高田馬場と流鏑馬
高田場馬と流鏑馬
高田馬場(たかたのばば)
浜松城時代の家康が鷹狩に出向いた際に、茶阿局が仇討を直訴したことが縁で側室となった。茶阿局は家康の六男忠輝を生んだ。江戸初期の慶長年間(1596~1615)に茶阿局の住む高田御殿が牛込供養塚村(喜久井町)の感通寺にあり「高田の君」と称された。この高田御殿の近隣に神田上水(神田川)を望める景勝地の高台に遊覧別荘地を設けていた。この地一帯が後に高田馬場となる。松平忠輝は、後に信濃から越後高田藩主となるが、改易され伊勢に流され不遇の最後を遂げた。元和7年(1621)茶阿局は小石川の宗慶寺に眠る。
高田穴八幡神社入口の流鏑馬像

江戸の高田馬場(弓馬術練習場)
江戸図に見える高田馬場の右手に早稲田大学がある。高田富士も馬場の北東側に移転して大学用地になり、隣接して宝泉寺も現存する。馬場から右下の早稲田通りを下ると穴八幡宮、十字交差点先が東西線早稲田駅、その先のY字路に見える馬場下横町に小倉屋酒店に隣接して夏目漱石の生家跡碑がある。

尾張徳川家下屋敷「戸山荘庭園」の御泉水池を埋め立てた戸山公園運動場で毎年10月に流鏑馬が開催される。
三代将軍家光は、寛永13年(1636)1月、穴八幡宮の北西にある高田御殿別荘地に馬場を造るよう命じた。いわゆる高田馬場で同年8月2日に完成した。8月19日に家光は落成した新馬場の馬揃いに臨み、諸士の馬芸を観る。この馬場は、追廻二筋で長さ東西に6町(約654m)、幅南北に30余間(約55m)旗本の弓馬術調練場で、歴代将軍の流鏑馬奉納馬場として用いられた。現在地は早稲田通りの北側で、西早稲田1丁目5番地から3丁目の2・7・12・13・14番地の長方形の住宅地域である。
寛永13年(1636)8月19日高田馬場の開場式典

高田馬場の流鏑馬
流鏑馬とは、馬を走らせながら、馬上から鏑矢で木製方形の的を射る戦国期の武技である。笠をかぶり、弓懸(ゆがけ/革製の手袋)、弓籠手(ゆごて/左肘保護用の革製覆い)、行縢(むかばき/足保護用の革製覆い)、鏑矢五筋を挿した箙(えびら)を背負い、弓並びに鏑矢一筋を左手に持つ射手姿で騎射する。馬術と弓術を融合させた供覧に値する武技である。

流鏑馬の起源
その起源は古く欽明天皇の時代(540~571)に、天皇が宇佐八幡宮に武運を祈願された際に行われたのが始まりとする伝承がある。これらの祈願には、高貴な方の息子の誕生、その安産と健やかな成長を誓願、病気の平癒を神に祈る目的があった。寛平8年(896)に宇多天皇が源能有に命じて、流鏑馬を含む弓馬礼法が制定され、平安時代には馬上における実戦的弓馬術が存在した。
鎌倉時代には、宮中における神事の儀式として本来の意味が失われて、武芸の修練と化していた。また幕府の行事に組み込まれ、鶴岡八幡宮に流鏑馬が盛んに奉納されていた。享保9年(1724)八代将軍吉宗は、鉄砲による集団戦闘で廃れていた古式流鏑馬を小笠原流二十代常春に命じて、新たな流鏑馬を制定した。高田馬場の流鏑馬は、享保13年(1728)将軍吉宗が疱瘡に罹った世嗣家重の平癒を祈願して、穴八幡宮に復興奉納した流鏑馬を起源とする。

流鏑馬の語源は、馬を馳せながら鏑矢を的に放つ「矢馳せ馬」から、「やばせめ、やばせうま」から「やぶさめ」と転訛して、その動勢から「流鏑馬」の文字が当てられた。
元文2年(1737)8代将軍吉宗は、古式の流鏑馬に新たな流儀を定めた。翌年2月、世嗣の長男竹千代(10代将軍家冶)の誕生祝いと疱瘡平癒を祈願した流鏑馬が穴八幡宮に奉納された。以来、歴代将軍家の厄除け祈願や若君誕生の祝いに高田馬場で、射手十六騎による流鏑馬が奉納された。
高田馬場と茶屋街通り
享保年間(1716~36)に高田馬場の北に風除けの松並木が植えられた。松並木に沿って馬場ヶ茶屋が八店舗が軒を並べ、雑司ヶ谷の鬼子母神の参拝客や馬場見物客の休憩所となり賑わう。安永8年(1779)信濃屋の二階では8月13日より五夜連続の観月の宴が開催された。主催は狂歌師の大田南畝で漢詩人、俳人、歌人など風流人70名が集った記録もある。南畝はこの酔狂を「月をめづる夜のつもりてや、茶屋のかかもついに高田のばばとなるらん」詠んだ。松並木と茶屋間の道路は茶屋町通りと呼ばれた。

高田馬場に沿って茶屋街通りを西へ進むと突き当りの手前を右に折れる筋が旧鎌倉街道である。これを下り神田上水に架かる面影橋を渡り坂上に向かうと雑司ヶ谷の鬼子母神にでる。また、元禄7年(1964)茶屋町通りに面した馬場の一角で中山安兵衛(武庸)が、叔父の菅野六郎左衛門の決闘の助太刀をした江戸の名所で、現在、隣接した水稲荷神社にその顕彰石碑がある。
江戸名勝図会「高田馬場」歌川広重

流鏑馬神事の復活
流鏑馬の神事は、明治維新以後は中断されたが、昭和9年(1934)5月に平成天皇が誕生時に奉納神事として再興された。戦後中断、昭和39年(1964)流鏑馬の古式を保存するため水稲荷神社の境内走路で復活した。

昭和54年(1979)から都立戸山公園内で毎年10月10日に高田馬場流鏑馬保存会の手により、小笠原流の古式流鏑馬が公開されている。

高田馬場駅名と地名の顛末記
明治18年(1885)3月、日本鉄道品川線(品川~赤羽)が開通した。明治15年(1882)早稲田に開校した東京専門学校の最寄駅は大久保駅もしくは目白駅であった。明治28年(1895)3月に甲武鉄道(新宿~牛込)が開通すると、牛込駅(飯田橋駅)も最寄駅となったが3駅とも距離があった。明治35年(1902)早稲田大学に改称と共に学生と住民が増えていった。
因みに早稲田とは、神田上水と呼ばれていた頃の神田川は蛇行しており、晩稲(おくて)種の収穫前の洪水被害に悩まされていた。そこで早稲(わせ)種の品種改良で早場米の収穫が行なわれたことに由来する地名である。明治41年(1908)に発足した鉄道院の初代総裁・後藤新平に大久保~目白駅の中間駅の設置を早稲田の学生と住民が請願した。明治43年(1910)9月15日、山手線の複線化を機会に高田馬場駅は開設した。
地元住民は新駅名に「上戸塚駅」や「諏訪森駅」を申請したが却下された。鉄道院は新駅から1,5kmも離れた縁もゆかりもない江戸時代の史跡「高田馬場」を頑強に駅名に採用した。当時のわが国は、第一次世界大戦にむかう戦況にあった。鉄道院は、高田馬場の助太刀と忠臣蔵の討ち入りで有名な堀部安兵衛の銅像を駅前に建立して戦意を鼓舞させようと意図した。だが地元民の強固な反対で実現しなかった。
高田馬場跡地の詳細図

流鏑馬のたかたのばばと駅名のたかだのばば
さて、院電と呼ばれた鉄道院は、高田馬場のあった「下戸塚」の反対住民に対して、堀部安兵衛史跡の「たかたのばば」と呼称せずに「たかだのばば」と、濁って使えば問題はないだろうと強引に収束決着させた。当時の戦意高揚に忠犬ハチ公を軍人の忠誠心高揚に利用したのと同様である。昭和39年(1964)12月23日高田馬場駅~九段下間が開通した地下鉄東西線も国鉄にならい同駅名とした。

さらに、昭和50年(1975)6月、高田馬場駅周辺の地名をあろうことか、高田馬場と改称し、本来の高田馬場のあった下戸塚は、西早稲田と改称した。そのため、江戸の高田馬場の所在地の歴史を、町の人達の記憶から消し去った。私達はこの所業を記憶に留めなければならない。地名は、忘れがちな文化財といわれる由縁である。

つまり、山の手線の全駅名で駅舎のある地名に由来しない唯一の駅となった。因みに三菱東京UFJ銀行とみずほ銀行は、「たかたのばば」支店と濁らず馬場名で呼び、三井住友銀行と郵便局は「たかだのばば」支店と濁った駅の地名で呼ぶ。歴史認識に知識の違いがみられる。落語の演目「高田馬場」は、代々師匠が弟子に語り継ぐ「たかたのばば」と濁らないのが古典落語である。三代以上続く江戸っ子は、「たかた」と決して濁らないのがその証明である。
by watkoi1952 | 2015-01-17 22:33 | 騎馬の歴史風景 | Comments(0)