参勤交代と大名行列



参勤交代と大名行列






参勤交代の制度化


参勤交代は、鎌倉時代に御家人が鎌倉に三年に一度参勤が行なわれていたことに由来する。以後、信長や秀吉や家康への服属儀礼として自発的に始まった。寛永12年(1635621日、三代将軍家光の発布した「武家諸法度」の第2条で将軍家に対する軍役奉仕を目的に参勤交代を制度化した。この制度は大名や高禄の旗本に課せられた義務の一つで、大名が隔年交代で江戸と国許に住む制度である。中央集権制度と地方分権制度の併用は近代政治に近い制度でもある。当初、外様大名は東国39家、西国61家に二分され、西国大名が江戸在府を命じられた。






翌年、東国大名が入れ替わった。夏四月中に参勤すべしと、入梅前に参勤を命じている。寛永19年(1642)になると、譜代大名の参勤交代が加わり、参勤の時期が2月、関東、東海の譜代大名は9月と決められ、外様大名と接触がないように参勤時期がずらされた。参勤交代に要する経費と江戸藩邸維持費に藩収入の7割が必要であった。しかし、幕府は参勤により藩財政が破綻して、軍役奉仕が不可になれば本末転倒である。よって、大名行列は身分相応に支出を節減するよう通達を出している。






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諸大名は臣従忠誠を示すため正室と嫡子は、代々人質として江戸の大名屋敷で暮らす決まりであった。大名は江戸で暮らすための屋敷地を拝領して、上屋敷、中屋敷、下屋敷を建て、領国とは別に家臣を配置した。寛文5年(1665)に大名証人制度が廃止され、証人(人質)として在府の必要がなくなった。だが国許にも「お国御前」という側室が正妻同様の権威を持つため、江戸住みの大名妻子の在住は継続されている。文久2年(1862)には、幕末の幕府の勢力の衰退化により、大名妻子が領国に帰るよう促された。慶応3年(1867)大政奉還と供に参勤交代の制度は消滅した。








参勤交代の特例


御三家のうち水戸徳川家だけは、藩主が国許に戻らず、小石川上屋敷に定府であった。勿論、幕閣の老中などの役職要人は定府となる。また地理的に遠隔地のため、九州対馬藩の宗氏は3年おきに1年、蝦夷地の松前藩の松前氏は、5年おきに1年の在府であった。佐賀藩の鍋島氏と福岡藩の黒田氏は、長崎警備のために11月に参府して、2月に帰国した。一万石以下の旗本でも、高禄で領地のある交代寄合は参勤交代をしたが、三河以来の家臣である10余家には、隔年の参勤交代が許されていた。






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御在所交代による参勤交代


幕府の大名配置の方針は、江戸近在に譜代大名を配し、水戸、尾張、紀伊の要地に御三家を配置した。また、東海道、大阪周辺にも譜代大名を配した。外様大名は遠隔地に置き、親疎と譜代を相接することで相互に監視させる目的があった。例えば、九州の中津藩、杵築藩、府内藩の3藩は譜代大名である。日出藩、臼杵藩、佐伯藩、岡藩、森藩の5藩は外様大名であった。






このため杵築藩主の能見松平氏と府内藩主の大給松平氏の両譜代大名が交互に在国して、外様大名を監視する任務を帯びていた。また藩主同士の談合をさせないため、外様大名の岡藩主の中川氏と臼杵藩主の稲葉氏は交代で参勤し、同時参勤、同時在国は一切認められなかった。なお中津藩主の奥平氏と小倉藩主の小笠原氏は、譜代大名同士が交代して参勤していた。このような参勤方法を「御在所交代」と称した。








参勤交代の行列人数


幕府の軍役規定では、行列の編成は大名の石高や格式で定められた。大名行列は、戦時の行軍に準じた臨戦的な軍事移動であった。江戸の泰平の世が続くと、大名の権威と格式を固持する大規模で華美なものに変容した。本来の目的は、将軍への服従を示す儀式である。





10万石の大名は、馬10騎、足軽80人、中間人足150人。

5万石上の大名は、馬7騎、足軽60人、中間人足100人。

4万石下の大名は、馬4騎、足軽20人、中間人足30人。

鳥取藩池田家33万石は、行列700人、180里(720km)、

 日数22日、経費5500両。

加賀藩前田家103万石は、行列2000人~4000人、119

480km)日数13日、経費5333両。

薩摩藩島津家77万石は、行列1880人、440里(1700km)

 日数4060日、経費17000両。

御三家の紀伊徳川家55万石は、武士1639人、人足2337人、

 馬103騎を擁した記録もある。






長門萩藩(37万石)13代毛利敬親の総勢1000人の大名行列が江戸に向かって高輪を通過中である。金紋先箱に毛利家の家紋、一文字に三つ星、槍の投げ渡しも描かれている。「温故東の花」揚州周延




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参勤交代の道中経路


幕府は参勤交代の経路を、道中奉行の管轄下に置いた五街道の道中行列を命じた。東海道(日本橋~三条大橋間53宿)、中山道(板橋~守山間69宿)、日光道中(千住~鉢石間23宿)、甲州道中(内藤新宿~下諏訪間44宿)、奥州道中(白沢~白河間27宿)を主街道にした。これ以外は、脇街道または脇往還と呼び、その中で伊勢路、中国路、佐渡道の三つが重視された。





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天下の大街道の道幅は六間(11m)、小街道では三間(5、5m)、横道は二間(3、6m)、歩行道は一間(1、8m)と定められた。道は小石と砂利を厚さ3センチに敷き固め、その上に砂をまいた。道路の両側に土を盛り、その上に松、杉、榎を植えて並木とした。夏はこの木陰で涼をとり、冬は風除けとして旅人を護った。一里塚は日本橋を基点として、全国へ里程を示す道標である。





これを目印に道中人足の賃金を計算した。休憩場所になる一里塚上の榎は夏に日陰をつくる樹の意があり、秋には甘い実を旅人に供される。東海道を参勤交代の通路とする大名は、近畿、中国、四国、九州の大名である。文政4年(1821)には、146家に及び全国の大名245家の6割に達した。この大名の宿泊所が本陣である。東海道五十三次の宿駅の本陣、脇本陣合わせて160家あり、一宿場に12家が通常だが、中には45家の宿場も見られた。











加賀前田家の参勤道中


加賀前田家の参勤交代は、北国下街道(金沢-富山-上越-信濃追分-中山道-軽井沢-高崎-大宮-板橋宿-江戸)全行程480km、40km/日で1213日の主要道中であった。




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しかし、道中には河川の洪水や難所の道路事情など、如何なる影響があっても届けた行程の遅延は許されない。そのため時節による迂回路を必要とした。北国上街道 金沢-福井-武生-今庄-木之本-関ヶ原-中山道経由で江戸660km、または東海道経由で江戸600kmの2経路が用意され、35日追加となった。






加賀前田家道中絵巻(鉄砲筒に前田家の加賀梅鉢紋)

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遠距離参勤交代


九州四国の大名は参勤交代にあたって、紀伊半島を廻る海路で江戸湾に船を乗り入れることを禁じていた。海路は時化などで行程の予測が難しく、幕府に提出した登城日に遅参は許されない。そのため、九州方面からの参勤で海路をとる場合は、瀬戸内海から大阪湾以西の湊で上陸して、陸路で江戸に向かった。








肥後細川家の参勤道中


肥後熊本藩主加藤清正が、関ヶ原の戦功で得た豊後鶴崎と肥後熊本を結ぶ参勤交代の豊後街道を開いた。細川家に受け継がれ、九州を東西に横断する豊後街道(熊本-大津-阿蘇-久住-野津原-鶴崎港)122km四泊五日の行程である。阿蘇の起伏の激しい峠の火山灰は、降雨泥の難所となるため2kmに及ぶ史跡「二重峠の石畳」がある。鶴崎港から出船して豊後水道-瀬戸内海-大阪-東海道-江戸1、025km。合計1、147km 22日~55日間を要した。







豊後街道(熊本~鶴崎港)

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「今市の石畳」は、豊後森藩岡城主の中川氏の築いた今市宿にある。現存している石畳は全長660m幅2m文化財として保存されている。文久4年(1864)2月16日鶴崎の本陣に宿泊した勝海舟と坂本龍馬は、この石畳を通り熊本から長崎に向かった。






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薩摩島津家の参勤道中


薩摩島津家の参勤交代は、大名の中で最も遠方の1700km40日~60日に及んだ。日本の最南端にある薩摩国の西岸から出船して、平戸を経由して瀬戸内海より大阪で上陸した。もう一つの海路は、鹿児島から薩摩街道高岡筋(西海道)で陸路を取り、細津で出船して瀬戸内海航路をとる。




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西国大名は大阪での海上混雑から船奉行に民間船を除けてもらう船除(ふねあらけ)の特別待遇を受けていた。大阪河川の混雑や風待ち潮待ちなどの煩雑さで、室津と大阪間は陸路を取った。江戸中期以降は、確実性の高い陸路を選び薩摩街道(西海道西路)から山陽道より東海道の参勤経路が主となった。








大名行列と宿場本陣


大名行列には、宿割、馬割、川割奉行に老中配下の御徒目付2名を配した。宿割とは、事前に宿場へ出向き、大名の泊まる本陣、脇本陣、家臣の階級別に宿場内の旅籠に配分した。馬割とは、近在の村から集めた荷役馬を割り振る。川割とは渡河の順番を決める。本陣とは戦場にて大名の居場所である。






参勤交代は軍役行列であり、武士に常在戦場を意識させるため、大名の宿泊する旅籠を本陣と定めた。また、戦場で本陣の周囲に張り巡らした定紋入りの幔幕を宿場本陣の表に巡らした。本陣に宿泊できるのは、将軍の名代、勅使、院使、宮家、門跡、大小名、駿府・大阪・二条城御番衆、奉行、代官、目付、幕府の公用者、御三家、大名の名代である。幕府の公用が本陣に限定されたが、往来が頻繁になると脇本陣を設置した。






大名は宿場の本陣に宿泊するが、食事は中毒や毒殺を警戒して、専用料理人と膳所長持に調理道具一式を携行していた。この「本陣検査役」一行は、宿場の本陣に大工、細工人、料理人と供に先行している。「御判留人」は、行列の出発後、不始末、紛失物、宿賃の不払い、飲食の踏倒しのないことを確認して請書を取って廻る。大名の供につく2家老の内一人は、藩主の行列の一日もしくは三宿遅れて着く慣例であった。








東海道五十三次48 関宿 本陣早立


関宿は鈴鹿山脈の山裾に位置する。古代三関の「伊勢鈴鹿関」があったことで関宿といわれる。東の追分で伊勢神宮に達する伊勢別街道に分岐、西の追分で大和街道と分かれる。これら交通の要所にある関宿は旅人で栄えた。また参勤交代の大名行列は亀山宿の城下町を避け関宿に宿泊したため、東海道屈指の宿場として賑わった。東西追分18km200棟の宿場町が重要伝統的建造物として保存されている。





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廣重の描いた関宿の川北本陣である。貞治2年(1363)足利義詮が上洛した際にその旅籠を戦地の本陣になぞらえ「本陣」と称して宿札を掲げたことに始まる。
右手前に宿泊大名の名を掲示する宿札が立てられている。縁側の裃姿の本陣主人の川北久左衛門は苗字帯刀を許されている。主人は提灯を持つ下男に指示を与えている。その手前の奴三名は行列の槍持ちである。





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奥の黒い羽織の武士達は、門内の動きを見守り、早立ちの慌ただしさを描いている。奥の武士の持つ箱提灯の紋様は廣重のヒロを図案化したもの。大提灯と白い幔幕の家紋は、廣重の父方の姓「田中」の文字と御所車の輪を組み合わせた紋様。大名の定紋や大名の家名は描けない苦肉の策である。







脇往還「美濃路」


江戸の東海道は、平安時代以来の「美濃路」を棄て、古代の律令制に戻り「伊勢路」を東街道とした。これは、美濃路をとると中山道と合流して京都までの街道の独自性を失う。室町以降、東国からの伊勢参宮が盛んになり、関東、東海、伊勢の経済的関係が深まり伊勢路が再び東海道本道の名誉を挽回したのであろう。






大阪~江戸の道程は、東海道と中山道を選択できる。正規の東海道は、尾張国から伊勢湾を横断して伊勢国に渡るのだが、東西の移動では遠回りであっても、海路を避けられる美濃路が好まれた。美濃路は、東海道宮宿と中山道垂井宿を結んだ脇往還である。諸大名は幕府直轄の五街道以外の脇街道を利用する場合は、事前に幕府に申請する必要があった。





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東海道五十三次「七里の渡し」


慶長6年(1601)家康によって本格的に東海道五十三次の宿駅伝馬制の整備と設置が進められた。元和2年(1616)宮宿と桑名宿の渡船場による官道「七里の渡し」が、濃尾平野の低湿地を避けるため、東海道における唯一の海上路となった。




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桑名宿の渡船場には、乗合船定員40人、47人、53人乗りの3種類合計75隻を所有した。里の渡しは、満潮時の陸地沿い航路が約7里(27km)4時間で、干潮時の沖廻り航路が約10里(39km)であった。しかし、天候の悪化などで海難事故が発生する東海道の難所の一つであった。海上を避ける迂回路は、脇往還の佐屋街道でも水路3里の渡船があった。








東海道五十三次42 宮宿の渡船場 


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東海道五十三次43 桑名宿の渡船場


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東海道五十三次24 島田宿


東海道五十三次の嶋田宿は、大井川の左岸にあるため、増水で川越が禁止されると、京都や伊勢方面の旅客が足止めされた。長雨で滞在費、遊行費で路銀が嵩むことになる。「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と詠われた。





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東海道五十三次25 金谷宿


東海道五十三次の金谷宿は、最も川幅の広い大井川の右岸にあり、牧之原台地が迫る狭い宿場町である。嶋田宿同様に大井川の川止めで、江戸方面の旅客が足止めされる。そこで40km遠距離になるが中山道を利用する方が日程も確かであった。江戸を守る要害として大井川には、架橋も渡船も禁じられていた。荷を頭に乗せ自力で渡ると処罰され、川渡人夫の肩車、または蓮台に乗る他なかった。





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川留めの滞留で路銀を使い果たした伊勢参拝者など庶民は、物貰いとなって郷里に引き返す者も多かった。そのため幕府も渡船か架橋を計画するが、両岸の島田、金谷宿が川越人足千名の失業や宿場の衰退を恐れて、その都度強硬に反対した。幕府が川越人足の既得権益を守った結果、蓮台渡しなどは幕末まで続いた。






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明治になると渡船や架橋が許可され、明治9年(1876)大井川大橋の架設橋ができ、明治16年(1883)全長1225mの木橋が完成した。慶喜が家督を譲った静岡藩主家達の家臣200戸が、明治2年に帰農して牧之原台地に入植して茶園の開墾に乗り出した。明治3年に元彰義隊と川越人足100戸などの入植で名産の静岡茶が各地に誕生した。











大名行列の編成


大名行列は参勤交代における江戸と領地との往来がその典型である。その日程と行程管理、本陣や旅籠の手配、道中費用の交渉、支払いなどは、藩の「道中奉行」がその全てを取り仕切った。日程と行程は、あらかじめ決められており、担当する道中方役人は出発の数ヶ月前から宿駅に先触れの家臣を遣わして、本陣や旅籠の手配や同日に重複なきよう綿密な打ち合わせを行なった。






大名行列には「供頭」という、行列の監督と責任役が必ず任じられた。道中で諸大名とすれ違う場合、相手が上位か下位かによって処し方が異なる。相手の身分を素早く判断して対処するのが供頭の仕事である。供頭が大名家の上下の礼を見誤ると、主君ひいては藩の名を汚すことになり、切腹ものである。





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さて、行列の編成は、前駆、前軍、中軍、後軍、荷駄の行軍体形を執る。行軍の先頭は、露払い、金紋先箱と先槍が務めた。幕府から特別に許可を受けた二十家の大名が先箱に家紋を金で描ける。この先箱が大名の格式を誇示している。また先槍の槍鞘の形式によって、遠方からどこの大名か判別できた。供侍だけでなく露払いの徒なども諸大名の家紋や槍印を記憶するため、それらが記載された「武鑑」が必要であった。






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先頭の露払いが「したに~、したに~」と警叱の声をかけるのは、「退け、土下座しろ」の意である。これは尾張徳川家と紀州徳川家が、混雑した街道や宿場に入ったときだけに平伏を命じたものである。一般大名家は「片寄れ」あるいは「除けろ」という掛け声で、民衆は脇に避けて道を譲るだけである。次に物頭に率いられた徒士、組頭に率いられた槍組、弓組、鉄砲組が続く。鉄砲組を後続に廻して、騎馬の重臣が付く場合もある。鉄砲は漆で固めた筒に入れて担ぐ。





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次に大名の駕籠護衛の家臣団が続く。家臣は各自の槍持ち、鋏箱持ち、草履取り、侍中間などを従えた。その後ろの、馬の口取りは大名用の飾り馬を引き馬する。次に大名の乗った簾付の打場網代黒漆塗り駕籠である。駕籠のまわりに警護の武士「馬廻り」が羽織に袴の股立ちで囲んだ。





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次に刀持ち、薙刀持ち、医者、茶坊主、茶弁当持ち草履取り、傘持ちが従う。行列の最後尾の長持には、大名や上級武士の日用品や備品、草鞋、金銭、衣類、馬具などを入れる。雇い人足や駄馬の列は、随行する家臣の手荷物、献上品、土産品などを運んだ。





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大名行列の前を横切る「供先を切る」という列を乱す行為は、その場で無礼討ちが認められていた。但し、事前に警告を行なうため実施されることは稀であった。幕末の薩摩藩島津家の大名行列で起きた「生麦事件」も外国人に言葉が通じず、度重なる警告を無視する結果に起因している。特例として、飛脚、出産の取上げに向かう産婆は、列を乱さぬ限り前を横切ることを許されていた。





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東海道 本坂通の気賀関所


東海道の気賀関所は、新居関所の裏番所として本坂通(姫街道)の往来を監視した。旗本3500石の気賀近藤家が、元和5年(1619)から明治維新まで12代にわたり関所を管理していた。関所手形により「入鉄砲出女」を取締り、新居関所や周辺の番所と共同で浜名湖上の通行諸船と山道を抜ける「横越し」を監視した。





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宝永4年(1707)の宝永地震の大津波で気賀関所を始め、浜名湖南岸の新居関所が壊滅的な被害を受け、本街道を避けて、被害の少なかった姫街道の本坂越えを利用する旅人が増えた。






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東海道五十三次32 荒井宿の渡船場


明応7年(14998月の明応地震で遠州灘沿岸は、津波に襲われた。遠江の浜名湖開口部が地震で地盤沈下し、今切口が決壊して淡水の浜名湖に海水が流入して塩水湖となった。ゆえに東海道の舞坂宿と新居宿の間は、「今切の渡し」の渡船で往来した。





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新居の関所を出て江戸に下る大名船と京に上る乗合船が描かれている。大名船には幔幕を張り、毛槍と吹流しで大名の存在を誇示している。定員30名の貸切り船は130文、乗合船は一艘の船代を乗船者数30名で等分すると一人4文であった。











荒井宿(新居宿)の今切関所


慶長5年(1600に)設置された今切関所の新居村は幕領地になり、幕府から派遣された新居奉行が管理した。新居関所は日本で唯一現存する関所で、国の「特別史跡」である。





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東海道五十三次11 箱根宿 箱根関所


東海道箱根宿に元和5年(1619)から明治2年(1869)まで箱根の芦ノ湖畔に箱根関所が設置された。箱根山には箱根関所と五つの脇関所 ①熱海道に根府川関所 ②箱根裏街道の仙石原関所 ③足柄峠越えの矢倉沢往還の矢倉沢関所 ④山北の川村関所 ⑤山北の谷ケ村関所が置かれていた。





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関所では幕府に対する謀反の意思がないと証明するため、通過する大名は駕籠の窓を開けて、関所の役人に顔を見せて通過した。その際に関所役人は行列の人数や槍弓など武具の装備を幕府に報告した。箱根関所は歴代の小田原藩主が管理した。番士は小田原城から派遣された藩士で交代勤務した。関所常備の武具は、弓5、鉄砲10,長柄槍10、大身槍5、三道具1組(突棒・刺股・袖搦)に寄棒が軍規定である。





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「入鉄砲出女」


「入鉄砲出女」は、入鉄砲は江戸の治安維持のため、出女は江戸屋敷に留め置かれた大名の妻子が領国へ帰国防止のためである。入鉄砲には老中の発行する鉄砲手形、出女は留守居役の発行する女手形の携帯義務があった。寛永年間に厳重な監視体制が執られ、東海道の新居関所が江戸に入る鉄砲を厳重に監視した。







そして、箱根関所が江戸から出る女性を監視する役割分担が確立した。女手形は別名の留守居役証文で、旅の目的や行先に人相、素性などが記されていた。箱根関所は、とくに厳しく吟味する人見女(改め婆)が常駐して睨みを利かしていた。身体的特徴は厳重に、男装の女性も見逃さず摘発した記録もある。これらは江戸に女性が圧倒的に少ないため、入易く出難くした一面もある。女性の中には関所を避けるため遠距離となる別路を選ぶ者もいた。






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江戸の金本位制と銀本位制


箱根関所は、徳川幕府体制の出入国管理事務所であった。幕府により確立した三貨制度(金、銀、銭)で、西日本は銀の産出が多いため、重さで価値の決まる銀貨と銭貨、東日本は金の産出が多いため、額面表記で価値の決まる金貨と銭貨であった。箱根関所へ東下りの旅人の手持ち銀一貫匁以上は、小田原藩の関所役人に没収される。






さらに両替では、金銀相場の交換比率よりも銀は安く叩かれて金貨と交換する。そこで多くの商人達の使う銀貨は、一つ手前の三島宿で豪勢に散財してしまう。三嶋大社の門前町であり、旅籠74軒の三島宿の女郎衆は、豪遊する客の掛け持ちで、超多忙、化粧直しを言訳に座敷を行き来する。ゆえに、東海道五十三次の中で三島宿が最も栄えた宿場町となった。








坂東と関東


飛鳥時代672年に日本古代最大の内乱「壬申の乱」が起き、天武天皇は都一帯を護るため、東山道に不破関、東海道に鈴鹿関、北陸道に愛発関の三関を設置した。後の天下分け目の関が原の関とは不破関のことである。律令制が構築された奈良時代に三関の西側の「関西」や「西国」また、東側の「関東」や「東国」という概念が定着した。令時代の東海道は、足柄峠に足柄関が置かれていた。足柄峠の急坂より東を「坂東」と称した。







勇猛な坂東武者や利根川の別称に坂東太郎がある。室町幕府が鎌倉公方と関東管領を置くと、管轄する坂東は(相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、上野、下野)の八ヶ国に伊豆、甲斐を加えた十ヶ国を関東と認識していた。家康による江戸幕府の創始で、江戸を防御する箱根関、小仏関、碓氷関より東の坂東八ヶ国のみが「関東」と定め、関八州一帯の治安維持に努めた。旧来の坂東と江戸時代の関八州が現在の関東地方(一都六県)に至っている。









「東海道箱根山中図」


14代将軍家茂公の一行が上洛のため、箱根芦ノ湖を通過する東海道の道中図である。平安京の別名を中国の都「洛陽」と呼び、やがてその一字「洛」が平安京と同義語となる。京の都を京洛、京域内を洛中、その周域を洛外、上洛、入洛は京都内に入ることを言う。徳川将軍家は、朝廷から将軍宣下を受けるために上洛、二条城に宿城した。寛永11年(16343代将軍家光の威厳を示す行列306000人の上洛を最後に途絶える。






その背景には上洛よりも神君家康公への日光社参が優先された。家光公以来、229年ぶりの将軍家茂の上洛では、老中、若年寄以下、騎馬100、銃手大小隊700を含む3000人の徹底した質素倹約の行列である。将軍家茂は孝明天皇の攘夷実施の強い求めに応じ、文久3年(1863213日、江戸城を出て、17日箱根芦ノ湖を通過中、次の三島宿の宿営地に向かう構図である。





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諸侯江戸入の行列之図


参勤交代における大名行列は、大名の権威と格式を誇示するため華美になり、幕府の定めた以上の供を引き連れ、行列の服装も贅を凝らしていた。一糸乱れぬ整然とした隊列で、豪華さと華麗を見せつけるのは、領国の城下町を離れるまでである。街道筋では宿場に入る前に隊列を整える。





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このように、一目に触れる場所で整然と振る舞うだけで、次の集合場所まで概ね自由行動であった。この行列人員は、藩士7割、六組飛脚問屋の手配した通日雇の人足3割が国許から江戸まで通しで荷物を運んだ。





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江戸入府は最も多く一目に触れる参勤交代で最高の見世場である。大名行列が江戸四宿(品川宿、内藤新宿、板橋宿、千住宿)に致着すると、口入れ屋に増員手配していた人足に衣装を整えさせて、大名行列の長さで権勢を誇示して望んだ。




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       「東都高輪風景」歌川貞秀作






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浮絵「御大名行列之図」歌川豊春画 大英博物館蔵


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国許の大名屋敷から城主が参勤交代で江戸城に向かう出立風景を遠近法で描いている。表正門が開かれ、城主を迎えに家臣の持つ駕籠が入る所である。大名屋敷門は、左側に片番所があり、二万石格の格式を持つ大名と推察できる。









by watkoi1952 | 2021-04-19 14:03 | 徳川将軍家と諸大名家 | Comments(0)