船入運河 楓川
楓川(かえでかわ)のあたりは、江戸湊の海岸線で、慶長12年(1612)に櫛歯状10本の船入堀が築かれた。現在の埠頭と同じく船を横着けし、船荷の上げ下げできる構造の湾岸施設である。江戸の拡張工事で埋め立てが進み、陸地と埋立地との境に船入運河としての楓川を築いた。さらに八丁堀ができると、海岸線にあった船入堀は徐々にその役目を終え埋め立てられた。
楓川は、日本橋川の江戸橋に近接した現在の兜神社付近から南へ分流して、三ツ橋で京橋川・桜川・三十間堀川と合流する1、2kmの船入運河である。切絵図に見える楓川には、海賊橋、新場橋、越中殿橋、松幡橋、弾正橋の五橋が架けられている。日本橋川から江戸市中に物資を運びやすい楓川の周辺には、多くの商人や職人が住む。楓川沿いには河岸や蔵が立ち並び、近代に至るまで経済の中心として栄えた。

兜町の渋沢栄一邸
明治21年(1888)辰野金吾の設計によるベネチアンゴシック様式の渋沢栄一邸が建てられた。明治34年(1901)まで渋沢本邸として使用されたが、以後は飛鳥山に本邸が移る。この渋沢邸は事務所として使われたが震災で焼失した。昭和3年(1928)旧渋沢邸は、東京証券取引所の付属施設として日証館が建てられた。


海賊橋と向井将監
海賊橋の由来は、三代将軍家光の時代に架橋されて高橋と呼ばれていた。東詰に幕府の海軍御船奉行・向井将監忠勝の屋敷が置かれ、海賊を取り締まることから海賊橋あるいは将監橋と呼ばれていた。江戸図屏風に見る向井将監の屋敷内と水路が繋がり、四周を白壁で囲まれ右の突出地に関船を繋留した二棟のお船蔵がある。楓川に架かる海賊橋の向こう見える材木置き場が本材木町一丁目である。

第一国立銀行
木造の海賊橋東詰に、明治6年(1873)8月洋風の第一国立銀行が建てられ、周辺は東京の金融の中心として繁栄した。その後順次に第百五十三銀行まで設立された。

海運橋
海賊橋は、明治8年(1875)に木製からアーチ型の石橋に架け替えられ、開運に掛けて「海運橋」と改称された。

海運橋と第一国立銀行
中央左に日本橋川に架かる江戸橋、右に西堀留川に架かる荒布橋、左下に楓川に架かる海運橋が見える。


本材木河岸
楓川の西側一帯は本材木町と呼ばれる河岸地で、「木場」の原風景があった。

新肴場の新場橋
江戸の人口増加とともに日本橋から江戸橋までの北側の魚市場も手狭になり、対岸の四日市河岸も日本橋魚市場となった。さらに延宝2年(1674)楓川沿いの本材木町二・三丁目の河岸に魚市場を開設した。新肴場と名付けられたが、通称「新場」と呼ばれ新場橋にその名を留める。この新場開設で御城御用達の役割も変わり、月の上旬は新肴場が幕府へ納魚を担当、月の中、下旬は日本橋魚市場がそれぞれ輪番で担当した。

上記楓川の本材木町四丁目に朱色の稲荷地が見える。弘化2年(1845)に埋め立てが完了した紅葉川入堀跡地である。魚の流通が官営的な日本橋魚河岸、民間業者と半官半民で運営した新場、さらに幕府は紅葉川の中橋埋立地に新肴場所を開設した。
これを新肴場請負地として、運営を民間人の和泉屋三郎兵衛に委託して、営業税を徴収するという江戸の流通革命の発祥地となった。「江戸橋はくぐらぬという松魚(かつお)かな」の句のように江戸っ子の好む初鰹は、この新肴場魚市場に荷揚げされていた。

楓川は首都高速道路用地
昭和35年(1960)東京オリンピックに向けた高速道路建設のために、楓川の埋立てが始まる。昭和39年(1964)に水路の役目を終え景観は大きく変貌した。しかし、全部は埋め立てずに整地された楓川底に道路を通した。そのため、新場橋、久安橋、宝橋、松幡橋、弾正橋は残され、その橋下の楓川底を首都高速環状線が通っている。

上の写真左が昭和通りで、江戸橋が高架の下に見える。中央の都心環状線の下が楓川の跡地になり、環状線の分岐する右が東京証券取引所である。右側の高架下には鎧橋が見えている。
by watkoi1952 | 2013-06-21 18:22 | 江戸の水運と船入運河 | Comments(0)


