紅葉川と楓川
紅葉川

楓川
楓川(かえでがわ)は、慶長18~19年に江戸前島の東岸部の海岸線に櫛歯状に10本の船入堀が掘り込まれた。現在の陸地から棒状に突き出た埠頭を造る以前の形態である。江戸城石垣用の巨石積船を接岸するために必要な措置であった。さらに埋立てが進み楓川や八丁堀の船入堀ができると櫛歯状の堀は、役目を終え埋め立てられた。紅葉川は江戸初期から順次埋め立てられたため、その位置と存在が薄れた。現在は「楓川」を「もみじかわ」と呼称し、楓川に並行した「江戸・もみじ通り」にその名を残している。
「武州豊嶋郡江戸庄図」の上部が外濠で、左に鍛冶橋、右に呉服橋が見える。下部が楓川、右が日本橋川、左が京橋川、その中央が紅葉川で中橋が描かれている。つまり、東京駅八重洲中央口から八重洲通りの久安橋まで間が紅葉川跡である。

江戸図屏風の中橋

中橋広小路
延宝年間(1673~80)中橋から上流の外濠まで、紅葉川の上流が火除地として埋め立てられ、中橋広小路と呼ばれていた。安永3年(1774)には、下流の楓川の久安橋まで埋め立てられ、紅葉川は搬入運河としての役目を終えた。その中橋埋立地が民間経営の新肴場所(魚市場)となり、江戸庶民への流通基地となった。

歌川広重住居跡
浮世絵師の歌川広重が、嘉永2年(1849)から安政5年(1858)に62歳で没するまで過ごした日本橋大鋸町に住居跡碑がある。幕府の御用絵師である狩野四家(鍛冶橋・木挽町・中橋・浜町)のうち、中橋狩野家の隣に廣重は終の棲家となる屋敷を構えた。安藤重右衛門(本名)の「重」と師匠の歌川豊広の「広」から「広重」と号した。安政3年(1856)に60歳で制作を始めた「名所江戸百景」118図を完桔している。没後、二代広重が1点追加し、梅素亭玄魚(ばいそていげんぎょ)が四季別目録を作り、全120点で構成されている。

八重洲通りと中央通りが交差する地点に中橋広小路と記している左下に大鋸町(おおがちょう)がある。そこに幕府の奥絵師・狩野永徳の朱文字が見える。その隣接地が歌川広重の住居跡(中央区京橋1-9)である。
三代目歌川豊国の筆による歌川広重の冥福を祈る肖像画

江戸歌舞伎発祥の地
江戸歌舞伎発祥の猿若座は、寛永元年(1624)紅葉川に架かる中橋の南詰に芝居櫓を揚げた。猿若座で初の江戸歌舞伎が猿若勘三郎(初代中村勘三郎)によって興行された。中橋の南地は、現八重洲通りと中央通りが交差する日本橋通3丁目の丸善あたりである。しかし、江戸歌舞伎発祥地の石碑は、発祥地の中橋南地から500m離れた京橋跡地の大根河岸寄りに置かれている。

by watkoi1952 | 2013-06-27 14:34 | 江戸の水運・船入運河 | Comments(0)