両国川開き大花火
両国川開きの大花火
火薬と花火の歴史
花火の原料である火薬の歴史を繙いてみると、古代の中国で偶然発見されている。不老長寿の錬丹術と錬金術の技術が交わり、黄金を製造する練炭炉では、原鉱に硝石と硫黄を加え低温反応で金と銅とを分離していた。その時に冶金に使う木炭を誤って投げ入れて爆発を起こした。この偶発的副産物が火薬の起源となるのである。
秦の始皇帝の時代の中国で軍事用通信「狼煙」や「火砲」に使われた黒色火薬がシルクロード経由で欧州に伝播すると、イタリアで鉄砲など銃火器、そして、観賞用花火に発展した。火薬と金属の粉末を混ぜた花火の打揚げに使う揚薬は、低圧力で燃える必要があり、黒色小粒火薬がこの性質を備えていた。今日の硝石75%、硫黄15%、木炭10%を混合した「黒色火薬」である。
日本最古の花火史
日本における花火の最古の記録は、文安4年(1447)3月21日、室町時代の公卿で万里小路時房の建聖院内府記に記されている。浄華院で法事の後に境内にて、唐人が火薬を使った数種の花火「風流事」を披露したと記している。時房は「希代之火術也」と賞賛し褒美を与えている。当時、6代将軍足利義政によって日明貿易が再開されており、大陸から観賞用花火が持ち込まれていた。
天文12年(1543)8月大隅国種子島にポルトガル船一隻が西浦に漂着し、乗船していたポルトガル人の持つ鉄砲2挺を島領主が大金を積んで譲り受けた。合わせて、火縄銃の使用法と黒色火薬の原料と製造法を伝授された。その2年後に、大阪難波の鍛冶屋で和製鉄砲の製造が記録されている。積極的に鉄砲を取り入れた戦国武将の織田信長により全国の諸大名に急速に広まった。
しかし、日本では原料の硝石を産出しないため中国から輸入に頼るしかなかった。加賀藩の流刑地であった「越中五箇山」と「岐阜白川郷」の合掌造りの屋根裏で養蚕、床下で蚕糞、人尿の窒素と野草のカリウムに床下の硝酸土の微生物を反応させた硝酸カリウムの結晶から硝石(焔硝)が得られた。この焔硝は歴代の為政者に秘密裡に受け継がれていた。
雪深い未踏の隔絶された集落は、軍事機密を守る好立地であった。大阪の石山本願寺と織田信長の10年に及ぶ石山合戦(1570~80)は、焔硝を使用しを火縄銃戦の端緒であった。本願寺派の淨土真宗の門徒の多い越中「五箇山」の硝石や絹は、石山本願寺に上納されていた。信長は中国や東南アジアから硝石を輸入する堺の商人を抑えていた。
天正10年(1582)キリシタン大名の大友宗麟がキリスト教徒を増やすため、豊後臼杵の石仏で知られる聖堂で花火を披露した。ポルトガル人のイエズス会宣教師の手による復活徹夜祭の盛大な花火に多くの信徒が集まったと「フロイス日本史」に記されている。
慶長18年(1613)8月6日、明国商人と英国王の使節ジョン・セーリスが駿府城の大御所家康に謁見した。その際に大陸より長崎の唐人屋敷経由で持ち込まれた献上花火を披露した。その献上花火は黒色火薬を詰めた筒を立て、点火すると火柱と火の粉が勢いよく噴き出した。家康は後に徳川御三家の初代藩主となる子息とともに見物したと「駿府政事禄」に記されている。
豊川手筒花火まつり

家康は献上花火の見物を機に、三河の砲術隊に命じて「手筒花火」の製造を命じた。これが江戸時代の鑑賞用花火の創始である。諸大名には火薬の厳しい製造保管の制限を課していた。しかし、家康ゆかりの岡崎を中心とする三河地方には、幕府から火薬の製造と貯蔵が公式に許されていた。そこで花火は三河一帯で発達し「三河花火」として、煙火問屋から全国に花火が流布していた。
両国納涼花火
江戸時代の隅田川の幕府公文書には「浅草川」、一般には「大川」、吾妻橋から新大橋の外海までの西岸一帯を「大川端」と庶民は呼んでいた。泰平の夏に大川端で納涼と花火の鑑賞、両岸の船宿の漕ぎ出す納涼屋形船遊びが流行していた。慶長20年(1615)に「町中にて大花火拵売候儀かたく御法度」と花火屋の営業規制が掛けられていた。当時の花火職人が競って作った「線香花火」や「鼠花火」など、おもちゃの手持花火を楽しんでいた。
慶安元年(1648)6月、密集家屋の火事に神経を尖らせていた幕府の御触書には、「町中にて鼠火流星、その他花火の類仕間敷事、但し川口にては格別の事」。防火のため江戸市中での花火は御法度、特に花火が許されたのは大川端の河口、つまり、隅田川の下流河岸である。以後も花火の火事が発生して、たびたび禁止令は発令されていた。

寛文元年(1661)に幕府は隅田川の軍事規制を解き、千住大橋に次ぐ2番目の「両国橋」を架橋した。その目的は江戸市街地の拡大と本所深川方面への火災避難橋である。さらに江戸市民が明暦大火の犠牲者10万人を弔う回向院へ向かう参詣道でもあった。橋の両たもとに東西の火除広場「両国広小路」が設けられ、屋台や露店に見世物小屋が軒を並べ、江戸随一の盛り場となった。
花火師の鍵屋と玉屋
初代鍵屋弥兵衛は、幕府管轄地の大和国吉野郡篠原村の出身で、五條代官所の統括する火薬製造所に奉公に出ていた。火薬扱いの技術を身につけた弥兵衛は、吉野川の川岸に自生している葦の茎管に練火薬を詰め、星火花が飛ぶ「花の火」と称して売り出した。線香花火など手持花火の原型である。たちまち、評判になり飛ぶように売れ出した。弥兵衛は花の火を売りながら江戸を目指した。
花火師弥兵衛は、両国橋架橋中の万次2年(1659)江戸日本橋横山町に「花火鍵屋」の店を構えた。同年に「花火師鍵屋弥兵衛本丸御用達」の記録がある。弥兵衛の火薬技術が認められ、幕府御用達の花火師となり、鉄砲方の備蓄した古火薬が払い下げられた。幕府は戦国時代の鉄砲や狼煙の武器火薬から、泰平な世の鑑賞用の花火の優秀な技術者の保護育成にも務めていた。
花火が火事の火元になるため江戸中で花火は禁止令が出されていた。花火禁止令を命じていた4代将軍家綱も、寛文9年(1669)7月と8月に江戸城二ノ丸庭園で花火鑑賞していた記録がある。天和2年(1682)大川では屋形船を仕立て、竹筒から噴き出す花火や、仕掛け花火、絡繰り花火、流星という尾を引いて空中に上がる飛翔花火など様々な花火を楽しんでいた。だが、空中高く打上げる花火は、まだ登場していなかった。
そこで鍵屋弥兵衛は、より高く上がる花火の研究開発に没頭した。享保2年(1717)に煙や炎を出すだけの花火から、弥兵衛が大川端で試作の打上花火に成功した。しかし、幕府の許認可を得るためには、さらなる安全性の高い打上技術の改良が必要であった。
両国川開き大花火
享保18年(1733)5月18日両国川開き初日は、打上花火の解禁日である。この花火は明暦大火十万人の犠牲者を供養する回向院の盂蘭盆会の迎え火と送り火と同じく、精霊を供養する儀式の一つであった。享保の倹約令で厳しい世情、将軍吉宗は庶民に好評の墨堤桜の花見に続き、旧暦5月18日~8月28日の3ケ月間、両国納涼花火の解禁で庶民を魅了した。両国広小路や大川端の芝居小屋に大道芸人、露店や屋台の夜店の出店を許した。

両国橋や東西の両国広小路には納涼花火見物客で溢れた。両国橋上は「千人が手を欄干に橋涼み」と詠まれ、両岸に軒を並べる船宿や料理茶屋が大川に納涼船を漕ぎ出して、御客をもてなした。この解禁初日に鍵屋六代目は、宣伝目的の献上花火を大々的に夜空に打上げ、その明るさに江戸っ子の度肝を抜いたのである。

その宣伝効果は絶大で両国納涼大花火は恒例行事、夏の風物詩となった。「大名や豪商たちの贅沢は、大川に留めを刺す」と言われるほど大川の納涼屋形船は豪華絢爛であった。大川に納涼船を出して、鍵屋に依頼した花火を競って打上げ、その財力を競うのが、江戸の豪商たちの贅沢の極みであった。しかし、安定した打上花火の技術が確立したのは、18年後の宝暦元年(1751)のことである。

文化5年(1808)花火師六代目鍵屋の手代清七が、奉公20年で番頭になり暖簾分けして、両国吉川町で「玉屋」を開業した。清七は玉屋市兵衛を名乗り、やがて、両国橋の上流の玉屋と下流の鍵屋との二大競演花火となった。これを応援する掛け声が歌舞伎の声色をまねた「玉屋ぁ~」、「鍵屋ぁ~」の掛け声が定番となった。

両国川開き初日を「名にし負う玉屋の花火打ちいでて鍵屋の鍵に開く大川」、また語呂の良い玉屋の人気に「橋の上たまや玉屋の声ばかり何故に鍵屋と言わぬ情なし」、「錠」なしでは口を開けないと、狂歌師大田南畝の作である。「上がる龍勢星下り玉屋が取持つ縁かいな」次の揚玉の詰替え作業40分間が、男女の出逢いの場でもあった。屋形船5両、花火一発1両の贅沢遊びから「一両花火間もなき光かな」俳人其角の作である。

この頃には納涼期間中にも花火が見られるようになった。初期には船宿や屋形船、料理屋などの協賛花火であった。続いて、日本橋大店の旦那衆が仕立てた屋形船で芸者衆と宴が始まると、花火揚船に大金を渡して、連続花火で繁盛ぶりを見せつける格好の余興であった。豪商たちに負けてない大名花火も家名を競った。中でも御三家は火術家や砲術家を抱えており、その豪華さで今日は尾張様、明日は水戸様と伝わる大川端は大勢の見物人の人波で溢れていた。

目印の提灯を掲げた花火船から手持筒で打上げの構図。花火船は納涼船の間を走り廻り、客の好みに応じて代金を頂き、打上げる仕組みである。江戸っ子は、打上げて四方に下ってくる、流星、虎の尾、星下り、昇り龍、下り龍などを好んだ。
稲荷社の神使狐に鍵と玉
「江戸名物、伊勢屋、稲荷に、犬の糞」と詠われたように、 鍵屋の屋敷内に祀る稲荷社前で一対の守護獣が置かれている。左側の神使狐が咥えている米蔵の鍵が屋号の「鍵屋」である。暖簾分けした玉屋は、鍵屋に倣い右側の神使狐が咥えている擬宝珠の「玉」を屋号の「玉屋」とした。ゆえに「花火屋は何れも稲荷の氏子なり」と江戸川柳に詠まれた。

さて、稲荷神は稲作伝来より、稲など穀物の神様で御饌神、この「みけつ」が転じて「御狐」から、神使の「狐」、また、古代の稲作の豊穣をもたらす氏神「田の神」の祭場は、狐の棲処の狐塚が由来という。神使狐に預けられた左の鍵は米蔵の鍵、右の玉は稲を象徴する穀霊神である。稲荷神の御利益は「五穀豊穣」、信徒が農民から商人に広がると「商売繁盛」の神様として信仰を集めている。

天保14年(1843)4月17日夜、花火玉屋は失火で全焼、町内の半分千五百坪を延焼して出火罪に問われた。不運にも12代将軍家慶が日光東照宮に参拝する前日のため、玉屋市兵衛は家財没収、江戸処払いの罪状で追われた。創業35年初代で家名断絶となった。以後、両国の花火は鍵屋が受け持ったが、観客から玉屋の掛け声は消えることはなかった。
東京名所四十八景に描かれた両国橋の下流を望んだ橋脚と納涼船の芸妓の頭上に鍵屋の花火が見える。その右下に見える柳と掘割(薬研堀)に架かる橋が元柳橋である。この地で寛永2年(1625)に考案した「七味唐辛子」の別名を薬研堀と呼ぶ。

江戸自慢に描かれた両国橋の上流で芸妓をともなった大名仕立て風の納涼船の後方に玉屋の花火が見え、その花火の右下に神田川への合流口が見える。

浮世絵に描かれている打上花火の色は橙色の一色で、当時は硝石、硫黄、木炭を原料とした「和火」であった。戦国時代の狼煙花火を改良した武家花火は、橙色の線を描いて打上がり、そのまま落ちてくるのが特徴であった。

今宵の打上花火に、人々も夕涼みを兼ねて集まる。両国橋の上は、橋桁が歪まんばかりに、立錐の余地のない群集で埋まる。陸は大橋際より浜町河岸、百本杭の辺まで水菓子屋、氷水屋、屋台などの露店の連なり、遊客が群集して巡る。

大川には、船宿の屋形船、屋根船に芸妓を侍らせる常連客。あるいは、土船、砂利船、伝馬船などに日覆いを掛けた乗合で飲酒に興ずる者あり。好位置の確保のため船同士の押合問答、水上の混雑もまた夏の風物詩。両岸で繁盛の茶屋、料理屋の二階席からの花火も格別の夜景色である。
明治8年(1875)に南米産のチリ硝石が安価で輸入され、花火も進化を遂げ打上げ花火が丸く大輪を描くようになった。明治10年(1877)海外の化学薬品による発色剤が輸入され、多色光の華やかな洋花火となった。明治22年(1889)2月11日、大日本憲法発布、その夜の祝賀行事で初めて、総天然色の花火が皇居二重橋から打上げられ、その明るさと響めきに大歓声で迎えられた。

明治13年(1880)「東京名所図・両国花火之図」小林清親
鍵屋十二代は難しい技術とされていた同心円状に飛散する花火を明治になって完成させた。世襲で12代まで存続した鍵屋は、昭和40年(1965)12代の鍵屋弥兵衛が、天野道夫に宗家鍵屋を譲渡した。13代天野太道の時に花火製造をやめ、打上げ花火専門業者となった。東京都江戸川区にある日本最古の花火会社「宗家花火鍵屋」14代天野修の次女が、現在の十五代当主の天野安喜子である。
隅田川花火大会
昭和53年(1978)両国川開き大花火は歴史的な中断を繰返して、隅田川花火大会と改称して復活した。人道橋の桜橋から言問橋上流までの第一会場、駒形橋下流から厩橋上流の第二会場、合計で2万発以上の華麗な花火が打上がる。打上花火には、空中で開花後、多数の星が尾を引いて広がる「菊」、尾を引かず点で大輪を描く「牡丹」、二重三重に円を描く「芯物」、華麗な仕掛け花火などの競演を心ゆくまで楽しめる。

by watkoi1952 | 2021-09-18 01:47 | 江戸の隅田川百景 | Comments(0)

