徳川将軍家と御一門の格式と序列(2)




徳川将軍家と御一門の格式と序列(2





一橋徳川家

初代一橋徳川家宗尹


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◎初代宗尹は、享保6年(1721)将軍吉宗の四男に生れる。母は側室お久の方。元文2年より別家して賄料2万俵を毎年支給された。一橋御門内に屋敷があったことで一橋家と呼ばれた。延享3年に加増され10万石を領有した。正室は関白一条兼香の俊姫。明和元年(1764)に43歳で没した。



◎二代治済は、宝暦元年(1751)宗尹の三男に生れる。母は側室細田。明和元年に家督を相続する。文政3年、将軍家斉の縁で従二位権大納言から従一位に叙される。正室は桂宮公仁親王の娘在子。文政10年(1827)に76歳で没する。



◎二代斉敦は、安永9年(1780)治済の六男に生まれる。母は側室岩本。寛政11年に家督を相続する。正室は左大臣二条治孝の娘保子文化13年(1816)36歳で没する。



◎四代斉礼は、享和3年(1803)斉敦の二男に生れる。母は側室野尻。文化13年に家督を相続する。正室は田安徳川斉匡の娘近女。天保元年(183027歳で没する。男子なく田安徳川斉の四男を養子に迎えた。



◎五代斉位は、文政元年(1817)田安德川斉匡の四男に生れる。母は側室高月。文政8年養子となり、天保元年に家督を相続する。天保8年(183720歳で没した。正室の将軍家斉の娘永姫は明治8年に没している。男子なく将軍家慶の子を養子に迎えた。




◎六代慶昌は、文政8年(1825)将軍家慶の五男に生れる。母はお久の方。天保8年に養子になり家督を相続した。天保9年(183813歳で没する。正室男子なく田安徳川家より養子を迎えた。




◎七代慶寿は、文政6年(1823)田安徳川斉匡の五男に生れる。母は側室八木。天保9年に養子になり家督を相続した。正室は伏見宮貞敬親王の娘直子。弘化4年(184724歳で没した。男子なく尾張徳川家より養子を迎える。




◎八代昌丸は、弘化3年(1846)尾張德川斉荘の二男に生れる。母は側室の宮田。幼名は昌丸。弘化4年(1847)に養子になり家督を相続するが、2歳で没した。水戸徳川家より養子を迎えた。




◎九代慶喜は、天保8年(1837)水戸徳川斉昭の七男に生れる。母は正室登美宮。弘化4年に養子となり家督を相続した。嘉永6年(1853)将軍家定の継嗣問題で引退を命じられる。文久2年に赦免され、幕政に参与して将軍家茂を補佐した。慶応2年家茂の死去により将軍家を相続した。正室は三位今出川実順の娘和子。




◎十代茂栄は、天保2年(1831)高須松平家の松平義建の二男に生れる。安政5年に尾張徳川家の家督を相続した。慶応2年、慶喜の将軍職就任に伴い、一橋徳川家を相続した。正室は陸奥国二本松丹羽長富の娘。明治17年(188453歳で没した。








淸水徳川家


北の丸清水家正門

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◎初代重好は、延享2年(1745)将軍家重の二男に生れる。母は側室お遊の方。宝暦3年より別家して賄料3万俵を毎年支給された。北の丸清水門内に屋敷があり清水家と呼ばれた。宝暦12年加増され10万石を領有した。正室は伏見宮貞建親王の娘貞子。寛政7年(179550歳で没した。男子なく将軍家から養子を迎える。



◎二代敦之助は、寛政8年(1797)将軍家斉の五男に生れる。母は正室篤姫。寛政10年に養子となり家督を相続したが、翌11年(18003歳で没した。男子なく弟斉順を養子に迎えた。



◎三代斉順は、享和元年(1801)将軍家斉の七男に生れる母は側室お登勢の方。文化2年養子になり家督を相続した。文化12年に元服。文化13年に紀伊徳川家を相続することになり、弟斉明に家督を譲られた。




◎四代斉明は、文化6年(1809)将軍家斉の十三男に生れる。母は側室お八重の方。文化2年養子になり家督を相続した。正室は伏見宮貞敬親王の娘英子。文政10年(182718歳で没する。男子なく弟斉彊を養子に迎えた。



◎五代斉彊は、文政3年(1820)将軍家斉の十三男に生れる。母は側室お袖の方。文政10年養子になり家督を相続する。正室は内大臣近衛忠煕の娘充姫。弘化3年紀伊德川斉順の養子になり家督を相続した。





御蓮枝(御三家の分家)


御蓮枝とは、血筋の根幹を同じくする枝々が連なる様を表す語である。天皇家から宮家、将軍家から御三家、大名家から支藩家などで、本家筋に後継者なき場合に家督を継承することもあり得た。御三家より別家し、高須、西条、吉井、高松、守山、府中、宍戸の七家で松平姓を称した分家大名である。






尾張支流松平家/美濃高須藩


初代義行は、明暦2年(1656)尾張徳川光友の二男に生まれる。従四位下摂津守に初任され代々摂津守を名乗る。天和元年に信濃国で新知3万石、ついで元禄13年に美濃国高須に移封となり、尾張藩の支藩となった。正徳5年(171559歳で没する。男子なく尾張徳川家より養子を迎える。高須は現在の岐阜県海津町にあたる。





◎二代義孝は、元禄7年(1694)尾張德川綱誠の十五男に生まれる。元禄14年義行の養子となり、宝永5年に家督を相続する。享保17年(173238歳で没する。男子なく尾張藩別家より養子を迎える。




◎三代義淳は、宝永2年(1705)尾張家の別家川田久保家の松平友著の長男に生まれる。享保17年に義孝の養子になり家督を相続する。元文4年(1739)本家德川宗春の隠居により尾張藩を相続した。




◎四代義敏は、享保19年(1734)義淳の三男に生まれる。父の本家相続に伴い、元文46歳で家督を相続する。正室は陸奥国守山の松平頼寛の娘幾。明和8年(177137歳で没する。葬地は高須行基寺。




◎五代義柄は、宝暦10年(1760)義敏の長男に生まれる。明和8年に家督を相続する。しかし、安永6年(1777)本家德川宗睦の養子となり尾張藩を相続した。男子なく弟を養子にした。





◎六代義裕は、宝暦12年(1762)四代義敏の二男に生まれる。安永6年に養子になり家督を相続した。正室は水戸徳川宗翰の娘。男子なく尾張徳川家より養子を迎える。





◎七代勝当は、天明2年(1782)尾張徳川宗勝の五男に生まれる。寛政7年に養子になり家督を相続する。享和元年(180119歳で没する。男子なく一橋家より養子を迎えた。





◎八代義居は、天明5年(1785)一橋德川治済の七男に生まれる。寛政8年に養子、享和元年に家督を相続した。男子なく水戸徳川家より養子を迎えた。





◎九代義和は、安永5年(1776)水戸徳川治保の二男に生まれる。文化元年に養子になり家督を相続した。天保3年(183256歳で没した。





◎十代義建は、寛政11年(1800)義和の二男に生まれる。天保3年に家督を相続する。正室は水戸徳川治紀の娘。文久2年(186262歳で没した。長男の慶勝は、尾張徳川家の養子になり1417代藩主となる。三男の武成は、石見国浜田の松平武揚の養子になり7代藩主となる。五男の義比は、尾張徳川家15代藩主となる。七男の容保は、陸奥国会津若松の松平容敬の養子になり9代藩主となる。八男の定敬は、伊勢国桑名の松平猶の養子になり13代藩主となる。





◎十一代義比は、天保2年(1831)義建の五男に生まれる。嘉永3年に家督を相続する。正室は陸奥国二本松丹羽長富の娘政姫。安政5年(1858)本家德川義恕の養子になり「德川茂徳」と称して家督を相続した。さらに慶喜に変わり一橋家の養子では「德川茂栄」と称した。





◎十二代義端は、 安政5年(1858)義比の長男に生まれる。父の本家相続に伴い、生後二ヶ月で家督を相続した。万延元年(18602歳で没する。





◎十三代義勇は、安政6年(1859)義建の十男に生まれる。万延元年、義端の死去により家督を相続した。明治2年に隠居し、明治24年(189132歳で没した。





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   十代美濃高須藩主松平義建の四兄弟。右より、慶勝

   (55歳)、茂栄(48歳)、容保(44歳)、定敬(33歳)




高須四兄弟は、幕末の動乱の中で敵味方に別れて戦った。朝廷は、政権返上した慶喜の持つ官位と領地を朝廷に返納を命じる使者に慶勝を指名した。御三卿の一橋徳川家慶喜の後継養子となった尾張徳川家十五代茂徳(一橋家十代茂栄と改名)に慶勝はその旨伝えたが、慶喜は拒否し戊辰戦争が勃発した。





慶勝の尾張藩は官軍の有力藩となり、容保(京都守護職)と定敬(京都所司代)を朝敵に指名し追討令を発令した。慶応4年(18689月、会津藩は降伏、容保は江戸へ護送された。明治2年(18695月、五稜郭まで抵抗した定敬も降伏した。慶勝は茂徳(茂栄)を通じて容保と定敬の署名嘆願に奔走して二人は赦免された。美濃高須藩十代義建の四兄弟は、明治11年(1878)に銀座で再会してこの写真は撮影された。







紀伊支流松平家/伊予西条藩


◎初代頼純は、寛永18年(1641)紀伊徳川頼宣の二男に生まれる。承応3年に従四位下左京太夫に叙任され、代々の当主は左京太夫を称した。寛文10年幕府より伊予西条の地を拝領して、松平を名乗り紀伊家連枝となる。





◎二代頼到は、天和2年(1682)頼純の四男に生まれる。正徳元年に家督を相続するが、同6年に本家德川吉宗の将軍就任により本家紀伊藩を相続して宗直と名乗った。子女なく弟頼渡に相続させた。





◎三代頼渡は、宝永3年(1706)初代頼純の五男に生まれる。享保元年に家督を相続する。塩田開発に力を注ぎ多喜浜塩田を完成させている。




◎四代頼邑は、享保17年(1732)頼渡の長男に生まれる。元文37歳で家督を相続する。正室男子なく本家紀伊徳川家より養子を迎えた。





◎五代頼淳は、享保13年(1728)紀伊徳川宗直の二男に生まれる。宝暦3年に養子になり家督を相続した。治世の始めに三万石騒動と呼ばれる百姓一揆があった。安永4年(1775)本家德川重倫の養子になり紀伊家を相続し治貞と改名した。子女なく紀伊徳川家より養子を迎えた。





◎六代頼謙は、宝暦5年(1755)紀伊徳川宗将の五男に生まれる。明和9年に養子になる。安永4年に家督を相続する。文化3年(1807)没、葬地は池上本門寺。





◎七代頼看は、安永2年(1773)頼謙の長男に生まれる。寛政7年(1795)家督を相続する。男子なく弟を養子にした。





◎八代頼啓は、天明4年(1784)頼謙の三男に生まれる。寛政9年に養子になり家督を相続した。書画を堪能、学問を好み藩校「択善堂」を設立した。





◎九代頼学は、文化5年(1808)頼啓の長男に生まれる。天保3年(1832)家督を相続する。多芸、多能で詩歌・俳句・書画に堪能であった。





◎十代頼英は、天保14年(1843)頼学の五男に生まれる。文久2年(1862)家督を相続、明治維新を迎え、明治38年に没する。










水戸支流松平家/讃岐高松藩


◎初代頼重は、元和8年(1622)水戸徳川頼房の長男に生まれる。頼房は始め水子にするよう命じたが、家臣三木之次の手で密かに養育された。頼重17歳のとき、頼房の養母英勝院の取りなしで正式に長男と認められる。寛永16年幕府より常陸国下館1万石を与えられ別家となる。寛永19年に讃岐国高松12万石に加増転封される。長男綱方、二男綱條は水戸徳川光圀の養子になる。





◎二代頼常は、承応元年(1652)水戸徳川光圀の長男に生まれる。兄頼重の2子は、光圀の願いにより水戸家の養子になったのと引き換えに頼常を養子に迎えた。延宝元年に家督を相続した。男子なく一族より養子を迎える。





◎三代頼豊は、延宝8年(1680)厄介松平頼候の長男に生まれる。元禄16年(1703)頼常の養子になり、宝永元年に家督を相続した。長男宗堯は水戸徳川綱條の養子、清玉尼は鎌倉英勝寺の住持。男子なく厄介の子を養子に迎える。





◎四代頼担は、享保5年(1720)松平頼煕の長男に生まれる。享保20年(1735)婿養子になり家督を相続した。男子なく守山松平家より養子を迎える。




◎五代頼恭、正徳元年(1711)常陸国守山の松平頼定の三男に生まれる。元文4年(1739)養子になり家督を相続した。中興の名君と呼ばれ、学問を好み、茶道を嗜んだ。





◎六代頼真は、寛保3年(1743)頼恭の長男に生まれる。明和8年(1771)家督を相続する。





◎七代頼起は、延享4年(1747)頼恭の四男に生まれる。安永9年(1780)頼真の養子になり家督を相続した。男子なく甥の頼儀を養子に迎える。





◎八代頼儀は、安永4年(1775)頼真の長男に生まれる。父の没後、頼起の養子になる。寛政4年に家督を相続した。





◎九代頼恕は、寛政10年(1799)水戸徳川紀の二男に生まれる。文化12年(1815)婿養子になり、文政4年に家督を相続した。





◎十代頼胤は、文化7年(1810)頼儀の三男に生まれる。父の没後、頼恕の養子になり、天保13年に家督を相続した。明治10年(1877)没した。




◎十一代頼聡は、天保5年(1834)頼恕の七男に生まれる。父の没後、頼胤の養子になり、文久元年(1861)家督を相続した。明治36年(190369歳で没した。





水戸支流松平家/陸奥守山藩

水戸支流松平家/常陸府中藩

水戸支流松平家/常陸宍戸藩

鷹司支流松平家/上野吉井藩






御家門


御家門とは、家門大名(親藩)から御三家、御三卿、を除いた大名家や旗本家を「御家門」と呼ぶ。御家門は家康の元姓である松平姓を名乗ることを許されている。しかし、その多くは幕府の要職に就くことはないが、将軍家の一門として御三家に続く格式の大名として扱われた。例えば、紀伊徳川光貞の三男吉宗は、越前国葛野藩3万石の家門だが、兄の死去で紀州藩主となり、さらに将軍家を継承したのである。異例であるが一般の大名とは一線を画する德川将軍家の親族である。






越前系松平家/美作津山藩



◎初代秀康は、天正2年(1574)家康の2男に浜松で生まれる。母はお万の方である。豊臣秀吉の養子となり、羽柴秀康と称した。しかし、秀頼の誕生で下総国結城晴朝の婿養子となる。関ヶ原の戦い後、越前北ノ庄に加増転封67万石松平姓に復姓する。越前中納言となるが、慶長12年に34歳で波乱の人生の幕を閉じた。正室は結城鶴姫である。





◎二代忠直は、文禄4年(1595)秀康の長男に生まれる。忠直は大阪夏の陣で真田幸村の首級を上げるが、この論功行賞に対する不満から、家康の死後は病床にあると江戸に参勤せず不遜の行為で改易され、豊後国府内の萩原に配流され、3年後津守館に移され目付の監視下に置かれた。慶安3年(1650)赦されることなく55歳で没した。正室は秀忠の娘勝姫であった。忠直の生涯は、菊池寛の「忠直卿行状記」に詳しく記されている。





◎三代光永は、元和元年(1615)忠直の長男として生まれる。母は正室の勝姫である。光永は父忠直とともに豊後国に配流されたが、寛永元年に赦されて、越後国高田に転封25万石を拝領する。その後、継嗣問題で御家騒動が勃発して改易となり、伊予国松山へ再配流となる。貞享4年(1687)に赦されて賄料3万俵与えられる。正室は長門国萩の毛利元就の土佐姫である。宝永4年に92歳で没する。男子なく川越松平家より養子を迎える。





◎四代宣富は、延宝8年(1680)武蔵国川越の松平直矩の三男に生まれる。母は側室の村上氏。越後騒動で光永は赦されたが、養子綱国の家督相続は認められず宣富を養子として名跡を相続させた。正室は佐竹義処の娘岩姫である。元禄11年美作国津山10万国に転封となった。前藩主の森氏の悪政を改め、窮民の救済に努め藩政の基礎を固めた。享保6年(1721)に41歳で没する。





◎五代浅五郎は、宝永7年(1710)宣富の長男に生まれる。享保6年(1721)家督を相続するが17歳で没する。川越松平家より養子を迎える。





◎六代長煕は、享保元年(1716)川越松平家の別家知清の三男に生まれる。享保11年(1726)家督を相続するが、末期養子のため五万石に減知された。享保2029歳で没した。男子なく松江松平家より養子を迎える。





◎七代長孝は、享保10年(1725)出雲国広瀬の松平近朝の三男に生まれる。松江松平家の養子になる。享保20年(1735)津山家の養子となり家督を相続した。宝暦1233歳で没する。





◎八代康哉は、宝暦3年(1753)長孝の長男に生まれる。宝暦12年家督を相続する。正室は井伊直幸の娘勢与である。寛政6年に41歳で没した。





◎九代康治は、天明6年(1786)康哉の二男に生まれる。寛政6年に家督を相続する。正室は伊勢国藤堂高疑の娘穀。文化219歳で没した。男子なく弟斉孝を養子にした。





◎十代斉孝は、天明8年(1788)康哉の三男に生まれる。文化2年家督を相続する。文化14年(1817)家斉の14男斉民を養子に迎え、旧領の10万石を回復した。天保950歳で没する。





◎十一代斉民は、文化11年(1814)将軍家斉の16男に生まれる。母は側室お八重の方。文化14年斉孝の婿養子となる。正室は斉孝の娘従。天保2年に家督を相続する。将軍家斉の子として幕末政局に重きをなし、安政2年に引退して明治元年に将軍家の後見人となる。明治2477歳で没する。





◎十二代慶倫は、文政10年(1827)斉孝の四男に生まれる。父の死後に斉民の養子となる。安政2年に斉民の家督を継ぎ、明治4年(187157歳で没する。





越前系松平家/越前福井藩

越前系松平家/出雲松江藩

越前系松平家/武蔵川越藩

越前系松平家/播磨明石藩

越前系松平家/越後糸魚川藩

越前系松平家/出雲広瀬藩

越前系松平家/出雲母里藩






久松系松平家/伊予松山藩



◎初代定勝は、永禄3年(1560)久松俊勝の4男に生まれる。母は於大の方(伝通院)で家康の異父母にあたる。家康の生母伝通院は、久松家に再嫁した縁で松平姓を許された。家康の関東入府に従い、下総国香取郡において3千石を知行した。関ヶ原の戦い後、遠江国掛川の3万石大名となる。慶長19年の大阪の陣では伏見城を守衛した。元和6年伊勢国長島117千石に移封される。寛永元年(1624)に64歳で没する。





◎二代定行は、天正15年(1587)初代定勝の二男に三河国西郡で生まれる。母は正室で奥平貞友の娘である。父定勝の伏見城代の就任に伴い、遠江国掛川3万石を相続した。元和3年父定勝の伊勢国桑名へ加増転封により定行も桑名に移る。定行は、寛永12年伊予国松山に加増転封され15万石を領した。寛文8年(1668)に81歳で没した。





◎三代定頼は、慶長12年(1607)定行の長男に生まれる。母は正室島津家久の養女。万治元年に家督を相続し、寛文2年(1662)に落馬して55歳で没した。





◎四代定長は、寛永17年(1640)定頼の二男に生まれる。母は正室京極高広の娘。寛文2年に家督を相続する。延宝2年(1674)に34歳で没した。男子なく今治松平家より養子を迎えた。





◎五代定直は、万治3年(1660)伊予国今治松平定時の長男に生まれた。延宝2年に定長の養子になり家督を相続した。定直は天災による貢租減と財政改革を行い、土地制度は「地評制」で耕地所有の質的均等が量られた。享保5年(1720)に60歳で没した。





◎六代定英は、元禄9年(1696)定直の三男に生まれる。享保5年に家督を相続、そのとき遺領のうち新田1万石を弟定章に分与している。享保17年(1732)西国一帯を襲った蝗の大群による被害の飢饉で餓死者34百人を出し幕府から謹慎を命じられた。享保18年(17334月赦免されたが、まもなく37歳で没した。




◎七代定喬は、享保元年(1716)定英の長男に生まれる。享保17年に家督を相続する。正室は出羽国久保田の佐竹義峰の娘照。宝暦13年(1763)に47歳で没する。男子なく弟を養子にする。





◎八代定功は、享保18年(1733)定英の二男に生まれる。宝暦12年に兄定喬の養子になり家督を相続した。正室は安芸国広島の浅野宗恒の娘岩姫。明和2年(1765)に32歳で没した。男子なく別家より養子を迎える。





◎九代定静は、享保14年(1729)別家松平定章の長男に生まれる。延享4年父定章の家督1万石を相続した。明和2年定功の養子になり本家の家督15万石を領した。正室は大和国柳本の織田信方の娘。男子なく田安徳川家より養子を迎える。





◎十代定国は、宝暦7年(1757)田安宗武の六男に生まれる。明和5年定静の養子になり安永8年に家督を相続した。天明5年(1785)定国一代に限り衣服に葵紋の使用を許される。文化元年(1804)に47歳で没する。


 


久松系松平家/伊勢桑名藩

久松系松平家/伊予今治藩






保科系松平家/陸奥会津若松藩



◎初代正之は、秀忠の4男として生まれた。母は側室お静の方武田信玄の娘見性院に養育を託し、5歳で信濃国の高遠藩主保科正光の養子となる。正之は高藤藩3万石の家督を相続するが、出羽国山形20万石に加増転封となる。その7年後、陸奥国の会津藩23万石に転封して、会津松平家は定着した。家光の遺言に従い4代将軍家綱の補佐として10年に及び幕政に参与した。また藩政において「会津家訓」を制定し幕藩体制を固め61歳で没した。正室は日向延岡藩内藤政長の娘菊姫である。





◎二代正経は、正保3年(1646)初代正之の四男に生まれる。寛文9年家督を相続する。正室は加賀国金沢の前田利常の娘久万。天和元年(168135歳で没する。男子なく弟正容を養子とした。





◎三代正容は、寛文9年(1669)初代正之の六男に生まれる。延宝8年(1680)正経の養子になり、天和元年に家督を相続した。正室は陸奥国白河、阿部正武の娘竹姫。元禄9年(1696)保科から松平への改姓と葵紋の使用を許される。正容は酒造業と漆器業を保護育成し新田開発を進めた。享保16年(173161歳で没した。





◎四代容貞は、享保9年(1724)正容の八男に生まれる。享保16年に7歳で家督を相続した為、藩政は老臣たちの合議制で運営された。しかし、派閥争いの混乱に加え、寛延2年の凶作で唯一の一揆が起きる。正室は讃岐国高松頼豊の娘友姫。寛延3年(175026歳で没した。




◎五代容頌は、延享元年(1744)容貞の長男に生まれる。寛延3年に家督を相続する。天明7年(1787)家老田中玄宰を中心に秩序の再編や特産物の保護育成などの藩政改革を行った。正室は陸奥国白河、阿部正允の娘鉄君。文化2年(180561歳で没した。後継の容詮が36歳で死去のため、その子容住を嫡孫承祖とした。





◎六代容住は、安永7年(1778)容詮の二男に生まれる。文化2年(18079月に家督を相続したが、同年11月に29歳で没した。正室は近江国彦根、井伊直幸の娘謙。





◎七代容衆は、享和3年(1803)容住の二男に生まれる。文化3年(1806)家督を相続する。正室は将軍家斉の娘元姫。文政5年(182219歳で没した。男子なく弟容和を養子にした。





◎八代容敬は、文化3年(1806)容住の三男に生まれる。文政5年(1822)容敬と改め、家督を相続した。容敬はそれまで家老の手で進められた政策を継承して、産業奨励で藩財政の窮状を凌いだ。正室は出羽国久保田、佐竹義和の娘節姫。嘉永5年(185246歳で没した。男子なく、高須松平家より養子を迎えた。





◎九代容保は、天保6年(1835)美濃国高須、松平義建の六男に生まれる。弘化3年(1846)容敬の養子になり嘉永5年に家督を継いだ。正室は容敬の娘。万延元年(1860)幕政に参与、幕府と水戸藩間の調停にあたった。文久2年(1862)幕政改革の実施で京都守護職に任じられ、公武合体の推進に尽力した。慶応3年(1867)大政奉還後に辞職して、翌4年の戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の中心となる。





容保は藩祖保科正之の「他藩はどうあろうとも、会津藩は徳川家を守護せよ」との遺訓を守り、京都守護職に就き、会津若松城では討幕軍と壮絶な戦いを繰り広げるが敗戦となる。容保は謹慎が解けると、明治13年に日光東照宮の宮司になり、最晩年までその職にあった。明治26年(1893)12月5日58歳で没する。




徳川将軍家と御一門の格式と序列(2)_a0277742_19063268.jpg

九代会津若松藩主 松平容保




奥平系松平家/武蔵忍藩

越智系松平家/石見浜田藩


また、加賀前田家、福岡黒田家、鳥取池田家、岡山池田家など将軍家との姻戚関係の深い大名家は準御家門の処遇で扁額、松平姓、替紋葵が下賜された。






譜代大名

譜代大名とは、「譜代の臣」と言われ、歴代にわたり徳川将軍家に仕え、ともに戦い君臣関係の絆が強固な家臣をいう。また、臣従時期によって、最古参の「三河安祥御譜代」酒井・阿部・植村・石川・大久保・本多の七家をいう。さらに「三河岡崎御譜代」井伊・榊原・鳥居・戸田・永井・水野・内藤・安藤・久世・中上・安倍・秋元・渡辺・伊丹・屋代の十五家をいう。



「駿河領国以後御譜代」板倉・西尾・土屋・森川・稲葉・藤堂・高木・堀田・牧野・奥平・岡部・小笠原・朽木・諏訪・保科・土岐・稲垣・丹羽・三浦・遠山・加賀爪・内田・小堀・西郷・京極・毛利・山口・柳生・脇坂・奥田・堀・那須の三十二家、他などの序列があった。





特に家康が豊臣政権下で関東移封の際に主要な譜代の武将に関八州内の城地を与え、家康の強固な忠臣として支えた。それ以外の家臣は直轄軍に編成され、後に旗本や御家人となった。譜代大名は、老中、若年寄を始めとする幕閣の要職に就く資格を有する。譜代大名以外から幕閣の要職に登用しない慣行が不文律として厳格に守られた。4代将軍家綱の後見人である保科正之の会津松平家は親藩でなく譜代扱いとされていたので譜代の例外に当らない。






譜代大名八家


①奥平松平家

②松井松平家

③戸田松平家

④久松松平家

⑤鷹司松平家

⑥本庄松平家

⑦越智松平家

⑧柳沢松平家






十八松平家

十八松平とは、松平氏一族の内で、徳川家康の時代までに分家した松平家の俗称である。十八松平は「松」の字を分解して「十八公」とする中国の慣習から着想され、三河十八松平ともいう。家康の男系親族である十八松平家のうち大名になった者は、新藩でなく譜代大名とした。





家康の祖父・松平清康の時代までに分家した系譜を持つ十八家は、関東入府以降「御一門」と呼ばれた。家康の異父弟の家系の久松松平家も、親藩でなく譜代大名(御一門格)である。松平定信は、田安徳川家に生まれたが、陸奥国白河の久松松平家に養子に入り、譜代大名として老中に抜擢され、寛政の改革にあたった。





伊予松山の久松松平家と伊勢桑名の久松松平家の家系は、譜代大名ながら田安宗武の子の定国や定信を養子に迎えて、家督を継がせ親藩待遇となった。別称の「江戸十八松平」とは、徳川将軍家から公的な文章に用いる「松平姓」を特に許された18大名家を表す語である。






外様大名

外様大名は、関ヶ原の戦い前後に新しく徳川家康の支配体系に組み込まれた大名を指す。「外様」とは、もともと室町時代に主家との主従関係をもつ家臣で、軍事動員に応じる程度のゆるい関係であった。ゆえに、この外様の家臣は、主家滅亡時に離反しても咎められることはなかった。





譜代大名は、豊臣政権下の5大老の一人家康の家臣に過ぎない。これに対し、外様大名は、豊臣政権下では、家康と肩を並べる大名家であった。外様大名は、幕閣の要職に就けないが、関ヶ原の前と後の臣従では扱いに違いがあった。





東軍に就いた大名への恩賞で要地から僻地へ転封する代償として、多大な加増が行われ、外様大名にも大領を治める者が続出した。しかし、それら大名は、江戸を中心に関東、東海道、京都、大阪など戦略的な要地に配置されなかった。なお、血縁関係や功績で譜代に準ずる外様大名を準譜代大名と呼んでいた。






外様大名十家


松平加賀守家(加賀前田家)

松平陸奥守家(仙台伊達家)

③松平薩摩守家(薩摩島津家)

④松平長門守家(長州毛利家)

⑤松平筑前守家(福岡黒田家)

⑥松平安芸守家(広島浅野家)

⑦松平肥前守家(佐賀鍋島家)

⑧松平因幡守家(鳥取池田家)

⑨松平阿波守家(徳島蜂須賀家)

⑩松平土佐守家(土佐山内家)












by watkoi1952 | 2020-05-08 18:16 | 徳川将軍家と諸大名家 | Comments(0)