大老酒井忠勝と矢来町



大老酒井忠勝と矢来町







大老酒井忠勝



酒井忠勝は、天正15年(1587)徳川家康の家臣で三河国西尾の酒井忠利の長男に生れる。酒井家は徳川家に仕えた譜代大名の名門で、左衛門尉酒井家(出羽庄内藩主)と雅楽頭酒井家(播磨姫路藩主)の二系統の家柄である。忠勝は雅楽頭家の分家大名にあたり、讃岐守流酒井家を名乗る。






慶長5年(1600)関ヶ原合戦において、忠勝13歳は父忠利とともに秀忠に従って真田昌幸・幸村親子の立籠もる信州上田城攻めに参戦した。元和6年(16204月、二代将軍秀忠の命で世継ぎとなる家光16歳の側近として、忠勝33歳は西ノ丸に仕える。元和9年(1623)7月、家光は三代将軍に就任する。秀忠は隠居して大御所と呼ばれるが、家康の二元政治を踏襲したものである。






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               大老酒井忠勝






さらに寛永元年(162411月、忠勝は徳川家の信頼厚く幕制全般を統括する要職の老中に就任した。寛永4年(1647)11月父忠利の死により、武蔵国忍城5万石より、遺領の武蔵国川越藩10万石の藩主となる。川越城は江戸の北を守る戦略拠点であり、酒井忠利、酒井忠勝、堀田正盛、松平信綱と家光の側近の譜代大名が在城した。






寛永9年(1631)父秀忠の死後、寛永11年(1634)7月、家光は三十万七千余人の大軍を率いて、天下掌握を示す御代替の御上洛に望んだ。忠勝も家光に従って上洛して、二条城で若狭国小浜藩1135百石を拝領した。忠勝は日本海に面した若狭海岸の天然良港小浜湾の奥にある小浜城に初入城した。







若狭小浜城の天守跡


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しかし、幕府の重要職にある忠勝には、国許への帰国は許されない。従って、忠勝は江戸より書状で国家老に指示を与え、家臣団を組織して藩政の基礎を強固にした。江戸と小浜の連絡役を務めた八助が、飛脚に勝る走力で往復した。その功績から小浜城址に八助稲荷が今も残る。











酒井家江戸牛込下屋敷


江戸城外濠の牛込見附門を起点に神楽坂通りを上り、毘沙門天善國寺の前を通り赤城神社の左先に広大な若狭小浜藩江戸下屋敷が見える。寛永5年(16283月、三代将軍家光より拝領された牛込下屋敷435百坪である。寛永12年(1635)8月22日、家光は高田馬場の帰路、初めて牛込下屋敷に立ち寄る。将軍御成りのため、御成門に御殿を新築した。その後、家光は頻繁に訪れ、能や茶の饗応はもとより、将軍家や幕政の重要会議もこの牛込屋敷が利用された。






徳川実紀に100回余に及ぶ将軍家光のお成りが記録されている。寛永13年4月、日光東照宮の落慶において、家光は忠勝を筆頭に重臣を伴い日光社参に赴いた。寛永15年(1638)11月、初代大老に就任し、将軍を補佐する手腕を振るい、後世の老中と大老職の骨格を作り上げた。忠勝は、二代秀忠・三代家光・四代家綱に至る33年間の長期にわたり、筆頭的な位置で幕藩体制の確立を成し遂げ、徳川家の世襲制度は万全となった。





家光は「いにしえより数多くの将軍ありといえども、予ほど果報な者はあるまい。予の右の手は讃岐守(忠勝)、予の左の手は伊豆守(信綱)である」と言って憚らず全幅の信頼を寄せていた。






寛永16年(1639811日、江戸城本丸の火災で将軍家光が酒井家牛込下屋敷に避難してきた。このとき広大な屋敷の周りに土手を築き、縦横に張り巡らせた竹矢来の前で抜き身の槍を持った家来衆が昼夜警護にあたった。矢来は「遺ひ」で入るのを防ぐ意。忠勝は以後、屋敷に塀を設けずこの竹矢来に朱の房を結び酒井家の家宝として残した。これが地下鉄東西線「神楽坂駅」一帯に広がる「矢来町」地名の由来である。







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慶安元年(1648)2月、家光の長男家綱が酒井家に始めて訪れる。慶安3年頃から家光の容態がすぐれず、翌年には一進一退の状況を悟った家光は忠勝に後事を託した。臨終には忠勝を通じて、御三家、御一門の大名に家綱11歳を頼み、弟にあたる保科正之を枕元に呼び後事を懇願した。慶安4年(1651)4月10日三代将軍家光48歳は薨去した。遺命により上野寛永寺で葬儀を行い、祖父家康の眠る日光東照宮の境内にある輪王寺の大猷院廟に埋葬された。葬儀の一切を大老酒井忠勝が仕切る。






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         三代将軍 徳川家光






家光が他界すると、大老の酒井忠勝が大名を招集して、大声で次のように告げた。「このたび、御所がお隠れになり、お世継ぎは11歳であるが、前代の御子であるゆえ、いずれも心安おぼしめされよう。しかしながら古からのためしに、幼君の時には群情乱れ、国家の患を生じるものであろという。おのおの方にも、もし天下のへのお望みがあれば、これほど良い機会はあるまいぞ」






そこに保科正之が進み出て、「万一、幼主の御時を幸いとして天下を望む者があらば、我々に仰せ付けられたい。ひとつぶしに、踏み潰し、御代初めのご祝儀にいたしもうそう」と答えた。諸大名は「我々も同じ所存でござる」と平伏した。機先を制した老臣忠勝の勝利であった。






しかし、家光が亡くなって三ヶ月後に、由井正雪、丸橋忠弥らの幕府転覆の陰謀が露見した。いわゆる「慶安の変」である。彼らは幕府政策への批判と浪人の救済を掲げて自害した。大名の改易で行き場のない浪人が巷に溢れていた。幕政批判は大老である忠勝が矢面に立っていた。これを契機に政治は武断政治から文治政治へ転換してゆくのである。






慶安4年8月、四代将軍家綱11歳が就任し、忠勝は大老として5年間在職した。明暦2年(1656)5月老衰を理由に致仕(引退)した。万治3年(1660)忠勝は日光東照宮に参拝して、宮前で剃髪して「空印」と称した。寛文2年(1662)7月12日、忠勝76歳は死去した。牛込矢来屋敷内の長安寺に眠る。大正13年に歴代墓所の長安寺は、福井県小浜市の「空印寺」に移設された。





初代酒井忠勝、二代忠直、三代忠隆、四代忠囿、五代忠音、六代忠存、7代忠用、八代忠興、九代忠貫、十代忠進、十一代忠順、十二代忠義、十三代忠氏、十四代忠禄、明治3年より酒井伯爵邸で大正13年(1924)の281年間に及ぶ。






酒井家下屋敷の庭園は、小堀遠州の作庭で江戸大名庭園の一つに数えられていた。瓢箪形の日下が池で、夏になると家光は水泳、水馬、舟遊びに通い詰めていた。さらに岸の茶屋、牛山書院、山里御殿、桜の馬場、酒井家累代の霊を祀る長安寺があった。日下が池に面して「岸の茶屋」の建築は小堀遠州、その間取りは、上の居間八畳の竹縁は将軍の席、次の居間六畳は老中の溜り席、外に四畳一室と、池に臨んで藤堂高虎が贈った琉球つつじがあった。






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明治4年(1871)10月5日、牛込矢来町の旧小浜藩邸を明治新政府に上納すべきところ、元々私邸と日下が池に先祖累代の墳墓として長安寺もあるので、私邸に囲い込むことを特別に許可される。広大な酒井家屋敷は、酒井伯爵邸として矢来一丁目に集約された。明治8年(1875)3月5日、赤城神社の右手に赤城小学校が開校した。矢来町の酒井忠道伯爵が私財三百円を投じて、旧赤城神社別当所を買収し寄贈した。神楽坂生まれの女優「水谷八重子」、演出家で俳優座の「千田是也」、劇団民芸の「滝沢修」も赤城小学校の生徒であった。後に津久戸小学校と合併した。






大正2年8月に新小川町で文芸雑誌「新潮」を発刊した佐藤義亮社長の新潮社が矢来町三番地に移転した。大正4年(1915)に市ヶ谷から北町、そして酒井家屋敷地を分断するように「牛込中央通り」が完成した。大正13年(1924)酒井邸の区画整理に伴い、屋敷内にあった長安寺の墓地改葬が行われ、福井県小浜市の「空印寺」に墓所が移された。昭和36年(1961)酒井家の私邸跡地は、日本興業銀行の矢来団地に生まれ変わった。







小浜藩酒井大老の登城行列


福井県小浜市と酒井家江戸藩邸のあった矢来町との縁で、江戸城への登城道でもあった神楽坂通りを徳川家光/酒井忠勝/家臣などに扮した30人の「登城行列」が練り歩き大勢の見物客を楽しませた。また、「解体新書」を著した蘭学者で小浜藩医でもあった杉田玄白は、享保18年(1733)に牛込矢来屋敷で生まれた。矢来公園には、小浜藩邸跡、杉田玄白生誕地の石碑がある。





「酒井空印言行録」は、明和2年(1765)に小浜藩士の山口春水が著した書で、別名『仰景録ぎょうけいろく』で忠勝の青年期から隠居後までのエピソードが多数紹介され、家来から「親父おやじ」と慕われた忠勝の個性が鮮やかに浮かび上がってくる。




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by watkoi1952 | 2013-05-31 16:34 | 牛込神楽坂の百景 | Comments(0)