天守の形式と構造



天守の形式と構造




天守と天守閣


天守は城郭の本丸に設けられた高層櫓であり、「殿主」や「殿守」とも呼ばれ、権威の象徴として格式高く造営された。その起源は中世の城にあり、攻撃のための「高櫓」、井形に組んだ物見のための「井樓櫓」を建て防御を行なった。その中に武具を収納することで「矢倉」や「矢蔵」とも呼んだ。本丸の井樓櫓が鉄砲など戦い方の変化から、防火や防弾に耐えるように厚い土壁で頑丈な、望楼付き高層櫓の必要性に迫られていた。




天守は主戦時の見張台や司令塔などが本来の役割であるが、平時は武器庫などに用いた。大和支配の拠点である松永久秀の築いた多聞城の四層櫓が天守の嚆矢と見る向きもある。しかし、室町幕府に代わる新政権の構築に乗り出した織田信長が、大量の石垣を用いて築いた「安土城」が天守の創始と見る。信長の天下に権威を主張する天守の建築が瞬く間に全国の諸大名に広まった。






安土城・望楼型・五層六階地下一階 模擬天守 


安土城の最上階の望楼は信長専用で、その下の赤高欄の八角形の望楼は、天皇を迎えるために特別に築いた。信長には征夷大将軍などに興味なく、天皇の上に君臨する天主となる野望に燃えていたことがわかる。ゆえに天守でなく「安土城天主」と称したが、その構想が破滅の端緒となった



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徳川幕府が天下統一すると、天守による防御の必要性もなく城のシンボルとなった。三代将軍家光の武家諸法度の発布後は、「一国一城制」による建築制限や破却が行なわれ、三層以上の天守造営は禁じられた。天守閣は、明治維新以降の俗称である。屋根の数の「重」または地下を含む床面の数「層」と、地上内部の「階」で天守の大きさを表している。






天守の形式


天守の形式には、独立式、複合式、連結式、連立式がある。初期の天守は、付櫓や小天守を付属させて、天守出入口の防御強化を謀る複合式天守が主流であった。関ヶ原の戦い以後、天守を最後の籠城とする実戦の防衛強化から連結式が登場、さらに連立式へ発展していった。大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡して、戦禍のない平和な時代になると、天守が火災で延焼しないよう天守廻りに建造物を建てない「独立式」天守が主流となった。そして、天守は将軍や大名の権威や威光の象徴であり、防火のため漆喰に銅板葺きで建立された。






独立式天守


独立式天守は、天守のまわりに付属する建物を伴わず単独で聳え建つ、層塔型天守に多いのが特徴である。



弘前城・独立式・層塔型・三重三階 現存天守


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複合式天守


複合型天守は、天守への出入口をより強固にするため、付櫓や小天守を直に接続する。これで敵攻撃の展開を有利にするもので、現存天守では最も多い。



松江城・複合式・四重五階地下一階・現存天守


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連結式天守


連結式天守は、天守から渡り廊下や多聞櫓を通して、小天守や櫓に連結する構造である。



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連立式天守


連立式天守は、連結式天守を発展させて、二基以上の小天守や櫓を渡櫓で環状に連結した中庭構造である。天守の入口が連立式の建物に囲まれた中庭になるため、四方から敵攻撃が行える。



江戸城 慶長度新天守 連立式天守 非現存


慶長11年(1606)家康の築いた江戸城新天守は五重五階地下1階、築城は黒田長政、この時代の本丸はまだ有事の籠城や攻防を想定した連立式の新天守で防備を固めていた。



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姫路城・連立式天守・五層六階地下一階 現存天守


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複合連結式天守


複合連結式天守は、複合式天守と連結式天守を組み合わせた様式。天守に小天守二基以上や櫓を個別の多聞櫓や橋によって連結するが、小天守と櫓同士は連結しない。


熊本城・複合連結式(小天守・宇土櫓・大天守)現存天守


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天守の構造


天守の構造型式には、望楼型天守と層塔型天守がある。最初の天正年間の天守は織田信長の安土城の望楼型天主が主流であった。層塔型は望楼型より遅れて、関ヶ原の戦い後の慶長13年(1608)藤堂高虎により築城された伊予今治城が最初の創建である。高虎の新型天守「層塔型」の様式は、江戸城を初めとする城郭普請に採用されたことで、天守建築の主流となった。





望楼型天守


望楼型天守は、入母屋造りの建物を基部とし、その上に望楼を載せたものである。入母屋の大屋根の上に望楼を建てるため、屋根裏の階ができ屋根の重層と階層が一致しないことが多い。しかも、構造上に無理があるため、不安定で風や地震に弱かった。天守の最上階を巡る板敷きの廻縁には、転落防止の高欄を設けている。



広島城・望楼型・五層五階・復元天守


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初期の天守台は築城石の加工や石積みの技術が未熟で四角形でなく、多角のいびつ形に仕上げられた。それでも天守台に合わせて基部を決め、上部望楼を四角に補正して建築できるのが特徴である。





層塔型天守


層塔型天守は、寛永13年以降に主流となった型式である。天守台の石積み技術の発達で方形基部が仕上がった。その上に規格化された部材を用いて全体を組み上げ、構造的な欠陥を無くし、各階別に作業が可能となった。上層に進むに従い最下層より順次床平面を逓減させて、四方に葺き降ろす屋根を順に積み上げた。最上階の屋根のみを入母屋造りにする構造である。



江戸城寛永度再築天守 層塔型五層六階 非現存


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天守台


天守は三重櫓以上の高層櫓で耐火性、耐震性などの構造的な実用性が必要である。加えて、格式と威厳の象徴的な建造物として装飾性が必要となる。天守が造営される土塁や石垣で積まれた礎石部の高台を天守台という。天守台の内側に地下空洞を設け、穴蔵と称した御金蔵の収納庫は安心安全な場所であった。



江戸城天守台


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天守外観の装飾


入母屋破風


入母屋破風は、すべての天守の最上階で形成される。入母屋造りの切妻の端部の三角形の屋根と下の平らな屋根の端が繋がっている。望楼型天守の場合は、望楼が載る基部の屋根も入母屋造りで、入母屋破風がある。また最上階の他に一重目や二重目にも造られる。入母屋破風を二つ並べて比翼入母屋破風と呼んでいる。





切妻破風


切妻破風は本体の屋根から突き出すように造られた屋根で、主に出窓に使われる破風である。特徴は広げた本を伏せた形状をしている。切妻破風が二つ並んだ「比翼切妻破風」は珍しく彦根城で見られる。


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千鳥破風


千鳥破風は、天守などを装飾する三角形の破風である。入母屋破風と似ているが、小さな三角屋根と下の平らな屋根の端が離れている。屋根の上に据えるだけの構造で、元々は換気や明り取りに用いられていた。千鳥破風を二つ並べた物を「比翼千鳥破風」という。


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唐破風


唐破風は、古くから寺院建築に用いられた装飾性の高い弓形の破風である。屋根の三角の切妻に破風板を取付けており、この板には妻壁を風雨から守る役割があるため「破風」と名付けられた。城郭建築では、主として天守や櫓の屋根に飾りとして付けられる。二種類ある唐破風は、弓のように照起りをつけた優雅な曲線に形成され最も装飾性が高い。唐と付くが日本特有の建築技法である。





軒唐破風


軒唐破風は、天守などの屋根を装飾する破風の一つで唐破風の一種である。屋根本体の中央部の軒先を屈曲させた形に造形した破風である。


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向唐破風


向唐破風は、寺社の建物の正面の庇に、また城郭建築の屋根の斜面に載せて、独立した出窓の屋根のため据唐破風ともいう。


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破風板の装飾「懸魚」


破風板に溝を彫って波や雲の意匠を加えた飾り金具をつけ、さらに装飾として「懸魚」という彫刻を付加することが多い。魚が水を連想させ鯱と同様に防火の意味合いがある。破風板の一番高い所から垂れ下がるのが「拝懸魚」である。唐破風の中央から垂れ下がる懸魚のことを「兎毛通」(うのけどおし)と呼んでいる。



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犬山城複合式望楼型三層四階中央の「向唐破風」


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by watkoi1952 | 2021-05-24 15:57 | 江戸城を極める | Comments(0)