フランス皇帝の幕府へ献贈馬
フランス皇帝の幕府へ献贈馬
生糸の輸出大国
日仏修好通商条約は、安政5年(1858)10月9日に締結された。翌安政6年6月2日に横浜港を開港した。この開国直後に生糸の輸出が急速に伸び始めた。これが幕末争乱の開国起因の一つである。その背景には、安政年間(1854~59)欧州における絹の産地で、繭の生育被害が拡散していた。それは、ノゼマと呼ぶ微細胞虫が、繭の卵に感染する微粒子病の欧州大流行である。
万延元年(1860)には、絹の主産地で知られるフランスやイタリアなど西ヨーロッパの養蚕業に壊滅的な大被害をもたらしていた。これらの窮状に対して、江戸幕府14代将軍家茂は、最大産地のフランスに蚕の卵を産み付けた蚕種紙3万枚を、元治2年(1865)2月と8月の2回に分けて寄贈した。
フランスでは、皇帝の命により細菌学者ルイ・パスツールは、生物学者ファーブルの助言をもとに日本から贈られてきた蚕種の研究を進めた。そして、病源体となる嫌気性菌を突き止め、生き残った蚕同士を掛け合わせて、耐性のある品種改良に成功した。
蚕の卵が蛹(さなぎ)になるために造る繭から生糸を取り出し、精製して絹糸にする。蚕卵紙「養蚕業」、繭「製糸工程」、生糸「撚糸工程」、絹糸「繊布工程」、この工程で絹織物が完成する。

この時代背景には、文久3年(1863)上野介の役職に就いた小栗忠順は、勘定奉行などの要職を歴任した。忠順は、将軍慶喜の元で幕府の財政再建、防衛力強化のため洋式軍隊や横須賀製鉄所と造船所、品川台場などの建設を進めていた。これらの資金は、フランス公使レオン・ロッシュとの交渉で、仏国より240万ドルの借款で行われていた。
この契約で我が国から仏国を通じて、ヨーロッパ諸国へ生糸の一括販売権が付与されていた。近年、この借款が仏国政府ではなく、わが国の生糸の一括販売権を担保としたフランス国営銀行による投資であることが判明した。
ナポレオン3世から贈られた15代将軍慶喜の軍服姿

仏国よりアラビア馬の贈呈式
さて、わが国と友好関係にあったフランスは、蚕種の返礼として皇帝ナポレオン三世から15代将軍徳川慶喜に軍馬の品種改良に供する為のアラビア馬が贈呈された。慶応3年(1867)6月26日午前9時、江戸城大手門前広場で幕府に贈るアラビア馬26頭の贈呈式が行われた。同時に雉子橋御厩でフランスの馬匹技師から飼育の伝習も行われた。
幕府の馬匹管理者は、幕府御用地の小金牧などで大切に飼育改良する予定であったが、世はまさに幕末の風雲急を告げる時期である。戊辰戦争などの国内争乱で混乱した幕臣らは、馬の品種改良など考える余地は微塵もなく、当時の最高品種アラビア馬26頭を散逸させてしまった。
アラビア馬の贈呈式が行われた江戸城大手門前広場には、御畳倉(待合室)や腰掛が置かれている。

馬匹散逸の事実を知ったフランス公使が「折角わが国の皇帝が寄贈した馬を馬産の改良に利用せず、行方不明にしてしまうとは何たる事か」と、怒りに震えた。仏国公使は明治4年(1871)12月、馬匹改良の意見書に加えて、遺憾の意を外務省に伝えた。慌て狼狽した明治新政府の役人は、江戸幕府の事案とはいえ、重大な国際問題になりかねないと必死で馬探しを始めた。明治6年(1873)に所在が判明した9頭を淸水門前の雉子橋厩舎に集めることができた。相当数の馬は、幕末に千葉の白井や印西の牧場に分散していた。だが、当時厳重な箝口令の元で飼育されていたため、発見まで数年を要した。
雉子橋御厩/御馬預/野馬仕込馬場
(現千代田区役所と東京法務局)

「御馬預」は、将軍家と幕府の用馬、厩舎、馬具に関する一切を司さどる役職である。野生馬の調教、大名や諸役の武士に下賜する馬の管理も行なった。代々世襲制で、良馬の識別ができ、馬術が巧みで調教に優れた者が務めた。
明治8年(1875)明治新政府は、馬の改良と増産を図るため千葉県の三里塚に下総御料牧場を開設した。雉子橋御厩から三里塚に送られてきたアラビア馬を無事に繁殖させることができた。その子孫は、日本の競走馬の血統で「準サラ」と呼ばれる血統の主流となり、昭和中期以降までその血を受け継いだアラブ競走馬が活躍した。
今日では、外国産種牡馬や牝馬での生産のみで、昭和49年(1974)にサラ系に統合され、準サラの言葉も消えてしまった。しかし、明治、大正、昭和にかけて競馬界を支えてきた準サラの使命を振り返ると、日本の競馬はナポレオン三世のおかげで発展を遂げたといえる。
宮内省下総御料牧場(成田市三里塚)

三里塚下総牧場内の親子馬と桜

下総御料牧場は、成田国際空港用地になるため、昭和44年(1969)8月栃木県の高根沢御料牧場に移転した。残された跡地は、三里塚記念公園となった。
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明治24年後藤貞行画「パリ号」
明治30年(1897)上野動物園で飼育されていた巴里号(仏名:イロンディール)という37歳の老馬が息を引き取った。彼女もまたナポレオン三世から送られた馬の一頭である。雉子橋御厩から下総御料牧場での繁殖を経て、晩年は上野動物園内で子供たちの人気の的であった。皇居前の楠木正成銅像の騎馬像や上野の西郷隆盛像の愛犬ツン像を制作した「馬の後藤貞行」が描いた作品「パリ号」の遺影である。

仏国大統領より贈られた馬「カザン号」牡馬、青毛、寸幹(四尺九寸八分)明治35年(1902)2月六歳、下総御料牧場へ配布とある。慶応3年(1867)6月26日に献増された26頭の子孫である。ネット上に配布した貴重な写真は、陸上自衛隊習志野駐屯地資料館である。

冨岡製糸工場は、平成26年6月21日「冨岡製糸工場と絹産業遺産群」として、日本の近代化遺産で初の世界遺産となった。
幕末維新、わが国の生糸が主要な輸出品であった。横浜港は生糸貿易業者で溢れ、その集積地の大宮に向けて、品川から鉄道敷設事業が進められた。あまりに急激な需要の増加に対処できず、生糸の粗製濫造を招いていた。明治元年(1868)頃から生糸の国際評価は、低落に転じていた。
当時、古河財閥創始者の古河市兵衛は、小野組糸店の手代古河太郎左衛門の養子になる。市兵衛は分家井筒屋を興して、奥州一帯の生糸を買い付け、生糸貿易と蚕糸改良に尽力していた。輸出品の粗製濫造を憂いた市兵衛は、明治4年(1871)欧州より製糸器械を輸入、築地入船製糸場で、わが国初の器械繰りの生糸を試験製造した。翌年、生産地の長野県上諏訪に器械製糸工場を起業する。
「東京築地ぜんまい大仕掛け絹をとる図」
歌川芳虎(明治5年制作)

冨岡製糸工場の設立
明治新政府は、明治5年(1872)製糸業を国威発揚の国策として、フランスの最先端器械技術を導入した。同時に仏人技師ブリュナーを雇い入れて、官営の冨岡製糸工場を設立した。群馬県の富岡製糸工場は、日本の富国強兵の近代化に大きく寄与し、絹産業の模範となり、我国発展の礎となった。


上州富岡製糸場内之図
幕末に始まるわが国最大の外貨獲得の手段が、生糸輸出主体であった。昭和16年(1941)太平洋戦争に突入するまでの73年間におよぶ生糸や絹織物で膨大な外貨を獲得した。日本陸海軍は、その巨費で日清/日露戦争の軍拡に突入した。第二次世界大戦では戦闘機や世界最大の戦艦大和や武蔵などの建造に費やされた。その陰には、日本各地の養蚕農家や各地の製糸工場で働く、女工哀史に登場する少女たちの繊細な指で、戦費が紡ぎ出されていたのである。

大隈重信の雉子橋邸
明治元年(1868)雉子橋御厩の跡地は、大隈重信の屋敷地となる。明治9年(1876)近代国家の基礎づくりに貢献した大隈重信邸の洋館が建てられた。しかし、大隈は明治14年(1881)の政変、岩倉、伊藤、井上ら薩長勢との対立で、中央政府を追われ下野する。明治15年(1882)慶応義塾の福沢諭吉に勧められ、東京専門学校(早稲田大学)を創設した。
開校準備や第一期生の面接試験は、この雉子橋の洋館で行われた。明治17年(1884)大隈は、雉子橋邸を売却して、早稲田の大隈邸に移転した。大隈は、明治21年(1888)に政界復帰して、外務大臣に就任した。明治31年(1898)と大正3年(1914)には、内閣総理大臣を務めた。

上の写真左上にに九段坂上の燈明台が見える。左に北の丸清水門があり、塀中に大隈邸洋館の一部が望める。下の写真は大隈邸正門、此の地は明治17年(1884)よりフランス公使館となる。現在は千代田区役所である。

フランス公使館と公使公邸
その後、築地明石町からフランス公使館と公使公邸が、雉子橋邸洋館に置かれた。この洋館が選ばれたのは、フランス皇帝から贈られた馬たちの厩舎跡が取り持つ縁である。明治36年(1905)に大使館に昇格するが、大正12年(1923)9月1日の関東大震災で焼失したため、フランス大使館は、港区南麻布4-11-44へ移転して現在に至る。
雉子橋御厩の変遷→大隈重信邸→フランス大使館→憲兵演習場→
国営竹平住宅→千代田区役所

愛馬マレンゴに騎乗するアルプス越えの皇帝ナポレオン一世の肖像画
1801年ジャック・ルイ・ダヴィット画が真画として世界に広まった。

1800年5月ベルナール峠から騾馬でしか越えられないアルプスを越える実像の皇帝ナポレオン一世の姿である。この翌年に愛馬マレンゴのアルプス山中であり得ない勇姿に描き直され、皇帝の面目を保つのが時の権力者である。歴史は為政者の不都合な真実を覆い隠し隠蔽するのである。しかし、これら不都合な真実は、その後の歴史が解明して充分に楽しめる運命にある。
by watkoi1952 | 2015-12-11 18:47 | 馬と人の歴史風景 | Comments(0)




