江戸幕府の職制と役職
武家社会の格付と職制
江戸の武家は、「官位」「家格」「禄高」「役職」の四基準による評価で格付された。上は将軍に大名から旗本/御家人、下は足軽/中間まで位置付けられた。「官位」とは、朝廷の官職/位階である。幕府の推挙により朝廷から賜った官位は、幕府支配下の武家の献金により朝廷より叙位された形式的な武家官位である。武家はこの官位名で呼ばれることに喜びと自己の品格向上を認知するのである。これら武家「官位」の授与は、江戸時代の天皇家/皇族/公家には大きな収入源であった。
「家格」とは、血統/武功などによる家の歴史的な格式である。江戸幕府には、御三家、御家門、譜代、外様の四階級があった。御三家は家康時代の重要な分家である。御家門は家康以後の分家筋で松平姓を称した。譜代は徳川家の祖先以来臣従した者である。譜代大名は井伊35万石は別格として、5万石~15万石で幕政の執行者のため、領地も少なく権力/財力を持たせない決まりであった。これに対して外様大名には君臣関係はなく、石高や官位は高いが幕政から遠ざけられた。
「禄高」とは、武功忠勤に対する報酬である。領土の経済保証を永代にするため、禄高の多くを世襲維持した。「役職」とは、公の職格だが、朝廷の官職と混同せぬよう武家は役職と呼んでいた。この四基準の上位を安政の改革を断行した老中の阿部正弘に求めると、官位は「従四位の侍従」、家格は「譜代大名」、禄高は「11万石」、役職は「老中」である。幕府に仕える家臣の内、禄高1万石未満を「幕臣」あるいは「直参」と呼ぶ、将軍家に直属する武士の意である。
そこに大名との合の子「布衣以上」の一階級がある。大名並の土地を先祖代々領有した氏族や陣屋に分家など、四千石~八千石までの大身旗本が二十家あり、幕臣に組み込まれた。その幕府非職者を「寄合」と称した。江戸定府の旗本寄合に対して、大身旗本は所領地に住み大名並に一年毎に江戸詰となるのが「交代寄合」である。元文5年(1740)より三千石以上の旗本寄合をすべて「寄合」と称した。
また、下位の役職肩書きに「布衣」とある官位は「六位相当」、家格は「旗本」、家禄は「百五十俵」である。しかし、布衣は官位名ではないが、御目見以上の旗本下位に六位以下の叙任はない。そこで、幕府の典礼や儀式の登城のときに着る「布衣」をもって代称した。布衣とは無紋の狩衣のことで、元和元年(1615)に旗本の式典礼装となった。

幕府の行政機構と役職
江戸幕府は将軍を頂点に、大名職の大老、老中、若年寄を御用部屋の三職という中枢部と、寺社奉行、留守居年寄、側用人、奏者番、京都所司代、大阪城代などにより、何れも譜代大名が統括支配していた。その下に実務機関として、留守居、大目付、町奉行、勘定奉行などを配置した。例えば、留守居の配下に鉄砲玉薬奉行、弓矢槍奉行、具足奉行を置いた。それら奉行の配下に与力/同心/諸国代官/その下に手代/手附を配して、指揮命令系統は縦に貫かれていた。

幕府の職種と身分
幕府の職種は大老以下に五百二十三種あり、職階の区別を加えると一千種に登ることになる。身分による内訳で見ると、大老/老中/寺社奉行などの大名役(万石以上の者)の職種は十二種、四十五人。布衣以上の旗本の職種は八十種、六百二十七人。御目見以上の旗本の職種は百六種、三千六十六人。御目見以下の職種は三百二十五種、人数と実態は不明である。
寛延/宝暦頃の幕臣の総数は、旗本五千二百余家、御家人一万七千三百余家、合計二万二千五百余家と記録に見える。ゆえに、旗本五千二百人の中で三千六百九十三人が現役となる。従って、予備役の寄合/小普請は一千五百七人となる。御家人は職種のみで人数は複雑で把握されていない。
番方/役方/近待役
幕府職制には、五百二十三種もの職種がある。大別して軍務、政務、将軍近侍の三役に分類できる。軍務は番方(軍事官僚)と呼ばれる「武官」が勤め、その下にいる組衆の組頭が統率した。政務は役方(行政官僚)と呼ばれる「文官」が勤める。近侍役は、将軍近習の武士が勤め、側用人、側衆、奏者番、進物番、小姓などで構成されている。それらの役職に就けば「何役」と言い、これを一名「場」といった。現代の「職場」の語源である。
職制は原則一人一職で兼務は稀であるが、本来の職を離れて、他の役職に就くことを「出役」という。同じく「加役」も同意語だが、幕府は番方の火付盗賊改のみを加役と呼んだ。長谷川平蔵42歳は、番方最高位の先手弓頭で火付盗賊改を加役された。「役所」の職場は役職によって異なる。「用部屋」の上之部屋には老中、下之部屋には若年寄の執務室であった。「詰所」は単なる控室でなく殿中席次の格式により配置され、諸役が詰めていた。
「中之間」は奏者番、留守居、勘定奉行、作事奉行、普請奉行、町奉行、大目付、寺社奉行、高家の詰所である。また、御目付には「御目付部屋」、御小姓には「御小姓部屋」、御右筆には「御右筆部屋」など、それぞれ名の付く詰部屋があった。「奉行所」は、寺社奉行、町奉行、勘定奉行の三奉行のいる役所である。
寺社奉行は大名の役職であり、自らの屋敷内に奉行所の職場を置いた。町奉行は呉服橋内に北町奉行所、数寄屋橋内に南町奉行所を町人地に近接して置いた。これは役宅であり、表には白州や用部屋があり、奥は奉行と妻子の住居を兼ねていた。勘定奉行の定員は8人で8カ所に点在する自らの大名屋敷内に奉行所を置いた。だが、実務を円滑に処理するため大手門渡櫓門外に出張所「下勘定所」を置いて情報の収集に努めた。
幕臣への俸禄
享保年間(1716~35)の幕府領は、およそ六百八十万石で全国二千八百石の四分の一にあたる。幕臣には三種の俸禄の支払方法がある。一、知行地を与えられ、自ら年貢米を取り立てる。時代の差はあるが合わせて「二百六十六万石」である。二、幕府の浅草米蔵から支給される蔵米は「二十一万石」である。三、手当形式の扶持米として支給されるのは「八千石」である。合わせて、幕臣に「二百八十七万八千石」の膨大な人件費が支払われている。
残り、三百九十二万二千石が幕府領の全収穫高である。当時の農民は収穫の六割、領主すなわち幕府は、四割を取る四公六民の定めであった。つまり、幕府の実収は百五十六万八千万石となる。しかし、幕臣の給与は家禄だけではなく、役職についた職禄がある。役目によって経費が掛り、家禄だけでは重責の役目が果たせない。この補足分が「足高」であり、その役職を離れると家禄は元に戻る仕組みである。
江戸時代の四大改革は、すべて倹約令による財政の建直しである。幕府の無い袖は振れない緊縮政策である。優秀な人材を抜擢して、効率化を計るが人件費は一向に減ることはない。徳川家700万石というが、将軍の大奥の私的経費は20万石であり、幕臣の給与二百八十七万石に比べれば案外少なく見える。その実態は生産性のない膨大な幕臣の消費となった俸禄にある。
勘定方の諸役執務の実態
侍は幕府や諸大名の常備軍人である。いざ有事の戦には武器を取って出陣する。だが、平時には番方の武官と役方の文官として、警備面と行政面を分担していた。当然、番方武官の威勢は強く、役方文官の算勘(算術勘定)などは武士の卑しむ所であった。そこに幕府政務官の三幅対である寺社奉行に南北町奉行と勘定奉行がある。
最も役方らしい勘定方は、諸国の郡代や代官を支配下に置き、租税以下一切の出納を司る。さらに、幕府領や関八州の人民の訴訟を裁き、今日の財務大臣や東京地裁のような役目を果たした。寛永19年(1642)以来、勘定奉行は4名で内2名は訴訟を受け持つ「公事方」、残り2名は財務を受け持つ「勝手方」として広汎で重責な仕事を二分した。
ここで後者の勝手方を取上げると、その支配役人を見れば、幕府の金庫番「御金奉行」、禄米券の検査役「御切手手形改」、幕府の米蔵係「御蔵奉行」、直轄林の経営管理「御林奉行」、灯油や漆に寺社什器の管理「油漆奉行」、関東諸河川の年貢徴収「川船改役」、大阪御金奉行、大阪御蔵奉行、二条御蔵奉行、禁裏入用取調役、金座、銀座、真鍮座、朱座、銭座、諸国幕府領の郡代と代官である。
2名の勝手方の勘定奉行が月番制で統括するが、これだけの経済機構を動かすのだから並大抵のことではない。ほかに幕府全役人の出納事務があり、上は将軍の御手持金から下は御家人に禄米の支給、土木建築費の支払いなど複雑多岐に及ぶ収支決算があった。
この頃の算勘は特殊技能であり、人材不足を補うため勘定衆の長男が十四、五歳で見習いに出て算勘技能を習得させた。その場合お役料百俵が支給された。また、勘定奉行から独立して、老中に直属する「勘定吟味役」は、今日の「会計検査院」にあたる。勘定所一切の監査を行い、土木工事に収賄の有無は、書類に不正や間違いがないか、当然人事にも目を光らせる。役目柄、吟味に必要であれば大奥御錠口の出入が特別に許された役職である。
勘定方は何しろ誘惑の多い職場である。間違いも多く、目に余る不正もある。そこで文化2年(1805)から勘定方を拝命すると、全文十二条の厳命「勘定衆誓詞」を提出して執務に臨んだ。しかし、どんなに綱紀が弛緩しても、お目付の勘定吟味役だけは、幕府の終焉まで潔白であった。勘定吟味役にも誓詞があり、怯まない配慮の行き届いた権威維持の役職に憧れる者が多かった。
勘定方の全体において、他の役職に比べて格別出世の機会に恵まれていた。勘定吟味方に憧れるのも、以後、勘定奉行に昇進するなど、遠国奉行や二ノ丸留守居へ昇進できたからである。大岡越前守が書院番から昇進して、万石大名職の寺社奉行に就任したのは異例の事である。だが、勘定方からの昇進では珍しい事案ではなかった。
享保年間(1716~35)以降の勘定奉行は、みな下級武士からの出自で身分制度の厚い壁を破り就任している。これら算勘は武官の卑しむ所であるが、この役は高度な理財の才覚を必要とした。彼らは見習修行で勤め、算勘を特殊技術として身に付けていた。他職から急に転じられて対応できる技術ではなく独占的であった。しかも、永い泰平の世続きに剣術や弓馬術の鍛錬より、算盤術の方が有利な社会に大きく変革していたのである。
番方の編成と勤務
番方の編成は、戦陣の基幹となる大番組、書院番組、小姓番組、新番組、小十人組の五組で構成されている。それに将軍近侍の旗本部隊、旗奉行、持弓頭、持筒頭、船手、徒衆、鉄砲方、太鼓役、貝役(陣中の進退合図の法螺貝)などの兵卒を纏めて番方と呼んでいる。大番組は戦時の先鋒隊で家柄と武芸により選抜された優秀な旗本である。大番頭の下に四人の組頭がおり、その下に五十人の番衆がいた。すなわち、大番頭は二百人の隊長であり、その隊が十二隊あり総勢二千四百人となる。この大番組は江戸城守備を固め、市中巡廻、非常時に備えていた。また、一年交替で二組づつ大阪城、二条城に在番する責務があった。
書院番組は戦陣において大将の身辺護衛(馬廻役)を勤める騎馬武士である。平時は城内に詰めて将軍を守護、出行にも供をして身辺を警護した。五十人一組の編成で十組あった。小姓番組も書院番に順じて、より将軍に近待する。五十人一組で十組あり、両組合わせて「両番」と呼んだ。新番組は三代将軍家光が新設した組織で、両番と任務は同様だが格式がやや落ちる。二十人一組で11組あった。小十人組は「扈従人」の転化で歩兵の小姓組である。二十人一組で二十組あった。
番方に関する公私を詠んだ「番衆狂歌」がある。その中で番衆の出勤時間を拾ってみると、「請取の御番は五つ、夕番は四つ時下馬で太鼓を聞くころ」とある。「請取」とは宿直者から事務引継ぎをする朝五つ(8時)の朝番出勤者である。「夕番」の夕は午後の意、大手門前の下馬先で四つの太鼓を聞くので午前10時の老中など重臣の出勤と重なる。「寝番は前なり上がりては、御帳に判をすることぞかし」「寝番」は七つ(午後四時)の出勤で夕番から事務を引き継ぐ。出勤時には御帳に日と姓名を記帳する。番方に備え付けた御帳は番帳と呼んでいた。その後は城内の寝所に泊まり、翌朝出勤する朝番に引継いだ。つまり、朝番、夕番、寝番の三交代勤務である。
「御番日を居間に書き付けはり置けよ、もし忘れては立たぬ身の上」とある。勿論、出勤時間は厳守、昼夜交代の時間は重ねさせ、詰部屋が少人数にならないよう注意書きが出ている。元和8年(1622)に遅刻者や無断欠席者には当直法度による罰則が発令されている。一、当番に不参の者は改易する。一、寝番が遅刻すれば銀二枚の罰金、卯刻(午前六時)に退室すれば罰として、その年の知行は取上げる。一、宿直の者が用なくて他の座敷に居るのは過銀一両である。
「御番日に急断りは組頭、御番所までも早く進ぜよ」とある。病気や事故で欠勤する場合は、中間や小者を走らせ、組頭や朋輩に知らせる。それは代番の緊急手配があるためである。番方の休暇は不定期であるが、月に2~五日間ある。病気欠勤は一年間まで、それ以上になると、予備役の「小普請組」入りとなる。看病のための賜暇は父母に限られる。また、家族や近隣に流行病が出ると、「遠慮」と言って数日間差し止められた。
「登城には大手に桜田両御門、御玄関より上がる御番所」とある。桜田とは内桜田門のことである。番方は職掌がら重視され、大手門から入城して玄関から殿中に入る。ほかに玄関から参入するのは、溜間詰の大名と当番目付である。あとの老中以下は納戸口や中之口から出入りしていた。玄関を上がった番方は廊下伝いに中之口廊下の役職名記載の控室に向かう。控室では登城で持参した荷物を置き身なりを整え、刀架に太刀を掛け置く。

勤務場所の詰所は別にあり、「御玄関の上を獅子の間御徒番 天井虎の間御書院番」とある。獅子之間とは玄関上がって直ぐの「遠侍」のこと。この部屋の襖絵が獅子と牡丹から名付けられた御徒衆の詰所である。その前の廊下を折れ曲がると、虎の襖絵のある「虎之間」があり、御書院番の詰所である。

「虎の次蘇鉄よ檜の木小十人 紅葉の間には御小姓組」とある。虎之間から廊下を進むと細長い「蘇鉄之間」がある。その先に「檜之間」この部屋を挟んで東側に小十人詰所、西側に御小姓組詰所の「紅葉之間」がある。御小姓組ははじめ黒書院の西湖之間に詰め、その庭に花畑があったので「お花畑番」といった。大坂の陣後に紅葉の間に移り、そのとき御小姓組と改称している。

近待役の御側用人と御側用取次
将軍にもっとも近侍する役に御側用人と御側用取次と御側衆がある。この上位二者は同様の役職であるが、その存続の時期が異なるだけである。江戸初期の初代将軍家康に近侍したのが秋元泰朝と松平正綱で「御近習出頭役」と称され、側用人の源流といわれる。「御側用人」は五代将軍綱吉が天和5年(1681)12月に御側衆から牧野成貞を補任したのが創始である。
この御側用取次職を老中との間に介在させ老中以上の実権を奮い、譜代の重臣に移行し始めた権力を将軍の手に取り戻した。その後は元禄期に大老格の柳沢吉保、明和期に老中兼任の田沼意次、文化期に水野忠成が任命され、権威を笠に御政道を乱している。例えば、間部詮房は在任の後半は将軍家継が3歳~6歳のため、その意思代行者として最高権力を手中にしていた。
言語障害のあった九代将軍家重が就任すると、意味不明の言葉を理解する近習の頃からの側近であった大岡忠光が登用された。忠光は大岡忠相の縁戚である。その他二十名が御側用人となるが常設の職ではなかった。これに対して「御側用取次」は、八代将軍吉宗の就任時に御側用人を廃して紀州藩年寄三名を御側衆に任命、内二名の御側用取次に始まる。
御側用人の廃止は、将軍の継嗣問題で吉宗に賛同した譜代大名尊重の立場から御側用取次を置いて老中との取次役として報いた。御側用人より一段と権威付けられ、政務を取次役目で旗本でありながら大名待遇を受けた。その職務は将軍の居所である中奥を統括した。さらに将軍の政策や人事両面の相談役、将軍の情報源である目安箱の取扱い、その訴状の真意を探る御庭番の管理などを務めた。
御側用取次は江戸城中奥の談事部屋に詰め、老中から書類を受取ると御座之間で政務を見る将軍の元に運ぶ。そして、決裁のあった書類を受取り老中に下げ渡す役目である。それらに加え、書類の内容に口添えし、自分の意見を付け加えたりする。そればかりか、将軍の言動でも良くないと思えば「相成りません」と留め、その一言で将軍が思い留まる事もあった。老中から口添えを頼まれても「お取次はできませんからお直に言上なされ」と言って断ることもできる。
当然、どんな有能な老中でも御側用取次に睨まれては辣腕を振るう事はできなかった。将軍の御側衆側近として若年から行動を共にしてきた者が将軍専制のために御側用取次に信任される傾向にある。下級幕臣として御側衆に就任するが、側近としての信任の厚さから加増されることが多く、御側用取次に就任46名から9名が万石以上の大名となった。
by watkoi1952 | 2021-07-04 13:06 | 江戸幕府の主要役職 | Comments(0)

