築地川東支川



築地川東支川





東支流は、築地川との合流地点である三ノ橋(北門橋)より、安芸橋から隅田川に注ぐ
この東支流沿いの道路は、銀座みゆき通りの延長である。



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築地川東支流写真の下部より、左に采女橋(二ノ橋)、橋の下は埋め立てられた築地川の首都高速1号線、手前の緑地は采女橋公園、右の建物は新橋演舞場、右先に国立がんセンター、手前の北門橋(三ノ橋)の先に見える市場橋は新大橋通りに架かる。その先は起生橋→魚河岸橋→海幸橋→安芸橋→隅田川に合流する。





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海軍兵学校と北門橋


明治2年(1869)大村益次郎により、海軍操練所を東京築地の安芸広島藩邸跡(現中央卸売市場内)に開設され、翌年海軍兵学寮となる。明治9年(1876)伊勢長島藩邸跡地(現国立がんセンター・朝日新聞社)に移転し、海軍兵学校と改称して開校した。明治16年(1883)東京で最初の赤レンガ造り二階建て洋館の海軍兵学舎が落成した記念に、明治天皇が皇居から海軍兵学校まで御幸した道路が「銀座みゆき通り」である。




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明治19年(1886)海軍兵学校に入学した55名の中に秋山真之、1年上に広瀬武夫がいた。明治21年(1888)海軍兵学校は、銀座の華美な繁華街に隣接した環境では相応しくないと、広島県の呉鎮守府に近い江田島に移転した。海軍兵学校は、昭和20年(1945)まで存続した海軍士官を養成する教育機関であった。






築地川の合流地点で東支流に架かる北門橋と海軍大学校を望む。


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松平定信の浴恩園


八代将軍吉宗の孫にあたる田安家出身の松平定信は、白河藩の養子になり老中となって、寛政の改革(17871793)を推し進めた。寛政6年(1794)に老中職を辞した定信は、一ツ橋家から明暦の大火以降に埋め立てられた小田原藩稲葉家の屋敷地5万坪(現中央卸売魚市場)の内17千坪を賜り「浴恩園」と命名した。定信は江風山月楼という稲葉家の庭園に海水を引き込み、汐入庭園を作庭した。海辺の景勝地を囲む築山の春風の池に桜、秋風の池に紅葉を配した名園である。




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春風の池

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秋風の池

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文化9年(1812)松平定信は、隠居して楽翁と名乗り、天下の名庭園と謳われた浴恩園に住まい優雅に晩年を過ごした。しかし、この名庭園は文化12年(1815)の大火で灰塵と化し、同年に定信も72歳の生涯を閉じた。以後は海軍省用地になり、著しく園池の風景を変えた。残っていた二つの池も関東大震災の瓦礫で跡形もなくなった。




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東京都中央卸売市場


明治5年(1872)尾張藩・一ツ橋家・伊勢桑名藩・山城淀藩など五万坪の跡地に帝国海軍省が設置され、海軍の軍事施設の集積地となった。明治28年(1894)に海軍省が霞が関庁舎に移転する。海軍一色であった築地は、関東大震災で埋立地の軟弱な地盤から壊滅的な被災を受け、海軍省の施設は日本各地に移転した。




大正12年(192312月、日本橋北詰にあった魚市場がこの地に移転してくるに及んで、かつての浴恩園の面影はなくなった。昭和10年(1877)日本橋魚市場は、東京都中央卸売市場として正式に開場した。庭園跡地内には、築地魚市場の守護神である魚河岸水神社や海軍旗を掲揚した旗山の跡が、日本海軍発祥の地であることを物語っている。




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鮮魚特急「とびうお号」


昭和41年(1966)より、昭和60年(1987)まで長崎~東京間を27時間で結ぶ鮮魚特急「とびうお号」が築地市場に九州の海産物を運んでいた。築地川底を走る首都高1号線の上に架かる新尾張橋が汐留貨物駅から築地市場の引き込み線の痕跡である。




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海軍兵学校跡地


明治21年(1888)に広島江田島に移転した築地海軍兵学校の跡地は、海軍大学校から海軍病院となる。戦後はGHQに接収され、朝鮮動乱負傷兵の米軍病院(現国立がんセンター)となる。昭和20年(19451210日のGHQの第一次接収で、築地中央市場の青果部仲買人売場2322坪が接収され、道路を隔てた占領軍病院の巨大なランドリー施設となった。この施設は、昭和24年(1949)の第六次接収までに青果部全面積の4/1に及んだ。




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築地市場の豊洲移転


昭和10年(19352月、築地市場は開場より水産物・青果物などの生鮮食料品の基幹市場として、75年にわたり都民の食生活を支えてきた。しかし、近年施設の老朽化が進み、汐留駅からの貨物引込線時代の湾曲施設のため、増加する大型トラックでの搬入出の動線混雑で非効率な作業が常態化していた。2018年に江東区豊洲新市場に移転が予定されている。




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築地ホテル館と安芸橋


銀座の大火で焼失した築地ホテル館跡は、築地市場駐車場になる。今はなき築地川東支流は、安芸橋から隅田川に合流する。



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隅田川、築地市場、浜離宮、汐留貨物駅、新橋駅の俯瞰

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by watkoi1952 | 2013-12-15 19:46 | 江戸の水運・船入運河 | Comments(0)