家康と天海の江戸城総構え



家康と天海の江戸城総構え





南光坊天海


南光坊天海は、天文5年(1536)会津の蘆名氏の一族に生まれたとされている。随風と称して出家、天台宗の僧侶となり、比叡山延暦寺などで学を深める。元亀2年(1571)織田信長による比叡山延暦寺の焼き討ち後、武田信玄や蘆名盛氏の招聘を受ける。天正16年(1588)武蔵国の無量寿寺北院(川越喜多院)に移り天海を名乗る。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原北条攻めで、浅草寺に布陣した家康の陣幕に住職の忠豪と天海が同席した記録がある。




慶長4年(1599)天海が河越北院の住職となる。その後、天海は家康の参謀として幕政や宗教政策に深く関わり、朝廷との交渉役も担う。関ケ原の戦いに勝利した家康は、慶長8年(1603)幕府を開くにあたり、天海に命じて、伊豆から下総まで関東の地相を調べさせた。天海は古代中国の陰陽五行説にある「四神相応」の考えを元に江戸が幕府の本拠地に適していると進言した。






陰陽五行説と四神相応


四神相応とは、東の青龍に川が流れ(隅田川)、西の白虎に低い山や道が走り(東海道)、南の朱雀に湖や海があり(江戸湾)、北の玄武に高い山(富士山)がある土地は繁栄すると考えられていた。江戸の北には、上越の山々が聳えるが、あえて北西の富士山を真北と見立て、江戸が四神相応に叶うとした。天海は江戸周辺にある7つの台地の陰陽道の気が集まる地に江戸城の本丸を置くよう助言した。




家康と天海の江戸城総構え_a0277742_21391198.jpg





慶長8年(1603)江戸幕府は、江戸城の場所が太田道灌の築いた城館跡地に決定すると、築城の名手である藤堂高虎が中心となって江戸城の曲輪、堀、門、虎口の配置が行なわれ、城の良し悪しはこれで決まるという縄張りが行なわれた。天下普請による江戸城の拡張に着手すると、本郷台地突端の神田山を崩して日比谷入江を埋め立てる。慶長11年(1606)諸大名から伊豆石を搬送させた。翌慶長12年には、関東五諸大名の80万石で石を寄せ、20万石で天守の石垣を築き、奥羽信越の諸大名は堀普請を行ない、慶長度の天守閣が完成した。






南光坊天海・天海大僧正

家康と天海の江戸城総構え_a0277742_10594114.jpg




慶長12年(1607)天海は、比叡山探題執行を命ぜられ、南光坊を居住地として延暦寺再興に関わる。慶長14年(1609)には、仏教の僧と尼を統括するために僧侶の官職「権僧正」に任命された。慶長16年(1611)西ノ丸の石垣工事を東国大名に課役した。慶長17年(1612)天海は無量寿寺北院の再建に着手し、寺号を喜多院と改め、関東天台宗の本山とした。




慶長18年(1613)家康より日光山貫首を拝命し、本坊光明院を再興する。慶長19年(1614)夏から冬にかけ石壁の修築工事を行ない、10月に家康は、大坂の陣の陣触れを出し江戸留守居役を除く諸大名は江戸から参戦して疲弊、大阪夏の陣終結後、3年間の工事中止で慶長期の天下普請は終了した。元和4(1608 )紅葉山東照宮を造営、神田川の開削工事を行なう。






家康の遺言


元和元年(1615)家康は、朝幕関係を規定した禁中並公家諸法度、諸大名統制のために武家諸法度、一国一城令が制定された。こうして、徳川将軍家による揺るぎない日本全域の支配体制の礎を築いた。元和2年(16163月、家康は朝廷から太政大臣に任じられる。平清盛、足利義満、豊臣秀吉に次いで史上4人目の栄誉である。417日家康は駿府城において、胃癌で734ヶ月の波乱の生涯を閉じた。




家康は、同元和2年に大僧正となった天海に遺言を託し、葬儀は芝増上寺で行なわれ、浄土宗の戒名が付けられた。御遺体は駿府の久能山に祀られ、御位牌は松平氏の菩提寺大樹寺、一周忌を経て「神棺」で日光の東照社に分霊された。家康の神号は、側近の南光坊天海の「権現」と金地院崇伝の「明神」争われた。しかし、秀吉が「豊国大明神」であり、天海の山王一実神道の薬師如来を本地仏とする「東照大権現」の神号に決まる。




家康は江戸幕府の始祖として東照神君、権現様と呼ばれ江戸時代を通じて崇拝された。崇伝は臨済宗の僧侶で、家康の元で江戸幕府の法律の立案、外交、宗教統制を一手に引き受けていた。その権勢から「黒衣の宰相」異名を取ったが、神号の否定により幕政に参画する事はなかった。天海は、祖父家康を崇拝する三代将軍家光に仕える。寛永元年(1624)江戸城の総曲輪を展開した伊勢津藩主・藤堂高虎や弘前藩主・津軽信牧、越後村上藩主・堀直寄の大名下屋敷地の上野忍岡を寛永寺用地とした。




寛永2年(1625)天台宗寛永寺の本坊を創建する。開基は徳川家光、開山は初代住職の天海、本尊は薬師如来である。天海は江戸城を災いから守るため、邪気が入る北東の鬼門に築いた寛永寺の住職を自ら務める。創建年号から寛永寺と命名、東の比叡山を意味する「東叡山」の山号を持ち、平安京の鬼門を守った比叡山延暦寺に倣った。寛永寺に隣接して、琵琶湖に見立てた不忍池を築き、竹生島に倣って池の中之島に弁財天を祀った。







江戸の鬼門鎮護


寛永8年(1631)寛永寺の隣接地に上野東照宮、五重塔を建立、浅草寺に家康を東照大権現として祀り、鬼門鎮護の守りを厚くした。また、邪気の通る鬼門の対角線上にある南西の裏鬼門に浄土宗の芝増上寺を置き、2代将軍秀忠の墓所として、両寺ともに徳川家の菩提寺とした。天海僧正は、鬼門鎮護をさらに強固にするため、神田神社と日枝神社を配置した。その結果、寛永寺・神田神社と増上寺を結ぶ直線と、浅草寺と日枝神社を結ぶ直線の交差地点に江戸城があり、鬼門・裏鬼門封じを徹底した。






上野東照宮本殿

家康と天海の江戸城総構え_a0277742_11144522.jpeg




家康の生母を祀る北の「伝通院」、北東の「寛永寺」、南西の「増上寺」は、ともに江戸を守護する菩提寺として江戸三霊山と称された。江戸っ子の血が騒ぐ、神田神社の神田祭、浅草寺の三社祭、日枝神社の山王祭は、江戸城の鬼門と裏鬼門を浄める江戸鎮護の役割があった。関東の鬼門に位置する日光山(輪王寺、二荒山神社)、裏鬼門に位置する箱根山(箱根権現、箱根神社)は、関東の守護神として、德川将軍家の厚い崇敬を受けていた。




家康と天海の江戸城総構え_a0277742_21405839.jpg





鬼門の日光東照宮、裏鬼門の久能山東照宮との間に初代日光東照宮を移設した世良間東照宮を置き、ともに徳川将軍家を守護した。寛永寺の中心となる根本中堂が落慶したのは、開創から70年後の元禄11年(16988月、5代将軍綱吉の代である。この根本中堂と音羽護国寺、根本中堂と浅草寺を結ぶ一直線に繋がる。また、根本中堂は日光の表参道の延長戦上に位置している。






寛永寺根本中堂・文殊楼・吉祥閣


家康と天海の江戸城総構え_a0277742_18283347.jpg






日光東照宮は、陰陽道の強い影響を受けた天海大僧正による設計で構成されている。山内の主要建物を線で結ぶと「北斗七星」が現れる。さらに本殿、唐門、陽明門、鳥居を結んだ線上空に北辰(北極星)が現れるように南向きに配置されている。また日光東照宮から真南の線上に江戸城がある。日光表参道から真南の正確な延長上に上野寛永寺「根本中堂」がある。




家康と天海の江戸城総構え_a0277742_22020411.jpg





日光東照宮の「東照」とは、家康を東国の天照大神と神格化した。その神格が宇宙を主催する天帝と一体化して、北極星のパワーは東照宮を通して江戸へ送り、北から江戸城を見守り続ける構想である。



家康と天海の江戸城総構え_a0277742_09013955.jpg




これらの方位概念は、江戸の北方にあたる日光の延長上に宇宙を司ると考えられた北極星がある。日光東照宮は、宇宙の中心軸上にあり、これを「北辰の道」という。久能山東照宮から富士山(不死の山)を通る直線の延長線上に世良田東照宮と日光東照宮がある。これを「不死の道」という。つまり、江戸から北極星を結ぶ「北辰の道」と、久能山と富士山の延長線上の「不死の道」を交差点に日光東照宮がある。久能山と生誕地の岡崎の直線上に京都があり、これを「太陽の道」と呼んでいる。






天海の養生訓


徳川三代将軍に絶大な信頼を得て、政治にも関与した黒衣の宰相・南光坊天海大僧正は、寛永20年(1643)10月2日に死去し百八歳の天寿を全うしたと伝わる。彼が長生きの秘訣を問われ次のように答えている。



①「気は長く」とは、物事に対して性急になるなということ。何をするにしろ焦らずゆったり性急にならぬことが長生きの秘訣。


②「つとめは固く」とは、仕事、責任、義務など成すべきことは緩みなく堅実に行なう。人は成すべきことを成さぬとき不安焦燥に駆られる。それは養生の大敵なり。



③「色うすく」とは、欲情を少なくは養生の礎である



④「食は細うして」とは、食事を少なく「腹八分目」にする。過飲過食は身体を損なう。



⑤「こころ広かれ」とは、心が緩やかであれ、鷹揚であれ。度量を大きくして万事に対処せよ。



つまり、長命を願うならば栄養価の低い食事と、心に患いのない正直を守り、毎日風呂に入り、お経を読み、時々は誰に気兼ねもなく下風をせよというのである。











by watkoi1952 | 2020-11-14 11:06 | 江戸城を極める | Comments(0)