江戸幕府老中支配の要職



江戸幕府老中支配の要職







【御側用人】 


将軍に最も近待する近侍役に御側用人・御側用取次人・御側衆の三役を置いた。貞享元年(1684)8月に大老堀田正俊が若年寄の稲葉正休に御用部屋で刺殺された。正休もその場で老中たちに斬り殺される事件が起きた。原因は淀川の河川工事に絡む感情問題とされているが、実態は定かでない。






将軍の御座所が近いだけに、大老・老中・若年寄の御用部屋を表と中奥の境目まで遠ざけられた。そのため将軍と御用部屋間に隔たりができ、これを繋ぐ「御側用人」の牧野成貞を補任したのが始めである。この職を老中との間に介在させ、譜代の重臣に移りかけた権力を将軍の手に取り戻した。






御側用人は、将軍に仕え、老中に伝達する役目を担った。本来は旗本の役職で、将軍と老中の橋渡し役に過ぎなかった。ところが、将軍の権力を背景に力を付けると、やがて譜代大名から任命され幕閣として権勢を振るった。後に側用人に任じられた柳沢吉保の地位は老中の支配下にあった。






だが直接将軍に接しているのでその勢力は大きく、事実上老中の上に君臨して幕政に深く関与していた。そして、明和年間に田沼意次、文化年間に水野忠成が任じられ、権威を笠に着た幕政の乱脈ぶりを継承した。歴代の御側用人は、合わせて二十例を見たが、以後継続した職にならなかった。










【御側用取次人】 


近侍役の御側用取次人は、側用人と同じ目的で設けられ、大名並みに優遇され、政務を取り次ぐ役目を遂行した。老中から書類を受取ると、御座の間や御休息の間で政務を見る将軍の元へ届ける。決裁の終った書類を受取ると「御下知札」を挟み老中に下げ渡した。この間に、書類の内容に口添えしたり、自分の意見を付け加えたりする。






どんな有能な老中であっても、御側用取次に睨まれては腕を振るえなかった。役人の才能や世間の噂などを直接、将軍の耳に入れられる、この権威は幕府が終わるまで変わらなかった。また、将軍より「この儀よく調べよ」と下命されると、御庭番を呼んで指示した。










【御側衆】


近侍役の御側衆8人は、二、三千石の旗本が勤め、準大名の待遇を受けた。将軍の御座之間の間近に詰め、緊張で芯が疲れるため三日に一日休む「三番勤め」で務めた。御側用取次が未決の重要書類を扱うのに対して、御側衆は老中・若年寄の既決した比較的軽い書類を扱う。






書類を受取ると、直接将軍に手渡さず御小姓頭取に渡しておく将軍が手空きの時を見計らい御小姓頭取が上覧に入れて裁可をもらった。だが、老中退出のあとは宿直の御側衆が御側用取次の役目を代行した。不時の上申事項があれば、夜中でも御小姓を通じて裁可を伺う御側用取次と同じに機密事項を扱う立場にあった。









幕政の要職配置図


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【高家】


慶長8年(1603)家康の征夷大将軍の式典作法を公家持明院家を祖とする大沢基宿に管掌させたのが、幕府役職「高家」の始まりである。慶長13年(1608)12月24日足利氏流の吉良義弥が従五位下侍従に叙任され、大沢基宿と供に典礼の職務に就いた。高家は、足利末期から公方の家柄、足利家の一族を意味する。ゆえに「公家」と称したが、朝廷の公家と混同するため江戸時代に「高家」と改称した。







正保2年(1645)高家旗本の吉良義弥の義兄弟で、高家今川家初代の今川直房が「東照宮」の宮号を朝廷より交渉の末に得たことが高家の顕著な功績と賞賛された。高家は名族二十六家が世襲し、その中で三名家が選ばれて高家肝煎となった。高家は大名でなく五千石以下の旗本で、政治の実権はないが、宮中の礼式に明るく公卿とも親しく、禄高に比べて官位が高く、十万石大名並の四位中将や従五位下侍従であった。






職務は朝廷への使節、朝廷からの勅使・院使の接待、伊勢神宮、日光東照宮、久能山東照宮など将軍の代参、饗応役大名への儀典指導、殿中での作法の指導など幕府礼式の全てを司る。役料は三百俵、役高は千五百石、三名が交代で殿中に宿直した。席は譜代大名の雁の間、詰所は奏者番の隣で江戸町奉行の上である。







年代により、延宝年間に9人、安政5年には17人が高家職に就任している。これら高家旗本を「奥高家」という。さらに奥高家の中から有職故実や礼儀作法に精通している3人を選出して、天和3年(1638)大沢基恒、畠山義里、吉良義央を「高家肝煎」とした。彼らには幕府公式行事における礼儀作法を諸大名に伝授する職務を設け、相応の謝礼は小禄の高家にとって貴重な収入であった。







また、高家の当主は高家職以外に就くことはできない。高家格式の中で無役の者を「表高家」という。表高家は御用を受けず、年始、歳暮、五節句に登城して拝賀するのみであった。家康の高家創設は、朝廷政策を有利に進めるため、かっての武家名門の子孫や公家の分家を高家として保護支配下に置いていることが武家の棟梁として、徳川政権の正統性顕示と権力の誇示であった。







高家肝煎には、江戸城年中行事で特別な仕事がある。正月二日、将軍の盃の「御流れ頂戴」に際して、素焼きの盃を大名に手渡して、将軍の代酌を務めた。




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【留守居年寄衆】


番方武官の留守居年寄衆は、通常「御留守居」と呼ばれ、将軍出陣中に一切の責任を執る留守部隊長である。そのため兵糧や弾薬を蓄え、兵を鍛えると供に大奥を取り締まるなど責任は重い。しかし、泰平の世では将軍の出陣はなく、閑職となって、大奥の取り締りと櫓や多聞の管理にあたる。留守居の仕事に「関所女手形改」の手形発行があった。






幕府の人質である大名の奥方が江戸を抜け出せないよう関所で厳しい監視が行なわれた。大名の妻子のために手形を発行するのが留守居の役目で祐筆がこれを書いた。このため国持大名は盆暮れの付け届けは欠かせなかった。一般庶民は男女とも、名主・五人組・町年寄りの連署で町奉行や代官に願い出れば手形が発行された。






留守居の配下には、鉄砲玉薬奉行、鉄砲箪笥奉行、弓矢槍奉行、具足奉行、裏門切手番頭、天主番頭、富士見宝蔵番頭、御用明屋敷御番、進物取次頭、広敷番頭、伊賀衆組頭が並んでいるが、三河時代の名残で職名なども初志を忘れぬため旧来の状態を変えなかった。









【御三卿付家老】


家康は子息3名に尾張徳川家・紀伊徳川家・水戸徳川家に領有地を与え、将軍家に後継者なき場合は御三家から排出せよと定めた。紀伊徳川家より出た八代将軍吉宗は、自らの相続問題で苦労した経験を踏まえ、将軍家の相続争い避けるべく、次男宗武を田安家に、三男宗尹を一橋家に置いた。新家を興させず、蔵米十万俵を賄料として与えた。九代将軍家重もこれに倣い、次男重好に清水家を与えた。






十万石の大名格であるが、領有地がないので大名ではない。武家というより公卿に近く官位も高いため御三卿と呼ばれた。幕府は田安・一橋・清水家の経営を御三卿付家老二人に当たらせた。御三卿付家老の役料2千両で、老中支配であるが、その下の諸役の幕臣は若年寄支配である。










【大目付】


大目付は老中の耳目となり、諸大名・交代寄合・高家を監察糾弾した。寛永9年(1632)に3人後に5人任じられ、その役職から「大名目付」とも呼ばれた。弘化3年(1846)には、道中奉行・宗門改加役人別帳改・日記帳改・服忌令分限帳改・鉄砲指物帳改に各1人選任され10人体制となった。







大目付は将軍に直訴できる立場から、老中支配下でありながら老中も監察対象であった。通常は大名居城の修理を監視、殿中の式日には大名の席を正すなど。全国に発する法令の示達、大名および三奉行管轄の訴訟に立会って、評定所に陪席することが主な任務であった。老中支配の「大目付」は、大名や高家の監察・儀礼を司り、若年寄支配の「目付」は、旗本と御家人の監察を行なった。









【大番頭】


大番組は将軍の親衛隊で戦時には、先峰となって背に旗指物をさした戦闘力の主軸を成す精鋭部隊である。大番の制度は、文禄元年(1592)に五組で始まり、元和2年(1616)に十組に増え、寛永9年(1632)に十二組になり定着した。






各組の大番頭は、五千石級の御目見得から一万石級の大名が勤め、一組には大番頭一人、大番組頭四人、大番衆五十人、与力十騎、同心二十人で編成される。大番衆は一年交替で、8組は城内と西丸に勤務、朝番・夕番・泊番があった。残り二組ずつ大阪城と京都二条城の1年交替の上方在番となる。






大番組頭は大番衆を取締り、進退、出欠を監督して大番頭に報告した。大番頭は武官であり、万石級の大名であっても登城の折は駕籠に乗らずに馬に乗った。但し、50歳以上になって願い出た者には駕籠が許された。









【江戸町奉行】


寛永8年(1631)三代将軍家光が、常磐橋門内に「北町奉行所」と呉服橋門内の「南町奉行所」に役宅をつくり、月番で執務させたのが始まりである。元禄15年(1702)に鍛冶橋門内に「中町奉行所」が置かれたが、享保2年(1717)に常盤橋門内に移った。






宝永4年(1707)に北町奉行所は数寄屋橋門内に移る。享保4年(1719)に呉服橋門内の南町奉行所が廃止された。さらに中町奉行所を北町奉行所に、北町奉行所を南町奉行所に改めた。文化3年(1806)に北町奉行所を呉服橋門内に移した。





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役方文官の町奉行は、江戸町民の行政、司法、警察を担当したが、武家と寺社関係に農民は管轄外であった。町奉行は三千石以上の適任者が選任された。享保4年(1719)より二人制の月番・非番を定めて、呉服橋門内に北町奉行所(2、560坪)、数寄屋橋門内に南町奉行所(2、626坪)を置き役宅で執務した。






役宅の門構えは国持大名に許される両番所付きの長屋門で民政上の威光を示した。新任奉行は家紋付き提灯を玄関に掲げて広く市民に告知した。町奉行所には与力二十五騎、同心百二十人が隔月交代で勤務した。与力・同心は、市中見廻りを分担して受け持った。





町奉行所の特徴として「内与力」がある。これは町奉行が自分の家臣から公用人六名、目安方四名を選んで町奉行所を差配させた。他の与力と同心は八丁堀組屋敷があって、与力には二、三百坪、同心は百坪前後の土地を与えられていた。






月番の町奉行所は朝六つに門を開け、訴えを受付けて暮六つに閉じられた。非番の奉行所は正門を閉じて、前月受付けた未処理の訴訟を処理した。月番の奉行は毎日登城して、八つ刻(午後二時)に帰邸して民事・刑事を裁いた。






取り調べや採決案は吟味与力が担当し、奉行は判決を読み上げる。町奉行は評定所の構成員であり、式日(毎月2日、11日、21日)に非番でも出席した。さらに内寄合が月番の役宅で関連事務の打合わせなど町奉行は多忙を極めた。






町奉行配下の与力には、二百石、馬一頭、槍一本の待遇であった。与力指揮下の同心は、戦時の足軽雑兵にあたり二十俵~三十俵二人扶持だが、司法警察に関わるため副収入があった。同心は通常羽織袴で勤務したが、江戸町奉行の同心に限って袴を着けず、巻き羽織に着流し姿であった。これはいざというとき、裾をめくれば敏捷に動けるからである。









【勘定奉行】


勘定奉行は、慶長8年(1603)幕府が財政運営のため、大久保長安に会計の職を設けたことに始まる。諸国にある幕領地に代官を派遣して、収益・金穀の出納・人民の訴訟などにあたらせた。元禄年間に勘定奉行の名称が生まれ、享保7年(1722)勘定方は、「勝手方」財務一般と「公事方」天領の訴訟に分かれて取扱った。






勘定奉行は、諸国の郡代・代官を支配し、租税一切の財政と訴訟裁く要職である。奉行に任じられる二、三千石の御目見であるが、財務に長けた者だと五百石でも任命されている。定員4人役料七百俵で勝手方2人、公事方2人が勤め一年間で交代する。







勘定勝手方は、御殿勘定所と大手門内右手の下勘定所に吟味役を連れて2人が月番交替で執務した。その配下には、下勘定所に詰めた勘定組頭十余人、勘定衆二百余人がいる。一方の勘定公事方は、評定所で訴訟や裁判を扱い、奉行の役宅で執務した。






勘定奉行の配下には、評定所番、郡代(飛騨郡代・美濃郡代、西国筋郡代)、勘定組頭、金奉行、切手米手形改、蔵奉行、林奉行、漆奉行、川船奉行(川船改役)、禁裏入用取調役、代官(諸国代官)、八州取締出役(関東取締出役)、金座、銀座、銅座、銭座、朱座などがあった。









【長崎奉行】


九州を平定した豊臣秀吉は、天正16年(15884月、長崎を直轄地にして鍋島直茂(肥前佐賀城主)を代官とした。文禄元年(1592)には、寺沢広高(肥前唐津城主)が奉行に任命されたのが長崎奉行の前身である。江戸幕府に移管された長崎行政の初期には、徳川秀忠の側近大名が任じられた。やがて、千石~二千石の上級旗本が任命された。






長崎奉行職は文禄元年(1592)に置かれ、慶応4年(1868)まで124123人の長崎奉行が任命された。その間に警護を福岡藩と佐賀藩が1年交替に務めた。定員は1人~4人の変遷を経て、中期以降は2人制で定着した。役高千石、役料4400俵、役金三千両、1年交替で長崎在勤と江戸役宅に詰める。







奉行配下に支配組頭、支配の配下、与力10騎、同心15人、清国通詞、オランダ通詞、さらに町方役人、町年寄など総計千人が長崎行政に関わった。奉行所の玄関には、鉄砲100挺、弓20張、長柄槍50筋を備え、武具蔵には棒火矢50挺、百目長筒1挺、弓18張、鉄砲20挺、槍5筋などが常備していた。







天領長崎を統括する長崎奉行は、長崎の司法と行政、長崎会所(税関)、清国とオランダの通商、外交接遇、収益を幕府に上納、唐人屋敷、出島を所管し、九州大名の動勢探索など多岐に渡った。








出島と長崎港の景観



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江戸中期になると、貿易により利潤を得ることが長崎奉行の重要な職務となった。長崎に詰める奉行を長崎在勤奉行、江戸の役宅にいる江戸在府奉行と呼ぶ。江戸在府は長崎と幕府の間の繋ぎ役、先例のない重要問題は老中に伺い決裁を求めた。







全国に散在する幕府の奉行所や代官役所は、近江国を境界にして東西に分け,美濃以東の役所で判決した罪人は江戸小伝馬町牢屋に,近江以西の場合は大坂の牢屋に集めたが,長崎奉行だけは流刑者を近海の五島に島送りした。京都から大坂に流人を移すのに高瀬舟が使われたのは名高い。







奉行には輸入品を御調物の名目で関税免除として購入する特権が認められ、それを京都や大坂で転売して莫大な利益を得ていた。加えて舶載品をあつかう長崎町人、貿易商人、地元役人たちから「八朔銀」と呼ばれる年72貫目の献金や清国人・オランダ人からの贈答品や諸藩からの付届けなどがあった。







一度長崎奉行を務めれば、その蓄財で孫子の代まで安泰な暮らしが望めた。そのため、長崎奉行は旗本垂涎の猟官運動の役職となった。長崎奉行就任のために使った高額な運動費を遥かに上回る余得収入があった。









長崎出島


寛永13年(1636)ポルトガル宣教師の布教を防ぎ、密貿易などを厳しく監視するため長崎の豪商25名が出資して、扇形4500坪の人口島を築いた。しかし、島原の乱勃発で関係悪化、寛永16年(1639)ポツトガル人の入港禁止となる。寛永18年(1641)平戸のオランダ商館が出島に移され、安政6年(1859)までの218年間、日本と欧州唯一の貿易港として重要な役割を果たした。




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長崎出島は、面積3,969坪で4区画に分かれ、オランダ人、日本の諸役人、通詞の家や倉庫など65棟が建っていた。出島に滞在するオランダ人は商館長(カピタン)、次席(ヘトル)、荷倉役、筆者、外科医、台所役、大工、鍛冶など9人~13人である。商館長は年に1回、のち5年に1回、江戸に参府し将軍に謁見した。








長崎唐人屋敷


寛永12年(1635)から中国との貿易を独占的に行なっていた長崎港に来港した唐人は市中に散在していた。元禄2年(1689)幕府は密貿易が増えたため、鎖国後の出島と同様に唐人を収容する94002000人収容の唐人屋敷を敷設した。






周囲を練塀と空堀で厳重に囲んだこの屋敷に出入りを許された日本人は遊女と僧侶だけであった。当時の輸入品は、絹織物、砂糖、漢方、香料、書籍などである。最大の輸入品は、長崎を代表する行事芸能の「精霊流し」、「ペーロン」、「龍踊り」など唐人屋敷から伝わった中国文化である。




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フェートン号事件


文化5年(180810月に英国軍艦フェートン号がオランダ国旗を掲げ国籍を偽り長崎港に入港した。出迎えの商館員2名が乗船時に武装ボートに拉致され本船に連行された。長崎奉行は商館員の解放を求めたが水と食糧の要求のみであった。







長崎奉行の松平康英は、港湾警備の鍋島藩と福岡藩に英国側の襲撃に備えるよう命じた。長崎警衛当番の佐賀藩は、太平に慣れ経費節約で守備兵を無断で10/1に減兵していた。奉行は九州諸藩に応援の出兵を求めた。人質を取られ兵力もなく、要求に応え食糧と水を与え商館員は釈放された。応援の藩兵が到着するまでにフェートン号は出航した。







侵入船の要求にむざむざ応じた長崎奉行の松平康英は、国威を辱めたと引責自決した。佐賀藩主鍋島斉直は江戸屋敷で謹慎処分を命じられた。長崎番所責任者2名は切腹、組頭10名は家禄没収となった。







この屈辱を受けた肥前佐賀藩の家督を継いだ鍋島直正は、警備強化を進め長崎出島で西洋技術をいち早く手に入れ、軍事医学の近代化に人材育成を謀り、反射炉、アームストロング砲、蒸気船、種痘、医師免許制度の創設に務めた。幕末維新において、薩長土肥の肥前国として武力で貢献した。









シーボルト事件


文政11年(18289月にオランダ商館付き医師シーボルトが帰国寸前の所持品の中に国外持出禁止の日本地図(伊能図)に葵紋付衣服などが発見された。それら禁制品を贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保ら十数名が処刑され、景保は獄死した。






シーボルトは文政12年(1829)に国外通報、再渡航禁止の処分を受けた。安政2年(1855)に日蘭和親通商条約締結によりオランダ人の長崎市街へ出入りが許され、3年後に出島のオランダ商館も閉鎖された。








【浦賀奉行】


浦賀奉行は江戸幕府の遠国奉行の一つである。元和12年(1616)伊豆下田に下田奉行が置かれたが、享保5年(172012月に相州浦賀に移して浦賀奉行とした。その職務は江戸湾に出入する廻船の監視、奥州~江戸~大阪の回漕貨物船の検査など海の関所の役割、合わせて近在の幕領地並びに浦賀の民政を司った。







奉行の役高1000石で平素は配下に職務をあたらせ、奉行は江戸にあって執務した。文久2年(1862)以降、奉行は浦賀に常駐して職務を指揮した。天保8年(1837)日本人漂流者を乗せて来航した米商船モリソン号に対して、異国船討払令により浦賀奉行所は砲撃を行ない退去させた。







江戸湾に来る異国船が航行するようになると、浦賀奉行は定員2人に役高2000石、与力10騎、同心50人に強化した。通常の職務に国防上の沿岸警備、異国船から江戸防備など海防の重要な最前線となる。







天保10年(1839)中国で勃発したアヘン戦争にともない、天保13年(1842)幕府は異国船の討払令を中止して、薪水の給与令を発令した。その後、浦賀に来航した米捕鯨船マンハッタン号に対して漂流民の受け入れを行なった。






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嘉永6年(1853)マシュー・ペリーが率いる米国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が横須賀の浦賀に来航した。老中首座阿部正弘は、ペリー一行の久里浜上陸を認めた。幕府の直轄部隊に加え、陸上を川越藩、海上を会津藩と忍藩が警備を固めた。そこで開国を促す米国大統領国書、提督信任状が、ペリーより浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道に手渡された。







久里浜上陸図








幕府の要求した開国の返答に一年猶予が認められ、翌嘉永7年(1854)横浜へ7隻の艦船が来航した。日本側の全権は「大学頭・林復斎」、米国側の全権は「マシュー・ペリー提督」との交渉で日米和親条約を締結、調印に至った。この条約で伊豆下田と北海道函館を開港した。






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この騒動で江戸からも見物人が押し寄せ「泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れぬ」という狂歌が詠まれた。(緑茶銘が上喜撰=蒸気船)。ペリー退去の10日後、12代将軍家慶の薨去、13代将軍家定は、病弱で国難の国政を担う状況になかった。







幕閣の老中首座の阿部も名案なく、国内は海防論の一環で異国排斥を唱える攘夷論が高まっていた。攘夷じょういは中国春秋時代の言葉で、夷人いじん夷狄いてき視してはらう。つまり、実力行使で外国人を排撃する考えである。わが国では、この黒船来航から明治維新の大政奉還までを「幕末」と呼ぶ動乱期であった。





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幕府は江戸湾警備の増強で品川沖に11カ所に台場の造営、大船建造の禁も解除され、各藩に軍艦建造の奨励、浦賀造船所の起工、オランダへ艦船の発注、米国から帰国した藩校教授、通訳のジョン・万次郎を旗本格として登用、米国のあらゆる実状を述べさせ情報収集に努めた。






安政元年(1854)下田奉行が再設置され、下田条約締結の場となった。ペリー提督は下田を去り、帰国後これら航海記「日本遠征記」をまとめて米国議会に提出した。しかし、ペリー提督は条約締結の大役を果たした4年後、安政5年(185863歳で死去した。







その後、米国は熾烈な南北戦争に突入し、日本や清国に対する影響力を失った。その結果、英、仏、露国が日本と関係を深めた。そして、わが国は清国に対する影響力を拡大した。昭和20年(194592日、東京湾の戦艦ミズーリ艦上で、日本の重光葵外相、米国の最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥と日本の「降伏文書調印式」が行なわれた。





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かって、日米和親条約の締結で旗艦ポーハタン号が停泊した東京湾の同位置にミズーリ号を停泊させている。その艦上で、マッカーサー元帥は「相互不信や憎悪を超え、自由、寛容、正義を志す世界の出現を期待する」と述べた。






その際、ペリー艦隊の旗艦「ポーハタン号」に掲げられていたアメリカ国旗が本国からミズーリ号に持ち込まれ、その旗の前で調印式が行なわれた。大日本帝国の降伏が正式に確認され、第二次世界大戦はここに終結した。









【勘定吟味役】


勘定吟味役は、幕府の財政機関である勘定奉行配下の一切の事務を精査し、不満があれば吟味し、不正があれば老中に具申した。今日の会計検査院のような仕事である。また勘定奉行が部下の任免、転役、免役、法令発布において連署あるいは相談役でもあった。






天和2年(1682)に二人が勘定頭差添役として任命されたのが始めである。元禄元年(1688)より勘定吟味役の名称となったが、以降は廃役状態であった。正徳2年(1712)新井白石の建議により、幕政改革のためにこの職が必要不可欠であると復活した。






勘定吟味役は、家禄百俵から三百俵の者から抜擢され、役高五百石、役料三百俵であった。享保8年(1723)には、公事方と勝手方に分れて幕末まで続いた。定員6人に増え、3人が訴訟、3人が金穀の出納を検査した。配下に吟味方改役と吟味方下役がいた。









【作事奉行】


作事奉行は、江戸城を始め幕府に関する建造物、京都の禁裏御所や上皇の仙洞御所の造営や修理を司った。老中支配で芙蓉の間席、役高二千石、定員は二人である。大手門に程近い道三濠に近接した広い屋敷に多くの建築資材を保管して建築要請に応えた。







奉行配下には京都大工頭、大工頭、下奉行、畳奉行、細工所頭、大鋸棟梁、小細工奉行、瓦奉行、植木奉行、作事型庭作などがいた。建物の造営や修理を行なう今日の概念とは異なり、普請奉行は石垣や架橋などの土木事業を行なった。









【普請奉行】


普請奉行は、江戸城の石垣や濠に橋脚の普請、土木工事の基礎工事、神田上水、玉川上水の管理などを任務とした。寛永9年(1632)老中支配の元に置かれた。役高二千石で芙蓉の間席、定員1人、配下に普請方下奉行、普請方改役、普請役、普請方同心がいた。






普請は本来、禅宗が伝えた(あまねく)人々に()うで、信者が力を合わせて行なう無償の作業から寺社普請、村普請、町普請などの相互扶助、そして諸大名の御手伝普請、公共事業に発展した。








【郡代・代官】


江戸幕府直轄の領地を天領と言い、全国各地に点在していた。天領を管理運営するため、寛永19年(1642)勘定奉行の施行に伴い、郡代、代官はその管轄下に置かれた。郡代は幕臣から選ばれ、十万石以上の米が収穫できる幕有地を預かり、地方官として収税、治安、司法を司った。






郡代の役高は400俵、御目見で布衣格である。郡代屋敷は御領と呼ばれ、飛騨郡代、美濃郡代、西国筋郡代、関東郡代の4郡代があった。一方の代官は5万石~10万石の米が収穫できる天領地を預かった。代官の役高は150俵、代官所は陣屋と呼ばれた。






しかし、遠隔地の代官の年貢米の私的流用などが頻発し、幕政改革は困難を極めた。天和元年(1681)勘定方の職務すべての監査を行なう「勘定吟味方」を置き、悪代官の大量粛清、代官の役人化が進められた。








【火付盗賊改】(若年寄支配→老中支配へ)


火付盗賊改めは、盗賊と放火犯を捕らえ、博徒の取締に任じた。明暦の大火後に盗賊が跋扈し始め、寛文5年(1665)盗賊改を設置、天和3年(1683)火付改を置いた。享保3年(1718)統合され「火付盗賊改」となった。







城攻めには風上の町家に放火するのが定石であるため、幕府では火事を恐れ、盗賊並火付改を設けて警戒した。凶器で徒党を組むため、町奉行所(役方文官)でなく、武官(番方武官)の先手弓頭と御持筒頭から出役している。つまり、本役が別にある「加役」と称していた。






役高は千五百石高で六十人扶持がつく。本役の御先手組の配下を使うので、与力五騎~十騎、同心三十人~五十人。加役の役宅内には、詰小屋(仮牢)、白州、訴所を設けた。この邸内で役所詰(総務)、召捕方廻方(巡回)、溜勘定(会計)、書役が勤務した。召捕方廻方は、与力も同心も町方を真似て袴を履かない、着流しで町を巡回した。町方では同心でさえ、岡引に捕らえさせ自ら手を下さない。






しかし、火付盗賊改自身で賊の捕縛は常であった。機動力を与えられ仕事は強力犯専門であるから手荒く非人間的であった。差口奉公と呼ばれた密偵は、自在に活用して成果を挙げた。文久3年(1863)には増員百人扶持、先手頭上席となり、これまでの若年寄支配から格上の老中支配下に入る。









【槍奉行】


槍奉行は将軍に属する槍組の総大将である。寛文9年(1669)二千石の布衣が定員は4人で任命された。殿中席は菊之間の南敷居外席。奉行1人に10人の同心(302人扶持)が配属された。しかし、幕府が安定期を迎え閑職になり、老齢まで勤仕した旗本の名誉職となった。やがて役料は停止されたが、幕末の慶応2年(1866)の廃職まで継続した。配下の長柄同心と八王子千人同心を統括した。






八王子千人同心は、武田家滅亡後の天正10年(1582)浜松城で家康に謁見した武田家旧臣の譜代旗本同心の槍組である。天正18年(1590)家康の国替えに伴い、甲斐方面の国境防備のため武田家旧臣の小人頭九人と同心二百五十人を甲州道の小仏峠に置いたことに始まる。武田信玄の娘松姫は八王子に隠棲し、周辺には武田旧臣が土地を開墾しながら暮らしていた。







家康は彼らを組織して樫木の槍を持たせ、江戸の甲州口の警護とした。開拓した土地の領有が認められ、同心頭十組の各組に百人の同心が属して千人同心と呼ばれた。千人同心頭は二百石高、同心は三十俵二人扶持である。彼らは合戦があれば、関ヶ原の戦いや大阪の陣に従軍し、江戸の大火に駆けつけた。







寛政年間(17891801)には、千人同心の子弟百三十人が新たに召し抱えられ、松前奉行の支配下として蝦夷地の白糠、勇払に赴いた。また、慶安5年(1652)に日光東照宮の火消番として、千人同心頭1人と同心五十人が半年交替で日光火の番屋敷に詰めた。







平時の同心は、農民であり、旧地の甲斐で作られた絹織物の仲買などで暮らしていた。文政5年(1822)幕府の要請で多摩郡の地誌調査を命じられ、千人頭らが「新編武蔵風土記稿」多摩郡の部が上梓された。慶応2年に幕府の軍政改革で、千人同心も西洋式軍隊「八王子千人隊」となり、長州出兵、開港横浜の警備、長州征伐などに動員された。






慶応4年(18683月、板垣退助の軍隊が八王子に入ると、千人隊は礼装で官軍を迎え恭順を示した。6月に新政府から千人隊は解体された。昭和48年(1973)八王子千人隊が縁となって、八王子市と苫小牧市と日光市が姉妹都市となって交流が重ねられている。








【本丸留守居番】


本丸留守居番は、殿中に宿泊して大奥の警備と奥向きの用務を司る役職である。将軍が留守の時に城中の一切を司る留守居年寄とは別の役である。御台所や将軍の息女の外出には警備で随行した。定員は五人、千石高で布衣、大奥広敷から入った中の間に詰め、仕事は本丸に限られた。







配下の与力は六騎で役高百五十俵、部屋住みは十人扶持、譜代席で役裃を着用する。同心は一組に四十人、二十俵二人扶持、部屋住みは十五俵一人扶持である。大奥の警備では、大奥の出入口で広敷衆が人と物の出入りを厳重に検査した。また大奥の風紀を取締まるのが広敷伊賀者で出入りの医者などの刀を預かった。







松の廊下で浅野内匠頭(34歳)を背後から羽交い締めにした梶川与惣兵衛(53歳)は、将軍綱吉の御台所信子の口上を述べる使いの役目があったため、大広間に来ていた。梶川は吉良と打ち合わせるため、白書院から大広間に歩いてきた吉良と松の廊下で対面していた。そこに「この間の遺恨覚えているか」と浅野が刃傷事件を起こした。梶川は大奥御台所付き留守居番で七百石から五百石加増されて役高千二百石取りとなった。









【京都町奉行】


京都町奉行は、東町奉行と西町奉行の二人が月番交替で執務した。それぞれ与力20騎、同心50人が所属した。京都は他の町奉行所と異なり、奉行の枠を外した広範な職域を有した。京都の市政は勿論、山城・大和・近江・丹波の収税を担当、勘定奉行代理を兼任した。







また五機内の寺社地・公家領に対しては、寺社奉行代理の役割を果たした。幕府の三奉行を集約出張した形である。さらに京都所司代が江戸へ参府中は、御朱印を預かり洛中に事あれば、諸大名を集め、禁裏を守護する責務があった。したがって、遠国奉行中の最重職で、大目付・江戸町奉行・留守居などへの栄進が望めた。









【禁裏付】


禁裏付は、定員2人で禁裏を守護し、非常に備え合わせて朝廷の財務を司る。禁中は禁門の内部で天子の住む宮中を指す。禁裏とも呼ばれる。禁は厳しく出入制限する意から帝王の住居。裏は内部・内側の意、すなわち天皇の住居「御所・皇居」である。元和6年(1620)二代将軍秀忠の五女和子姫が、第108代後水尾天皇の皇后入内を機に、警固2人を女御様御用人に任じられたことに始まる。







禁裏付は千石級の旗本で、目付、使番などから選抜され、役高千石、役料千五百俵である。皇室や公家との交際もあるので格式も高く、後に役高2千両となる。禁裏付の2名は妻子を伴って赴任し、五年に1度江戸に参勤した。「禁中常に出入りする表裏三門は、隊下の同心をして守らしめ、警火を怠るべからず」とある。禁裏付1人に与力10騎、同心40人が御所周囲の御門を警護した。











by watkoi1952 | 2021-07-18 12:25 | 江戸幕府の主要役職 | Comments(0)