EUの母・クーデンホーフ光子



EUの母・クーデンホーフ光子



EUの母と呼ばれた青山光子


明治の社会史をあざやかに彩る三大国際ロマンスといわれるのが、米国の富豪デニソン・モルガンと結婚した「モルガンお雪」、イタリアの彫刻家ビンチェンツォ・ラグーザと結婚した「ラグーザお玉」、そして、この主人公「クーデンホーフ光子」である。その数奇な運命は、オーストリア・ハンガリー帝国代理公使、クーデンホーフ・カレルギー伯爵夫人としたのである。



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青山光子は、明治7年(1874)油屋という屋号で菜種油を手広く商っていた青山喜八、母津禰の三女として、牛込区納戸町26番地に生まれた。18歳になった光子は、鹿鳴館に対抗して設立した外国高官・政財界・文化人300人限定の会員制料亭「芝紅葉館」での厳しい行儀見習いから歌舞音曲の訓練を終えて実家の家業を手伝っていた。





芝紅葉館のおもてなし


二代将軍秀忠は自らの霊廟となる芝増上寺境内の高台に江戸城の霊廟紅葉山の紅葉木を移植した。明治14年(1881)芝紅葉館は芝増上寺境内の紅葉山に贅を凝らした和式料亭を開業した。芝神明町で生まれた明治の文豪尾崎紅葉の筆名は、この紅葉山からの命名である。紅葉は文壇仲間や出版人との芝紅葉館の宴席における出来事から「金色夜叉」の名作が生まれた。



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      芝紅葉館より芝浦の海の景観



芝紅葉館では外国人接遇のため英会話の教育は必修であった。座敷給仕での行儀作法や歌舞音曲の訓練で「紅葉館踊り」の披露は、新柳二橋の名妓より人気のお座敷芸であった。このもてなしの踊りが日本初の無声映画に撮られ、明治32年(1899)6月20日、銀座の歌舞伎座で「紅葉館踊り」が弁士の解説付き活動写真として初上映された。この踊りは後の松竹歌劇団や宝塚歌劇団の礎である。




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紅葉館名物の贅を尽くした和式庭園と艶やかな紅葉をあしらった着物姿で美人女中がもてなしで踊る「紅葉館踊り」が会員の接待する招待客に評判であった。しかし、開業から64年後の昭和20年3月10日の東京大空襲で多くの著名人に愛された芝紅葉館は灰燼と化した。その二千坪の跡地には、昭和33年(1958)12月23日に333mの東京電波塔が竣工した。全国から募集した電波塔名称の審査員で話芸の名人「徳川夢声」の選定した「東京タワー」。その頂上の電波塔から、翌、昭和34年4月10日の明仁皇太子殿下と正田美智子妃のご成婚パレードの中継電波が広くテレビ放映された。




光子の父喜八は、趣味の骨董屋も開きこちらの方が繁盛していた。当時は幕府崩壊による貴重な江戸文化の書画骨董が、何の歯止めもないまま、安価で海外へ流失していた。古本屋の店頭の雨晒しに積まれていた安本が、御三家所有の肉筆画で後に重要文化財に指定される時代である。日本から欧州輸出で陶器の包装紙に使われた浮世絵の人気で、欧州ではジャポニズム(日本趣味)が流行していた。




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一方、ローマ皇帝を輩出してきたヨーロッパの名門ハプスブルグ王家に近いクーデンホーフ・カレルギー家は、オーストリア・ハンガリー二重帝国に広大な所領をもつ大貴族であった。後継者のハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵は、西洋哲学に得られない神秘的な東洋哲学に興味を持ち、明治25年(1892)2月29日に希望した駐日代理公使として、青山家に近い納戸町28番地の公使館に着任してきた。



青山家の目と鼻の先にある中根坂には、明治9年(1876)創業の大日本印刷の前身である秀英舎があった。社名は「英国よりも秀でた技術を身につけよ」と勝海舟が命名した。着任2週間目の伯爵が、その凍った急坂で人馬ともに転倒し負傷した。店にいた光子はためらう人々を押しのけて伯爵の救護にあたり、その手厚い看護がきっかけとなって二人は運命的な結婚となった。




東京で最初に建てられた築地居留地内の「カトリック築地教会」で二人は結婚式を挙げ、横浜在住の外交官仲間が参列した。新郎は母国で花形の騎兵将校姿、新婦は日本人初のウエーディング姿である。この結婚は、新聞記事になり世界中に打電された。


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二人の新居は、市谷加賀町2丁目10番の日本の薬学の黎明期に功績のあった柴田承桂邸内の瀟洒なドイツ風の洋館の借家で、明治269月長男光太郎(ハンス)、翌年11月次男栄次郎(リヒァルト)が生まれた。両家族や親戚、世間のあらゆる猛反対を説得した二人は、明治28年(1895326日、二人の子供を認知する上申書、続いて結婚届を牛込区役所(現牛込箪笥町地域センター)に提出した。



これを受けた東京府は内務省に、この申し出に問題がないか伺いを立てる「内外人結婚ノ儀伺案」を提出して内務大臣より許可が下りた。同年の10月に、伯爵は光子の父青山喜八の承諾証書を添えて本国へ送るため、二通の結婚証明書の発行を東京府庁に願い出ている。これらの文書は、東京都公文書館に保管されている。





長男光太郎(ハンス)・光子・次男栄次郎(リヒァルト)

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明治29年(1896)1月、日本滞在を終え本国へ帰国する旅立ちを前に二人は、正月の宮中参賀に招待され、昭憲皇大后陛下から「異国にいても日本人の誇りを忘れないで」とのお言葉と象牙製の大きな扇子を下賜された。一方、カレルギー伯爵は、仏教哲学者の井上円了に師事、東洋哲学を学んでいた。家族は横浜から出港、ドイツ国境に近いプラハの南、現チエコスロバキアに属するボヘミア地方の広大な領地の丘にそびえるロンスペルグ城での生活となった。



親類縁者は、東洋から連れてきたアジア人女性に冷たい視線を向けた。光子の食卓のマナーや着こなし、立ち居振る舞いに対し、貴婦人として認められるために試練と苦難の連続であった。だが、光子は芝紅葉館での行儀見習い、歌舞音曲の素養がこれほど役立つとは思わなかったと後年語っている。



そして、東洋から来た黒い瞳の日本人伯爵夫人としてウイーンの社交界の花形となった。その背景には、欧州を始めこの国は長年にわたり帝政ロシアに威圧されており、その残虐性はモンゴル帝国侵略の置き土産と言われている。それを日露戦争(1904)の対馬沖海戦で、バルト海から出撃した大国ロシアのバルチック艦隊を迎え打ち負かした日本国の女性という更なる人気の一因があった。




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明治39年(1906)、夫ハインリッヒ伯爵は、突然の心臓発作で亡くなる。彼の愛情だけを頼りに、異国の地で頑張ってきた光子にとって、その衝撃ははかり知れないほど大きいものであった。この時、光子は31歳の若さで四男三女七人の子供を抱えた未亡人となった。光子は夫の遺言に従って、ハプスブルグ帝国の支配を受けたボヘミアの広大な領地を所有するクーデンホーフ家の全財産を相続し、七人の子供を育てる後見人となった。



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しかし、大正3年(1914)6月28日、ボスニアの州都サラエボを訪問中のオーストリア帝国の後継者夫妻がセルビア人に暗殺された。同年7月28日オーストリア帝国はドイツ帝国の支持を得てセルビア王国に宣戦布告し、第一次世界大戦が勃発した。オーストリア・ハンガリー二重帝国は崩壊し、ハンガリー・チエコスロバキア・ユーゴスラビアが新国家として独立した。幾多の困難を被ったハプスブルグ帝国のボヘミア貴族は、没落するより術はなかった。全てを失い、光子一家はウイーン郊外へ移住した。




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「汎・ヨーロッパ」の提唱者


これまで母光子が実践した国際化を目のあたりしてきた次男リヒャルト(栄次郎)は、より具体化させて進めた著書「パン・ヨーロッパ」を大正12年(1923)に発表した。ヨーロッパには、28ヶ国もの国家がアメリカの2/3の面積でひしめき合い、民族対立の火種を抱えたままでは、いずれまた戦火を交えることになる。



リヒャルトの唱える「パン・ヨーロッパ」とは、欧州全土を一体的に捕らえ、統合を目指す運動である。自国の利益のみに囚われ、繰り返される戦争を阻止するには、各国間で話し合いの場を設け、関税や通貨、出入国、労働許可、福祉、エネルギー、防衛など多岐にわたる分野の共通のルールを設けるという考え方であった。



欧州28ヶ国の民主主義国家がアメリカのような一つの連邦国家としてまとまるべきであるという大胆な提案であった。そして、その著者リヒャルトの母は、東洋の日本人であるという驚くべき事実が伝えられると、さまざまな新聞が光子に新しい名称を贈った。「欧州連合案の母」、「パン・ヨーロッパの母」、そして「EUの母」と賞賛したのである。




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国際汎ヨーロッパ連合国際会長

(栄次郎・クーデンホーフ・カレルギー伯爵)




パン・ヨーロッパ」運動を起点として欧州統合は受け入れられた。それは、元大欧州ハプスブルグ帝国の伯爵の血を引くリヒャルト・クーデンホーフによって主張されたからに他ならない。EEC(欧州経済共同体)からEC(欧州共同体)、さらに現在のEU(欧州連合)と平和的な拡大に発展した。




日本人であることを誇りとして生きてきた光子は、「私が死んだら日本の国旗に包んでちょうだい」が口癖であった。光子は再び日本の土を踏むこともなく、昭和16年(1941827日、次女のオルガに看取られ、波乱に満ちた67年の生涯の幕を静かに閉じた。光子はウィーン郊外のヒーツイン墓地に眠る。また、光子はゲラン社の香水「ミツコ」の伝説でも知られる。




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香水「Mitsouko」の商品名は、フランス人作家クロード・ファーレルの小説「ラ・バタイユ」のヒロイン名である。ウィーンやパリの社交界で花形的な存在の伯爵夫人ミツコの境遇をモデルに、日露戦争で戦死した日本海軍総督の妻ミツコの勇気ある情熱的な生き方を描いた作品である。この神秘的な日本人女性に感銘を受けたジャック・ゲランは、香水名に「Mitsouko」を採用した。ゲランは後に小説のミツコをカレルギー伯爵夫人と知ることになる。







アカデミー賞映画「カサブランカ」

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「パン・ヨーロッパ」の著者リヒャルトは、ナチスのヒットラーに追われる。昭和15年(1940)妻で舞台女優のイダ・ローランと仏領モロッコのカサブランカから中立国ポルトガルのリスボンを経由してアメリカに亡命した。この苦難の逃避行が、反戦映画で不滅の人気を誇るアカデミー賞三部門受賞の映画「カサブランカ」のモデルとなった。




ナチスに追われる抵抗運動家ヴィクター・ラズロ(ポール・ヘンリード)がリヒャルト、その妻イルザ・ラント(イングリット・バークマン)が妻のイダ・ローランである。ラズロ夫妻がカサブランカの米人クラブ経営者リック(ハンフリー・ボガード)の粋な計らいで、ナチス占領下のカサブランカ空港から双発機ロッキードでリスボンに飛び立つ場面が印象に残る。






昭和17年(1942)に公開された映画「カサブランカ」は、ポール・ヘンリード、 イングリッド・バークマン、ハンフリー・ボガードの共演で「君の瞳に乾杯」の名言は一世を風靡した。だが公開時、この主人公のモデルが青山光子の次男栄次郎であることを当時の日本人は知る由もなかった。



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石原裕次郎と浅丘ル子の主演により、昭和42年(1967)3月11日に公開された「夜霧よ今夜も有難う」は、米国映画「カサブランカ」を翻案して横浜を舞台に映画化された。裕次郎の主題歌と共にヒットした昭和歌謡の名曲として、「夜霧よ今夜も有難う」は今日に歌い継がれている。




現在、EU27ヶ国の会議が開かれるベルギーの欧州議会内に、EU統合の父として、その行く末を見守るようにカレルギー伯爵の銅像が置かれている。さて、鳩山一郎元首相は、昭和21年(1946)から五年間GHQによる公職追放の間にカレルギー伯爵の著書と出合い深い感銘を受け、博愛を友愛と訳した「自由と人生」を昭和27年(1952)に出版した。



昭和28年(195362日、英国エリザベス女王の戴冠式に出席された明仁親王(上皇)が、外遊先のスイスでクーデンホーフ・カレルギー伯爵(栄次郎)と面談された写真である。カレルギー伯爵は、昭和42年(1967)年に招待され訪日した。この訪日は、東京牛込で栄次郎として生まれて以来、71年ぶりの帰郷であった。昭和天皇と香淳皇后に謁見し、皇太子明仁親王と美智子妃も同席した。




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父親の東洋哲学の思想や和を尊ぶ日本人の血筋を引くカレルギーは、自由こそ人間の尊厳の基礎であり、至上の価値と考え、それを担保する私有財産制度を擁護した。その一方で、資本主義が深刻な格差社会を生み出し、それを温床とする平等への希求が共産主義を生み出した。その理想郷の共産主義の果実を貪る独裁者が現れ、民主主義との双方に対抗する国家社会主義を生み出したことを深く憂えた。



それは、主権民主主義と言う名の独裁政治であり、国民は政治に対して自己の思想、信条、意見を持たない事が生き残る条件であった。その覇権主義との鎬合いに自由と平等が人間の尊厳を冒すことがないように均衡を図る理念が必要であった。専制主義、権威主義が勢力を占め、民主主義との争いの世界となった。それをカレルギーは、「博愛」そして日本語訳の「友愛」に求めたのである。




勝者なき戦争にも「戦争の素人は戦略を語り、戦争の玄人は兵站を語る」という名言がある。戦争地帯からの後方支援の諸活動は、「必要な物を」「必要な時に」「必要な量を」「必要な場所に」補給するのが兵站である。時代により変遷する兵站の力量や知力を増強して、決して侮らない者が、いつの世も戦争の勝利者になり得るのである。





これまで二度と戦争の惨禍を繰り返さないために統合の道を歩んできた汎ヨーロツパ連合であった。だが、EU統合に積極的に後から参加した旧大英帝国は、これまで七つの海を支配してきた誇り高き民族であり、欧州大陸から離れた英国の参加はいずれ禍根を残すことになると生前のカレルギー伯爵は深く憂慮していた。




英国はEUに参加後、EU連合規約を自国に有利に改約できるという思惑がまったく進展しなかった。ゆえに、 2016年6月23日の国民投票から、国内を二分した幾多の問題が噴出した。英国は2020年1月31日、47年間のEU加盟期間を経て欧州連合を離脱した。EUは英国6600万人の人口を失い、EU総合人口4億4600万人27ヶ国となった。しかし、EUにはまだ数国の参加希望国が待機している。





EU欧州連合の加盟国

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ヨーロッパの基本的な民族構成を見ると、地中海地方にはラテン系民族、西ヨーロッパにはゲルマン系民族、東ヨーロッパにはスラヴ系民族が分布している。ウラル語系のハンガリーとフィンランドの両国はそれぞれアジア方面から移動した遊牧民を祖とした民族に由来している。


EUの初期加盟6カ国を民族で見ると、ドイツ・オランダ(ゲルマン系)とフランス・イタリア・ルクセンブルク(ラテン系)で、特にルクセンブルクは家庭内や友人とはルクセンブルク語、公用語はドイツ語、フランス語が日常であった。




EU本部のあるベルギーの北半分はオランダ語系のフレミン語、南半分はフランス系のワロン語で、ブリュッセルでは両方の言語が日常的に通用する。EU本部はゲルマン系とラテン系の融合接点地であり、EU統合の最適地となったベルギーのブリュッセルに本部を置いたのである。



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by watkoi1952 | 2016-06-12 14:03 | 牛込神楽坂百景 | Comments(0)