箱崎川 |
箱崎川
箱崎川は日本橋川の亀島川分岐点より、箱崎町と日本橋中洲を経て墨田川までの支川である。日本橋川、隅田川、浜町川、小名木川を利用する水運の拠点として多数の船が行き交い、沿岸には倉庫群が林立していた。

左中は日本橋川の湊橋、右中は亀島川に架かる霊岸橋、左下は箱崎川入口に架かる崩橋が描かれている。

行徳河岸
天正18年(1590)家康が幕府御用地とした行徳塩田より、塩を江戸へ運ぶ水路の小名木川を開いた。寛永6年(1629)には、新川が開かれて江戸川までの水路が完成した。寛永9年(1632)下総国本行徳村の村民が幕府に小網町の河岸地を借り受け、行徳塩田の塩を江戸の行徳河岸へ運ぶ航路が開発された。
やがて、人や物資が増え毎日往復搬送された。最初16隻ほどの行徳船は、寛文元年(1671)に53隻、嘉永年間(1848~1853)にかけて62隻に増加した。また、この水路は成田山新勝寺や鹿島神宮への参詣などで房総に向かう多くの人々が利用した。
行徳帰帆

三ツ又別れの淵
隅田川の河口に堆積した中洲の影響で、川が三方に分かれた地点を三ツ又、三ッ俣、三ッ股の表記で呼ばれていた。三方とは、新大橋下流の隅田川本流と小名木川に中洲西岸の箱崎川に分かれる三川と推察される。また別れの淵とも呼ばれ、この付近で淡水と海水との分かれ目にあたる「三ツ又別れの淵」とも呼ばれた。

三ツ又で屋形船を浮かべて遊女芸妓と宴を催す「月の名所」と呼ばれた納涼地である。右上は田安家下屋敷、その右下が箱崎川、右下に浜町川の川口橋、左上に小名木川に架かる万年橋、中央右上火の見櫓の左に仙台堀に架かる一ノ橋が見える。

新大橋より三つ又を望む 左に小名木川あり、下流に永代橋、右に箱崎川、遠景に富士山 「山もありまた船もあり川もあり、数はひとふたみつまたの景」半井卜養

東都三十六景中洲三つ又
左に永代橋、右が箱崎川、中州で船底に付いた貝類を焼き走行性に耐久性や防水性を高める。

葦の繁る中洲は、明和8年(1771)8月、大伝馬町名主の馬込勘解由により、伝馬助成地として浜町と地続きに9千坪が埋め立てられた。地固めをするために認可した水茶屋から発展して、湯屋3軒、茶屋93軒、料理やなどが建ち並び一大歓楽街となり賑わっていた。
しかし、墨田川の流路を狭め、上流で洪水が頻発した。合わせて、隠し遊女を置いたことが露見した。質素倹約を唱える松平定信の寛政の改革(1789~1801)の影響で、取り壊され元の葦原の浅瀬に戻された。掘り返した土砂は、墨田土手の盛土に利用した。
歌川国芳作「東都三ツ股の図」
天保2年(1831)頃に描かれた隅田川の中洲より、深川方面を眺望する構図である。対岸の小名木川に架かる万年橋の南詰の火の見櫓に並んで、東京スカイツリーのように聳え立つ井戸掘り尖塔が描かれている。また船底板を焼くのは、底板に付着した貝類の除去で走行性を高め、耐久性や防水性を増す効果がある。

三つ又中洲より新大橋を望む 左に陸奥磐城平藩の上屋敷


御船蔵
寛永12年(1635)徳川将軍家が造船した御座船「安宅丸」を繋留したのが御船蔵である。この船蔵に因み、この一帯の地名を「あたけ」と呼んでいた。

新大橋
新大橋は、元禄6年(1693)に架橋された隅田川3番目の橋で、大橋と呼ばれていた両国橋に因み「新大橋」と名付けた。深川の発展に大きく寄与した、現在の新大橋は250m上流の御船蔵に架け替えられている。
名所江戸百景「大はしあたけの夕立」新大橋と対岸上流の御船蔵を望む。

印象派の巨匠ゴッホが「大はしあたけの夕立」を模写した
「日本趣味:雨の大橋」

明治19年(1886)に中洲一帯は、再び埋め立てられ中洲町となった。昭和46年(1972)に浜町との境、翌年に箱崎町との境が埋め立てられた。
