江戸城本丸御殿/表玄関/能舞台


江戸城本丸御殿/表玄関/能舞台








江戸城本丸御殿



江戸城の中心である本丸は、南北400m東西に120m最大幅200mの周囲に高石垣と濠をめぐらした。その城郭4万坪の高台に建坪一万坪の御殿130棟で構成されている。本丸の殿舎は、大きく表向/中奥/大奥の三区域に分離されている。表向は、幕府の中央政庁で儀式や謁見の御殿や諸役人が詰め政務を執る。中奥は、将軍が政務を執る公邸であり、休息所と寝所である。大奥は、将軍の御台所を中心に後宮の女官が生活する将軍の私邸である。壮大豪華な本丸御殿に天守閣、櫓10棟、多聞15棟、城門20数棟で構成されている。






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本丸御殿の造営変遷


慶長11年(1606)に最初の本丸御殿は、10棟ほどの小規模な造営であった。元和8年(16222度目の造営で本丸御殿は、将軍の居所や大奥御殿に御座の間が建てられた。寛永14年(16373度目の造営は、家光の時代で、本丸御殿はあまりに華美すぎるので一部を質素に改築した。だが、この御殿は寛永16年(1639)に焼失した。寛永17年(1640)に4度目の本丸御殿は再建された。しかし、この御殿も明暦の大火で焼失した。






万次2年(1659)に5度目の本丸御殿は再建された。天保15年(1844)に5度目の御殿が焼失するまで185年の長命であった。弘化2年(1845)に6度目の本丸御殿は再建されたが、14年後に焼失した。万延元年(1860)に7度目の本丸御殿は再建された。文久3年(1863)の7度目御殿が焼失以降の本丸御殿は再建されず、その機能は西ノ丸御殿に移設された。このように本丸御殿は、5度の焼失による再建と2度の改築であったが、殿舎の初期様式は継承されている。











江戸城本丸御殿「表向」


表向は幕府の中央政庁で儀式や謁見、諸役人が執務を行なう場で、東西で機能が分離されていた。東には玄関内控間「遠侍」や勤番士の詰所「下部屋」に諸役人の執務室「上勘定所」などがあった。西には最高の格式を誇った大広間、将軍の表向での応接間といえる白書院、近親者との応接間である黒書院などがあった。











「表向」本丸大玄関 


江戸城本丸の大玄関に達するまでに、大名は家格により大手門、または大手下乗門までに馬や駕籠を降りる。武家最上位の御三家でも大手中ノ門まで、玄関に乗り物を横付けできたのは朝廷の勅使のみである。この玄関は、諸大名、勅使、院使、外国要人などに限られていた。将軍と対面の儀式を行うには、表玄関から遠侍に入り、登城の理由などを奉上する。さらに書院番の番所である虎の間などの控の間があり、さらに進むと大広間や白書院へ向かう。





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大玄関口



登城の大名が玄関に到着すると、あらかじめ差し向けてあった刀番の家来が主人の佩刀を受け取る。格式のある大名の刀番は玄関内の控間で待機する。その他は主人が退出するまで玄関の外で刀を抱えて待っていた。玄関に入ると、あとは殿中の表坊主が案内して、それぞれの所定の控所に入った。






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大広間より白洲奥の表能舞台を望む。上座の将軍は、舞台正面の南入側まで降りて能を鑑賞していた。



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御大礼能/表能舞台/御能拝見/町入能


幕府にとって能は、最も重要な式典用の芸能であった。とくに「御大礼能」の将軍宣下、官位昇進、将軍代替り、後継ぎ誕生、婚礼のお祝事、また法会や日光参詣など重要な儀式である。表能舞台で盛大に能楽四座総出演の能楽を催した。しかも、将軍の座す大広間の近くで幕臣や諸大名とともに町人を代表する町名主も白洲で能見物が許されていた。これを「町入能」と呼び、江戸時代を通じて46回開催された記録がある。表能舞台で開催された町入能は、寛永11年(163422日の2代将軍秀忠3回忌に始まり、文久2年(1862218日の14代将軍家茂の婚礼が最後となった。







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       御大礼之節町人御能拝見之図







楽は午前8時から2時間の休憩を挟んで午後9時までの長時間開催された。将軍出座の時は、御三家/譜代/外様大名/老中以下諸役人が総出自で迎えた。町人の観覧場には白砂を敷き、青竹で囲った埒は、たちまち町人に壊され不埒となった。それはこの青竹を持ち帰るのが名誉の証とされる習慣によるものである。






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能楽四座(金春/観世/宝生/金剛)


能楽は室町時代に足利幕府の庇護奨励を受けて発展した。安土桃山時代には熱心な愛好者であった豊臣秀吉の庇護を受けて大いに隆盛した。江戸幕府も秀吉の方針を踏襲して能楽を庇護し、観世(かんぜ)/宝生(ほうしょう)/金春(こんぱる)/金剛(こんごう)の四座を幕府の儀礼に深く関わる式楽と定めた。






これら四座は幕府直属の能役者として知行と配当米扶持を与えられていた。尚、元和5年(1619)将軍秀忠より、喜多七太夫の喜多流の創立を許され「四座一流」と称された。「能楽」は江戸時代までは「猿楽」と呼ばれていた。明治14年(1881)能楽社の設立を機に「能楽」と称され、能、式三番(翁)、狂言の3種芸能を総称する。






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千代田之表 御大禮之節町人御能拝見


町入能の参加者は、徳川の江戸町草創期の地主、各町の角屋敷所有地主、将軍から町屋敷を拝領した者、名主、町年寄である。何れも紋付・麻裃借用の上、大手門で記帳を行ない、扇子一組を奉納する。そして、雨天でも開催される白州には屋根がなことから晴雨に関わらず雨傘を一本ずつ渡されるのが恒例であった。






町人は朝の部と夕の部に別れて入城した。一同着席すると、町奉行が「何々の祝儀に付き御能拝見仰せ付けられる。謹んで拝見いたせ」と申し渡す。すると間髪入れず「親方、ご苦労」、「今日は御客だからご馳走たのむよ」などの大声で始まり、物価の高い苦情、市中取締の理不尽な現状まで述べる騒ぎとなる。この場で許された町人の言論の自由は、幕府役人を縮み上がらせるものがあった。






夕の部との入れ替え時に縁側で弁当と酒が出される。そのとき、錫の酒徳利を自分の町に持ち帰るのが、青竹同様に名誉とされていた。そのため奪い合いが激しく混乱した。弁当も一人一折だが、素早い者は二折三折も受取り、のろい者は一折も貰えなかった。将軍はこれらの騒動を御簾の裏で面白がって見ていたという。







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将軍と諸大名と町人に役人が一同に集まり、楽しい時間を過ごす、御能拝見であるが、能の合間に雨傘で踊り出す町人など乱痴気騒ぎは収まらなかった。会場を警備する御能勤番である御徒組の与力や同心は静かにと言うだけで、将軍の招待客である以上、成す術はなかった。無礼討寸前の無礼講で鬱憤を晴らした町人も、白洲から仰ぎ見る大広間は、広く威厳に満ちており千畳敷はあったぞと、町名主たちが自慢げに江戸市中に吹聴していた。









能舞台の名称


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by watkoi1952 | 2012-09-30 17:32 | 江戸城を極める | Comments(0)