明治の乗合馬車と馬車鉄道
明治の乗合馬車と馬車鉄道
乗合馬車
世界初の乗合馬車は、寛文2年(1662)仏国パリ市で創始された。定員8名の馬車で一定の路線を定められた時刻表に従って運行された。宝暦元年(1751)英国では「蹄なくして馬なし」と題された獣医師の出版本で蹄と蹄鉄の重要性が多くの人に認識されていた。わが国の江戸時代の輸送は、城下に縦横に巡らせた掘割の船運が主体で橋も防衛上僅かであった。陸上では駕籠や武家の騎乗馬は普及したが、江戸城の築城石や資材物資の輸送は高輪牛町の千頭に及ぶ牛の引く荷車であった。野生馬の蹄は堅いが、家畜化すると騎乗頻度や荷車の重量負荷による蹄の摩耗が激しくなり、西洋で繁栄した馬車は幕末まで日本に存在しなかった。

文久2年(1862)横浜外国人居留地の一画で蹄鉄を装着した西洋馬で遠乗りを楽しむ一行4騎は川崎大師見物に向かっていた。江戸から京都に向かう薩摩藩主の父島津久光の隊列400名の行列に英国人4騎が遭遇して生麦事件を起こした。翌年7月、錦江湾における英国艦隊との薩英戦争に発展した。やがて、競馬を行なう横浜レースクラブが設立され、慶応3年(1867)に根岸競馬場で本格的な競馬が開催された。
明治6年(1873)騎馬民族の仏国から装蹄技官を招き、近代的な装蹄の技術が導入され、駒場農学校で装蹄師の育成、陸軍の軍用馬へ導入と発展した。馬は野生で生き抜くには蹄鉄は必要無かった。馬の背に人を乗せ、また米俵2俵120キロを運搬するなどで馬蹄がすり減り歩行困難となった。わが国はこれまで馬の蹄の摩耗を防ぐため草鞋(わらじ)に似た藁沓を履せたが、蹄鉄のような耐久性に乏しかった。履き替える度に馬草鞋は街道筋に捨てられ、馬糞とともに近隣農民に回収され堆肥に利用されていた。

横浜吉田橋ヨリ馬車道之真景
明治2年(1869)2月に横浜のランガン商会が馬車道から吉田橋を経由して築地居留地を結ぶ乗合馬車の路線を開設運行した。関内と関外とは、吉田橋に治安のため警備の関所が置かれ、左の関内は居留地・馬車道・開港地側で、吉田橋より右の関外は伊勢佐木町方面である。

明治2年5月、横浜の写真師下岡蓮杖ら日本の商人の共同出資で設立した成駒屋が横浜~東京間で乗客輸送用として「乗合馬車」の営業が開始された。欧州製馬車二頭立て6人乗り、運賃75銭で、横浜の吉田橋詰から日本橋南詰の間を往復し、片道の所要時間4時間であった。明治5年(1872)新橋~横浜間に鉄道が全線開通した。これまで30キロの行程は一日がかりであったが、52分に短縮された。下等運賃は37銭で乗合馬車の半額だが、米一升が5銭の時代で決して安いとはいえない。だが利用者は増え、乗客を奪われた乗合馬車は撤退を余儀なくされた。
東京府下名所尽 京橋従煉瓦石之図乗合馬車(千里軒)

明治7年(1874)乗合馬車会社「千里軒」を開業、東京浅草雷門~新橋駅間(後の汐留駅)にわが国初の二階建ての馬車を走らせ、その勇姿に東京の人々は歓声で迎えた。創立者の由良守応は、内務省より明治4年に岩倉使節団に参加、英国で二輪馬車、四輪馬車や二階建て乗合馬車に魅せられていた。英国から二階建馬車定員30名2台を輸入して、一日6往復、運賃10銭に途中下車3銭で運行を始めた。だが、馬の調教未熟で暴走事故を起して死傷者が出て禁止となり、平屋の馬車で営業した。
東京の市内の乗物は、これまでの駕籠に変わって馬車と人力車が利用された。明治9年(1876)東京には二頭立馬車122台、一頭立馬車49台、二人乗人力車13、853台、一人乗人力車10、617台が街を走っていた。政府の高級官僚は、二頭立あるいは一頭立馬車で役所に出勤した。上流階級では、自家用の馬車を備え、馬車をあやつる馬丁を雇うのがステータスであった。
東京開花名勝京橋石造銀座通り両側煉瓦商家盛栄之図

乗合馬車は御者がラッパを吹きながら馬車を進めていた。明治10年代に落語家の4代目橘家円太郎が寄席で自ら高座に入場する際に、出囃子替わりに乗合馬車の御者のラッパを吹きながら登場したことでバカウケした。円太郎はこのモノマネで一躍スターとなり、ラッパの円太郎と呼ばれた。乗合馬車は別称として「円太郎馬車」と呼ばれ庶民に親しまれた。
明治13年(1880)12月、明治新政府の馬車取締規則の発令で、乗合馬車は一頭立て6名、二頭立て10名までと乗車人数制限が設けられた。その後全国に普及したが、明治36年(1903)京都に乗合自動車が現れ、大正5年(1916)の8、976台を最後に減少に転じ、鉄道や乗合自動車の発展に伴い次第に姿を消して行った。この乗合馬車は今日の路線バスの起源となった公共交通機関である。長い歴史の中で馬車も様々な型式が生まれた。
その呼称は、自動車の呼名に引き継がれた。たとえば、2頭立て以上の4輪荷馬車を示す「ワゴン」。駅馬車は「ステーション・ワゴン」。2ドア2人乗りの4輪箱形馬車が「クーペ」と呼ばれている。御者と乗客に仕切りがない馬車は「セダン」。前後二列の座席を備え仕切りがない車を英国では「サルーン」。高級車で運転席がガラスで仕切られ、後部座席が向かい合うと「リムジン」となる。1頭立ての軽装馬車の「バギー」は、「ベビーカー」の代名詞となった。
東京馬車鉄道
天保3年(1832)米国ニューヨーク市において道路上に馬車鉄道が生れた。欧州では仏国パリ市でアメリカ式鉄道として導入された。わが国では明治15年(1882)6月25日に道路に敷設された軌間1、372mmレールの上を馬車が走る「馬車鉄道」が東京で始まった。東京馬車鉄道は、新橋と日本橋間の営業を始めた。停留所は出発地と終着地のみで利用者が降りたい所を車掌に言えば下車できた。乗る者は手を挙げれば乗れた。同年10月1日には、日本橋~上野~浅草~日本橋の環状線も開通した。
汐留川に架かる「新橋」を通過する鉄道馬車

東京名所之内銀座通煉瓦造鉄道馬車往復図
銀座4丁目交差点。左の新橋へ向かう二頭引馬車と右の日本橋方面に向かう同馬車が交差して描かれている。左の建物から朝野新聞社(和光)、次は秋葉大助の経営する人力車製造工場(パンの木村屋)、道路向かい右の建物は東洋日報(銀座三越)である。

開業時47頭の馬も年末には226頭に増えた。新橋~全区間は2時間、①新橋~浅草橋経由~浅草広小路までは46分、②新橋~万世橋経由~浅草広小路までは42分、③浅草広小路~上野広小路までは16分、料金はこの3区分制で一区間一等車は3銭(現1500円)二等車2銭であった。

敷設した英国製のレールは凹型断面で路面は人力車、荷車、馬車の通行に支障はなかった。しかし、凹溝に塵芥が詰まりやすく脱輪のたびに乗客とも降りて車体を抱え上げ車倫を軌道に戻した。そのため専門の線路清掃人を雇い入れていた。明治32年(1899)新橋~品川八ツ山間で乗合馬車を営業していた品川馬車鉄道を東京馬車鉄道が吸収合併した。
大伝馬町三丁目の大丸呉服店と馬車鉄道

東京馬車鉄道路線図

明治36年(1903)東京馬車鉄道は、路面電車に移行、社名を東京電車鉄道と改めて、品川~新橋間で東京初の電車営業を始めた。これまで20年間、新橋・上野・浅草を結ぶ東京の目抜き通りで営業を続けてきた。東京馬車鉄道は、毎日東京の中心地を文字通り馬車馬のごとく走り続け、巨大な利潤を上げた。株主には毎季3割5分の配当を行なう、わが国でも数少ない超優良企業であった。だが、最盛期には車両300輌と2000頭の馬と、その糞尿の悪臭と糞砂ぼこりに悩まされ、ついに路面電車への移行となった。
東京名所日本橋京橋間鉄道馬車之図

鉄道の線路幅「軌間」と「広軌・標準軌・狭軌」
東京馬車鉄道は、英国スコットランドから開業時にレールや車両のすべてを購入し、その軌間が1372ミリであった。この軌間は英国でも消滅しており、日本独自の軌間1372ミリが①~⑤路線で現存している。東京馬車鉄道時代に技術指導を受けた亀函馬車鉄道は、現在の①函館市電である。東京馬車鉄道を改称した東京電車鉄道時代に開業して、東京市電に乗入れ直通を意図した京王電気軌道は、現在の井の頭線を除く②京王電鉄である。その線に乗入れ直通する③都営地下鉄新宿線である。同様に玉川電気鉄道は、現在の④東急世田谷線である。元東京市電の⑤都営荒川線である。
標準軌1435ミリの起源は、英国イングランドの炭鉱輸送で用いた馬車鉄道の軌間である。この炭鉱の馬車鉄道のために蒸気機関車を製造したのが、江戸の文化11年(1814)「鉄道の父」ジョージ・スティ-ヴンソンである。この標準軌より広い軌間を「広軌」、狭いものを「狭軌」と呼ぶ。日本で多い狭軌は、JR在来線で使われている1067ミリである。しかし、速度を追求するJR新幹線は標準軌間1435ミリで走行している。
東京メトロは銀座線と丸の内線のみが標準軌1435ミリである。日比谷線、東西線、南北線、有楽町線、千代田線、半蔵門線、副都心線は、東武、西武、東急、小田急、JRとの相互乗入れのため、軌間は狭軌の1067ミリである。都営地下鉄は、4路線に3種の軌間がある。浅草線は標準軌1435ミリ、三田線は狭軌1067ミリ、新宿線は狭軌1372ミリ、大江戸線は標準軌1435ミリである。
円太郎バス
さて、前出の落語家の4代目橘家円太郎が乗合馬車の御者のものまねをして評判になり、乗合馬車の別称「円太郎馬車」と呼ばれ親しまれた。関東大震災によって壊滅的な被害を受け、市内交通網は寸断された。東京市電の路面電車が復旧するまでの代替策として、米国フォード社から11人乗りワンマンカー800台を購入した。

大正13年(1924)1月18日から巣鴨~東京駅、中渋谷~東京駅間で運行を開始した。この公営乗合自動車の車高の高い車形と乗り心地も円太郎馬車に似ていることから「円太郎バス」と呼ばれていた。しかし、路面電車が復興しても円太郎バスは望まれて継続した。後年、この小型バスの運行が日本各地の都市で路線バスが運行される契機となった。現在、円太郎バスが一日50万人が利用する都営バスの源流である。

by watkoi1952 | 2020-08-23 16:43 | 馬と人の歴史風景 | Comments(0)

