徳川将軍家と御一門の格式と序列(1)
徳川将軍家と御一門の格式と序列(1)
家格と分知
徳川将軍家との親疎により御一門(御三家/御三卿/御家門)、譜代大名、外様大名に分けられた。さらに、官位、領土、家格、職格の四要素から成立した。幕府の指定で朝廷が叙任する位階/官職によって、従二位大納言より従四位侍従、従五位諸太夫、御目見以上、御目見以下に分類された。また、封領域の大小や城郭の有無による、国主/城主/城主格/無城に区別された。国主は国持とも言い、源平以後に一国一郡を私有した豪族で、元徳川家とは対等であった。
城主は城持とも言い、本国に居城を持つ大名である。国主、城主でもないが資格だけに堕した城主格や準国主がいる。無城は領主とも言い、陣屋を在所とした大名である。大名は参府や帰国のとき「朔望の登城」といって、月々の1日と15日に江戸城に登城し将軍に拝謁した。このとき控の間はそれぞれの格式によって、大廊下、大広間、黒書院溜間、帝鑑間、柳間、雁間、菊間に分けられていた。
すなわち、分地分家をすることは、本家にとって領地高が減ずる結果、家格が低下する。これに対して、分附分家は本家の表高を減らさず分家を創り出すことが利点であった。当時の社会においても、この区分が各大名家の属性を公式に表明するものであった。これら大名家は改易や転封など幾多の変遷を経て、幕末期の慶応2年(1866)には、総数280家、内訳は、御三家・御三卿・御一門(9家)、国主大名(18家)、譜代大名(159家)、外様大名(90家)、特殊藩(4家)であった。
徳川宗家
三河国の松平宗家9代当主の松平家康は、永禄9年(1566)藤原氏流の徳川家康と改姓して従五位三河守に任官された。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで勝利すると、慶長7年には源氏流新田氏の子孫であると系図で宣言した。慶長8年(1603)家康62歳は、朝廷から委任の形で「征夷大将軍」に就任した。徳川将軍の格式は、「内大臣、従一位、征夷大将軍、源氏長者、淳和奨学両院別当、兼右近衛大将、右馬寮御監」である。要約すると、官位「内大臣、従一位」、家柄「源氏長者」、職格「淳和奨学両院別当、兼右近衛大将、右馬寮御監」、これに領土「八百万石」を加えた格式で朝廷では、公卿と装束や座次が決められる。

征夷大将軍は源頼朝以来、源氏の系統でなければならない不文律があった。家康は徳川幕府を開いた2年後、慶長10年(1605)三男秀忠に将軍職を譲り、二代将軍秀忠が徳川宗家として将軍職を世襲した。二代秀忠は長男の早世により、二男の家光が三代将軍職を継承した。以後代々の将軍は、家康の定めた徳川将軍家の長男が世襲する原則を継続した。歴代将軍は、大奥に多くの側室を抱え血族の保持に努めた。
ところが、将軍家の血族維持の側妾制度がありながら、四代将軍家綱に直系の継嗣無く、徳川将軍家の直系は、僅か77年間で血脈は途絶えた。そこで家綱の養子に傍系の綱吉を迎え、五代将軍綱吉とした。その綱吉も継嗣が早世し、四代将軍家綱の弟綱重の長男家宣が六代将軍に就任した。享保元年(1716)六代家宣の継嗣は8歳で夭折した。ここに秀忠・家光父子の血統は7代家継で断絶した。八代将軍には、御三家の紀州徳川家から、徳川吉宗が就任した。
これより紀州家の血統が将軍家を継ぎ、吉宗、家重、家治と三代70年の世襲が続いた。しかし、十代将軍家治の継嗣が早世すると、御三卿一橋家より家斉を養子に迎え、十一代将軍家斉が就任した。家斉の長男は、十二代将軍家慶である。家斉の孫、十三代将軍家定には継嗣なく、将軍家に最も血筋の近い紀州徳川家から養子を迎え、十四代代将軍家茂とした。ところが、家茂20歳は長州征伐に出陣するが大阪城で脚気衝心のため死去する。そこで、十五代将軍慶喜は、御三卿の一橋家より就任した。
だが、慶喜はもともと徳川御三家の水戸徳川家九代斉昭の7男で一橋家の養子になり、徳川家最後の征夷大将軍となった。十六代徳川宗家は、御三卿の田安徳川家の家達に継承された。十七代宗家は、家達の長男家正が家督を継ぐ。しかし、家正には男子なく、家康の直系にあたる六代水戸藩主徳川治保の血脈を引く会津藩主松平容保の曾孫にあたる恒孝が17代家正の婿養子になり、徳川恒孝として徳川宗家十八代当主となる。今後十九代は恒孝の長男家広に継承され、徳川宗家の血統は維持継続される。

将軍家の血族制度
江戸時代には、徳川将軍家から三百諸侯の大名家、さらに武士階級から富裕商家に至るまで側妾の風習が広く流布していた。この側妾制度がなければ、血族制度を軸とする徳川将軍の継承制度は成立し得なかった。十五代将軍の生母の多くは側室である。将軍の御台所と呼ぶ正室は、三代将軍家光より、天皇家、親王家、五摂家の近衛、鷹司、九条、二条、一条家から輿入れした。それは徳川将軍家の家格に朝廷の権威を加え、政権の正統性を保つ必要性があった。
家康には朝廷と幕府による公武合体構想があった。秀忠と江の五女和子を第108代後水尾天皇に入内させて、皇后和子との間に生まれるであろう皇子に皇位継承させ、徳川家が天皇の外戚の地位を得て、徳川将軍家の安泰を目論んでいた。寛永6年(1629)天皇と和子の間に誕生した明正天皇は女性天皇のため、徳川家の天皇家外戚の地位は一代で終わる。和子に皇子も生まれたが一年で夭折、家康の目論見は水疱に帰した。
歴代将軍は正室を迎えても、京の朝廷が幕政に影響力を強める血筋の次期将軍を望まなかった。江戸生まれの将軍の寵愛が、京都育ちで自尊心の高い正室に向い難かった節がある。御台所は皇室の限られた範囲の遺伝的な虚弱で不妊体質ゆえに稀に産まれても7歳までに夭折の事実がある。また、平安時代の貴族から連綿とつながる御所白粉があり、当時の上流社会の女性は、顔から胸元まで白塗り化粧する風習があった。
その白粉に含まれる水銀や鉛白粉を乳幼児が摂取すると、鉛中毒や神経麻痺を引き起こし元服までに早世に至った。これまで鎌倉時代より江戸、大正時代までの天皇家の正室にも男子継承者は一人もなく、すべて側室から生れている。この事実から、徳川将軍家の血脈を確実に継承するため、家康の求めた大奥の側妾制度が春日の局の尽力により発展充実していった。
徳川将軍の正室と側室/子供/生母
① 家康(75歳)19名(正室2側室17)子数19名男13女6)
松平広忠の正室「お大の方」
② 秀忠(54歳)2名(正室1側室1)子数9名(男4女5)
家康の 側室「西郷の方」
③ 家光(48歳)9名(正室1側室8)子数7名(男6女1)
秀忠の正室「お江与の方」
④ 家綱(40歳)3名(正室1側室2)子数0名
家光の側室「お楽の方」
⑤ 綱吉(64歳)4名(正室1側室3)子数2名(男1女1)
家光の側室「お玉の方」
⑥ 家宣(51歳) 5名(正室1側室4)子数6名(男5女1)
綱重の側室「お保良の方」
⑦ 家継(8歳) 0名(正室0 側室0)子数0名
家宣の側室「左京の局」
⑧ 吉宗(68歳)7名(正室1側室6)子数5名(男4女1)
光貞の側室「お由利の方」
⑨ 家重(51歳) 3名(正室1側室2)子数2名(男2女0)
吉宗の側室「お須磨の方」
⑩ 家治(50歳) 3名(正室1側室2)子数4名(男2女2)
家重の側室「お幸の方」
⑪ 家斉(69歳)17名(正室1側室16)子数55名(男27女28)
治済の側室「お富の方」
⑫ 家慶(61歳)8名(正室1 側室7)子数26名(男13女13)
家斉の側室「お楽の方」
⑬ 家定(35歳)3名(正室 3側室0)子数0名
家慶の側室「お美津の方」
⑭ 家茂(21歳) 1名(正室1 側室0)子数0名
斉順の側室「お操の方」
⑮ 慶喜(77歳) 3名(正室1 側室2)子数21名
将軍後の側室2の子 斉昭の正室「登美宮」
※徳川歴代将軍15名の出生は、家康、家光、慶喜の正室生母3名と側室生母12名で維持構成されていた。しかし、家康の父広忠は三河国岡崎城主、慶喜は水戸徳川家の生れ、歴代将軍の正室に生れたのは、三代将軍家光唯一人である。
徳川幕府十五代将軍の系図
家門大名(親藩)
尾張徳川家
慶長5年関ヶ原の戦い後、家康は大阪方の抑えとなる要所の清洲城には、広島に加増転封された福島正則に代えて、4男の松平忠吉を配した。さらに東海道も親藩と譜代で固める。慶長12年(1607)忠吉の死去にともなって、9男の義直が清洲城主となる。家康は豊臣恩顧の大名に普請を命じ、城郭23万坪の名古屋城を築かせ、清洲から移転した城下町の整備も進めていた。この領地は尾張美濃を中心とした軍事上の拠点で、濃尾平野の穀倉地帯に木曽の森林など恵まれた資源を背景に将軍家直臣の家臣団で形成されていた。
元和2年(1616)家康の側室お亀の方に生まれた9男義直が61万9千石で名古屋城に入り、翌元和3年、軍事的、権力的支配や秩序の維持を意味する「御仕置始」とし、尾張藩が成立して清洲藩は廃された。尾張徳川家は御三家の中で知行高が最も高く、藩祖が御三家の長兄であることから、御三家筆頭格であり、全大名中最高の家格として君臨した。しかし、7代藩主宗春は、幕政に反対して将軍吉宗に処断され、その墓石も金網で囲われる処遇を受けていた。
さらに、御三家上席とされた尾張家から将軍に就任することは一度も無く、逆に将軍家や御三卿の幼い養子を十代藩主から4代連続で受け入れて、家康からの血脈を乱されていた。これら「押し付け藩主」の元で実権を掌握していた江戸の付家老への不満が渦巻き、藩士たちが渇望していた分家高須家の14代慶勝が就任した。慶勝は藩祖義直の遺命である尊皇攘夷を主張した藩政を押進めた。
幕府倒壊に際して幕府に背き、尾張藩内の親幕府派重臣14名を斬罪にする「青松葉事件」で藩論を勤皇に統一して、倒幕の旗印を掲げた。さらに討幕軍の東海道通過を円滑に進めるべく関係諸家に諮る。尾張徳川家上屋敷の市ヶ谷高台に大砲を据え、江戸城接収藩としての役目も果たした。
尾張名古屋城

尾張徳川家江戸上屋敷

初代尾張藩主徳川義直

◎初代義直は、慶長5年(1600)徳川家康の九男に生まれる。母は側室お亀の方。慶長8年に甲斐国24万石を与えられる。慶長12年(1607)尾張国に加増転封となり、61万石余を所領して藩政の基礎を固めた。義直の尊皇思想を著した『軍書合鑑』の中に「朝廷と幕府が対立したときには朝廷側に付くこと」とあり、家訓として幕末まで受け継がれている。寛永3年従二位権大納言に叙任される。正室は安芸国広島の浅野幸長の娘春姫。慶安3年(1650)50歳で逝去した。
◎二代光友は、寛永2年(1625)義直の長男に生まれる。母は側室お尉の方。慶安3年に家督を相続して、公平を期す概高制を取り入れ藩制を確立した。正室は家光の娘3歳で嫁した千代姫である。元禄13年(1700)75歳で没した。葬地は名古屋の建長寺、以後歴代藩主の葬地となる。
◎三代綱誠は、承応元年(1652)光友の長男に生まれる。母は正室の千代姫。元禄6年に家督を相続する。正室は権大納言広幡忠幸の娘新君。側室は24人にのぼる。元禄12年(1699)47歳で逝去した。
◎四代吉通は、元禄2年(1689)綱誠の九男に生まれる。母は側室の下総。元禄12年に家督を相続する。正室は関白九条輔実の娘輔子。正徳3年(1713)24歳で没する。
◎五代五郎太は、正徳元年(1711)吉通の長男に生まれる。母は正室輔子。正徳3年(1713)に家督を相続するが同年3歳で没した。男子なく綱誠の十一男通顕を養子とした。
◎六代継友は、元禄5年(1692)綱誠の十一男に生まれる。母は側室和泉。正徳3年に継友と称して家督を相続する。継友は綱誠以来の藩財政を立て直すため、緊縮財政をとり順次好転していった。正室は近衛家煕の娘安己姫。享保15年(1730)に38歳で没する。男子なく綱誠の十九男を養子とした。
◎七代宗春は、元禄9年(1696)綱誠の十九男に生まれる。母は側室三浦。享保14年に別家して陸奥国梁川に3万石を領する。翌15年に継友の養子になり家督を相続した。宗春は自由奔放な性格で吉宗の享保改革を批判した。このため、元文4年(1739)幕府より隠居謹慎を命じられた。明和元年(1764)68歳で没した。その墓石には近寄れないよう金網で囲われ、100年後の天保10年に許され金網が解かれた。処分が解除された男子なく高須松平家より養子を迎えた。
◎八代宗勝は、宝永2年(1705)別家川田久保家の松平友著の長男に生まれる。母は側室お繁。享保17年一族の高須松平家を養子相続。元文4年宗治の隠居にあたり本家の養子になり家督を相続した。宗勝は倹約令で藩財政の立て直しを図る。正室は四代吉通の娘三姫。宝暦11年(1761)に56歳で没した。
◎九代宗陸は、享保17年(1732)宗勝の二男に生まれる。母は側室お嘉代。宝暦11年に家督を相続する。宗陸は尾張藩中興の祖、新田開発などで藩財政を立て直した。文教政策では藩校「明倫館」を創設した。正室は近衛家久の娘好姫。寛政11年(1799)に63歳で没した。男子なく、初代藩主義直の血統は9代宗陸で絶えた。一橋徳川家より養子を迎えた。
◎十代斉朝は、寛政5年(1793)一橋德川治国の長男に生まれる。母は正室の隆子。寛政10年に宗陸の養子になり、同12年に家督を相続した。正室は将軍家斉の娘淑姫。嘉永3年(1850)に57歳で没した。男子なく将軍家斉の子を養子に迎える。
◎十一代斉温は、文政2年(1819)将軍家斉の十九男に生まれる。母は側室お瑠璃の方。文政5年養子になり、文政10年に家督を相続する。正室は田安徳川斉匡の娘愛姫。天保10年(1839)に20歳で没する。男子なく兄の斉荘を養子とした。
◎十二代斉荘は、文化7年(1810)将軍家斉の十一男に生まれる。母は側室お長の方。文化10年に田安家へ養子、天保10年尾張家に養子、家督を相続する。正室は田安徳川斉匡の娘猶姫。弘化2年(1845)に35歳で没する。男子なく田安徳川家より養子を迎える。
◎十三代慶痼は、天保7年(1836)田安徳川斉匡の七男に生まれる。母は側室の礼。弘化2年養子になり家督を相続する。嘉永2年(1849)に13歳で没する。分家高須松平家より慶勝を養子とした。
◎十四代慶勝は、文政7年(1824)分家高須家の松平義建の二男に生まれる。母は規姫。嘉永2年本家に望まれて養子になり家督を相続する。德川家定の継嗣問題では一橋派に属して南紀派と対立する。慶勝は初代藩主義直の遺命である尊皇攘夷を主張して大老井伊直弼の調印した日米友好通商条約に抗議し、同行した水戸家斉昭ともに政5年隠居を命じられる。文久2年に赦免される。正室は陸奥国二本松の丹羽長富の娘矩姫。再び16代藩主を務め、明治16年(1883)に59歳で没した。
◎十五代茂徳は、天保2年(1819)分家高須家の松平義建の三男に生まれる。母は側室尾崎。はじめ義比と名乗り、嘉永三年高須松平家の家督を相続する。安政5年慶勝の隠居により、茂徳と称して本家の家督を相続する。さらに慶応2年(1866)茂栄と改名して、徳川慶喜の後養子になり一橋徳川家を相続した。正室は陸奥国二本松の丹羽長富の娘政姫。明治17年(1884)に65歳で没した。
◎十六代義宣は、安政5年(1858)十三代慶勝の三男に生まれる。万延元年に養子となり、文久3年家督を相続する。明治8年(1875)に17歳で没する。男子なく慶勝が再び相続して尾張德川家最後の藩主となる。
紀伊徳川家
紀州は豊臣秀長の領地であったが、慶長5年の関ヶ原の戦い後に浅野幸長・長晟が入り、二代わたり藩政の基礎を固めた。しかし、元和5年(1619)浅野家は、安芸国広島へ転封となる。家康の側室お万の方に生まれた10男の頼宣は、駿河国遠江で50万石を領し、家康とともに駿府城に居住していた。家康の没後、元和5年に兄秀忠の命で駿府から紀伊国和歌山に55万5千石で移封した。御三家の一つ紀伊徳川家の誕生である。初代頼宣の直系は、吉宗の就任で途絶えたが、分家の西条松平家が継承して血統的には維持されている。
紀伊和歌山城

紀伊徳川家江戸上屋敷・中屋敷

初代紀伊藩主徳川頼宣

◎初代頼宣は、慶長7年(1602)德川家康の十男に生まれる。母は側室お万の方。慶長8年常陸国水戸二十万石を与えられ、慶長15年に駿河遠江に加増転封五十万石を拝領して駿河宰相と称した。元和5年(1619)紀伊国に加増転封となり五十五万石を領した。頼宣は地士制度、今高の制など諸法令で藩体制を確立した。慶安4年由井正雪の起こした慶安事件では黒幕として頼宣が幕府から一時嫌疑を受けている。正室は加藤清正の娘瑤林院。寛文11年(1671)に69歳で没した。
◎二代光貞は、寛永3年(1626)頼宣の長男に生まれる。母は側室中川。寛文7年家督を相続する。元禄3年従二位権大納言となる。正室は伏見宮清親王の娘安宮。元禄11年隠居して宝永2年(1705)79歳で没した。
◎三代綱教は、寛文5年(1665)光貞の長男に生まれる。母は側室山田。元禄11年に家督を相続する。正室は将軍綱吉の娘鶴姫。宝永2年(1705)に40歳で没した。男子なく弟の頼職を養子にした。
◎四代頼職は、延宝8年(1680)光貞の三男に生まれる。母は側室宮崎。元禄10年、別家し越前国丹生郡にて3万石を領した。宝永2年(1705)綱教の養子となり家督を相続するが、まもなく25歳で没した。妻子なく弟の頼方を養子にした。
◎五代吉宗は、貞享元年(1684)光貞の四男に生まれる。母は巨勢。元禄10年に別家して越前国丹生郡にて3万石を領した。宝永2年兄頼職の死去により、紀伊徳川家の家督を相続して、頼方を吉宗と改名した。吉宗は藩財政の窮乏再建のため緊縮財政を強行した。これらの経験が幕府の享保の改革に発揮される。正徳6年7代将軍家継の危篤に際し、6代将軍家宣の正室天英院の推薦で、享保元年(1716)吉宗32歳で将軍職に就任した。
◎六代宗直は、天和2年(1682)分家西条松平家の松平賴純の四男に生れる。母は側室太田。正徳元年に西条藩の家督を相続下が、本家吉宗の将軍職就任に伴い紀伊家を相続した。正室なく側室11人。宝暦7年(1757)に75歳で没した。
◎七代宗将は、享保5年(1720)宗直の長男に生れる。母は側室服部。宝暦7年に家督を相続した。宗将は仏教に帰依し、日蓮宗を厳しく排撃したことで知られる。正室は伏見宮貞建親王の娘富宮。明和2年(1765)に45歳で没した。
◎八代重倫は、延享3年(1744)宗将の二男に生れる。母は側室吉田。明和2年に家督を相続する。重倫の性格は狂人に近いといわれ、粗暴で江戸屋敷に隣接した屋敷の住人を銃で撃ち、安永四年(1775)61歳で幕府より国元に戻り隠居を命じられた。正室は有栖川宮職仁親王の娘於佐宮。文政12年(1829)に85歳で没した。
◎九代治貞は、享保13年(1728)六代宗直の二男に生れる。母は側室外山。宝暦3年西条松平家の松平頼邑の養子になり西条藩を継いだ。安永4年に本家の養子になり紀伊家の家督を相続した。治貞は吉宗を範として藩政改革を断行した。正室は中将今出川公言の娘千穂君。寛政元年(1789)61歳で没した。
◎十代治宝は、明和8年(1771)八代重倫の二男に生れる。母は側室佐々木。安永6年に治貞の養子になり、寛政元年に家督を相続する。治貞の藩政改革を継承した。文化7年39歳で隠居するが国元で実権を握り続けた。このため江戸藩邸と国元の間で深刻な派閥争いが繰り替えされていた。正室は田安徳川宗武の娘種姫。嘉永6年(1853)82歳で没した。
◎十一代斉順は、享和元年(1801)将軍家斉の六男に生れる。母は側室お登勢の方。文化7年に清水家を相続、文化13年に治宝の婿養子になり、文政7年家督を相続する。正室は治宝の娘豊姫。弘化3年(1846)45歳で没した。男子なく清水家より養子を迎える。
◎十二代斉彊は、文政3年(1820)将軍家斉の二十一男に生れる。母は側室お袖の方。文政10年清水家を相続、弘化3年斉順の婿養子になり家督を相続した。正室は内大臣近衛忠煕の娘充君。嘉永2年(1849)29歳で没した。男子なく斉順の長男を養子にした。
◎十三代慶福は、弘化3年(1846)斉順の長男に生れる。母は側室お美佐の方。嘉永2年に4歳で家督を継ぐが、嘉永6年十代治宝の死去により、治宝派を一掃して付家老の水野忠英、安藤直裕を中心に綱紀粛正や権力の集中をはかった。安政5年(1858)将軍家定の養子になり、家茂と改名して将軍職に就任した。
◎十四代茂承は、弘化元年(1844)分家伊予西条松平家の松平頼学の七男に生れる。母は側室近藤。安政5年兄の慶福が将軍家茂となり、14歳で家督を相続した。慶応元年、第二次長州征伐の先鋒総督を務めた。しかし、鳥羽伏見の戦後、藩兵と献上金を差し出して、新政府軍に恭順を示して攻撃を免れた。正室は伏見宮貞教親王の妹倫子。明治2年の版籍奉還により和歌山藩知事になる。明治39年(1906)62歳で最後の紀伊藩主は没した。
水戸徳川家
平安時代以来、常陸国水戸を中心に勢力を拡大していた佐竹義宣が関ヶ原の戦いで徳川方に参戦しなかったことで、出羽国久保田(秋田)に減転封された。慶長7年(1602)家康の5男信吉が下総佐倉から水戸に入るが、翌年病没、直ちに10男頼宣が入る。しかし、慶長14年(1609)頼宣は駿府に転封になり、家康の11男頼房が常陸下妻から25万石で入封して水戸藩が成立した。家康は三河国より勢力を拡大した支配地の有力者の娘を側室にすることで融和を図っていた。
家康は江戸に入府すると、道灌四代の孫康資の娘である「お勝の方」を側室にした。慶長12年(1607)1月、お勝の方30歳は、駿府城で家康64歳最後の5女「市姫」を生んだ。市姫は仙台藩主伊達政宗の長男忠宗と婚約したが4歳で夭折した。不憫に思った家康は、慶長8年(1603)家康60歳で側室「お万の方」に生れた11男「頼房」を実子市姫を亡くしたお勝の方の養子とした。慶長14年(1609)頼房6歳は、常陸国水戸城25万石の城主となる。
頼房は幼少のため、養母お勝の方と駿府城の家康の元で育てられた。二代将軍秀忠は、江戸城内に1歳上で年齢の近い頼房を次期将軍家光の兄弟同様の身内に置いた。寛永9年(1632)将軍家光の親政になると、信頼の厚い頼房は江戸常駐となる。慶安4年(1651)頼房は家光の死去までの17年間にわずか3回の水戸就藩であった。これが先例となって、水戸藩主は将軍を補佐する江戸定府、いわゆる参勤の継続状態の定府である。
寛永13年(1636)水戸家頼房は、33歳で徳川姓が許された。これまで頼房(11男)は、同母兄の紀伊徳川家頼宣(10男)の分家と見做されていた。しかし、御三家はまだ定まっておらず、家光の弟忠長の死去で水戸家頼房は御三家と確定した。将軍家に継嗣がいない場合は、御三家より将軍が就任する条件は、血統、家格、年齢、能力で選出される。将軍に選ばれた旨を朝廷に伝える奉聞、勅許を得る立場の者は水戸家の当主に限られた。
それは、讒言や贈収賄で朝廷や国内を混乱させないよう家康が執った措置である。これが水戸家より将軍を排出できない雰囲気を醸したが、御三家平等の決まりで水戸家より一橋家を経て、15代将軍慶喜が就任している。寛永11年(1634)頼房の養母英勝院(お勝の方)は、将軍家光より鎌倉扇谷の上杉管領屋敷前の太田道灌屋敷跡地を賜り、菩提所「英勝院」を光圀の寄進で建立した。鎌倉唯一の尼寺である。
家光は駿府城でお勝の方が春日局を家康に引き合わせた恩に報い、頼房を手元に置いたのであろう。水戸光圀が江戸を離れたのは、北は日光東照宮まで、江戸以西に旅したのは、鎌倉の英勝院まで、全国行脚の旅「水戸黄門」は明治以降の創作である。尾張、紀伊両徳川家の官位は、権大納言、水戸徳川家は格下の権中納言、江戸定府と合わせて副将軍の俗称が流布した。水戸徳川家は、御三家で唯一、他家より養子を一切迎えず藩祖頼房の血脈を絶やさず、家祖家康の血統を守り抜き、徳川宗家の血脈を繋いだ。
水戸城大手門

水戸徳川家江戸上屋敷

初代水戸藩主徳川頼房

◎初代頼房は、慶長8年(1603)德川家康の十一男に生れる。母は側室お万の方。家康の命により市姫を亡くした側室お勝の方の養子となる。慶長10年常陸国下妻にて10万石を拝領した。慶長14年水戸に加増転封となり35万石を領した。頼房は城下町を開設、藩政の基礎を固めた。正室なく側室8人。寛文元年(1661)58歳で没した。久慈郡瑞龍山に儒葬より歴代廟となる。
◎二代光圀は、寛永5年(1628)頼房の三男に生れる。母は側室谷。寛文元年に兄頼重に変わり家督を相続した。元禄3年(1690)62歳で西山荘に隠居して梅里と号した。光圀は修史事業を始め、江戸藩邸に史局を設け「大日本史」の編纂に尽力した。正室は前関白近衛信尋の娘。讃岐国高松藩初代藩主松平頼重の長男綱方を養子にするが23歳で死去のため、二男の綱條を養子にした。以後、水戸家は光圀でなく、兄頼重の血統を引き継ぐ。元禄13年(1700)光圀は72歳で没した。
◎三代綱條は、明暦2年(1656)分家高松松平家の松平頼重の二男に生れる。母は正室土井。寛文11年兄の死により光圀の養子になり、元禄3年に家督を相続した。元禄14年幕府に新田開発した7万石を表高に加算を願い出て、水戸藩の領地高は35万石となった。正室は右大臣今出川公規の娘季君。享保3年(1718)62歳で没した。男子なく高松松平家より養子を迎えた。
◎四代堯は、宝永2年(1705)分家高松松平家の松平頼豊の長男に生れる。母は側室湯浅。正徳元年に綱條の養子となった。享保3年に家督を相続する。正室は綱條の長男吉孚の娘美代姫。享保15年(1730)25歳で没した。
◎五代宗翰は、享保13年(1728)宗堯の長男に生れる。母は正室美代姫。享保15年に家督を相続する。藩政改革を進めるが、財政立て直しに充分な成果は得られなかった。正室は准后一条兼香の娘絢君。明和3年(1766)38歳で没した。
◎六代治保は、宝暦元年(1751)宗の長男に生れる。母は側室榊原。明和3年に家督を相続した。治保は天文地理に関心を持ち、特に本草学に造詣が深かった。正室は准后一条道香るの娘。54歳で没する。
◎七代治紀は、安永2年(1773)治保の長男に生れる。母は正室八代君。文化2年に家督を相続する。治紀は異国船の来航が相次ぎ、軍政改革に着手して軍備の充実を図った。正室は紀伊德川治貞の養女(德川重倫の娘)方姫。文化13年(1816)43歳で没する。
◎八代斉脩は、寛政9年(1798)治紀の長男に生れる。母は側室五百の方。文化13年に家督を相続する。正室は将軍德川家斉の娘峯姫。文政12年(1829)31歳で没する。男子なく弟斉昭が相続した。
◎九代斉昭は、寛政12年(1801)治記の三男に生れる。母は側室お永の方。文政12年兄斉脩の養子になり、才能を期待して家督を相続する。継嗣問題では藤田東湖らに擁立されて藩主となった。この藩内抗争の激化により、弘化元年幕府より致仕を命じられ隠居となった。嘉永3年謹慎を解かれる。嘉永6年ペリ-来航後、幕府の海防参与になり幕政に深く関与した。正室は有栖川織仁親王の娘登美宮。万延元年(1860)59歳で没した。なお斉昭の七男昭致は、一橋德川昌丸の養子になり、慶喜と改名して十五代将軍に就任した。
◎十代慶篤は、天保3年(1832)斉昭の長男に生れる。母は正室登美宮。弘化元年父の到仕に伴い13歳で家督を相続した。正室は有栖川宮織仁親王の娘線宮。明治元年(1868)36歳で没し、最後の水戸藩主となった。
御三卿
八代将軍吉宗には、成人した三人の男子がいた。一人は九代将軍の家重である。宗武、宗伊の二人には德川姓と従三位に叙任させ、田安門と一橋門内にそれぞれ屋敷を与えた。その後、家重の二男重好にも清水門内に屋敷を与え、従三位任官により「御三卿」が成立した。これは吉宗と御三家との間が疎遠になった弊害を補うために生まれた。御三家と同様に将軍家の血統を保持し、幕政を補佐する役割をもっていた。
御三卿には、各10万石の賄い料があてがわれ、将軍の身内として家臣も幕臣の出向者で運営された。御三卿は10万石の大名級であるが領有地を持たず、江戸城本丸への登城は、大名登城の大手門でなく、大奥など身内の平川門より入城した。御三卿は、公卿の位である従三位に昇り、任官の際、国守でなく式部卿や宮内卿などの長官である卿となるのが通例で「御三卿」と称した。
御三卿拝領屋敷

田安徳川家
北の丸田安家正門

◎初代宗武は、正徳5年(1715)将軍吉宗の二男に生れる。母は側室お今の方。享保11年より賄料3万俵を毎年支給され、これより別家となる。北の丸田安門内に屋敷があったことで田安家と呼ばれた。延享3年に加増され10万石を領有した。宗武は学問を好み国学者賀茂真淵などに師事している。正室は准后近衛家久の娘森姫。明和8年(1771)56歳で没する。葬地は上野寛永寺内凌雲院。
◎二代治察は、宝暦3年(1753)宗武の五男に生れる。母は正室近衛森姫。明和8年に家督を相続する。父同様に文学を好み、また弓術に優れていた。安永3年(1774)21歳で没した。正室男子なく、一橋徳川家より養子を迎えた。
◎三代斉匡は、安永8年(1779)一橋德川治済の五男に生れる。母は側室丸山。天明7年に養子になり、家督を相続した。天保7年に57歳で隠居して三玄翁と称した。正室は閑院宮美仁の娘裕姫。嘉永元年(1848)69歳で没した。世子病弱なため、将軍家より婿養子を迎える。
◎四代斉荘は、文化6年(1809)将軍家斉の十三男に生れる。母は側室お長の方。天保7年に養子になり家督を相続した。正室は斉匡の娘猶女。天保10年に御三家尾張徳川家の家督を相続した。
◎五代慶頼は、文政11年(1828)斉匡の十男に生まれる。母は側室篠崎。天保10年兄斉荘の尾張家相続により12歳で家督を相続したため、父斉匡が後見した。安政5年病中の将軍家定にかわり政務を見る。さらに将軍家茂の後見人として幕政に参与した。文久3年在勤中の遺漏を咎められ官位一等を降等され隠居した。維新では江戸鎮撫にあたり再び家督を相続した。明治元年に江戸鎮撫の功により大名となり、田安藩と称した。明治3年北海道十勝の管轄を許され開発にあたった。正室は家慶の娘睴姫。明治9年(1876)48歳で没した。
◎六代寿千代は、万延元年(1860)慶頼の長男に生れる。母は側室高井武子。文久3年家督を相続する。慶応元年(1865)5歳で没したため、弟家達が相続した。
◎七代家達は、文久3年(1863)慶頼の三男に生れる。母は側室高井武子。慶応元年に家督を相続する。明治元年、慶喜に変わり将軍家を相続して静岡藩七十万石の藩主となる。正室は近衛忠房の娘泰子。明治4年廃藩置県によって免職となり、東京千駄ヶ谷の德川邸に住む。16代德川宗家となる。昭和15年(1940)77歳で没した。

中央右に15代将軍德川慶喜 その左に16代德川宗家の家達
(九段坂上の将校倶楽部「階行社」前にて)
16代徳川宗家 徳川家達

徳川将軍家と御一門の格式と序列(2)に続く
by watkoi1952 | 2018-09-30 16:41 | 徳川将軍家と諸大名家 | Comments(0)


