角栄伝説/神楽坂通り逆転一方通行


角栄伝説/神楽坂通り逆転一方通行







花街情緒が薫る神楽坂通りの逆転一方通行は、午前中神楽坂上から神楽坂下へ、午後は逆に上りの一方通行となる。これは神楽坂をこよなく愛した政界の実力者「田中角栄元首相」の鶴の一声で決められたという都市伝説が流布している。その理由は、午前は目白御殿と呼ばれた自邸を出て、目白通りを江戸川橋から神楽坂通り、九段上から永田町議員会館を経て国会へ向かう。帰りは反対に毎夜神楽坂の料亭「松ヶ枝」に立ち寄り料亭政治を行い、目白に帰宅するのが日課で、神楽坂逆転一方通行はすこぶる好都合であった。











昭和22年(1947423日の総選挙で衆議院


議員初当選した若き日の田中角栄(29






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国家財政は赤字を続け、重要企業も赤字に悩み、国民の家計も赤字に苦しんでいる時代であった。敗戦の廃墟の中で新憲法が制定され、その施行を前にして新たな政治体制を樹立する目的で、昭和22年(1945)4月23日に総選挙が行なわれた。選挙結果は、第一党は片山哲の社会党143名の過半数以下、第二党は吉田茂の自由党131名、第三党は進歩党が改組した芦田均の民主党121名、第四党は三木武夫の国協党29名、共産党4名、諸派25名、無所属12名であった。田中角栄は芦田均の民主党で初当選の栄誉を担った。









ともあれ、この逆転一方通行によって通り抜けできない時間帯があり、迂回して料金が増すタクシー運転手が乗客への言い訳とした角栄説が巷間に流布した都市伝説である。東京のタクシーの運転手でこの角栄説を知らぬ者はいないと言われていたが、もはや神楽坂の逆転一方通行は多くの都民に周知されている。








昭和36年(196133日、靖国通り九段坂上より神楽坂下の外濠通りまで午前と午後の逆転一方通行の試験通行が始まった。都内各所で3年後の東京オリンピックを控え、道路拡幅や車両の増加にともなう円滑な交通状況を維持する目的であった。この頃の神楽坂通りは車の対面通行で、江戸時代の登城路は狭く歩道は設置できなかった。







昭和38年(1963)神楽坂通り商店街では、お客様が安心して歩ける一方通行と歩道の設置を新宿区役所や警視庁交通二課に陳情していた。その頃から車も増え始めた都内各所の狭い道路は一方通行になっていった。神楽坂通りも坂上から坂下へ一方通行となるが、神楽坂2丁目の陶器店「陶柿園」に車の突入事故が起きた。







その結果下りは危険だということで、車は直ちに逆方向上りの一方通行となった。それから、外濠通りの飯田橋五差路や大久保通りが混雑するのは、神楽坂通りが上りの一方通行にしたからであると、大手新聞社の投書欄に大きく掲載された。投書の反響も大きくなり、紆余曲折どちらに向きを変えても交通渋滞や騒音がひどくなる一方であった。











全盛期の田中角栄元首相




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全国でも稀な逆転一方通行




昭和36年(1961)3月3日に東京五輪を控えて行った九段上から神楽坂下まで時間差の逆転一方通行の試験走行が始まった。その好実績から、昭和54年(197941日より都心へ向かう午前中は神楽坂を下る。正午のランチタイムは、1時間の歩行者天国を挟む。午後1時からは坂を上り12時間後の24時で逆向きになる全国でも稀な逆転一方通行となった。これは店舗への突入事故が上下の入れ替えのきっかけとなり、合わせて朝夕の「通勤渋滞解消」の妙案として採用された。これが角栄伝説の真相である。






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歩行者専用道路の歴史



神楽坂逆転一通行道路の歴史は、明治20年(1887)東京で初めて毘沙門様の縁日に夜店が出て、神楽坂通りは人波で道路を横断出来ない程に溢れていた。神楽坂の上下に設けた「車馬通行止」は、東京の縁日の歩行者天国の創始となった。現在でも平日の正午1時間はランチタイムの歩行者専用、日曜祭日には正午から午後7時まで歩行者専用道路となっている。巷間に東京で初めてと言われる銀座の歩行者天国は、神楽坂の車馬通行止の歩行者専用道路より、83年後の昭和45年(1970)の実施で大変な賑わいであった。







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「名さえ賑わし  あの神楽坂 こよい寅毘沙  人の波 

 可愛い雛妓と袖すり交わしゃ 買った植木の花が散る」


  西条八十「新東京行進曲」昭和5年(1930          








神楽坂上より牛込見附を望む。中央土橋の右が

牛込濠、左が飯田濠である。「牛込神楽坂之図」



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在りし日の料亭「松ヶ枝」



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明治36年(1903)待合「松ヶ枝」の創業者は、松、竹、梅の三姉妹である。長女松さんの名前から「松ヶ枝」と名付けたが、実際に切り盛りしたのは次女のお竹さんであった。お竹さんは民主党代議士の三木武吉の妾の一人であった。創業時からお竹さん、全盛期には三女お梅さんが料亭を経営した。






大正12年(1923)の関東大震災で神楽坂花柳界は、神田川と飯田濠に囲まれた立地で延焼被害を止め免れた。そこに銀座のデパートや老舗店に東京花街や料亭の客も芸者衆も合せて流込み山の手一の繁華街として賑わった。毘沙門様を中心にした三業地区画内に、芸者置屋166軒、神楽坂芸者619名、仕出し料理屋15軒、待合茶屋129軒の三業が犇めき合っていた。








牛込三業会(東)と神楽坂三業会(西)




大正14年(1925)から昭和7年(1932)までに、二大政党である政友会と民政党が交互に政権を担当した次期があった。政友会は保守的で地主や財閥に近く、民政党は議会中心主義で都市部の中産階級に支持されていた。この二大政党が神楽坂の料亭で権謀術策を練り上げ、官官接待、官民接待を行なうのに互いに料亭内で会う必要もないが、あえて、耳目を塞ぐ必要に迫られていた。





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そこで神楽坂通りを挟んで西と東に花柳界を二分割にした。見番は、西側の民政党が仲通りに「牛込三業会」を開き、芸妓置屋121軒、芸妓446名、待合茶屋96軒、料理屋11軒を有していた。一方の東側の政友会が作るのは新見番「神楽坂三業会」で、本多横丁に見番を開き、芸妓置屋45軒、芸妓173名、料亭4軒、待合茶屋32軒を運営した。神楽坂通りの東側は政友会で西側の民政党と別れ、口の固い互いの芸妓衆の往来は一切なかったという。





検番(見番)は芸者衆の手配や玉代の計算などを行う花柳界の事務所である。戦後の昭和24年(1949)二分された見番を合併して「東京神楽坂組合」を結成した。西側の神楽坂3丁目の見番横丁にある建物は、戦後資材不足の中、田中角栄が奔走して建てた見番である。現在、三味線、唄、踊りの練習の場である。








昭和18年(1943)角栄は目白通りに面した飯田町の間口20間の材木屋の倉庫を買い取り、田中土建工業の新社屋を建てた。飯田濠に架かる飯田橋を渡れば古くからの花街/神楽坂があり、料亭/待合に芸者置屋が犇めき合い、芸者衆が艶やかな姿で賑わっていた。角栄は建設業界の接待で毎夜良く飲み、そして良く遊んだ。戦中戦後の混乱にあって飯田町の新社屋は運良く戦災を免れていた。戦前には戦後の東京とは明らかに異なる風景があった。





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昭和22年(1945)2月26日の米軍B29爆撃機の無差別焼夷騨による東京大空襲で木造家屋を全焼させた。





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地上攻撃のない焼野ヶ原の牛込神楽坂/市谷/麹町の上空に飛来した3機の米軍低空偵察機である。三機の上空の偵察機撮影で右奥の外濠「飯田濠」「牛込濠」「新見附濠」「市谷濠」に、外濠通り、牛込中央通り、二機目下に大久保通り、それらに遮る建物などがなく白く鮮明に見える。







昭和25年(19506月、突如、朝鮮半島の三十八度線に戦火が上がり、国内に配置された米軍基地から連日戦闘機が飛び立ち、文字通りわが国は米軍の最前線基地となっていった。一方、この朝鮮戦争は、不景気で行き詰まった倒産寸前の日本の産業界に特需景気をもたらした。これが日本の高度成長期の始りである。当然のことながら、神楽坂花柳界を潤す結果となった。料亭は15軒に芸者衆は200人を超すほどに復活していた。神楽坂の花街が東京大空襲の焼野ケ原からいち早く立ち上がり、特需景気の時流に上手く乗ったということである。








田中角栄の神楽坂物語



第64代/第65代/内閣総理大臣「田中角栄」には、正妻「はな」との間に1男1女を儲けたが、長男の正法は4歳で病没した。松ヶ枝の芸者衆はご長男が亡くなられた時の先生は、傍目にも気の毒なくらい悄げられて、黙ってお酒を飲んでいた。昭和19年(1944)1月生まれの長女の眞紀子が長男の代わりの如く育てられ、女性初の外務大臣となった。角栄は復興の建築ブームで料亭松ヶ枝に頻繁に通っていた。昭和21年(1946)の秋、料亭松ヶ枝で「田中角栄28歳」と神楽坂置屋/金満津の芸妓「円弥19歳」と運命の出逢であった。円弥は14歳でお座敷にあがり、踊り上手で美人、戦前から戦後の超売れっ子であった。





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    前列左角榮の母フメ、中央角榮、前列右角榮の妻

な(昭和37年(1962)7月28日撮影)







神楽坂芸者の円弥は、47年間にわたって田中角栄と人生を共にし、角栄との間に二男一女を儲けた。一女まさは夭折するが、二男は田中角栄の実子として認知されている。「田中角栄を虜にした芸者」を出版した円弥こと「辻和子」の二男である。田中の秘書で金庫番であった佐藤昭子との一女は認知されていないが、田中の娘とされている。さて、料亭松ヶ枝が日本民主党と自由党が保守合同して「自由民主党」が誕生した場所である。所謂、自民党55年体勢を築いた料亭政治の舞台であった。







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田中角栄は神楽坂に隣接した南町の自邸から、昭和28年(1953)に目白台に移転、目白御殿と呼ばれた屋敷が本邸である。この本邸とは別に神楽坂にも邸宅があった。こちらは政治とは無縁で角栄の隠れ家的な存在であった。角栄が政治家になる前から蔭で支え続けた神楽坂芸者の円弥こと辻和子である。角栄のことは「お父さん」と呼び、角栄が健在の内は、殆ど表に出ることはなかった。










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料亭「松ヶ枝」の正門に正月の松飾りが設えている。この料亭の所有者は山梨県出身で甲斐の武田信玄を信奉する人物であることがわかる。それは松飾りの竹が寸胴形であることによる。徳川将軍家の江戸市中では、竹の上部を斜めに削いだ松飾りが主流である。この所有者は田中角栄の刎頸の友であり、山梨出身の盟友小佐野賢治である。






昭和28年(1953)に料亭松ヶ枝の建物は完成した。その後も二度改築をして二階に30畳の広間ができた。広さ四百坪の敷地に客同士が顔を合わせぬ造りの数棟が渡り廊下で結ばれて、その廊下の化粧窓から庭園が風情よく望めた。数寄屋建築を代表する桂離宮に似た館を行き交うのは宮人ならぬ、芸者衆と60名の仲居さんである。日本国中の銘木を集めて、料亭「松ヶ枝」は贅を凝らした造りで建てられた。






営業中にも料亭内に大工を住まわせ、各部屋も競うように特徴の有る床の間や違い棚など、各所内装に全国から届けられた稀少な銘木が使われていた。料亭松ヶ枝は時代の変遷とともに営業を終了、マンション建て替えのため、松ヶ枝の建物解体が始る。この料亭は戦前戦後を通して名だたる政治家が訪れ、様々な話題を呼んだところ、まさに高度成長期の「強者どもが夢の跡」である。そして、解体に日数を要した銘木たちは、山梨のホテルやゴルフ場の倶楽部ハウスなど新天地へ移築保存されている。









政治家田中角栄待望論


この国の政治が行き詰まり、政治家の劣化が国民の信を失う。その時、誰が言うでもなく「田中角栄待望論」が地下水脈から湧水の如く沸き上がってくる。「もし、田中角栄が生きていたらどうしたであろうか」。失われた30年の間に産業は海外に散逸し国力は衰え、家族制度は崩壊し一家離散に空家放置、それが人口減少に拍車、少子高齢化はもはや誰にも止められない。高齢者は老後に不安を抱え、若者は将来に夢を持てない社会になった。それなのに政治は解決の処方箋さえ示せず、裏金問題に終始している。








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しかし、「角栄なら国民に新しい社会への夢を描いて見せる筈だ」そんな期待を今も抱かせるのだ。生前はロッキード事件で刑事被告人となり、金権政治家と批判されながら、政治家「田中角栄」が国民に鮮烈な印象を残し続けているのはいったい何故なのか。それは佐藤栄作の長期政権に対する国民のある種の倦怠観が燻る中、新しい風、新しい考え方をしようと「日本列島改造論」を掲げて登場し、時代の閉塞感を打ち破った政治家であったからに他ならないのである。令和5年(20231216日は、角栄没後30年の節目にあたる年であった。









幕末/明治/大正期の芸者は、「色を売る者これすなわち娼妓(娼婦)なり、芸を売って色を売らざる者呼んで芸妓(芸者)なり」、芸の修行も厳しく、それを誇りに思っていた。それらが才色兼備で誇るべき名花を生み、総理夫人や政治家夫人となって活躍したのである。






伊藤博文  下関稲荷町 馬関芸者「小梅」(伊藤梅子)

板垣退助  新橋金春芸者「小清」(板垣清子)

犬養 毅  元芸妓 (犬養千代子)

陸奥宗光  新橋芸者 柏谷「小鈴」(陸奥亮子)

木戸孝允  京都三本木 吉田屋「幾松」(木戸松子)







さて、芸者なくして近代日本はあり得たか「伊藤博文にみる好色家との相関」と題した動物行動学者の竹内久美子氏が次のように述べている。幕末から明治にかけての歴史を調べてみると、やはりと言うべきか、妻の尻に敷かれない男、好色の道を追求する男が活躍している。いやまったく、彼らの存在があったからこそ我が日本は難局を乗り切ることができたのだ。(中略)維新の真の立役者、近代日本建設のための陰の功労者は誰かと問われれば、それは芸者と答えたい。






芸者がいなかったら、勤皇の志士たちは命を張って働くことができただろうか。多くの明治の政治家が芸者を妻にしたが、もし妻とせず隠れた存在のままにしていたら、歴史はどう変わったであろう。妻同伴が常識とされる欧米列強との外交、鹿鳴館での外交に芸者妻が果たした貢献は計り知れない。我々は芸者という文化をもっと世界に誇って良いのである。
















by watkoi1952 | 2019-11-28 09:45 | 牛込神楽坂の百景 | Comments(0)