三井越後屋呉服店
三井越後屋呉服店
三井越後屋呉服店の創業者三井八郎兵衛高利は、明和8年(1622)伊勢松坂で酒味噌を商う父高俊と母珠法の四男に生まれた。この店は高俊の父三井越後守高安の官位から「越後殿の酒屋」と呼ばれる。これが後の高利の屋号「越後屋」の起源であり、「三井越後屋」から「三越」の名称が誕生する。寛永12年(1635)高利14歳のとき江戸に出て、長兄俊次の元で呉服業を手伝っていた。しかし、高利の類い稀な商才を恐れた俊次は、母珠法への看護を理由に国許の松坂に帰された。
慶安2年(1649)高利28歳は、伊勢の豪商中川清右衛門の長女かね(15歳)を妻に迎えた。かねは姑珠法によく仕え、高利との間に生れた男子8人女子3人を育て上げた。延宝元年(1673)高利52歳のとき、長兄俊次の病死を機に宿願であった江戸進出を果たした。翌年、日本橋本町1丁目(現日銀新館)に間口9尺(2、7m)の三井越後屋呉服店を開業した。絹反物などの仕入れは、京都室町に仕入店を開くなど周到に備えていた。
これまで新興都市江戸へ乗り出した大阪の商人は熟達した本格派である。始めは自身で江戸に出て、陣頭指揮を執り基礎固めをする。後は親族や番頭に任せ、上方本店に対し江戸支店の形式を執る。さらに京都、大阪、伊勢、近江の出身者などは物産の豊富な西国筋を控えた交通の要所にあり商業の先進地であった。彼らは商売の基盤を完璧なまでに代々練り上げ、腕は磨き抜かれていた。大消費地の江戸を上方商人は見逃す訳はなかった。
越後屋は、高級布地でも切り売りする商法で人気を得た。当時布地は一反を単位として売買されていた。「越後屋は毛抜の袋ほどの生地も売るそうな」の口伝えで、小口買いを望んでいた庶民に評判となった。驚いた同業者は、町奉行に組仲間の規定違反であると訴えたり、失敗すると隣家に魚屋を開き汚臭を流すなど汚いやり方で嫌がらせをした。ところが、江戸町民の圧倒的な支持者であふれ、同業者が越後屋に見習って切り売りするなど、妨害は崩壊してしまった。天和3年(1683)三井高利は日本橋の目抜き通り、駿河町に店舗を移した。
この新店舗で打ち出した新商法が「現金掛値なし」で成功を収める。江戸市中には、三河・遠江、駿河など家康の旧領から移住してきた直参の旗本・御家人は武家地に、商工業者は日本橋など町人地に移り住んだ。諸大名には、上屋敷・中屋敷・下屋敷が拝領され、家臣団が江戸定住と参勤交代のたびに江戸に来る家臣もいた。これらの武士層を対象とする伊勢・近江・上方などの有力商人は、江戸の町人地に縄張地を設け、江戸店と称する出店を競って構えた。
名所江戸百景「駿河町」歌川廣重
江戸の町人地の中心となった日本橋は、南北の町屋から江戸城と霊峰富士が望めるように道路向きが縄張りされている。駿河町の通りから南西方向の正面に駿河方向と富士が同時に望めることで駿河町と名付けられた。「一に富士、二には越後家をほめて行き」という江戸川柳がある。日本橋駿河町を訪れた人々は、まず正面に構える富士の姿をほめ、次に三井越後家の商いをほめるという川柳がその繁栄を物語っている。
廣重の描いた日本橋室町三丁目の越後屋の通りには、顧客に届ける呉服物を紺の大風呂敷で背負う手代の姿や買い物に来た大名屋敷の奥女中、魚河岸帰りの棒手振りなどの賑わいが描かれている。
現金掛け値なし
越後屋は、これまでの御屋敷売り、訪問販売による一反の掛値交渉売りから立ち寄りやすい「店先売り」という店頭販売を行った。さらに従来の盆暮2回半年先の節季払いをその場の現金支払いで安価に販売した。節季払いでは、貸倒れや金利を見込んだ掛値を付ける必要があった。現金売りによる収入は、資金の回転を早め数倍の活用が見込めた。
駿河町に新店を出し万現銀売りに掛値なしと相定め、四十余人利発な手代を追い回し、一人一色の役目、たとえば金襴類一人、日野郡内絹類一人、羽二重一人、紗綾類一人、紅類一人、麻袴類一人、この如く手分けして、天鵞絨一寸四方、緞子、毛貫袋になる程、緋繻子、鑓長毛印、竜門の袖覆輪かたかたにても、物の自由に渡しぬ。殊更、俄目見えの熨斗目、急ぎの羽織などは、その使いを待たせ、数十人の手前細工人立ち並び、即座に仕立てこれを渡しぬ。さようにて家栄え、毎日金子百五十両づつならして商売しけるとなり。と越後屋商法の紹介を井原西鶴が「日本永代蔵」に記している。
駿河町越後屋呉服店大浮絵
「現金掛け値なし」、商品別に専門の手代(販売員)を置き、高価な舶来絹織物でも布地の切り売り、さらに反物の仕立てまで請け負うなど、当時の画期的な商法で庶民の人気を得ていた。いわゆる芝居千両、魚河岸千両、越後屋千両とも呼ばれ、江戸を代表する大店となった。
俄雨が降ると、越後屋の屋号を記した番傘を顧客や通行人に無償で貸し出した。借りた客は返却で店に立ち寄る。しかも、照降るに関わらず越後屋で安心して買い物が出来る。唐傘に番号入れた「番傘貸し」は、雨の日の江戸の街の名物となり、越後屋と大書した傘が動く広告看板と評判になった。
「浮絵駿河町呉服屋図」に描かれた三井越後屋の店頭
「駿河町 畳の上の人通り」
江戸を代表する大店となった三井越後屋は、伊勢を本拠に江戸本店に西陣織などを仕入れる京都本店を貞享3年(1686)に置いた。さらに大阪を中心に多くの支店を持ち、この4拠点を展開して急成長した新興商人である。
駿河町越後屋店頭美人図
呉服業の補助機関「両替店」
越後屋は、江戸大阪間における幕府御用金の輸送体制に注目した。江戸商人が大阪の反物や米穀を買付けて、江戸から送金をする。幕府は大阪で徴税して、貯まった千両箱を御伝馬の背にのせた隊列が、東海道の宿駅に多大な負担をかけて行き交っていた。高利は幕府勘定方に、馬の輸送では盗賊の襲撃の警護など負担が大きく危険であると、越後家の為替決済網の利用を勧めた。これは現金の代わりに預金為替を送金する方式である。
貞享4年(1687)側用人牧野成貞のお墨付きで、幕府御納戸から呉服御用達に指定され、大奥への出入りが許される。元禄前後頃の幕閣の政治権力は、水戸徳川(初期豪商勢力・淀家)、堀田正俊(投機商人・河村瑞賢)、柳沢吉保・牧野成貞(三井越後家)の三竦みの利益獲得闘争であった。江戸の度重なる大火と再建、これに群がる紀文や奈良茂らの政商や役人の暗躍、これが元禄高度成長の内幕である。
明治5年(1872)4月、越後屋呉服店を三井家から分離し、従来用いていた井桁に三の字の章を廃して、丸に越の字の章を用いた。明治29年(1896)には、三越呉服店と改称した。
東京駿河衛国立銀行繁栄図
三井呉服店の陳列販売
明治33年10月5日三井呉服店は、これまでの座売りを廃止して、全館を展示陳列販売として、リニュアルオープン時の入店待ち行列である。座売りとは、店舗内の畳敷きの広間で番頭が接客して注文により小僧や丁稚に奥の土蔵に品物を取に行かせて、吟味し販売する古くからの商法である。
全館の展示陳列とはいえ、1,2階合わせて760畳あり、客は正面入口で履物を下足番に預けて、畳と絨毯の上を歩いて買い物をした。
日本最初の百貨店「株式会社三越」
明治37年(1903)に商号を三井家の「三井」と創業時の「越後屋」から「三越」と命名、日本最初の百貨店「株式会社三越」として出発した。三井家はその株を一切取得せず、三越は三井家から分離独立した。明治44年(1911)3月、丸の内に帝国劇場が開場すると、「今日は帝劇、明日は三越」と消費時代を象徴した言葉で人気を博した。
大正3年(1914)に建てられたルネッサンス様式の六階建ての新館は建築史に残る傑作と評された。本館の正面玄関には、ロンドンのトラファルガー広場のライオン像を模して鋳造した二頭が据えられた。ライオン像は守護神、「気品と勇気と度量」の象徴であり、本館ライオン口は人気の待ち合わせ場所となった。
三越百貨店と三越前駅
昭和10年(1935)の増改築で天井にステンドグラスをあしらった吹き抜けの中央ホール。その二階のバルコニーにパイプオルガン設置され、モダンライフにふさわしい姿に改装された。昭和35年(1960)三越創立50周年に中央ホールに設置された天女象「まごころ」がひときわ人目を引く。昭和初年(1926)に地下鉄銀座線(浅草~新橋)が開通した。銀座線の改札口から店舗入口まで結ばれるように三越が提案して、難航していた地下鉄工事費を負担した。昭和7年(1932)に新駅名も「三越前」として利便性を増して開業した。
富士を望めた駿河町通り
三井本館の歴史
三井家は明治になると三井組ハウスを建て、明治35年(1901)には耐震耐火・鉄骨構造4階建ての三井本館を竣工した。ところが関東大震災で本館も甚大な被害を受けたため、三井勝八郎社長は「震災の二倍のものが来ても壊れないものを造れ」と命じた。三井物産創業社長でもあった益田孝の後任として三井合名会社理事長に就任した團琢磨が指揮して、昭和4年(1929)に米国の設計施工で竣工した。この三井本館ビルは三井財閥を象徴する建物で、現在は国の重要文化財に指定されている。
昭和7 年(1932 )3月6日、昭和金融恐慌の時代で三井財閥のドル買占め批判の矢面に立っていた團琢磨が三井本館正面玄関の入口階段で、血盟団員の菱沼五郎に狙撃され非業の死を遂げた。この事件が満州事変の前夜であり、その後の大日本帝国滅亡の端緒であった。平成17年(2005)39階建ての三井タワーが完成した。三井美術館の入り口は三井タワー側から入るが三井本館の7階にある。
三囲神社「みめぐり」
三井家では享保年間に向島の三囲神社を江戸における守護神として、越後屋の本支店に分霊を奉祀した。向島が日本橋より東北の鬼門にあたり、囲の文字に三井の「井」が入っているため、三井家を守る守護社と定めた。
隅田川の左岸船着き場で船を降り、墨堤通りに登る三囲神社西参道からの参拝者が多かった。墨堤通りは桜の名所となり、墨堤通りが徐々に嵩上げされ、西参道鳥居の笠木しか見えなくなった。隅田川を行き交う船上から手を合わせる船頭も少なくなかった。しかし、寛政元年(1789)の盛土と桜樹で西参道の鳥居は見えなくなった。この浮世絵はそれ以前の作品と見て取れる。対岸には待乳山聖天が描かれ、その右下に遊郭新吉原へ猪牙舟が向かう山谷堀の入口が描かれている。
by watkoi1952 | 2012-09-07 17:35 | 日本橋百景 | Comments(0)