江戸城の式典と武家装束
江戸城の式典と武家装束
江戸城表御殿が最も華やかで荘重に見えるのは、元旦を始めとする年中行事の式典日である。登城の大名や旗本は、官位による武家装束に威儀を正した華麗な舞台を演出する。この武家装束は、元和元年(1615)将軍は正月元日、二日、六日は「束帯」、奉仕の御側衆や「布衣」などの侍は五日間長袴で務めた。以後、室町幕府の武家装束に倣い、官職によって儀式装束の区別を定めた。
「束帯」
束帯は「昼装束」とも呼び、天皇以下の文官武官が朝廷の儀式・公事に着用した平安装束である。江戸時代の武家の束帯は刀を帯び、平緒という布を前に垂らす決まりであった。将軍の束帯は、将軍宣下、朝廷関係の大礼、神事祭事のとき、並びに諸大名は正月二日、三日に着用した。

束帯の構成は下から単、衵、下襲、半臂、袍を着用、袍の上から腰の部位に革製の石帯をあてる。袴は大口袴を履き、その上に表袴を重ねて履く。冠を被り、足には襪を履く。帖紙と檜扇を懐中し、笏を持つ。下襲の背部は長く尾を引くように引き擦った。この部位を裾と呼び、束帯の大きな特徴で裾の長さで身分が表された。

なお、束帯には文官と三位以上の武官は、縫腋袍を用い、冠は垂桜とした。四位以下の武官は、闕腋袍を用い、冠は巻桜とした。さて、将軍の袍は丁字唐草に家紋の葵を織り出し、四位以上(十万石以上)の大名の袍は黒、五位(十万石以下)の大名は浅緋、烏帽子は将軍を始め紫の組緒をかけた。
「衣冠」
衣冠は「宿直装束」とも呼び、束帯の略礼装にあたる装束である。冠と袍は同じ着用で、束帯の構成から石帯、下襲を除き、上袴の代わりに指貫という括り袴をはく。従って背後に裾を引かず、靴は浅靴となる。衣冠は宮中における宿直用から勤務服に定着するにつれ、束帯は儀式専用になり、両装束をまとめて「衣冠束帯」と呼び慣わした。将軍は日光東照宮、上野寛永寺、芝増上寺へ参詣のとき衣冠を着用した。

「長直垂」
裾が長く後ろに引きずる長直垂は、将軍および四位以上の国持大名が着用する。将軍は紫色、継嗣は緋色を着る決まりで他の使用は禁じられていた。構成は、鳥帽子(風折烏帽子で将軍は右折れ、他は左折れ)、直垂、大帷子、小袖、小さ刀、中啓などから成る。直垂の地質は錬糸織で無紋、長袴もこれに合わせ、袴腰には白練貫で白糸の上刺がある。袖や胸に絹糸をほぐして菊花のような菊綴が付けてある。

この直垂は、明治5年(1872)9月、新橋~横浜間の鉄道が開通した式典では、西郷隆盛、大隈重信らがこの装束で参列した。しかし、同年11月の太政官布告で大礼服を西洋式に定め、この殿中の服制は廃止された。現在は雅楽の楽師や相撲行司の衣装として受け継がれている。

「大紋」
大紋は五位の大名(十万石以下)が着用する。直垂の一種で、布色は好みだが麻布が正式である。大紋は名のように大きな家紋を九つ染付けるのが特徴である。背に一つ、左右の袖の中央に各一つ、前は身と袖の縫目の左右に各一つ、袴は両膝、両脇下部の縫合せ目に各一つの合計九つを付ける。

赤穗城主の浅野内匠頭は、従五位で大紋の着用である。しかし、勅使饗応役において松の廊下では、長裃姿で礼装用の「小さ刀」で刃傷に及んだ。この長裃は儀式の軽重によって、装束の着分けが必要であった。浅野長矩では、大礼服が浅緋の束帯と衣冠であり、礼服は大紋、通常礼服は長裃である。


「素襖」
素襖は大紋を簡略化した装束で、布衣六位以下で三千石以上の幕臣、および三千石以下でも御目見以上の高級旗本が着用する。また、諸大名の家士も着用、大名が束帯の時、素襖装束の家来を従える。直垂の一種だが、袴腰が白でなく共布、胸紐と菊綴に革紐が用いられているので「革緒の直垂」の別名もある。烏帽子、素襖、小袖、小さ刀、扇、草履により構成する。今日では能や狂言の衣装として見られる。

「直衣」
直衣は平安貴族の普段着であったが、将軍家の通常礼服で、将軍は正月3日、7日、11日、15日に着用していた。

「狩衣」
狩衣は従四位の十万石以上の大名が着用する。第二礼装で、老中、所司代、高家は侍従だが、役目柄着用することがある。構成は風折烏帽子、内衣、狩衣、指貫、小さ刀、中啓。狩衣は袖を後身に僅かに綴じ付け、袖の端に袖括りの紐が通してあるのが特徴である。夏冬ともに紋地綾紗で、家紋を織り出している。この無紋のものを布衣という。狩衣は現在神職の服装に用いられている。

「布衣」
幕臣で三千石以上の無役や低い御役の頭に、侍従以上の大名家の家臣も着用した。狩衣と同様式だが、布衣は無紋である。古くは布製なので布衣と言ったが、絹・綾など華美に仕立てられても布衣の名を残した。

「長裃」
長上下とも記す長裃は、将軍、諸大名および御目見以上の幕臣が通常礼服として着用した。御目見以下では、百俵高の富士見宝蔵番士、天守番士は役目柄着用した。色は縹,鼠などの無地であったが、中期以降は霰小紋が普通になった。下に着る小袖は、腰に縞模様を織り出した腰替熨斗目である。縹色を正式とするが、茶、褐、紺を用いることがあった。

侍従以上は、地が縮みになっている縬熨斗目を着用する。いずれも小さ刀を差し、白扇を持つ決まりである。小袖を着た上に袖のない肩衣を重ね、袴を履き上下合わせて裃、胸の左右、背、腰板の4カ所に家紋を付ける。元文年間(1736~43)には肩衣に鯨髭を入れて肩を大きく張らせる仕立てが登場した。文政年間(1819~26)には、鷗仕立と呼ばれる曲線を描く形に変化した。文久2年(1862)の改革では、熨斗目長袴と平服の肩衣も廃止され、紋付羽織袴のほうが一般的になった。

「肩衣半袴」
半上下とも称する肩衣半袴は、長裃と上部は同じだが、下が足の長さと同じ切袴いわゆる半袴である。必ず同生地、同色が原則である。武家一統の通常礼装で下に小袖、夏は染帷子、御目見以上は式日に熨斗目を着用した。なお式服のとき小袖の下着、肌着の襟、袖口に白を用いるのは五位、諸太夫以上に限られた。布衣以下は浅黄と決められていた。享保年間には、上下別生地の「継裃」も許される。

「武家装束の実用例」
将軍は将軍宣下、朝廷の大礼、神事、祭事には「束帯」を着用した。年始、勅使の儀式には「直垂」、法事や宴席には「直衣」の着用であった。臣下は元日、二日には侍従以上が「直垂に長袴」、四位が「狩衣に長袴」、五位の諸太夫が「大紋に長袴」

諸氏は「布衣・素襖」を着る。五位以上の臣下は、例月三日、七日、十一日、十五日、五節句には「熨斗目・長袴」であった。これらの日、布衣以下は「熨斗目・半袴」である。日光東照宮、上野寛永寺、芝増上寺の参詣には、将軍は「衣冠」、供奉の人々は侍従以上が「直垂」、四位は「狩衣」、五位の諸太夫は「大紋」を着用した。
大相撲に見る行司の直垂装束
大相撲の土俵上では、行司が直垂の行司装束を着けて力士の勝負審判を務める決まりである。行司は相撲部屋に所属し、力士の階級に対応する八階級の行司45名が審判を務める。行司の格の違いは、軍配の房の色で区別され、立行司2名、木村庄之助は「総紫」、式守伊之助が「紫白」である。三役格が「赤」、幕内格が「紅白」、十両格が「青白」、幕下以下は「青(緑)か黒」である。この軍配に格付けされた房色は、烏帽子の顎紐、直垂の菊綴、胸紐、袖と袴の括紐などすべて同色である。菊綴とは袴前や背中に縫い付けられた丸い飾りである
「立行司1」
立行司は、江戸寛永年間を初代とする幕内最高位の行司「木村庄之助」である。大相撲力士でいうと東正横綱にあたる。木村庄之助を襲名するための必須条件は、式守伊之助を経たのちに先代の庄之助が引退して空位になった場合である。木村庄之助は、結びの一番のみを裁く慣例だが、千秋楽の優勝決定戦を裁くときは一日2番を担当した。
三十六代木村庄之助

立行司の直垂装束は、直垂に紫の菊綴、軍配の房の紫を含む総紫で構成される。頭に烏帽子を被り、右腰に印籠を付ける。足元は白足袋に草履を履く。軍配は必ず右手に持ち、東西から登場した力士の勝敗に軍配を上げる。差し違えた際には、切腹する覚悟の意味で左腰に短刀を帯刀する。現在、立行司が「差し違え」の場合は、進退伺いを理事長に出す慣行がある。他の行司は年間一定数の差し違えがあった場合、一枚降格という定めがある。
「立行司2」
立行司の木村庄之助に次ぐ幕内次席は、明和4年(1767)を初代とする「式守伊之助」である。大相撲力士の西正横綱にあたる名跡は、代々三役格から立行司に昇進する行司が襲名する。軍配に紫白の房、直垂装束に紫白の菊綴を着用する。庄之助同様に切腹する覚悟を意味する短刀を左腰に帯刀し、右腰に印籠、白足袋に草履を履く。本場所では三役以下と同様に二番を合わせる。
四十代 式守伊之助

「三役格行司」
軍配の房色は、赤、白足袋と草履が許されて、腰には印籠を下げる。
「幕内格行司」
軍配の房色は、紅白で、白足袋を許されている。
「十両格行司」
軍配の房色は、青(緑)と白色、装束の生地は、夏は麻、冬は厚地の絹、白足袋を許されている。
「幕下格行司・三段目格行司・序二段格行司・序ノ口格行司」
上記4行司の軍配の房色は青(緑)または黒色。装束の生地は夏冬ともに木綿、足袋は履けず、装束の裾を膝までたくし上げ、素足のままで土俵に上がる。

江戸の相撲絵(行司の裃姿)
明治5年(1872)太政官布告により礼服が洋服になり、直垂は公服としての役目を終えた。それまで江戸時代の大相撲行司の衣装は裃を着用していた。明治43年(1910)に直垂、烏帽子を行司装束と定めた。さらに神職や雅楽奏者に狂言、歌舞伎の舞台衣装として、伝統芸能の世界で直垂姿を見ることができる。


by watkoi1952 | 2021-06-18 14:01 | 江戸城を極める | Comments(0)