)の市町村制の際に森町村から森町町では、不自然なので森町(もりまち)と唯一の命名である。一方、北海道には129の町のうち「ちょう」が128町である。唯一の「まち」は、渡島半島の内浦湾に面した森村から、大正10年(1921)の町制施行で誕生した森町もりまちである。







この同名同志の森町は、昭和43年(1968)友好の町協定を締結している。江戸幕府は武家地の町家を「まち」、町人地の町家を「ちょう」と明確に区分けした。諸大名も江戸に倣い、国元の城下を区分けした藩もある。しかし、「まち」のほうが格上のため、関東一円は「まち」に統一した藩が多い。江戸時代から「まち」で呼ばれた地域は「ちょう」に違和感があり「まち」が継続したと考えられている。






これまで、むらそんでは大陸に近い西日本の6県にそんが限定されている。大陸伝来のそん沖縄県はすべてそん、鹿児島県のみ音訓の両方が混在している。その後、国訓が生まれて、新たにむらと訓読する村が全国に広まった。また、まちまちの異字同訓がある。町はその地区や地域を表している。街は街角や商店街など、その地域にある場所や建物などを指し示していた。







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花街(かがい)と花町(はなまち)

花柳界の粋な花街かがいを粋筋は「かがい」と呼び、素人筋は「はなまち」と呼ぶ風潮がある。これには理由があり、本来の芸者の正式職業名は芸妓げいぎ」と役所の書類に記載する。その仕事は政財界のお座敷で踊り、長唄、三味線などで非日常の宴席を芸で盛り上げる。一方の一般名称の「娼妓しょうぎ」は花街に隣接した一角で、不特定の客を相手にする娼婦である。この不法地域を花町はなまち色町いろまちと呼んで「花街かがいの三業地」と明確に区別していた。







ゆえに、伝統と格式を重んじる東京ろく花街「かがい芳町・新橋・赤坂・神楽坂・浅草・向島」や京都五花街「ごかがい祗園甲部・宮川町・先斗町・上七軒・祗園東」と呼ぶのである。花街文化を継承する芸妓と娼妓を混同しがちな素人筋と異なる全国放送のアナウンサーが、京都花街のお茶屋に「今日は京都はなまちの舞子さんの取材に参りました」と挨拶すると、屈辱的な言刃(言葉)に女将が問答無用でお引き取り願った。







花町は娼婦街、公共放送の皆様は京都の舞妓さんを娼婦と呼ぶに等しく、女将や芸妓さんがそれに反論するも空虚な時代に嘆いておられる。京都花街では古くから不粋ぶすい=野暮を避け、「すいを利かせる」という粋筋客の所作言動を伝統としてきた。花街を「はなまち」と呼んでも間違いではないが、区別のため「かがい」と呼ぶ伝統の京都花街や東京花街に足を踏み入れる時には「粋を利かせて」欲しいものである。








上野御徒と数寄屋町 ()


江戸下谷切絵図の不忍ノ池の右手の紫色地は幕府の「御徒大縄地」である。御徒組の与力や同心の拝領地で、一括して一区画の屋敷地を与え、同組仲間で住居を均等割した大縄地である。江戸城警護や将軍の護衛を行なう御徒、つまり騎乗が許されていない徒歩の御徒組で、本丸15組、西ノ丸5組があり、130人で構成されていた。軍事上の要所であった下谷や浅草に御徒組屋敷があった。これら幕領地の武家地は町家(まちや)であり、御徒(おかち)(まち)呼んでいる。因みに道路の赤点線は極悪人の市中引廻し経路である。






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天和2年(162812月、下谷の東福寺薬師などの境内地が焼失した。翌年、幕府拝領地になり、幕府の数寄屋坊主衆が拝領した。これまで数寄屋橋御門外の数寄屋(すきや)(ちょう)から下谷に移転して御数寄屋(すきや)(まち)を形成した。上野広小路の西裏側4区画にあたり、文政11年(1828)の町方書上まちかたしょじょう129軒の屋敷記録があり、慶応4年(1868)より下谷したや数寄屋すきやまちと改称した。昭和39年(1964101日、の住居表示で町名のない台東区上野2丁目に編入されたが、御徒町、仲御徒町の駅名に「まち」が継承されている







神保町駅⇒小川町駅⇒岩本町駅


都営地下鉄新宿線の神保(じんぼう)(ちょう)駅と小川町(おがわまち)駅と岩本町(いわもとちょう)駅と続く駅名がある。珍しく両(ちょう)駅に挟まれて小川町(おがわまち)駅がある。神田小川町は本郷台の先端の神田山を切り崩して日比谷入江を埋め立てた跡地である。その地に幕府鷹狩の鷹を養育する鷹匠たちの住む「鷹匠(たかじょう)(まち)」があった。旗本武家地の拡張のため鷹匠が移転して「元鷹匠町」と呼ばれていた。元禄6年(1693)生類憐れみ令が発令され鷹狩が禁止され、同年911日、この武家地周辺には二筋の湧水の小川が流れており、町名改めで「小川町(おがわまち)」と改称された。







万治元年(1658)江戸川(現神田川)が外濠に向い直角に曲がる大曲の地名がある。一帯は遊水湿地である白鳥池を筑土八幡の御殿山を切り崩した土砂と神田川の開削土で埋立てを開始した。その造成地に神田小川町の旗本を集団移転させて武家地の新小川町が成立した。現在は新宿区新小川町であり、埋立てられた白鳥池は神田川に架橋された白鳥橋の名称で残されている。






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そして、神田小川町の移転跡地は大名の拝領上屋敷となった。大名上屋敷の赤い家紋の位置に正門がある。常陸土浦藩(茨城)土屋寅直95千石の上屋敷(7288坪)は、現在の神田小川町3丁目である。山城淀藩(京都)稲葉正邦102千石の上屋敷(7,165坪)は、現在の神田小川町2丁目である。





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下図左の神保町駅から神田古書街を進むと靖国通りが右に曲がる。この曲線の張出しが神田山の突端で、切崩して日比谷入江を埋立てた跡地である。右横の神田小川町1丁目に小川町駅がある。





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江戸の人口推移


江戸町人の人口変遷は、寛永11年(1634)に15万人、明暦3年(1657)に28万人、元禄6年(1693)に35万人、享保6年(1721)に50万人と推定されている。これに武家と寺社人口50万を加えると、享保年頃から江戸の総人口は世界に誇る100万人の巨大都市であった。当時の大阪35万人、京都40万人ほどであった。






江戸城下の武家地387㎢(68%)に、大名、旗本、御家人の屋敷地それぞれに家臣や武家奉公人を含めた武家人口が居住した。増上寺や神田明神などの寺社地88㎢(16%)合わせて84%の土地にはゆとりの空間が広がっていた。しかし、町人地89㎢(16%)には、武家の生活を支える商人や職人と奉公人などが、長屋の狭い空間に犇めき合っていた。










by watkoi1952 | 2021-10-17 13:43 | 江戸学と四方山話 | Comments(0)