上野不忍池競馬


上野不忍池競馬





上野不忍池競馬は、明治17年(1884)より明治251892)まで、上野不忍池の周回1600m、コース幅22mで行われていた。これまで、明治12年(1879)に共同競馬会社を設立して、陸軍用地内の戸山学校競馬場で、第1回競馬を開催、以来毎年春秋に開催していた。明治17年(1884)戸山競馬は、上野不忍池を整備した周回馬場に移転して、華やかに開催した。




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明治17年(1884)の上野不忍池競馬


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不忍池馬見所で観戦する明治天皇と昭憲皇太后


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上野不忍池が選ばれたのは、パリ・ブローニュの森にあるロンシャン競馬場を意識した貴族の社交場に相応しいと、上野公園内の不忍池湖畔が選定された。不忍池周回コースを7年間の期限付き借地権を取得して工事が始まった。北側の藍染川が注ぐ湖畔の湾曲した部分も埋め立て、コースを造成整地、華麗な馬見所と厩舎を新設した。







不忍池の北側に馬見所が建てられた。現在の上野動物園西園敷地にあたる。


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馬見所前の走路は、不忍池の埋め立てと見てとれる。明治28年(1895)に馬見所は、区画整理で道路用地になる。


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不忍池競馬会は、春秋の2回開催していた。走路の奥に清水堂が見える。観戦の紳士淑女に帽子は必需品であった。


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明治18年(1885)不忍池競馬で優勝した「盛号」は最期の南部馬と言われる。明治37年(1904)盛号は体高151cmの大型南部馬で32歳の稀な高馬齢で亡くなった。源頼朝より南部光行が糠部5郡(青森一部と岩手)を賜り、武田騎馬隊で知られる生国の甲斐国南部の養馬法が持込まれ、南部馬の飼養が定着した。






明治天皇の御料馬も南部馬の「金華山号」であるが、明治政府の富国強兵政策により外国産品種馬と品種改良が進められた。純血の南部馬は速力と集団行動に優れた能力を発揮するため外国産馬との交配が進められた。その結果、優秀な軍馬が量産されたが、純粋な南部馬は激減し、昭和初期に完全に絶滅している。








不忍池弁天堂の参道は、レース開催中には閉鎖される。


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当時の馬券など賭け事は、許されず貴族の社交場、あるいは屋外の鹿鳴館というべき祭典であった。明治天皇はじめ外国人高官、華族、政府高官、財界人を筆頭に多くの観衆を集めた一大イベントであった。しかし、明治20年(1887)頃から鹿鳴館に象徴される欧風化政策が衰退し始めた。明治25年(1892)の秋場所を最後に不忍池競馬は、鹿鳴館時代と共に終焉を迎えた。明治31年(1898)競馬場跡地で内外自転車競走運動会(競輪)が開かれた。明治39年(1906)には、15年ぶりに関八州の大競馬会が開催された記録が残る。






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東京名所不忍ノ池競馬之光景


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by watkoi1952 | 2015-02-15 17:32 | 馬と人の歴史風景 | Comments(0)