幕府の武家諸法度・禁中並公家諸法度



幕府の武家諸法度・禁中並公家諸法度



大阪夏の陣で豊臣家を滅ぼした家康は、元和元年(1615)7月7日諸大名を伏見城に集め世嗣秀忠の命の形で諸大名統制のために、全13ヶ条の武家諸法度の法令「元和令」を発布した。家康が慶長16年(1611)に大名から取付けた誓詞三箇条を元に、江戸幕府の法律の立案・外交・宗教統規制を一手に引き受けていた「以心崇伝」が起草した十箇条を付け加えた法令である。。



武家諸法度・寛永令の条文


武芸や学問を嗜むこと。


大名や小名は自分の領地と江戸との交代勤務を定める。毎年4月に参勤すること。供の数が最近非常に多く、領地や領民の負担である。今後はふさわしい人数に減らすこと。ただし、上洛の際は定 め通り、役目は身分にふさわしいものにすること。


新たに築城することは厳禁する。居城の堀、土塁、石塁などが壊れたときは、奉行所に申し出て指示を受けること。櫓、塀、門などは元通りに修理すること。



江戸や他藩でたとえ何か事件が起こったとしても、国元にいる者はそこを守り、幕府からの命令を待つこと。


どこかで刑罰が執行されていても、担当者以外は出向いてはならない。検視者に任せること。


謀反を企て、仲間を集め、誓約を交わすようなことは禁止とする。


諸国の藩主や領主は私闘をしてはならない。日頃から注意しておくこと。もし争いが起きた場合は奉行所に届け出て、その指示を仰ぐこと。


藩主、城主、所領1万石以上、近習、物頭は、幕府の許可無く勝手に結婚してはならない。


贈物、贈答、結婚の儀式、宴会や屋敷の建設などが最近華美になってきているので、今後は簡略化すること。その他のことにおいても倹約を心掛けること。


衣装の等級を乱れさせてはならない。白綾は公卿以上、白小袖は大夫以上に許す。紫袷・紫裡・練・無紋の小袖は、みだりに着てはならない。家中の下級武士が綾羅や錦の刺繍をした服を着るのは古くからの定めには無いので、禁止とする。


輿に乗る者は、徳川一門、藩主、城主、所領1万石以上、国持ち大名の息子、城主、侍従以上の嫡子、50歳以上の者、医者、陰陽道の者、病人等許可されている者に限り、その他の者は乗せてはならない。ただし許しを得た者は別とする。諸家中においては、その国内で基準を定めること。公家・僧侶・その他身分の高い者は、その定めの例外とする。


元の主人から問題のあるとされた者を家来として召し抱えてはならない。もし反逆者殺人者との知らせがあれば元の主人へ返すこと。行動が定かではない者は元の主人へ返すか、または追放すること。


幕府に人質を出している家臣を追放・死刑に処する際には、幕府の命を伺うこと。もし急遽執行しなければならない場合に執行する際には、その詳細も幕府に報告すること。


領地での政務は清廉に行い、違法なことをせず、国郡を衰えさせてはならない。


道路、駅の馬、船や橋などを途絶えさせることはせず、往来を 停滞させてはならない。


私的な関所を作ったり、新法を制定して港の流通を止めたりしてはならない。


500石積み以上の船を造ってはいけない。


諸国に散在する寺社の領地で昔から所有しているところは、今後取り離してはならない。


全て幕府の法令に従い、どこにおいてもこれを遵守すること。






その後、徳川家光が参勤交代の義務化や大船建造の禁の条文を加えた。幕臣については、寛永12年(1635)に幕府が将軍直属の家臣である旗本・御家人を対象にして発令した「諸士法度」があった。全23条からなり、忠孝、軍役、振舞、相続、職務、衣服、倹約など広範囲にわたる規定が設けられていた。




しかし、大名と旗本の身分格差はみえるが大差はなかった。そこで、天和3年(1683)将軍綱吉が武家諸法度を改定した折に諸士法度を武家諸法度に統合した。これまで寛永令(1635)、寛文令(1663)、天和令(1683)宝永(1710)享保令(1717)など将軍の交代と共に改訂が重ねられた。







禁中並公家諸法度

元和元年(1615717日、京都二条城で大御所家康、将

秀忠関白二条昭実が連署した17ヶ条が発布された。江

府が天皇と公家の行動を統制するために、金地院崇伝

起草により、家康が制定した。



1天皇の主努、2太政大左大臣・右大臣の席次、3清華

家の大臣辞任後の席次、4摂政の任免、5関白の任免、6養子

7武家官位、8改元、9天子以下諸臣の服装、10諸家昇進の

第、11廷臣の刑罰、12罪軽重の例律、13摂家跡の席

14僧正と門跡の命叙皇、15院家の任命叙任、16紫

の条件17上人号の勅許の17条である。



朝廷の権威に対して武家の権威を確立した基本法である。

戸時代を通じて朝廷対策の根本法として、一度も改訂さ

ことはなかった。公家衆といえども高位高官の場合は

江戸幕府の干渉下にあり、武家の官位は幕府が叙任し、朝

廷がこれを認証した。武家の官位は朝廷の官位の定員

「公家当官之外足るべき」と定めた。







紫衣勅許事件

禁中並公家諸法度の16条に定めた紫衣や上人号をやたらに授ける事を戒めていた。寛永5年(1628)後水尾天皇は、これまでの慣例通り幕府に相談なく十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えていた。宗教統制や寺院管理を目指していた幕府は、これを知り事前に勅許の相談なき法度違反とした。発行した勅許状の無効を宣言し、朝廷を抑えて実力を示そうとした。この紛争が紫衣勅許事件である。



紫衣とは紫色の法衣や袈裟を言い、元々宗派を問わず高徳の僧尼が朝廷から下賜されていた。その紫衣が尊さを表し、同時に朝廷に取っては重要な財源であった。寛永6年(1629)大徳寺の沢庵宗彭らは幕府に抗議書を提出、これによって罪に問われ出羽国上山に流刑となる。これにより後水尾天皇は退位により女帝明正天皇が即位した。寛永9年(1632)沢庵は許されて、将軍家光の帰依を受け、品川東海寺の開山となる。これにより朝廷に対する幕府権力が明確にされた。











by watkoi1952 | 2019-09-22 17:39 | 幕藩体制の幕臣と諸大名 | Comments(0)