旗本と御家人



旗本と御家人







徳川将軍家に直属する武士を直参や幕臣と呼ぶ。禄高1万石未満で将軍に謁見及び、儀式に参列する資格のある二百石以上の御目見以上を「旗本」と呼んでいる。その下に将軍に謁見の資格ない御目見以下の「御家人」に分類されている。旗本とは、戦場で主君の軍旗を死守する武士で最も信頼のおける家臣団であった。






幕府の御家人は諸藩の軽輩にあたる「家子/家僕/家士」の意で、旗本に対する下級武士の「足軽」である。旗本は三河の徳川家以来の家臣で、家康が領土拡張支配した駿河、甲斐、信濃など諸国の武士団、大名家の分家、名門の子弟で構成されている。また、武家以外にも儒者、医師、碁所、歌学方など技芸に秀でた者も召し抱えられた。








旗本(布衣以上/布衣/御目見以上)



大名の最下位1万石の官位は「五位」だが、幕臣上位には「六位」の官位がない。そこで六位相当の者を「布衣」と呼んでいる。本来は無地の狩衣の意だが、布衣を着て登城することで無位無官をあらわす階級名となった。この布衣は三千石以上~九千九百九十石までの大名に近い大身旗本を「布衣以上」と呼び、その非職者を「寄合」と言い、知行地の石高が高く、大名並みに参勤交代を行なう者もいた。






つまり、幕臣の最上級が「布衣以上」その下が「布衣」そして「お目見以上」までが旗本で、最下位の「お目見以下」が御家人である。布衣以上には、五千石相当の御側衆/御留守居/大番頭。四千石相当の御書院番頭/御小姓番頭。三千石相当の大目付/町奉行/勘定奉行。二千石相当の旗奉行/作事奉行/普請奉行などがいる。そして、三千石以上は武家官位の五位(諸太夫)に叙任され「守名乗り」を行なう。






例えば、本来は「豊後守」といって、地方長官の官名であった。それが江戸幕府では、許された官名の中で自ら選択した好みの「筑後守」と決めて幕府に納金申請して許可をもらえば良かった。同姓同名でなければ「筑後守」が四、五名いても実質のない空名だから一向に差し支えなかった。






しかし、南町奉行に任命された大岡忠相と中町奉行の坪内定鑑とは武家官職名が同じ「能登守」のため、大岡は「越前守」と改称した。通常は官名で呼ばれるため同業の場合は官名を改める決まりである。武家は伝統的に官職名「越前守殿」と呼ばれることに憧れがあり、それが家名の誇り自慢であった。






次の布衣は三千石の小普請支配。千石の目付に鷹匠頭。五百石の勘定吟味役。千俵~三百俵の小納戸役などがいる。布衣は三千石以下で「守名乗り」はできないが、要職の下につく幕職の中堅であった。その下の御目見以上は、六百石の新御番組頭/大御番頭。三百俵の小普請支配組頭。二百俵の甲府勤番組頭などがいた。何れも上司に布衣以上がいて、その下で働く組頭が多く、旗本の大部分はこの地位を占めている。









御目見以上の旗本登城格式「熨斗目麻裃」



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旗本の役職と官位







旗本高家



旗本高家は幕府の儀式典礼を司る役職である。朝廷への使者や勅使/院使の接待、伊勢神宮、日光東照宮に将軍代参などを行なう。高家職は従五位下侍従から始まり従四位上少将まで昇格する。忠臣蔵の高家筆頭/吉良義央は、4200石取ながら従四位上少将左近衛であった。一方の赤穂藩主浅野長矩が5万3千石の大名で従五位下諸太夫である。時の幕府権力者で側用人柳沢吉保、甲府15万石を領しながら、従四位下左近衛権少将である。官位では吉良義央が両者より格上であった。これは朝廷において天皇や公卿に面会する資格には必要な官位であった。










布衣以上「従五位下諸太夫」に叙任の役職



側衆、留守居、大番頭、書院番頭、小姓組頭、甲府勤番支配、大目付、町奉行、勘定奉行、作事奉行、普請奉行、小普請奉行、西丸留守居、京都町奉行、禁裏附、仙祠附、堺奉行、奈良奉行、駿府城代、山田奉行、長崎奉行、日光奉行、小姓、大阪町奉行が叙任の役職である。









衣布の着用を許される主な役職(六位相当)



小普請組支配、新番頭、書院番組頭、小姓組與頭、中奥小姓、小納戸、旗奉行、鑓奉行、百人組頭、持筒頭、先手頭、勘定吟味役、西丸裏門番頭、二丸留守居、目付、使番、鷹匠頭、小十人頭、徒頭、船手、広敷用人、納戸頭、腰物奉行、奥右筆組頭、浦賀奉行、佐渡奉行、大阪船手、駿府町奉行が登城において無地の衣布(六位相当)の着用が許された役職である。







家臣団「旗本八万騎」



旗本は武士の格式では、侍(騎兵)で世襲制である。御家人は御徒(歩兵)で、一代限の抱席であるが世襲制となった。江戸初期の旗本人数は5165人で、その内訳は1万石未満五千石以上の100人、3千石以上は300人、千石以上は276人、5百石以上は626人、5百石以下は3097人、百石以下は766人である。







寛政期(1789~1801)の旗本


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御家人は17千人で旗本と合計した22千人は、徳川家臣団の7割を占め、旗本3割と御家人7割で構成されていた。これら幕臣に雇われた家来衆や家族を含めて、おおよそ「旗本八万騎」と呼んでいた。旗本は武家諸法度によって統制され、旗本最高の役職は老中支配下の「留守居役」である。留守居役は、鉄砲玉薬奉行や弓矢鎧奉行などを支配、江戸城大奥の御広敷向に詰め警備を担い、将軍不在の場合は留守警備の重責を担った。







特例として、旗本から最も出世したのは次の柳沢吉保である。徳川綱吉の小姓として仕え、綱吉が5代将軍になると側用人に昇進、旗本から大名に昇格となった。また、3千石~9千石までの旗本は「大身旗本」とも呼ばれ、役職に就かない者を「寄合」と称して寄合肝煎が監督した。また、遠隔地に領有地のある旗本は、大名のように参勤交代をしたので「交代寄合」と呼ばれた。








役方(文官)と番方(武官)



若年寄の支配下では、行政、司法、財政を担当する文官を「役方」と呼び、江戸城警備や将軍の護衛を担当する武官を「番方」と呼ぶ役職に就いた。警護役には大番、書院番、小姓組、小十人組で編成されていた。初期の武力第一の時代には、武官の番方の地位が優勢であった。しかし、泰平な時代につれ文官の役方が優位となった。旗本は領地(知行所)をもつ石高制の蔵米取りで、御家人は領地を持たない俵高制の切米取りである。







江戸初期の武家には、戦国の気風が色濃く残り、母親が幼児教育から真の武士たる生き方死に様を叩き込んだ。その頃、武家社会に浸透した儒教の六芸、「礼(道徳)、楽(音楽)、射(弓術)、御(馬術)、書(文学・書道)、数(算術)など文武両道の技芸習得が規範とされた。この中でも戦に欠かせない馬術の訓練は二百石以上の旗本に義務づけられていた。78歳から木馬遊びで手綱に慣れさせ、12歳頃から馬場に通い騎乗技術を習得することが、旗本の家格を誇示するものとなった。







合戦のない直参旗本の剣術は、精神の鍛錬をより重視した武道へと進展した。江戸後期の三大道場とは、北辰一刀流の千葉周作が開いた玄武館、神道無念流の斎藤弥九郎が創設した練兵館、鏡新明智流の桃井春蔵らが人気の町道場であった。弓術は礼法や作法を学ぶ修行の場であり、また家業に従って砲術や槍術、柔術などの鍛錬が役職の継承として行われた。旗本は殿様と呼ばれ、その妻は奥様である。それに対して御家人は旦那様であり、妻は御新造様と呼び、その身分差は大きな格差である。






御家人から旗本に昇格するには、御家人が旗本相当の役職を3回勤めるか、旗本相当の役職を三代以上継続の経歴がある場合に限られる。一代限りの経歴であれば、その子は準旗本から御家人に戻される。御家人は17千家あり、最高禄高は260石で最下級は金4両一人扶持である。江戸住の旗本、御家人には組屋敷が与えられる。






たとえば、大身旗本は1万石大名と大差ない屋敷に住む者もいた。三千石の上級旗本は町奉行や勘定奉行、大目付など幕府の要職を務めるので、千五百坪の拝領屋敷を与えられる。このように旗本は禄高に応じた門構えて、二百坪以上の屋敷を拝領する。







御家人の中級武士の与力で二百坪、下級武士の同心で百坪~七十坪の小庭付き屋敷が与えられた。また、旗本の役職に限りがあり、無役の者も多くいた。非役で三千石以上の者は寄合、それ以下の者は小普請組に編入された。これら無役の者は家禄を支給されても勤務がないので、その代償として禄高に応じた小普請金を上納した。経済発展の社会状況でも家禄が固定している武士の生活は苦しくなり、小禄で小普請といえば、その窮乏は甚だしかった。






幕臣にも江戸城中の詰席が決まっていた。旗本には格下の菊之間、款苳之間、躑躅之間である。さらに御家人は廊下や縁側の席があてられていた。旗本や御家人には席次よりも、やはり数字で表れる禄高が物をいう。御家人には与力のように裃で勤める者、同心のように羽織袴で勤める者、白衣という袴なしで勤める者などの区分も大きな格付である。






 

御目見以下の羽織袴と御目見以上の熨斗目麻裃の格式



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旗本奴と町奴



大阪城の落城後、徳川政権の平和な元和偃武の時代となった。元服前から武芸に励んできた若き旗本衆は、幕府の政策に不満を抱き徒党を組んで現れた。江戸初期の将軍家光・家綱の時代に、旗本の青年武士やその奉公人達を「旗本奴」と呼んだ。彼らは人目を引く派手な異装した浮浪の傾奇者である。






これら「伊達者」「侠客」「遊侠」の区別には、「侠」は是非の弁別もなく、人を助けるの意を持つ、広義にはすべての日本人に共通する本性である。その中でも理知的に正義感に動かされ、信念を貫く者を「義侠」と言った。侠客の本質はこの義侠にあり、遊侠はただの模倣者に過ぎない。伊達者はさらにその遊侠の徒の異装による自己誇示に他ならない。





真の義侠を定義付けると、その気性廉潔で信あり、義を見て勇み、死を顧みず、弱気を助けて強気を挫く。無欲にして利に移らず、厚く施して薄く望み、義を泰山に比べ命を鴻毛の軽きに比した。これが真の仁侠である。





徒党を組んだ伊達者は江戸民に対して因縁を付けて、強請りたかりの侮辱の悪行を重ねた。大小神祇組を組織した水野十郎左衛門は、譜代の名門旗本・水野成貞の長男であり、それに加担した坂部広利も5千石の大身旗本である。このほか旗本奴は六団体になり「六方組」と呼ばれた。






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この暴虐行為に対抗して庶民擁護のために生まれたのが、町人出身者の「町奴」である。彼らは傾奇者の侠客で「弱気を助け強気を挫く」の標語に従い任侠のために働いた。大勢の人夫を抱え、武家への人材を派遣する口入屋業を営み、義理人情に厚く町家の用心棒や喧嘩の仲裁などの役割を果たした。






あくまで対立する旗本奴と町奴の間に抗争が絶える事はなかった。町奴の幡随院長兵衛を旗本奴の水野十郎左衛門が無防備な風呂場での暗殺、長兵衛側から水野への仇討が果たされて歌舞伎の演目となった。承応3年(1654)幕府による厳正な取締り検挙に始まり、貞享3年(1686)の大検挙により、武士は切腹、町人は処刑され、重刑のため両奴の姿は消えた。








御家人(与力・同心)



徳川家は戦国時代に徴用した雑兵を江戸幕府の成立後にも解雇せず、与力(寄騎)や同心などの御家人として雇い入れた。御家人には、叙位や任官はなく、御目見以下、俸給は二百石から四両一人扶持まであった。奉行につく与力、同心、代官につく手附や手代などで幕臣の下級武士として仕事と禄を与えた。






与力は分隊長格で騎馬が許され禄高は二百石、同心は概ね三十俵二人扶持である。ただし、江戸町奉行所の八丁堀組屋敷に住む与力は二百石級であるが、御目見以下である。将軍警護役の小十人組は、百石級であるが御目見以上の特例があった。








御家人の家格(譜代/二半場/抱席)



御家人の家格に相当するものに、譜代席、譜代准席(二半場)、抱席の三等区別があった。譜代席は、徳川家康から四代家綱までの間に留守居与力・同心などの職を勤めた者の子孫である。家に仕え世襲で孫子の代まで家禄の相続を保証されている。たとえ失敗や老齢で退職しても、小普請入りが許される。小普請とは閑職で、事実上の予備役編入である。予備役だから、仕事が無くても俸給はもらえた。






この譜代席には、さらに「席以上」と「席以下」の区別があった。席以上の者は、城内の詰席で役儀を任命され、隠居や家督相続を言い渡される。登城には槍を立て、熨斗目・白帷子を着け、家には玄関を構えることができた。席以下の者は、組頭など上司の家でそれらを言い渡された。二半場(譜代准席)は、家康から四代家綱の間に西丸留守居同心などの職を勤めた者の子孫である。






年代は譜代席と同様だが譜代席とせず、抱席との中間という意で「二半場」と称した。親子代々召し抱えられるため、小普請入りは許されぬが、隠居して家督を子に譲ることができた。抱席は四代家綱以後に大番与力・同心などに新規採用された者である。抱席は一代限りの奉公で、退職と同時に扶持に離れ、御家人の身分を失う。禄が家でなく人に付く、いわゆる一代に限って臨時に集められた者である。






家督は譲れず、在職中に病気になると親族・知人などに頼んで代勤させるという戦国封建色の強い旧制度が残されていた。二半場と抱席には、諸組与力、その下に諸組同心があり、それぞれに譜代、准譜代が混在していた。さらに身分の低い目付支配の中間、小人、黒鍬者、掃除者など様々、役目に関係なく、徳川家に仕えた年代により格付けされていた。








御家人の格式四種



御家人の中にも殿中に詰席のある者がいる。徒目付の焼火之間、支配勘定の躑躅之間詰めに努めている。これは大名や旗本と一見同格となる。そこで四種の格付け衣装姿で判別していた。上下役、役上下、羽織袴役、白衣役の勤務姿の四種である。上下役は裃を着て勤務する。役上下は裃で出勤するが普段は裃を着用しない。






羽織袴役は羽織袴で勤務する。白衣役は白衣を着るのではなく、羽織袴も着けず、小袖や半纏で勤務した中間や小者のことである。上下役には徒目付、支配勘定、勘定吟味役、小普請吟味役などで、譜代で百俵の者が多く、おもに役方の文官事務職であり、番方の武官にはいなかった。









与力と同心 御家人の心



江戸町奉行所の与力は、本来「寄騎」でその人数を一騎、二騎と数える。二百石取で馬一頭、槍一本の待遇で、登城には麻裃姿で挟箱持ち、草履取り、槍持ちを従えた。この与力の指揮下にあった同心は、同意/協力/団結を意味した。本来は戦時に槍、鉄砲、弓組などの足軽として臨時に徴兵された。だが、足軽とは別個の職名として残った。そのまま召し抱えられた者で槍組同心、鉄砲組同心、弓組同心に城門の警備などを担当した。






通常は羽織袴での勤務だが、町奉行所の八丁堀組屋敷に住む同心は、羽織袴役であったが、袴を着けず巻き羽織に着流しであった。これはいざという時、羽織の裾を内側に巻き上げて帯に挟む。すると裾が短い茶羽織に見える粋な着方は敏捷に動けた。町奉行の同心は、江戸町民の司法と警察に直接関わるため、内々に処理する案件には付届など副収入があり、岡引や手下を雇うことができた。







享保71722)の記録で御家人の人数は17390人で禄高最高は240石、最低は一人扶持で、総じて小禄で貧乏人が多かった。俸給は春1/4、11月に1/2が支給された。御家人の拝領屋敷は、長屋風の組屋敷で、賃貸しや園芸の内職などは公然のことであった。宝暦年間には、麻布の組屋敷では草花、大久保の組屋敷では植木、下谷の金魚など趣味実益を兼ねた内職で町人に売り収入の補助とした。そのほか、青山百人町の傘張り、根來百人町の提灯張り、巣鴨鷹匠町・御駕籠町の羽根造りなどで生活の糧とした。










幕臣の軍役規定



江戸幕府の幕臣には、禄高に応じて揃えておくべき武器と兵力を軍役規定により細かく定められていた。普段の登城や外出の際の供揃えも規定に準じた。しかし、時代の流れで平穏な日々が続くと形式的になり、経済的な負担も大きく省略されていった。総じて、軍役規定より減じた登城の供揃えは許されていた。






二百石取の軍役規定の供揃えは、合計5人で馬の口取1人、供侍1人、甲冑持1人、槍持1人、小荷駄持1人を従える。騎馬は二百石より許されるが経費の嵩む騎馬を略しても最低の軍役である三供、槍持、鋏箱、中間は死守した。本来は百石取から槍持と草履取の2人を従える軍役規定だが、これらを雇う余裕のない百石取は供侍を略した。





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三百石取の供揃えは、合計7人(馬の口取1人、供侍1人、甲冑持1人、槍持1人、小荷駄持1人、挟箱持1人、草履取1人)を従える。これらを常時抱えるのは困難な場合は、譜代、渡り用人や小姓などを臨時に雇った。






五百石取の軍役規定は、供揃え合計11人(馬の口取1人、供侍2人、冑持1人、槍持1人、小荷駄持2人、挟箱持1人、草履取1人、立弓持1人)を従える。※鋏箱は、着替えの衣類や不意の必要品を常に入れておく小型の長持で、下賜品や献上品の入れ物になる。





六百石取の軍役規定は、供揃え合計13人(供侍3人、甲冑持2人、槍持1人、馬の口取1人、小荷駄持2人、草履取1人、鋏箱持1人、立弓持1人、持筒持1人)を従える。







※草履取は主人の登城や訪問先に従っていき、主人が草履を脱いで座敷に上がると、その草履の裏を合わせて自分の帯に挟む、また懐中に保管する役である。主人が所用を終えて姿を現すと三尺離れた所から草履を主人のつま先に投げて上手に揃える技が必要であった。このため藩邸など高禄の武家屋敷には草履取の控え場所があった




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七百石取の軍役規定は、供揃え合計15人(供侍4人、甲冑 持2人、槍持1人、馬の口取り2人「乗換予備馬」、小荷駄持2人、草履取1人、鋏箱持1人、立弓持1人、鉄砲1人)を従える。平時の供揃えでは8人程度に省略された。





八百石取の軍事規定は、供揃え合計17人、(供侍4人、甲 冑2人、槍持2人、馬の口取り2人「乗換予備馬」、小荷駄2人、草履取1人、鋏箱持1人、立弓持1人、鉄砲1人、沓箱1人)を従える。平時の供揃えでは9人程度に略されてた。※沓箱持は、草鞋や主人の毛沓の予備を持つ。戦場は武者草鞋を履くが、痛みが早いので多くの予備の草鞋を携帯した。






九百石取の軍事規定は、供揃え合計19人(供侍5人、甲冑持2人、槍 持2人、馬の口取り2人「乗換予備馬」、小荷駄持2人、草履取1人、鋏箱持2人、立弓持1人、鉄砲1人、沓箱持1人)を従える。平時の供揃えでは11人程度であった。





千石取の軍事規定は、供揃え合計21人(供侍5人、甲冑持2人、槍持 2人、馬の口取り2人「乗換予備馬」、小荷駄持2人、草履取1人、鋏箱持2人、立弓持1人、鉄砲1人、沓箱持1人、薙刀1人、押足軽1人)を従える。平時の登城の供揃えでは12人程度に略されていた。押足軽は、これら家来の監督者である。千石級の武士には、剣、槍、弓、鉄砲、薙刀の心得が必要であった。




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これら幕府に直属する幕臣に雇われている供侍、槍持、草履取りなどは刀を差していても武士ではなく、武家奉公人である。彼らは組屋敷の長屋に住まわせ、年俸3両一人扶持の俗称サンピンの低収入者雇主の都合でいつでも辞めさせられる。概ね知行地の農民から採用する臨時雇いであった。これら幕府の軍役規定で供侍など同行させるため「口入れ屋」という人材派遣業が生まれた。







口入れとは、口を挟み干渉する意である。江戸府内では口入れ屋の斡旋で、武士は三供を用意してもらえ、町人は下士の身分になれる上に賃金が貰えるので希望者が殺到した。口入れ屋は苗字のない庶民を雇い入れていた。口入れ屋の手配した町奴は、正規の場合は半纏に主人の家紋が入っているが、臨時に派遣された場合は入っておらず、市販の半纏を着ていた。雇われている間は、何某かの苗字を名乗ることができるが、辞めると元の無苗の者に戻った。








武家奉公人


武家奉公人には、用人、給人、中小姓、若党、中間の区別があった。用人、給人、中小姓までは貧しい武家の二男や三男が自活するために勤めた。






用人は、高禄の旗本家などに登用され、大名の家老職にあたる要職や対外折衝に屋敷内の奉公人の管理に庶務万端から財務まで有能な人材に限られた。





給人は、主人に付き従って補佐する役である。中小姓は主人に代わって右筆や手紙の使いなど庶務的なこと身の回りや雑事に携わった。





□若党は、主に主人の外出時の供侍として雇用された。武士に憧れる農民や町人の志願者も多いが、大小二刀は差せず大刀一本のみで羽織袴姿でも一目見て判別できた。





□中間は、武家に仕える下男で渾名を折助と呼んだ。主人の外出時には、槍持や草履取、鋏箱持、馬の口取に家屋敷の掃除など多岐にわたる。家紋のいった法被を支給され、下着物を着れば尻端折りの草履履きで背の帯に銀めっきの木刀を差していた。この中間は口入れ屋より期限付きで雇われる者が多かった。























by watkoi1952 | 2020-04-22 16:18 | 幕藩体制の幕臣と諸大名 | Comments(0)