江戸の富士信仰と富士塚
江戸の富士信仰と富士塚
富士信仰
富士信仰とは、富士山そのものを神霊と見立てる古神道の山岳信仰の一つである。富士山を信仰、崇拝の対象とする富士浅間信仰が代表的なもので、村山修験や富士講などがある。原初山岳信仰から仏教と習合した山林仏教に発達する。そして、本来禁足地であった富士山登拝を目的とした山岳修行者が現れる霊山信仰。平安末期から組織化した山岳修行者による修験霊場。南北朝・室町期から高まった庶民による富士山登拝を目的とした富士講・富士行人。明治期以降に公認された神道十三派に代表される宗教神道の時代となる。

富士山が民衆の信仰を集めるには、登山の大衆化が大きな要素となる。日本独自の山岳信仰である修験道の開祖とされる役行者と富士山登山を結び付ける記述は多く見かける。また、「富士開山の祖」とされる末代上人は、平安時代の僧侶で登山道を開き富士山頂に大日寺を建立した。末代上人は、村山修験の祖で修験道を組織するなど民衆による富士信仰に大きく関わった人物である。


富士山本山浅間大社
富士山は、古来霊峰とされ、その噴火を沈静化するため律令国家により浅間神社が祭祀され、富士山を神体山として祀る浅間信仰が確立された。富士山南麓富士宮の「本宮一万七千坪」と富士山「八合目以上の社有地百二十万坪」と奥宮境内地を所有している。浅間大社は、全国の浅間神社1、300社の総本山であり、古来富士山は、富士山本宮浅間大社の御神体として崇められる神聖地として知られる。本宮の本殿は、慶長9年(1604)徳川家康による造営で「浅間造り」という独自の建築様式である。祭神を「木花之佐久夜毘売命(コノハナノサクヤビメ)」とし、祭神にまつわる桜を神木として、境内に五百本の桜樹が奉納されている。

浅間神社の鳥居より霊峰富士の頂上を望む
富士山頂上浅間大社奥宮
富士山頂上奥宮は、富士宮口(表口)から登山道の頂上に鎮座する御祭神は、浅間大神の木花之佐久夜毘売命を主祭神とし、父神大山祇神、夫神の瓊々杵尊を相殿神として祀っている。奥宮境内には、「富士山頂上浅間大社奥宮」と記された石碑が建てられており、山頂のシンボルとなっている。

奥宮の御扉には「國鎭無上獄」と金色で書かれ、建物内には高齢者記帳所が設けられ、70歳以上の高齢者登拝者名簿に記帳すると記念品が授与される。この記帳は昭和35年(1960)から行なわれ、平成22年(2010)時点で1、243名が記載されている。大正12年(1923)7月26日皇太子裕仁親王(昭和天皇)は、須走口より乗馬にて8合目まで登山後、徒歩にて奥宮を参拝し、金剛杖に記念の焼印を行い、御殿場口より下山された。
富士山頂上久須志神社
奥宮の末社である久須志神社は、須走口、吉田口、河口湖口の登山道の頂上に鎮座する。御祭神は大名牟遅命、少彦名命をお祀りしている。頂上では、両奥宮を参拝後、1時間かけてお鉢(火口)廻りをするのが慣わしである。

静岡県富士市吉原の旧東海道の沼川に架けられた河合橋の南側から霊峰富士を望む。明治13年(1880)ベアトに師事した日下部金兵衛の撮影である。橋の左に向かう沼川の流れは駿河湾田子の浦に注いでいる。
「田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に
雪は降りける」歌人 山部赤人
富士講と富士塚
富士山登山は平安時代末から始まり、江戸時代に大きく発展し富士講という団体登山が行なわれた。富士講は江戸中期に成立した民衆信仰で、秀峰富士山を崇拝する人々によって奉賀寄進を行なう事を目的に組織された講社である。富士山へ登山し修行を目的とする。江戸初期に富士宮の修験場「人穴富士講遺蹟」で修行した長谷川角行を開祖とする。

その後富士講は、浅間信仰と結びつき細分化を繰返した。「江戸は八百八町、富士講は八百八講、旗本八万騎、講中八万人」と発展する。角行が説いた信仰の指導者である「御師」は、富士講の講員に富士山登山時に宿泊所や装備を提供する役目を担っている。それぞれが講を組んで金剛杖に白装束にすげ傘と草鞋の正装で、「六根清浄、お山は晴天」と唱えて聖地富士山に登り祈願する。六根とは、眼、耳、鼻、舌、耳、意を神の力によって浄めることである。この言葉は修験者ばかりでなく、六根清浄「どっこいしょ」と一般民間人に広く行き渡っていた。

富士塚
富士塚は、富士信仰に基づき、富士山に模して造営された人工の山や塚である。庭園に見る築山と同様であるが、目立つ所に富士山の溶岩を配するのが特徴である。また、本物の富士山の山頂にある浅間神社奥宮に対応する宮を頂上に置いた。富士講が富士山の山開きの日7/1に富士塚に登山する習慣がある。江戸の富士塚は頂上から聖地の富士山が望めるよう築造されたが、現在、高層化ビルに伴い、富士山を直視できる富士塚は見当たらない。

江戸最古の高田富士
高田富士は、安永9年(1780)江戸の高田水稲荷の境内に高田籐四郎が築いた富士塚が高さ10m江戸の人造富士中最古のものである。籐四郎は、当初「身禄同行」という講を組織して「高田富士に登拝すれば、富士山に登ったのと同じ御利益がある」と評判をとり、後の富士講の大ブームとなる礎であった。

この高田富士は、早稲田大学の敷地内に保存されていたが、昭和39年(1964)現大学9号館を拡張する際に近接した甘泉園公園横に水稲荷神社とともに移築された。

目黒元富士
目黒富士は、文化9年(1812)上目黒の目切坂上に、富士講「山正広講」が築いたもので、山頂には浅間神社の石祠があった。文政2年に中目黒に新富士ができると、区別されて「元富士」と呼ばれた。山開きには屋台が出て参詣者で賑わった。明治11年(1878)に元富士の地が政治家岩倉具視の別邸となると、石祠や石碑などを上目黒氷川神社に移設した。


さらに昭和14年(1939)東武鉄道の二代目根津嘉一郎邸になり、昭和14年(1939)邸の改築で元富士は解体消滅した。昭和52年(1977)上目黒氷川神社の一角が新たな「目黒富士」とされ、毎年7月には山開きの例祭が行なわれている。
目黒新富士
新富士は、文政2年(1819)富士講の信者に頼まれて近藤重蔵が、三田村槍ヶ崎(中目黒)の別所坂上の広大な別邸内に富士塚を築造した。元富士と区別するため新富士と称し、眺望もよく多くの参詣者を集めた。近藤重蔵は択捉島や蝦夷地を探検した幕臣で、間宮林蔵、平山行蔵と供に「文政の三蔵」と呼ばれた。


文政9年(1826)新富士を含む三田の別邸の管理を任されていた長男の富蔵が、屋敷の敷地争いから町人7名を殺害して八丈島に53年間流罪となる。父の重蔵も連座して近江国大溝藩に配流され、この「鎗ヶ崎事件」で、火付盗賊改方与力や長崎奉行を勤めた近藤家の没落を招いた。

新富士は、昭和34年(1959)に解体消滅した。しかし、新富士の麓には、秀峰富士山麓にある信仰対象となった人穴と呼ぶ溶岩洞を模した「胎内洞穴」が掘られていた。平成3年(1991)新富士遺蹟の発掘調査が行なわれ、横穴洞穴も発見された。最奥には本尊の大日如来像が安置されていた。この本尊と胎内洞穴は実寸大に復元され、目黒区めぐろ歴史資料館に展示されている。
駒込富士(駒込富士神社)
駒込富士は、富士講の町火消により木花咲耶姫を祭神とする駒込富士神社境内に築いた富士塚である。新年の初夢で有名な「一富士、二鷹、三茄子」は、この駒込富士神社に由来する。富士神社近隣には、徳川吉宗が置いた鷹匠屋敷があり、駒込茄子が名産品であった。

鉄砲州富士
鉄砲州富士は、江戸初期の寛永元年(1624)八丁堀川が亀島川に合流した地点の稲荷橋の南東詰に鉄砲州稲荷神社が遷座した。寛政2年(1790)には、富士塚が築造され、江戸湊の水路網の入口に位置することから、全国からの船乗りの崇敬を集めていた。彼らは船上から手を合わせ「浪除け稲荷」と呼んで崇拝していた。また、鉄砲州稲荷神社の氏子は、銀座の中央通と昭和通の間を流れていた三十間堀川を境界に東側一帯で歌舞伎座や新橋演舞場も含まれる。

明治元年(1868)鉄砲州富士は、土地が収用され、120mほど南の現在地に遷座した。境内には富士山の溶岩を用いた富士塚がある。3度再築され、現在5、4mの頂上には、鉄砲州富士浅間神社が鎮座する。富士浅間神社例祭の山の山開きに合わせて、7月1日のみ参拝が可能である。

by watkoi1952 | 2020-09-02 16:33 | 江戸学と四方山話 | Comments(0)





