日本橋通り・十軒店



日本橋通り・十軒店




十軒店は、日本橋から北の今川橋に向かう大通りの両側に向かい合わせに見える。十軒店本石町は、明治44年(1911)に十間店町に改称されて、昭和7年(1932)日本橋室町に編入されている。十軒店跡碑は、日本橋室町3-2-15に置かれている。なお、日本橋の町人地の中で唯一室町(むろまち)と呼ばれ、他はすべて町(ちよう)で呼んでいる。



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十軒店・雛市


江戸の中頃から、雛祭りという武家の風習が江戸の庶民にも広まった。十軒店の市は年に3回立ち、3月の桃の節句の「雛市」では、内裏雛・禿人形を扱う。5月の端午の節句の「兜市」では、兜人形・菖蒲刀・鯉幟を扱う。12月の「歳暮市」では、破魔弓・手毬・羽子板を扱った。



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三月三日の雛祭りは、上巳の節句、または桃の節句と呼ばれた。古代中国では、三月の最初の巳の日を上巳という。形代、天児などの人形は王朝時代の幼児が三歳になるまで、いつも側において災厄の身代わりに飾っていた。この風習が日本に伝えられ、上巳の日に人型に切った紙人形で体を撫でて、それを川に流して穢れを祓う儀式となった。平安時代の源氏物語には、光源氏が須磨に退去し、侘しさから祈祷した紙人形を海に流した「流し雛」の一節がある。




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やがて、流し雛の風習が雛祭りに進化することになる。源氏物語では、古くから紙や木で作った小人形に着物を着せた玩具であり、それを調度に飾る女の子の単なる遊びを「ひいなの遊び」と呼んでいた。中国の形代の人形を祓いの御守とした風習が日本の流し雛になり、さらに「ひいな遊び」と融合して雛祭りとなった。室町時代に貴族たちが豪勢なものに変えて飾る人形も増えていった。さらに雛人形を飾る雛壇を拵え、公家や武家の間で雛祭り広まった。





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江戸時代には、座り雛が全盛になり、五人囃子、七段飾りなど様々な形式が造られ華美艶麗なものとなった。そして、武家社会や裕福な商家に始まり、広く一般に雛祭りが流布して今日に定着している。








十軒店・雛市「江戸名所図会」


奥側に描かれている高級雛人形の大店は、浅草茅町の老舗「吉徳」の常設店である。手前の葦簀屋根の仮設露店には安価な商品が並ぶ。江戸の雛市は、尾張町、浅草茅町、池之端仲町、麹町、駒込にもあったが、日本橋十軒店の賑わいには及ばなかった。



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「内裏雛人形天皇の御宇かとよ」芭蕉

「十軒が十軒ながら公家の宿」江戸川柳

  公家は内裏(天皇と皇后)、宿は店を表す。



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端午の節句

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江戸の武家では、端午の節句で邪気を祓う菖蒲を「尚武」と結び付けて男児の立身出世・武運長久を祈る年中行事となった。先祖伝来の兜や鎧などの武具は奥座敷に旗指物や鯉幟は玄関前に飾り、家長が子供達に訓示を垂れたことに始まる。




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江戸の中頃になると武士の幟旗や吹流しに対抗して、町人の間で紙や木綿などの鯉のぼりが盛大に飾られた。鯉が滝を登ると龍になるという中国の故事「登龍門」から目出度い出世魚とされ、男子の無事生育を祈る初夏の風習として今日まで連綿と受け継がれている。




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季節に応じて商う十軒の店舗と、その前の大通りに縁日の露店を出して賑わったことから「十軒店」の地名となった。



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by watkoi1952 | 2013-06-28 18:21 | 日本橋百景 | Comments(0)